白土三平

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(「三平」の名の元)
(経歴: 講談社児童まんが賞の受賞は第4回)
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[[1955年]]、紙芝居仲間からの紹介をうけて[[東京都]][[葛飾区]]金町に移り、仲間と共同生活を始める。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる<ref>松谷みよ子・曽根喜一・水谷章三・久保進 編『戦後人形劇史の証言-太郎座の記録』 一声社 1982年 78ページ</ref>。この年共同生活者であった[[瀬川拓男]]が人形劇団「[[太郎座]]」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また[[加太こうじ]]の紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう。[[1956年]]、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった小林まゆみと結婚。
[[1955年]]、紙芝居仲間からの紹介をうけて[[東京都]][[葛飾区]]金町に移り、仲間と共同生活を始める。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる<ref>松谷みよ子・曽根喜一・水谷章三・久保進 編『戦後人形劇史の証言-太郎座の記録』 一声社 1982年 78ページ</ref>。この年共同生活者であった[[瀬川拓男]]が人形劇団「[[太郎座]]」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また[[加太こうじ]]の紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう。[[1956年]]、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった小林まゆみと結婚。
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[[1957年]]、過去顔見知りの少女漫画家の[[牧数馬]]に漫画を描くことを勧められ、牧の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、[[長井勝一]]の日本漫画社に移って[[貸本漫画]]を多数手がける。[[1959年]]からは長井が新たに設立した三洋社で『[[忍者武芸帳]]』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。[[1961年]]、長井が三洋社を解散し[[青林堂]]を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。[[1963年]]、『サスケ』『シートン動物記』により第3回[[講談社児童まんが賞]]受賞。
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[[1957年]]、過去顔見知りの少女漫画家の[[牧数馬]]に漫画を描くことを勧められ、牧の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、[[長井勝一]]の日本漫画社に移って[[貸本漫画]]を多数手がける。[[1959年]]からは長井が新たに設立した三洋社で『[[忍者武芸帳]]』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。[[1961年]]、長井が三洋社を解散し[[青林堂]]を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。[[1963年]]、『[[サスケ (白土三平)|サスケ]]』『[[シートン動物記 (漫画)|シートン動物記]]』により第4回[[講談社児童まんが賞]]受賞。
[[1964年]]、青林堂より『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『[[カムイ伝]]』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『[[カムイ外伝]]』(ともに1965年-)などを発表しスタッフを養った。[[1971年]]、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは1988年のことである。第二部は2000年までで終了、現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。
[[1964年]]、青林堂より『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『[[カムイ伝]]』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『[[カムイ外伝]]』(ともに1965年-)などを発表しスタッフを養った。[[1971年]]、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは1988年のことである。第二部は2000年までで終了、現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。

2010年5月22日 (土) 13:24時点における版

Template:Infobox 漫画家 Template:漫画 白土 三平(しらと さんぺい、1932年2月15日 - )は、日本漫画家東京都出身。男性。本名は岡本 登(おかもと のぼる)。『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』など忍者を扱った劇画作品で人気を博した。

父親はプロレタリア画家岡本唐貴。妹は絵本作家岡本颯子。弟の岡本鉄二は「赤目プロ」で作画を担当、岡本真は「赤目プロ」マネージャー。

目次

経歴

1932年東京都杉並区に出生。幼少時は画家をしていた父の活動により各地を転々とする。1944年、私立練真中学校に入学。直後に戦争が激化したため、長野県小県郡中塩田村(現上田市八木沢駅付近)に一家で疎開し、上田市立上田中学校に通う。

1946年、東京に戻ったのち練真中学を中退。父の知人の金野新一のアトリエで、山川惣治作の紙芝居の模写・彩色の仕事を手伝い始める。

1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居を制作。当時はノボルというペンネームだった。以後数年間このシリーズの紙芝居を手がけた。

1955年、紙芝居仲間からの紹介をうけて東京都葛飾区金町に移り、仲間と共同生活を始める。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる<ref>松谷みよ子・曽根喜一・水谷章三・久保進 編『戦後人形劇史の証言-太郎座の記録』 一声社 1982年 78ページ</ref>。この年共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また加太こうじの紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう。1956年、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった小林まゆみと結婚。

1957年、過去顔見知りの少女漫画家の牧数馬に漫画を描くことを勧められ、牧のアシスタントをしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、長井勝一の日本漫画社に移って貸本漫画を多数手がける。1959年からは長井が新たに設立した三洋社で『忍者武芸帳』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。1961年、長井が三洋社を解散し青林堂を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。1963年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞。

1964年、青林堂より『ガロ』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』(ともに1965年-)などを発表しスタッフを養った。1971年、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは1988年のことである。第二部は2000年までで終了、現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。

作風と影響

白土の忍者漫画は、実際可能であるかはともかく、登場する忍術に科学的・合理的な説明と図解が付くのが特徴であり、荒唐無稽な技や術が多かったそれまでの漫画とは一線を画するものである<ref>夏目房之介『手塚治虫の冒険』筑摩書房、1995年、126頁-133頁</ref>。また、『忍者武芸帳』『カムイ伝』などに代表される作品の読み方の一つとして、マルクス唯物史観があるとされ、この観点から当時の学生や知識人に読まれたことなどが後に漫画評論を生む一因となった。

手塚治虫によると、白土が登場してから子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになったそうである<ref>ぼくはマンガ家</ref>。

主要作品

漫画

エッセイ

  • 白土三平 フィールド・ノート1 「土の味」(1987年 BE-PAL BOOKS)
  • 白土三平 フィールド・ノート2 「風の味」(1988年 BE-PAL BOOKS)
  • 白土三平 野外手帳(1993年 小学館ライブラリー OUTDOOR EDITION)
    • 月刊誌『BE-PAL(ビーパル)』(小学館)に連載されたエッセイ『白土三平フィールド・ノート』(連載1983年6月号-1988年3月号)の単行本。『白土三平 野外手帳』は絶版となった『土の味』『風の味』2冊を纏め出版されたもの。
  • 白土三平の好奇心1 「カムイの食卓」(1998年 Lapita Books)
  • 白土三平の好奇心2 「三平の食堂」(1998年 Lapita Books)
    • 月刊誌『LAPITA(ラピタ)』(小学館)に連載されたエッセイ『白土三平の好奇心』(連載1995年冬号-1999年3月号)の単行本。

テレビアニメ

  • 少年忍者 風のフジ丸NETテレビ・全65話/放映期間1964年6月7日-1965年8月31日)
    『忍者旋風』(風魔忍風伝)が原作の東映テレビアニメ。モノクロ放送、一部カラー放送あり。スポンサーは藤沢薬品工業の一社提供のため、主人公の名前がフジ丸になった。キャラクターデザインは楠部大吉郎。放映に併せ久松文雄による漫画も連載された。放映中、2回劇場アニメ映画化。制作の東映動画はキャラクター権独占のため、第29話以降白土三平を原作から外している。よってこれ以後白土は自作品の映像化に対し反応を厳しくする。
  • サスケTBS・全29話/放映期間1968年9月3日-1969年3月25日)
    エイケン制作のテレビアニメ。カラー放送。スポンサーは森永製菓。TCJの高橋茂人による白土三平説得により実現。放映に併せ『サスケ(リメイク版)』を『少年サンデー』に連載(1968年7月-1969年5月)。1968年9月からは『サスケ(絵物語版)』が『小学一年生』で、久松文雄による『サスケ(絵物語版)』が『小学二年生』で連載された。
  • 忍風カムイ外伝フジテレビ・全26話/放映期間1969年4月6日-1969年9月28日)
    TCJ動画センター制作のテレビアニメ。カラー放送。企画は高橋茂人の瑞鷹エンタープライズ。原作は20回分までしかなく、後半6回分は、各回当時の原稿用紙で3、4枚分のプロットを白土三平から渡され、田代淳二による構成で脚本が制作された<ref>DVD『忍風カムイ外伝』巻之七(2000年4月)</ref>。これを再編集したものが映画版であり、1982年に白土三平自身による漫画化もされている。初期製作資料によると放映第1話の前に幻の第1話「抜け忍(伊賀赤目の滝)」があった。当初の計画では『忍者武芸帳』のアニメ化であり、また次期として『ワタリ』が予定されていたが実現せず、両方ともパイロットフィルムのみ存在する。後番組は『サザエさん』。

映画

  • 少年忍者 風のフジ丸 まぼろし魔術団(1965年3月公開)
  • 少年忍者 風のフジ丸 少年忍者大猿退治(1965年7月公開)
    上述の同名テレビアニメの映画化。この映画と白土三平との関係は薄く、一作目のみ原作としてクレジットされている。
  • 大忍術映画ワタリ(1966年7月公開)
    特撮実写映画。この作品公開後、東映初のカラーテレビ特撮時代劇として続編が作られる予定があったが、映画をみて納得のいかなかった白土三平が拒否、急遽横山光輝原作の『仮面の忍者赤影』(1967年4月-1968年3月)となった。『仮面の忍者赤影』には『大忍術映画ワタリ』の主人公役だった金子吉延が青影として出演。
  • 忍者武芸帳(1967年2月公開/監督大島渚
    大島渚がスチル写真をフィルムに撮り制作した短編映画『ユンボギの日記』(1965年)と同じ手法で制作される。企画があがった当時『忍者武芸帳』の原稿は完全には残っていなかった。そのため原稿紛失分を小島剛夕が貸本印刷物からトレース、全原稿が完成したところで撮影に入った。撮影は1966年5月までに完了。当初は1966年5月公開の予定だったらしいが、監督による編集の拘りで約一年遅れての公開となった。この間、1966年8月から1967年1月にかけて小学館から単行本が発刊されている。
  • 忍風カムイ外伝劇場版「月日貝」(1971年3月公開)
    上述の同名テレビアニメの映画化。テレビアニメの第21話から第26話(最終話)までを再編集・一部追加し制作されたもの。
  • カムイ外伝(2009年9月公開/監督崔洋一
    実写映画。

アシスタント

脚注・出典

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関連項目

  • 釣りキチ三平 - 矢口高雄の漫画で、主人公・三平三平(みひらさんぺい)は、白土三平に由来する。
  • 旅館寿恵比楼 - 1965年10月にはこの旅館で『ワタリ』のコマ割りを手がけた。つげ義春にこの旅館を紹介したのも白土であり、これがつげの作風転換のきっかけとなった。

外部リンク

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