鹿島アントラーズ

出典: Wikipedio

2010年5月19日 (水) 04:01時点における 122.249.149.25 (会話) による版

Template:サッカークラブ 鹿島アントラーズ(かしまアントラーズ、Kashima Antlers)は、日本茨城県鹿嶋市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

概要

チーム母体は1947年に創設された住友金属工業蹴球団で、1991年のJリーグ加盟時に鹿島アントラーズに改称した。Jリーグ創設時からの加盟チーム(オリジナル10)の一つである。ホームタウン茨城県鹿嶋市(合併前は鹿島郡鹿島町と大野村)・潮来市(合併前は行方郡潮来町と牛堀町)・神栖市(合併前は鹿島郡神栖町と波崎町)に2006年からは鉾田市行方市も加わった。1995年鹿嶋市が誕生して以後もチーム名は地域名の鹿島のまま。なお当時ホームタウンは原則として1チーム1市区町村だったが、鹿島に限り特例で周辺市町村との広域ホームタウンが認められた。

ホームスタジアムは茨城県立カシマサッカースタジアムで、練習場は鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドを使用している。

チーム名の「アントラー(antler)」は英語鹿の枝角を意味し、鹿島神宮の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。チーム発足時からクラブのアイデンティティとして「FOOTBALL DREAM」を常に掲げており、毎シーズンのチームスローガン、ユニフォームにも書かれている。チームマスコットは、クラブ創設時より「しかお」。シカをモチーフにしたキャラクターである。さらに1997年3月2日にしかおと結婚したと言う設定で、「しかこ」が登場。1999年8月1日にしかおとしかこの間に誕生したと言う設定で「アントン」が登場した。

国内の主要タイトル(Jリーグ年間天皇杯ナビスコカップ)において、Jリーグ史上最多の13冠(A3チャンピオンズカップスーパーカップを含めると19冠)を誇り、2000年シーズンにはJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯と国内3大タイトル全てを制し、Jリーグ発足後初の3冠とJリーグ3連覇(2007年 - 2009年)を達成している唯一のチームでもある。

サッカー以外にもミニバスケットボールテニスのスクール、剣道教室を開催している。テニス競技とは結びつきが強く、デビスカップ開催時にはアントラーズのボランティアスタッフが試合運営をアシスタントした。2006年、カシマサッカースタジアムの指定管理者になり、健康事業を目的としたスポーツプラザ「カシマウェルネスプラザ」の運営や茨城大学との提携などによるスタジアムの利活用の推進にも取り組んでいる。2004年からは、Kリーグ浦項スティーラースと提携を結んでいる。

戦術面では監督の意向や選手の特徴によってシステム頻繁に変えるチームが多いJリーグにおいて、開幕からDFを4人配置する4バックでほとんどの試合を戦うなどチーム戦術に一貫性のある数少ないチームである。また代行監督を除くと一貫してブラジル人指導者が監督を務め、外国人枠で獲得する選手は大半がブラジル人であることも特徴である。

2010年のスローガンは、『 FOOTBALL DREAM 2010 Evolução(エヴォルソン)〜新化〜 』

歴史

住友金属時代

太平洋戦争後の間もない1947年、空襲の爪跡を残す大阪市に住友金属蹴球同好会を創部した。1956年には住友金属蹴球団に改称。1973年日本サッカーリーグ2部に昇格。1975年茨城県の小さな町だった鹿島町(現・鹿嶋市)に移転した。さらに1部昇格を狙うには、いろいろな苦労があった。当時、他の実業団チームは契約制を導入し始めていた。外国人選手をはじめ国内でも実力の高い選手と契約を交わしてプロとしての意識づけを行い、レベルを高め、戦力の強化を達成してきた。

しかし、住友金属は徹底したアマチュアイズムを貫いており、また社内にはほかに多くのスポーツ団を抱えていたので、蹴球団だけを特例としてノンアマチュア化(プロ化)することはできなかった。

1985年、1部への昇格を果たす。しかし結果は12チーム中11位と再び、2部リーグに降格せざるをえなかった。

1986年には、1部への返り咲きを果たした。しかし1部リーグでは12チーム中10位。翌年には12チーム中11位とまたしても2部に降格。

1989年にプロサッカーリーグ(Jリーグ)設立が具体化した際、当時の蹴球団にJリーグへの参加の意思は無かったが、半年後の1990年住友金属工業の「2000年ビジョン」の指針が発端となって鹿島を盛り上げる起爆剤になるようプロリーグ参加を表明。茨城県鹿島町長(現鹿嶋市)を含めた7名がプロリーグへの参加を協会に要望した。 しかし当時、この住金の決断に対しては「2部の実力ではプロではやっていけない」、「首都圏(茨城県)ではあっても、東京周辺の人口密集地帯からは離れた鹿島で観客を集めることは困難ではないか」などといった懐疑的な見方が強かった。施設の面を見ても、町内にはプロサッカーリーグの本拠地スタジアムとして想定されていた1万5千人の観客を収容可能な陸上競技場や球技場がなかった。さらに当時のJリーグチェアマン川淵三郎からは「とにかく住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99.9999%ダメだ」と言われた。しかし、茨城県幹部や住友金属蹴球団関係者は、「まだ0.0001%の可能性はあるんですね」と言い返した。茨城県は住金蹴球団や住友金属工業、それに鹿島町などからの陳情を受け、鹿島灘に面する卜伝の郷運動公園に建設予定だった3,000人規模のグラウンドを、Jリーグ規格に適合する専用サッカースタジアムに計画を変更して建設することを決定した。川淵はJ加入条件を徐々に上げるが、住金はそれらのハードルを乗り越え、最期にダメ押しのつもりでやんわりと「スタジアムが屋根付きなら考えない事もありません」と諦めさせる為に言ったつもりだったが屋根架設のメドを取り付け、断る理由が全て無くなった川淵は絶句する。設備面の問題からプロ参入を拒否する姿勢だった川淵は「設備面を指摘すれば、さすがに諦めるだろうと思って言った。本当にスタジアムを作ってしまったから認めざるを得なかった。」と、講演会などで笑い話として述べている。<ref>誕生物語 - 鹿島アントラーズオフィシャルサイト</ref>

その後、1人のブラジル人がやってきた。それがブラジルが生んだスーパースターで、元ブラジル代表主将ジーコ(元・日本代表監督)である。ジーコが加入してきたのは1991年(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。当時チームは2部リーグに甘んじていたが、ジーコのスーパープレイは他チームの選手を翻弄した。そして、日本初の本格的サッカー専用スタジアムとして建設されたカシマサッカースタジアムをホームスタジアムとして、念願だったJリーグ加盟をJリーグ発足初年度に果たし、チーム名も「鹿島アントラーズ」と改称、プロクラブとして新たなスタートを切った。

なお、Jリーグ最初の公式戦、1992年のJリーグカップについては、鹿島主管試合は笠松運動公園陸上競技場を主として国立霞ヶ丘陸上競技場西京極球技場(西京極での試合はガンバ大阪が相手であった)で行っている。

1993年 - 1999年

初代監督にはJリーグ入りを断念した本田技研サッカー部の前監督・宮本征勝が就任。選手も長谷川祥之本田泰人など本田技研の選手を中心に補強。ジーコ、アルシンドなどブラジル人選手を中心にJリーグ開幕を迎えた。1993年5月16日に行われた開幕戦はカシマサッカースタジアムに名古屋グランパスエイトを迎えたホームゲームで「ジーコとリネカーの対決」が注目されたが、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールで5-0で圧勝、白星スタートを切った。旧本田勢に加えて大卒新人の秋田豊がレギュラーを獲得し、勢いに乗ったチームは開幕シリーズである1993年1stステージを制覇。しかし、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップでは2試合で1分1敗となり、初代年間王者はヴェルディ川崎に譲った。第2戦ではジーコが三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、大きな話題となった。また、開幕戦の圧勝から1stステージ優勝に至る快進撃により、鹿島町は「サッカーの町」として全国的に認知され、周辺人口の少なさから低調な観客動員が危惧されていたカシマサッカースタジアムは毎試合超満員となり、チケット入手が非常に困難なスタジアムとして知られるようになった。

1994年のサントリーステージ(1stステージ)終了後にジーコは現役を引退したが、その後もテクニカル・アドバイザーとして鹿島に深く関わり、実兄のエドゥーが宮本の後任監督として指揮を執った。また、ジーコの「後任」としてアメリカW杯ブラジル代表として出場したレオナルドジョルジーニョが加入し、彼らの活躍で鹿島は強豪としての地位を築いていった。これ以後も鹿島にはジーコの人脈を生かした優秀なブラジル人選手が加入し、チームを勝利へ導いた。これは、J1に在籍経験のあるJリーグクラブの中で、鹿島が2009年まで唯一ブラジル国籍以外の外国籍選手を獲得した事がない歴史につながっている。1994年シーズンのリーグ戦でアルシンドが、鹿島でのシーズン最多の28得点(2009シーズン終了時点も継続中)を記録。

1シーズン制で行われた1996年にはジョアン・カルロス監督の指揮により初めての年間王者に輝き、得失点差の関係で最終節を待たずに事実上優勝が決まった同年11月6日のカシマサッカースタジアム(第29節、鹿島4-2名古屋)は歓喜に包まれた。しかしチャンピオンズファイナルでは決勝戦で名古屋グランパスに敗れ96年シーズンの完全優勝を逃した。

1997年は、V川崎からビスマルクベルマーレ平塚から名良橋晃が移籍して戦力が更に充実し、ゼロックススーパーカップでは初優勝を果たした。また、国内3大タイトルのうちのヤマザキナビスコカップ天皇杯を初制覇して「カップ・ダブル」を達成。サントリーステージ(1stステージ)優勝により出場したチャンピオンシップではジュビロ磐田に2連敗し、特に2戦目のカシマサッカースタジアムでの敗北後には怒った観客がピッチ上での表彰式に乱入するという事態も起きたが、Jリーグは鹿島と磐田の新たな2強時代に入った事を日本のサッカーファンに印象づけた。

1998年は、ゼロックス・スーパーカップで2年連続優勝を果たす。シーズン中断中にジョアン・カルロスとジョルジーニョとの意見が合わず、ジョアン・カルロスをクラブ初のシーズン途中に監督解任、中断明けの1stステージの残りを関塚隆が監督代行として指揮をとる。9月23日に長谷川が清水戦で、クラブ初の在籍通算100得点目を達成。2ndステージ開始前にゼ・マリオ監督を招いて優勝し、チャンピオンシップでは磐田を下して、2度目のリーグ年間優勝を果たした。この年のリーグ戦で柳沢敦が、鹿島での歴代日本人選手のシーズン最多得点(22得点/2007シーズン現在も継続中)を記録。また、同年のフランスW杯では日本代表に鹿島から秋田・名良橋・相馬直樹の3人が選ばれ、いずれも日本が戦った全3試合に出場した。この年の2ndステージ第5節の福岡戦から翌1999年第3節広島戦まで16連勝(延長戦およびPK戦による勝利を含む、2008年現在リーグ戦連勝記録として継続中)という記録を樹立した。

1999年にはカシマサッカースタジアムの改修工事が始まり、1stステージの主催試合は東京都新宿区国立霞ヶ丘陸上競技場で行うようになった。また、一部の試合は石川県西部緑地公園陸上競技場石川県金沢市)や富山県総合運動公園陸上競技場富山県富山市)でも行われ、富山の試合では同県出身の柳沢がゴールを決めた。1998-99年シーズンのアジアカップウィナーズ選手権は3位を獲得も、この年の優勝はシーズン冒頭のゼロックス・スーパーカップ史上初の3連覇を達成したのみで、不振に陥ったクラブはゼ・マリオ監督を解任し、2ndステージ途中からはジーコが総監督として指揮を執った。9月23日のジェフユナイテッド市原戦での長谷川の得点により、Jリーグクラブ最速のリーグ戦通算500得点を達成した。

2000年 - 2002年

2000年にはジーコの盟友ともいうべきトニーニョ・セレーゾが監督に就任(2005年までの6年間監督を務めた)。ナビスコ杯、Jリーグ年間王者、天皇杯を制覇し、Jリーグ発足以来初の三冠を達成した。

2001年には、2000年シーズンの三冠達成を称えて茨城県から県民栄誉賞を受賞した。しかし、このシーズンの1stステージは前年の天皇杯で負傷した相馬直樹など主力選手の怪我が相次ぎ、まさかの11位と低迷する。続く2ndステージでは相馬の穴を埋めるべく加入したアウグストの活躍で優勝を果たし、チャンピオンシップで磐田を破り、2年連続リーグ年間優勝となった。この年に象徴されるように、年間王者には何度も輝いている鹿島だが、2ステージ制の時代に年間勝ち点1位だったのは1997年(磐田と同点、得失点差で優位)のみである。リーグ戦で安定した成績を残してきたライバル磐田に対して、鹿島はここ一番での勝負強さ、特にシーズン後半の好成績が光るチームである。このことがJリーグクラブとして最多の13個(2009年12月5日現在)のタイトル獲得をもたらした。

2002年には、リーグでは絶好調の磐田を止められずに3連覇を逃したが、ヤマザキナビスコカップは決勝で初タイトルを狙った浦和レッドダイヤモンズを1-0で下し、優勝を果たした。また、2002 FIFAワールドカップの試合がカシマサッカースタジアムでも行われ、鹿島も日本代表に秋田豊・鈴木隆行・柳沢敦・中田浩二小笠原満男曽ヶ端準の6人(クラブ別では最多)を送った。鈴木は初戦のベルギー戦でゴールを決め、鹿島所属として初のW杯得点者となった。大会終了後にはジーコが日本代表監督に就任し、テクニカルディレクターを辞任した。また、鈴木もベルギー1部リーグのKRCヘンク(ゲンク)へ移籍した。その一方、拡張されたカシマサッカースタジアムでは空席が目立ち、改修前の定員すら下回る観客数の試合が多くなっていった。

2003年 - 2006年

2003年ではA3チャンピオンズカップ初代王者を獲得。ヤマザキナビスコカップでも2年連続決勝に進出するも、浦和レッズに0-4で敗れて連覇はならなかった。以後、Jリーグ初の10個目のタイトル、「十冠」の達成が鹿島の悲願として掲げられた。

2004年は優勝争いに関われずに終わったが、J1が1ステージ制に移行した2005年は開幕ダッシュに成功し、一時は2位に勝ち点差10以上をつけるなど優勝争いを引っ張っていった。しかし、中盤に入るとガンバ大阪や浦和レッズ、ジェフ千葉、セレッソ大阪に追いつかれてしまい、優勝の可能性が残っていた最終節では勝利したものの、結局3位でシーズンを終えた。この2年間はヤマザキナビスコカップや天皇杯でも早期敗退が続き、中田浩二の移籍問題も発生して、チームは過渡期を迎えた。2005年シーズンの終了後、6年に渡り監督を務めたトニーニョ・セレーゾが勇退した。

2006年は、ブラジルの名門サンパウロFCをFIFAクラブ世界選手権(現 FIFAクラブワールドカップ)優勝へ導いたパウロ・アウトゥオリ監督が就任。更にFWの柳沢敦が復帰、高卒ルーキーのサイドバック内田篤人の活躍などがあったが、シーズン途中に大黒柱だったMF小笠原満男FCメッシーナイタリア)へ翌年6月までの期限付きで移籍してしまい、リーグ戦での成績は伸び悩んだ。2006 FIFAワールドカップ日本代表には小笠原満男と柳沢敦が選出。一方でヤマザキナビスコカップでは3年ぶりに決勝に進出したが、十冠がかかった決勝でジェフ千葉に敗戦。4年振りの同杯獲得はならなかった。天皇杯では、同年限りで引退を表明した本田泰人を優勝で送り出そうとするも準決勝で浦和レッズに敗れた。結局、パウロ・アウトゥオリ監督は1年で退任し、ブラジルへ帰国した。

2007年

2007年シーズンは、コリンチャンスを率いて2000年のFIFAクラブ世界選手権(現 FIFAクラブワールドカップ)を制覇し、サンパウロ、サントスなど名門クラブの監督を歴任しているオズワルド・オリヴェイラ(ブラジル)を新監督に迎えた。プレシーズンマッチで小笠原移籍後チームの司令塔を務める野沢拓也が負傷し、シーズン開幕から5節は勝ち星がなく(3月3日の開幕戦で川崎フロンターレ、3月11日の第2節でガンバ大阪にどちらも0-1で敗戦した後3試合引き分け)、野沢が復帰した第6節(4月14日)の横浜FC戦でようやくリーグ戦シーズン初勝利を挙げた。その後は復調し、5月12日の磐田戦でJリーグ史上最速の公式戦通算400勝、6月16日のサンフレッチェ広島戦で本山雅志のゴールが決まり、ホームゲーム通算500得点を達成した。

7月3日には期限付き移籍が終了した小笠原満男の復帰が発表された。復帰した小笠原はヤマザキナビスコカップ準々決勝での勝利に貢献。7月29日には前年に引退した本田泰人の引退試合が、1993年のJリーグチャンピオンシップの出場メンバーを中心にした「鹿島アントラーズ1993対ヴェルディ1993」としてカシマサッカースタジアムで開催された。結果は鹿島アントラーズ1993が4-2で勝利した。

日本代表が参加したアジアカップの中断を経て、8月12日の第19節から再開されたJリーグでは、同節のヴァンフォーレ甲府戦で野沢拓也のゴールによりJリーグチーム史上最速のリーグ戦通算900得点を達成した。以後、鹿島は調子を上げ、9月22日の新潟戦以降はJリーグでの連勝を続けた。ヤマザキナビスコカップでは10月に行われた準決勝でG大阪に1勝1敗となり、アウェーゴール数の差で敗退した。優勝争いをしていたガンバ大阪と浦和レッズの不調が続き、11月24日には一時期勝点差11をつけられていた首位浦和との直接対決で1-0で下して2位に浮上した。これは史上最速のリーグ戦通算300勝でもあった。そして、12月1日、リーグ最終節で清水エスパルスを3-0で下し、Vゴール廃止後J史上最多となる終盤の9連勝で6年ぶりのリーグ優勝、同時にクラブの悲願だった「10冠」を達成した。最終節まで1度も首位に立たなかったチームが最終節で逆転優勝したのはJリーグ史上初めて。1シーズン制でのリーグ戦通算22勝はチーム最多勝となった。

2008年

1月1日、Jリーグ発足後史上初3度目の優勝をかけた天皇杯決勝は、サンフレッチェ広島と対戦し2-0で勝利。自身2度目となるリーグ戦との2冠を達成した<ref name="2冠"/>。1月9日、鹿嶋市からJリーグ発足史上最多の11冠達成を称え、特別功労賞を贈られ、2月1日には茨城県から県民栄誉賞(2000年度以来2度目)を授与された。

3月1日、ゼロックス・スーパーカップはJ2チームとしては初出場の広島と対戦し、2点をリードするも終了間際に追いつかれ、PK戦の末に敗れた。しかし、3月8日から開幕した2008年のJリーグでは開幕から連勝を重ね、5月17日、カシマサッカースタジアムでの柏レイソルとのリーグ戦で、公式戦最多の21試合無敗記録を達成。6月25日、大分トリニータ戦でダニーロの得点で、カシマサッカースタジアムでのリーグ通算500得点を記録。7月13日、スイスFCバーゼルでプレーしていた中田浩二FC東京戦で復帰。10月1日、大宮アルディージャ戦でマルキーニョスが、チーム最多のリーグ戦7試合連続得点達成。12月6日にアウェイ、札幌ドームコンサドーレ札幌を1-0で下し、1シーズン制導入後初めてとなるJリーグ2連覇を達成。この年のリーグ戦でマルキーニョスが、鹿島初のJリーグ得点王を獲得(21得点)。

AFCチャンピオンズリーグ2008では、日本のクラブチームでACLグループリーグ最多得点となる6戦合計28得点をあげてクラブ初の決勝トーナメント進出を決め、ベスト8。

2009年

史上初のリーグ3連覇を目指す2009年は、第87回全国高等学校サッカー選手権大会で大会新記録の10ゴールを挙げた鹿児島城西高等学校大迫勇也、鹿島では史上初となるブラジル人以外の外国籍選手である、韓国人のパク・チュホを獲得した。 また、2月1日にクラブへ貢献した選手などに対する殿堂として第1回アントラーズ功労賞が発表された。また同日に功労者である秋田の引退試合が行われた。同月28日に富士ゼロックス・スーパーカップのタイトルをかけてガンバ大阪と対戦、3-0で勝利し同タイトル10年ぶり4回目の優勝を果たした。

3月7日にホームのカシマサッカースタジアム浦和レッズと開幕戦を行い、2-0で勝利し、ホームでは6年ぶりの勝利を飾り3連覇への好スタートを切ったが、夏場から秋口にかけての後半戦序盤は90分以内では初の5連敗を喫するも、終盤戦に野沢らの活躍で、Jリーグ発足史上初の3連覇を達成した。

尚、2009年リーグ戦での出来事や達成された記録などは以下の通り。

  • 4月29日 - ヴィッセル神戸戦での岩政大樹の得点で、Jリーグ史上最速のリーグ通算1000得点と、クラブ歴代DF最多リーグ戦通算得点(21得点)達成。
  • 5月2日 - 小笠原満男ジェフ千葉戦で、鹿島最多のリーグシーズン最多連続得点(11シーズン)を記録。
  • 7月25日 - 柏レイソルとのリーグ戦で、Jリーグ最多のリーグ無敗記録(17試合)達成。
  • 9月12日 - 川崎フロンターレとのリーグ戦で、カシマサッカースタジアムでは試合中のピッチコンディション不良でサスペンデッドゲームとなり、後日(10月6日)に同所で再試合が開催された(試合は2-3で川崎フロンターレが勝利)。
  • 10月17日 - 小澤英明ジュビロ磐田とのリーグ戦で、J1リーグ最多ベンチ登録記録(252試合)を達成。
  • 11月8日 - モンテディオ山形とのリーグ戦で、J1,J2通じて史上初めて相手チームのシュートを0本に押さえる。

AFCチャンピオンズリーグ2009は2年連続決勝トーナメント進出を決めたが、ラウンド16で韓国のFCソウルにPK戦の末敗れ、ベスト16での敗退となった。

2010年

補強としては、広島から佐藤昭大新潟でプレーしたジウトンポルト・アレグレからレンタル移籍で、京都からイ・ジョンスブラジル2部リーグポルトゲーザからフェリペ・ガブリエルを完全移籍で獲得し、ユースから八木直生が昇格、レンタル移籍で移籍していた鈴木修人湘南)、船山祐二C大阪)が復帰した。

2月27日、富士ゼロックス・スーパーカップ史上初同一クラブ2度目の2連覇を目指してガンバ大阪と対戦し、PK戦による勝利で5度目の優勝となった。

リーグ4連覇をかけて、3月6日にカシマサッカースタジアムで浦和レッドダイヤモンズと開幕戦で対戦し、昨季と同スコアで勝利。

尚、2010年シーズンのリーグ戦で記録されたのは以下のとおり。

2010 FIFAワールドカップに出場する日本代表に内田篤人、岩政大樹(予備登録メンバーに小笠原満男)が選出される。

AFCチャンピオンズリーグ2010は、日本クラブ史上初となるグループリーグ6戦全勝で最多の勝ち点18(それまでは2007年に川崎の勝ち点16)を挙げて3年連続の決勝トーナメント進出をするも、ラウンド16で前回王者の浦項スティーラースに敗れ、2年連続ベスト16での敗退なった。

所属選手

Template:Main

ジーコが所属していたこともあり、ブラジルのサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した1993年以降、所属した外国籍選手は「アジア人枠」を利用して獲得した韓国パク・チュホ(2009年)、イ・ジョンス(2010年)以外は全員ブラジル人選手である。ジョルジーニョレオナルドベベットなど、サッカー王国ブラジルでも代表をして活躍するなど一線級に値する選手たちが過去に鹿島でプレーした。 一方で、他のJリーグクラブからの日本人移籍獲得選手数(復帰を除く)が極端に少ない。 また、これまで数多くの日本代表選手を輩出している。

歴代監督と成績

年度所属試合勝点勝利敗戦引分ステージ順位年間順位ナビスコ杯天皇杯他公式戦監督
1992年 -------- ベスト4ベスト8- Template:Flagicon 宮本征勝
1993年 J サントリー18-135- 優勝 2位 予選敗退 準優勝 -
J ニコス18-108-4位
1994年 J サントリー22-166-3位 3位 1回戦敗退 1回戦敗退 -
J ニコス22-1111-5位 Template:Flagicon エドゥー
1995年 J サントリー26-1412-8位 7位 - ベスト4 -
J ニコス26-1412-6位
1996年 J30-219-- 優勝 予選敗退ベスト8- Template:Flagicon ジョアン・カルロス
Template:Flagicon 関塚隆(1998.7 代行)
1997年 J 1st16-133- 優勝 2位 優勝 優勝 スーパーカップ 優勝
J 2nd16-115-4位
1998年 J 1st17-116-5位 優勝 ベスト4 ベスト4 スーパーカップ 優勝
J 2nd17-152- 優勝 Template:Flagicon ゼ・マリオ
1999年 J1 1st15196819位 9位 準優勝 4回戦敗退 スーパーカップ 優勝
J1 2nd15248706位ACWC98-99 3位 Template:Flagicon ジーコ
Template:Flagicon 関塚隆(1999.12 代行)
2000年 J1 1st15248708位 優勝 優勝 優勝 - Template:Flagicon トニーニョ・セレーゾ
J1 2nd15311041 優勝
2001年 J1 1st152568111位 優勝 ベスト4 ベスト8 -
J1 2nd1539132 優勝
2002年 J1 1st15279605位 4位 優勝 準優勝 -
J1 2nd15279603位
2003年 J1 1st15237628位 5位 準優勝 ベスト4 A3カップ2003 優勝
J1 2nd15276274位ACL02-03 GL敗退
2004年 J1 1st15237535位 6位 ベスト8 ベスト8 -
J1 2nd15247534位
2005年 J1345916711-3位 予選敗退ベスト8-
2006年 J1345818124-6位 準優勝ベスト4- Template:Flagicon パウロ・アウトゥオリ
2007年 J134722266- 優勝 ベスト4 優勝 - Template:Flagicon オズワルド・オリヴェイラ
2008年 J1 34 63 18 7 9 - 優勝 ベスト8 ベスト16 スーパーカップ 準優勝
ACL2008 ベスト8
2009年 J1 34 66 20 8 6 - 優勝 ベスト8 ベスト8 スーパーカップ 優勝
ACL2009 ベスト16
2010年 J1 34 - スーパーカップ 優勝
ACL2010 ベスト16

Jリーグ対戦通算成績

対戦通算成績と得失点

  • 2010年 第12節終了時
対戦チーム 勝ち 引分 負け 得点 失点
ベガルタ仙台21255
モンテディオ山形21062
浦和レッドダイヤモンズ26496641
大宮アルディージャ831186
FC東京12453930
川崎フロンターレ4262219
横浜F・マリノス(←横浜マリノス)204176458
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚)11053622
アルビレックス新潟5432413
清水エスパルス183196060
ジュビロ磐田22596541
名古屋グランパス(←名古屋グランパスエイト)241168256
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ)14254820
ガンバ大阪236127550
セレッソ大阪104113027
ヴィッセル神戸16355324
サンフレッチェ広島212145146
コンサドーレ札幌701209
水戸ホーリーホック-----
栃木SC-----
ザスパ草津-----
ジェフユナイテッド市原・千葉(←ジェフユナイテッド市原)272118448
柏レイソル20465835
東京ヴェルディ(←ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969)191145250
横浜FC20031
ヴァンフォーレ甲府30173
カターレ富山-----
FC岐阜-----
ファジアーノ岡山-----
徳島ヴォルティス-----
愛媛FC-----
ギラヴァンツ北九州-----
アビスパ福岡12113813
サガン鳥栖-----
ロアッソ熊本-----
大分トリニータ842209
横浜フリューゲルス(←消滅)9093331
345 60 184 1059 719

他クラブとの相性

カシマサッカースタジアムでの成績

茨城県立カシマサッカースタジアム#サッカー関係と合わせて参照)

  • 1993年にJリーグが開幕して以来、カシマサッカースタジアムでの試合に強く、2008年3月2日時点で公式戦253試合170勝65敗18分。
  • Jリーグでは多くのクラブに対して5分以上の成績を挙げている。
  • 2009年現在、リーグ戦では柏レイソル、公式戦では大宮アルディージャ京都サンガF.C.コンサドーレ札幌横浜FCアビスパ福岡に無敗中。
  • 顕著な例としては、1993年のJリーグ開幕戦で大勝した名古屋グランパスに対してで、2008年8月23日まで15年間無敗だった(PSM含む全22試合全勝)。
  • サンフレッチェ広島は、カシマサッカースタジアムで最初に敗戦を喫した相手であり、2009年第3節で勝利するまでカシマサッカースタジアムで負け越していた。
  • この他、カシマサッカースタジアムで行われた国際試合(PSM含む)は、全17試合 12勝2敗3分。

国際試合

2010年現在、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)には4回出場(アジアクラブ選手権アジアカップウィナーズ選手権を含めると8回出場)している。ACLにおいて、鹿島の最高成績は2008年のベスト8である。国内では数多くの優勝を経験しているだけに、ACLの優勝は悲願となっている。また、これまでに国際大会で獲得したタイトルは、2003年のA3チャンピオンズカップである。

以下はこれまでの国際大会と親善試合での戦績一覧

ダービーマッチ

獲得タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別タイトル

Jリーグ
ナビスコ杯

その他受賞

クラブ記録

クラブ通算記録

公式戦
  • 400勝【2007年5月12日 J1第11節 対ジュビロ磐田(カシマ)】 - 史上最速達成
リーグ戦
  • 1000得点【2009年4月29日 第8節 対ヴィッセル神戸(カシマ) 得点者:岩政大樹】 - 史上最速達成
  • 300勝【2007年11月24日 第33節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】 - 史上最速達成

連勝

リーグ戦
  • 1993年 - 2002年(延長戦およびPK戦による勝利を含む)
    • 16連勝【1998年 2nd第5節 対アビスパ福岡 - 1999年 2nd第3節 対サンフレッチェ広島】
      • リーグ戦最高記録(2009年時点)
  • 年間連勝記録
    • 1998年 13連勝【2nd第5節 対アビスパ福岡(博多球) - 第17節 対ヴィッセル神戸(カシマ)】

無敗記録

リーグ戦
  • 17試合【2009年 J1第3節 サンフレッチェ広島(カシマ) - 2009年 J1第19節 対柏レイソル(カシマ)】 - リーグ戦最高記録(2009年時点)

無連敗記録

公式戦
  • 75試合【2007年3月17日 J1第3節 対ジェフユナイテッド千葉(フクアリ) - 2009年3月11日 ACL2009第1節 対水原三星ブルーウィングス(水原)】

最多得点試合

リーグ戦
  • 7-2 【2005年8月24日 第20節 対アルビレックス新潟(カシマ)】
  • 7-0 【1997年8月9日 2nd第4節 対名古屋グランパスエイト(カシマ)】
公式戦
  • 16-0【1999年10月23日 アジアクラブ選手権2回戦 対バレンシア(ひたちなか)】

最多失点試合

リーグ戦
  • 0-7【1995年5月3日 1st第13節 対ベルマーレ平塚(平塚)】

最少被シュート数

  • 0本【2009年11月8日 第31節 対モンテディオ山形(カシマ)】 - J初記録

個人記録

ハットトリック

  • 4得点
    • 柳沢敦【1998年4月4日 1st第4節 対京都パープルサンガ】
  • 3得点
    • ジーコ【1993年5月16日 サントリー第1節 対名古屋グランパスエイト】
    • アルシンド【1993年6月19日 サントリー第11節 対名古屋グランパスエイト】
    • 長谷川祥之【1995年8月26日 NICOS第5節 対ガンバ大阪】
    • マジーニョ【1997年4月12日 1st第1節 対ヴィッセル神戸】
    • 長谷川祥之【1997年9月20日 2nd第13節 対ベルマーレ平塚】
    • 柳沢敦【1998年5月5日 1st第11節 対ジュビロ磐田】
    • 平瀬智行【2000年4月29日 1st第9節 対ヴィッセル神戸】
    • 鈴木隆行【2004年9月18日 2nd第5節 対ジュビロ磐田】
    • 柳沢敦【2006年3月5日 第1節 対サンフレッチェ広島】
    • フェルナンド【2006年9月24日 第24節 対FC東京】
    • 野沢拓也【2006年12月2日 第34節 対ジュビロ磐田】

リーグ戦連勝記録

  • 長谷川祥之 - 34連勝【1995年11月11日 2nd第22節 対柏レイソル - 2002年9月15日 2nd第3節 対東京ヴェルディ1969】

リーグ戦最年少得点

  • 内田篤人 - 17歳11ヵ月22日【2006年 J1第4節 対ヴァンフォーレ甲府】

リーグ戦連続得点

  • マルキーニョス - 7試合【2008年8月16日 J1第21節 対東京ヴェルディ - 10月1日 第26節 対大宮アルディージャ】

リーグ戦シーズン連続得点

リーグ戦シーズン最多得点

リーグ戦通算最多勝利

高卒加入公式戦得点記録

出場記録

2010年5月16日時点。他チームでの出場やユース登録時の出場を含む。

観客動員記録

最多観客動員試合(ホーム)
  • 茨城県立カシマサッカースタジアム
    • 39,684人【2003年7月5日 1stステージ第11節 対ジュビロ磐田】(2002年 一部改修後)
      • 40,115人【2001年12月8日 チャンピオンシップ第2戦 対ジュビロ磐田】(改修後)
通算観客動員記録(リーグ戦ホームゲーム)
  • 500万人達成【2009年7月25日 第19節 対柏レイソル】
年度別観客動員記録
年度 合計
動員数
最多
動員数
最少
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
備考
1993年252,29115,7779,40314,01618
1994年369,86250,72413,73416,81222
1995年497,66550,09315,14419,14126
1996年230,78916,23410,64315,38615
1997年271,76531,08315,17616,98516
1998年260,86616,94413,82415,34517
1999年255,74151,5756,99417,04915
2000年262,60350,3997,02417,50715
2001年336,37743,6376,03722,42515
2002年323,85534,01111,85721,59015
2003年318,06439,68414,04521,20415
2004年263,77731,9658,47417,58515
2005年316,89735,4677,07618,64117
2006年262,36534,2367,42715,43317
2007年276,05836,1468,03616,23917
2008年335,14036,4126,72519,71417
2009年367,48637,87814,47321,61717
5,201,601 18,041289

アントラーズ功労賞

クラブの発展に貢献した人物を顕彰するために設けられた賞である。カシマサッカーミュージアムの中にある「アントラーズ殿堂」にて記念される。現役選手および鹿島で在任中のスタッフは選考から外される。

監督 FW MF DF
第1回
(2009年)
宮本征勝
トニーニョ・セレーゾ
長谷川祥之
黒崎久志
ジーコ
ジョルジーニョ
ビスマルク
本田泰人
秋田豊
相馬直樹
名良橋晃

ユニフォーム

Template:ユニフォームの色2

ユニフォームカラー

  • ディープレッド

ユニフォームデザイン

  • ユニフォームデザインは基本的に2年に1回変更している。
  • 2010年は、1stモデルは2つのディープレッドによる横縞、2ndモデルは白を基本にゴールドの横縞ラインを使用。
    • ユニフォームの右袖には、ホームタウン5市をあしらったホームタウンマークをつけ、背番号の下に名前が入る。
    • エンブレムの裏側とネック裏には、ジーコが強く説いてきた「TRABALHO(献身)」「LEALDADE(誠実)」「RESPEITO(尊重)」の文字が入っている。

ユニフォームについて

  • 1995年のリーグ戦用2ndモデルには、シャツ・シルバー、パンツ・紺、ストッキング・シルバーを採用したが、諸事情により数戦使用しただけで、シャツ・パンツ・ストッキングをすべて白に変更している。(変更後しばらくは、1993・1994年に使用した2ndモデルを使用していた。)
  • 2006年から2007年は、2ndモデルはグレーを使用していた。
  • 2008年から2009年リーグ初となった横縞(ディープレッドと紺)を使用した。
  • 2009年はゴールド色の3rdユニフォームをACLナビスコ杯、リーグ戦の対川崎フロンターレ戦(アウェイ戦)で使用した。

ユニフォームの星

  • 2007シーズンに10冠(国内3大大会のタイトル数)を達成し、2008年シーズンより、左胸のエンブレム上に大きな星1つ(10タイトル分)がついた。11冠目以降の星は、従来の左袖につく。

チャンピオンエンブレム

リーグチャンピオンエンブレム
  • 前年度のリーグチャンピオンチームには、日本サッカー協会のシンボルであるヤタガラスにJのマークがついたエンブレムを右袖につける。
  • 2009シーズンからヤタガラスのエンブレムに変わり、金色のJマークをつけている。
天皇杯チャンピオンエンブレム
  • 天皇杯を制したチームにはEのマークがついたエンブレムをつける。
  • 2009年大会からリーグチャンピオン同様ヤタガラスのエンブレムを辞め、天皇杯のみ天皇杯エンブレムをつけている。
2冠チャンピオンエンブレム
  • リーグと天皇杯の2冠を制したチーム<ref name="2冠">現在、リーグと天皇杯の2冠を達成したのは鹿島(2000年、2007年)と浦和(2006年)のみ。</ref>には、☆マークがついたエンブレムをつける(Jリーグ発足後初は2000年度に達成した鹿島)。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所スポンサー名表記掲出年備考
トステムTOSTEM1997年 - 1994年 - 1995年までは背中
背中イエローハットYellow Hat1999年 - 1995年 - 1998年までは袖
住友金属工業SUMITOMO METALS2000年 -
パンツ商船三井商船三井2009年 -

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992年----ennerre
1993年----Mizuno/ennerre
1994年--TOSTEM-Mizuno/ennerre
1995年-Yellow HatTOSTEM-Mizuno/ennerre
1996年TOSTEMYellow Hat--Mizuno/ennerre
1997年TOSTEMYellow Hat--UMBRO/ennerre
1998年TOSTEMYellow Hat--ennerre
1999年TOSTEM-Yellow Hat-ennerre
2000年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-ennerre
2001年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-ennerre
2002年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-NIKE
2003年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-NIKE
2004年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-NIKE
2005年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow HatプロミスNIKE
2006年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow HatプロミスNIKE
2007年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow HatプロミスNIKE
2008年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat-NIKE
2009年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat商船三井NIKE
2010年TOSTEMSUMITOMO METALSYellow Hat商船三井NIKE

スポンサー

オフィシャルスポンサー


アドボードスポンサー

  • 住金鉱化
  • 住金プラント
  • 住金スチール
  • 妙中鉱業
  • AKAKURA
  • 関彰商事
  • 筑波都市整備
  • 斉丸土地
  • アイデックス
  • ワコースチール
  • 鹿島都市開発

サプライヤー

  • DORNA JAPAN
  • PROTEA JAPAN
  • 石上ファーム
  • セキネネオン
  • エア・テクノロジーズ
  • AVIX
  • ケーイージー

カシマサッカースタジアム

Template:Main

スタジアムDJ・選手入場曲

SUCESSOはポルトガル語で「成功」。米米CLUBのシングル「俺色にそまれ」のカップリング曲。

広告看板

  • ホームゲームにおける広告看板(ゴール裏)は1995年以後、部分的に回転ロール盤を使用している。当初はゴール裏の内側部分だけだったが、1999年以後は外側(スタンドとピッチの中間。カシマサッカースタジアム開催分は客席の最前列)の部分にも使用している。試合時間帯に応じてアントラーズのスポンサーの広告を切り替えて表示している。

LED帯状映像装置

スクール

地域人口の少なさという非常に大きなハンデがあり、ユース・ジュニアユースとも強豪とは言えず、曽ヶ端準野沢拓也以降はトップチームに定着する選手を輩出出来ていない。しかし、鹿島学園との提携やジュニアユースのつくば校の新設など、大きな経営努力が払われている。

ユース

鹿島学園と提携するなど力を入れている。曽ヶ端準野沢拓也らはユース出身である。ユース出身の選手は、鹿島アントラーズの選手一覧の下部組織出身者を参考のこと。コーチは、長谷川祥之といった鹿島でプレーした選手が努めている。

主な大会実績

ジュニアユース

鹿島ジュニアユースとジュニアユースノルテ、つくばジュニアユースの3チームがある。ノルテは茨城県の県北の生徒で構成され、つくばはつくばエリアの生徒で構成されている。Jリーグ U-13Jリーグ U-14には、ジュニアユースチーム、つくばチーム、ノルテチームの全チームが参加している。

ジュニア

過去に鹿島でもプレーした中村幸聖が監督を努めている。また、幼稚園生・小学生・中学生・女子を対象としたサッカースクール(クリニックコース)を茨城県内に11校、千葉県に1校開校している。

  • 鹿島校
  • つくば校
主な大会実績
クリニックコース

クラブショップ

チームマスコット

メディア

試合中継

テレビ中継
ラジオ中継

応援番組

テレビ
ラジオ

その他

インターネット
  • 鹿島アントラーズオフィシャルサイト
    • メンバーズルーム - (有料会員制)動画配信・最新情報等
    • ライブアントラーズ - ホームゲームの音声実況中継配信
新聞・情報誌

地域貢献活動

地域交流

  • 2007年から2008年にかけて、ホームタウンの5市(鹿嶋神栖潮来鉾田行方)にある小学校全校を選手が訪問した。
  • 毎年10月に鹿嶋市で開催される「鹿嶋まつり」や鹿島神宮での節分祭など、地域イベントに選手やチームスタッフらが参加している。

環境活動

サポーター・ファンクラブ

ファンクラブには「SOCIOメンバー」、「MEGAメンバー」、「フリークスメンバー」、「ファミリーメンバー」の4種類があり、月刊アントラーズフリークスの送付やホームゲームチケットの先行割引販売、グッズの割引販売、ポイントシステムなど様々な特典がつけられている。その中でも「フリークスメンバー」が最も一般的で、会員数も多い。

脚注

Template:脚注ヘルプ Template:Reflist

関連項目

外部リンク

Template:鹿島アントラーズのメンバー Template:日本プロサッカーリーグ Template:Jリーグオリジナル10 Template:Jリーグ優勝チーム Template:Jリーグカップ優勝チーム Template:住友金属工業ar:نادي كاشيما أنتلرز bg:Кашима Антлърс ca:Kashima Antlers da:Kashima Antlers de:Kashima Antlers en:Kashima Antlers es:Kashima Antlers fi:Kashima Antlers fr:Kashima Antlers hu:Kasima Antlers id:Kashima Antlers it:Kashima Antlers ko:가시마 앤틀러스 ms:Kashima Antlers nl:Kashima Antlers pl:Kashima Antlers pt:Kashima Antlers ru:Касима Антлерс simple:Kashima Antlers sv:Kashima Antlers tr:Kashima Antlers zh:鹿島鹿角

個人用ツール