桑田佳祐
出典: Wikipedio
|
(→楽曲提供) |
Maronlovel (会話) |
||
54 行 | 54 行 | ||
* 中学生から高校生にかけ、今は無き[[パシフィックパーク茅ヶ崎|パシフィックホテル茅ヶ崎]]の[[ボウリング]]場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あり、クイズ番組「[[カルトQ]]」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。[[昭和]]40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。<br/>当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが、同い年で友人の[[文化放送]]アナウンサー[[扇一平]]である。その[[扇一平]]の娘現在ロックシンガーソングライターの[[扇愛奈]]は桑田の長男と友達で、高校時代バンドを組んでかなりの人気があった。<br/>また桑田について中・高校時代の友人達は、後にワイドショーのインタビューに応じ「桑田は昔、歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っている。 | * 中学生から高校生にかけ、今は無き[[パシフィックパーク茅ヶ崎|パシフィックホテル茅ヶ崎]]の[[ボウリング]]場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あり、クイズ番組「[[カルトQ]]」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。[[昭和]]40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。<br/>当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが、同い年で友人の[[文化放送]]アナウンサー[[扇一平]]である。その[[扇一平]]の娘現在ロックシンガーソングライターの[[扇愛奈]]は桑田の長男と友達で、高校時代バンドを組んでかなりの人気があった。<br/>また桑田について中・高校時代の友人達は、後にワイドショーのインタビューに応じ「桑田は昔、歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っている。 | ||
- | === | + | === 青山学院時代〜メジャーデビュー === |
高校は地元の[[神奈川県立茅ヶ崎高等学校]]に行く予定だったが、不合格。滑り止めで受験した[[鎌倉学園高等学校]]に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、[[明治学院大学]]と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。大学の音楽[[サークル]]“'''Better Days'''”(ベター・デイズ)に所属し、本格的にバンド活動を開始。「[[温泉]][[あんま]][[ももひき]]バンド」「[[脳卒中]]」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など頻繁にバンド名の変更やメンバーチェンジを繰り返していた<ref name="library">『地球音楽ライブラリー サザンオールスターズ 改訂版』TOKYO FM 出版、2005年。</ref>が、1976年頃から自身のバンドに“'''サザンオールスターズ'''”の名を使用。これが定着し、またメンバーも固定されるようになる。[[1978年]][[6月25日]]、[[ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]よりサザンオールスターズとして『[[勝手にシンドバッド]]』でメジャーデビュー。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち[[1978年]]に除籍になったとのこと(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。 | 高校は地元の[[神奈川県立茅ヶ崎高等学校]]に行く予定だったが、不合格。滑り止めで受験した[[鎌倉学園高等学校]]に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、[[明治学院大学]]と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。大学の音楽[[サークル]]“'''Better Days'''”(ベター・デイズ)に所属し、本格的にバンド活動を開始。「[[温泉]][[あんま]][[ももひき]]バンド」「[[脳卒中]]」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など頻繁にバンド名の変更やメンバーチェンジを繰り返していた<ref name="library">『地球音楽ライブラリー サザンオールスターズ 改訂版』TOKYO FM 出版、2005年。</ref>が、1976年頃から自身のバンドに“'''サザンオールスターズ'''”の名を使用。これが定着し、またメンバーも固定されるようになる。[[1978年]][[6月25日]]、[[ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]よりサザンオールスターズとして『[[勝手にシンドバッド]]』でメジャーデビュー。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち[[1978年]]に除籍になったとのこと(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。 | ||
* 20代であるにも関わらず、合宿先などで[[ステテコ]]・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉[[按摩|あんま]]ももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。 | * 20代であるにも関わらず、合宿先などで[[ステテコ]]・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉[[按摩|あんま]]ももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。 | ||
149 行 | 149 行 | ||
<!--編集者各位。このページでは、桑田氏個人の活動に重点を置きます。サザンの活動については、サザンのページで執筆して下さい。--> | <!--編集者各位。このページでは、桑田氏個人の活動に重点を置きます。サザンの活動については、サザンのページで執筆して下さい。--> | ||
- | === | + | === 生い立ち〜1980年代 === |
* [[1956年]] | * [[1956年]] | ||
** [[2月26日]]、[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]に生まれる。 | ** [[2月26日]]、[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]に生まれる。 | ||
295 行 | 295 行 | ||
** [[3月12日]]、ツアー『呼び捨てでも構いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』の12月31日のファイナル公演の模様を収めたライブDVDと、2007年発表のソロ楽曲9曲に、新曲1曲と原由子のソロ曲「大好き!ハッピーエンド」を加えたCDのセット『[[桑田さんのお仕事 07/08 〜魅惑のAVマリアージュ〜]]』を発売。 | ** [[3月12日]]、ツアー『呼び捨てでも構いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』の12月31日のファイナル公演の模様を収めたライブDVDと、2007年発表のソロ楽曲9曲に、新曲1曲と原由子のソロ曲「大好き!ハッピーエンド」を加えたCDのセット『[[桑田さんのお仕事 07/08 〜魅惑のAVマリアージュ〜]]』を発売。 | ||
** [[3月23日]]、『全国民放 FM53局 & KDDI presents [[桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島]]』が開催され、全国の民放FM局53社に同時ネットで生中継された。 | ** [[3月23日]]、『全国民放 FM53局 & KDDI presents [[桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島]]』が開催され、全国の民放FM局53社に同時ネットで生中継された。 | ||
- | ** [[5月19日]]、同日付でサザンオールスターズとしてのバンド活動再開を発表。同時に、翌2009年以降バンド活動の無期限休止を発表(すなわち5度目の休業。ただし期限を設けない休業はKUWATA | + | ** [[5月19日]]、同日付でサザンオールスターズとしてのバンド活動再開を発表。同時に、翌2009年以降バンド活動の無期限休止を発表(すなわち5度目の休業。ただし期限を設けない休業はKUWATA BAND等の活動を行った1985〜88年以来2度目)。第4期ソロ活動はこの年の3月まででいったん終了した。 |
** [[10月19日]]、かねてから療養中の病気により姉・えり子逝去。享年56。 | ** [[10月19日]]、かねてから療養中の病気により姉・えり子逝去。享年56。 | ||
** [[11月30日]] - [[12月2日]]、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「[[昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦]]」』を開催。往年の歌謡曲から近年のJ-POP楽曲まで全61曲を熱唱。原由子・松田弘もゲスト出演した。 | ** [[11月30日]] - [[12月2日]]、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「[[昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦]]」』を開催。往年の歌謡曲から近年のJ-POP楽曲まで全61曲を熱唱。原由子・松田弘もゲスト出演した。 |
2010年5月3日 (月) 08:03時点における版
Template:Infobox Musician 桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。
目次 |
概要
サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹 居助(くわたけ いすけ)、夷撫 悶汰(いヴ もんた)、古賀 紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともある。
鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。身長170.3cm、体重67kg<ref>『桑田佳祐のやさしい夜遊び』2010年3月27日放送分。</ref>。A型の右利き。愛称は「すけちゃん」「ケイちゃん」「桑っちょ」など。 1982年に、サザンのキーボーディスト・原由子と結婚し、これまでに2男を授かる。芸能界きってのおしどり夫婦として知られる。
人物
Template:未検証 サザンオールスターズのリード・オフ・マンとして知られている。『いとしのエリー』、『真夏の果実』、『TSUNAMI』などの名曲を数多く作り、歌う。ソロでの音楽活動も精力的で、メジャーデビュー以来一貫して邦楽(J-POP)の第一線を走り続ける。音楽雑誌『ロッキング・オン』からは、ポップスの神なる称号を授与されている。また、日本の数々のミュージシャンに影響を与えており、その影響を公言したミュージシャンも多数にわたる。
作詞では愛、セックス、世相を風刺的に表現し、時にエロティックであり、時にユーモラス・ナンセンスであり、時に切なく泣かせ、時にシリアス。楽曲それぞれで様々なタイプの歌詞を書く。 作曲に関しても日本屈指のメロディメーカーとして知られており、洋楽の音楽性を日本のロックミュージックに適用させた楽曲は非常に高く評価されている。楽曲もロック調の強いものからバラードに至るまで幅広く、コンピューターなどを使った最先端の技術も取り入れながら多様な楽曲を提供してきた。
青山学院大学在学中よりバンド活動を盛んに行いバンド名の変更とメンバーチェンジを繰り返した後、サザンオールスターズとしてデビュー。これが現在まで続く。「サザンオールスターズ」というバンド名は友人がつけたもの。 1987年のソロ活動開始以降、サザンとソロ、それぞれの活動を数年毎のローテーションで行い、どちらともセールス・ビジネス的にも成功を維持し続けることができる稀有なミュージシャンである。 1990年には映画「稲村ジェーン」の監督を務め、興行的成功を収めている。
生い立ち
父親が茅ヶ崎で映画館を経営していたため、幼少時より映画を大量に見ていた。さらにTVで見た「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)の都会的な笑いのセンスが、自身の曲づくりの原点になっているという。 また、桑田が音楽に興味を持ったのは、姉・えり子の影響が大きい(姉の岩本えり子は後年、いくつかサザン、桑田ソロの曲で英語補作詞として参加している。桑田によると、作詞に行き詰ったときに電話で相談し、参考にしていたとのこと)。学生時代は姉が集めていたビートルズ等のレコードを聴き入っていた。当時レコードは高価なものであったが、家にはビートルズのレコードがすべてあったという。高校3年でエレキ・ギターを買ってもらい、本格的に音楽に目覚めた。
- 学生時代 影響を受けたアーティストは、上記のビートルズ以外に、エリック・クラプトン、リトル・フィート、ボブ・ディランなどがいる。またフィラデルフィアポップスや筒美京平の作品にも影響を受け<ref>朝日新聞夕刊インタビュー記事、2005年10月12日</ref>、それらは後の音楽活動(演奏、作曲等)の大きな下地になっている。
- 石黒ケイは親戚で近所に住んでいた。
- 中学生から高校生にかけ、今は無きパシフィックホテル茅ヶ崎のボウリング場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あり、クイズ番組「カルトQ」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。昭和40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。
当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが、同い年で友人の文化放送アナウンサー扇一平である。その扇一平の娘現在ロックシンガーソングライターの扇愛奈は桑田の長男と友達で、高校時代バンドを組んでかなりの人気があった。
また桑田について中・高校時代の友人達は、後にワイドショーのインタビューに応じ「桑田は昔、歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っている。
青山学院時代〜メジャーデビュー
高校は地元の神奈川県立茅ヶ崎高等学校に行く予定だったが、不合格。滑り止めで受験した鎌倉学園高等学校に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、明治学院大学と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。大学の音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)に所属し、本格的にバンド活動を開始。「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など頻繁にバンド名の変更やメンバーチェンジを繰り返していた<ref name="library">『地球音楽ライブラリー サザンオールスターズ 改訂版』TOKYO FM 出版、2005年。</ref>が、1976年頃から自身のバンドに“サザンオールスターズ”の名を使用。これが定着し、またメンバーも固定されるようになる。1978年6月25日、ビクター音楽産業よりサザンオールスターズとして『勝手にシンドバッド』でメジャーデビュー。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち1978年に除籍になったとのこと(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。
- 20代であるにも関わらず、合宿先などでステテコ・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉あんまももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。
- サザンのメンバーで後に妻となる原由子とは「Better Days」で知り合う。当初桑田は原の友達の女の子が目当てで原に近づいていたため、原のことは容姿を嘆いたり散々な軽口を叩いていたが、エリック・クラプトンなどの洋楽の好みで気が付けば意気投合、デビューまでの間に完全に付き合っており、サザンのメンバーやサークル仲間の間でも公認の仲であったという。詳細は原の著書『娘心にブルースを』で語られている。
- デビュー当時はコミックバンド扱いされていたこともあり、桑田も本意では無いものの芸人的な立ち振る舞いで、特に長門裕之に顔が似ていることを売りにしていた。また、三遊亭圓生、稲川淳二、大橋巨泉などの物真似も披露しており、現在でも度々ネタにしている。
- デビュー当時サザンは、本人達にとっては強制的な形で『8時だョ!全員集合』『元祖どっきりカメラ』などのバラエティ番組にも度々出演し、コントやモノマネなどの芸をしていた。ちょうどその頃、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介が、ドリフ脱退を希望していた高木ブーに代わる新しい人材を探していたところで、TBSプロデューサー居作昌果を通して、桑田にドリフ加入を打診していたという。桑田はいかりやとは会うだけ会ったが、具体的なやり取りについては明かされていない。
パフォーマンス
歌唱法
独特の歌唱法は、日本人からは高校時代より大ファンだった前川清からきており、また洋楽ではボブ・ディラン等の影響を受け、学生時代は声質をより近付けるため、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける等などの荒行も行っていたという。その結果、1982年頃までの楽曲にしゃがれ声が際立っている作品が多い。しかし、声帯への悪影響も強く、声が出なくなって出血することもあった。その後は声帯を酷使する極端な歌唱を控えるようになり、しゃがれ声が際立った曲は一部に留まっている。作品の発表時期によって歌声が異なって聴こえるのはこの為である。
またサザンオールスターズは、テレビの歌番組における歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒を作ったとされる。これは桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたため、テレビ局が桑田の歌い方に対応するために歌番組でのテロップ表示を行ったとのことである。
プレイヤーとして
レコーディングなどではギターを担当することがほとんどだが、時にベース、ドラムス、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもある。特に、ソロ名義の『素敵な未来を見て欲しい』や『MUSIC TIGER』などは、桑田1人ですべての楽器が演奏されている。
ギタリストとしてクローズアップされることは比較的少ないが、ボトルネックによるスライドギターのプレイヤーとしても知られ、サザンやKUWATA BANDのライブでは曲の間奏で度々その姿を披露、更に泉谷しげるのアルバム「吠えるバラッド」では「JHON PAUL MacLENNON」名義でスライドギター奏者としてレコーディングに参加。しかし、本人によると「コードとかはよくわからない」という。
ライブパフォーマンス
1980年代から1990年代前期まで、ライブや音楽番組などでは時にステージに寝転がったり飛び跳ねたりの激しいパフォーマンスが特徴であった。MCや曲中の煽りなども、所謂「縦ノリ」の男臭いロックミュージシャンらしい姿が見られていたが、近年では激しい動きは少なくなった反面、ギターのソロプレイを魅せる割合が多くなり、加齢と共に味わい深いギターを聴かせている。サザンで活動の際はライブ終盤での客席への紙コップ(エスカレートした場合は消防用のホースでの放水)の水撒きも定番であった。これは2005年『ミュージックステーション』出演の際に「花火や火薬等は制限があるが、水は制限は無い。これ以上スケールの大きいものは水しかない考えられない」と桑田は語っている。
ライブや音楽番組では、高い頻度で歌詞を間違える。ライブで歌詞や段取りをよく間違えることは本人も自覚しているらしく、「間違えた時はスタッフを睨みつけてスタッフのせいにする」と自らコメントしていたが、視聴者向けのネタなのか本音なのかは不明。
曲作り
曲作りはほとんどが曲先(作曲された曲に詞を当てはめる)である。デタラメ英語などの仮歌段階のまま、編曲までほぼすべてを終わらせたのち、仮歌の語感を崩さない言葉を選んで、そこから歌詞全体のテーマ・世界観を決める。そのため、日本語・英語ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判される事がしばしばある。これは文章の正確さよりも、語呂の良さ・符割などを優先させるが故の結果であり、そのためには古文・方言・都々逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語を自分で作ってしまうこともある。
作詞の際には、作品中やタイトルに人名を登場させることも多い。特定の人物を讃えた曲もあるが、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全体とメロディに合う語感として引用し、特定の人物は指していない場合が多い。前者は『吉田拓郎の唄』『星空のビリー・ホリデイ』『Dear John』『唐人物語』など。後者は『いとしのエリー』『チャコの海岸物語』『そんなヒロシに騙されて』『MARIKO』『シュラバ★ラ★バンバ』『可愛いミーナ』ほか多数の曲で使われている。
また、英語と日本語とのダブル・ミーニングを取り入れ、日本語の中でも縁語、掛詞など和歌の伝統的な修辞技法がよく見られる。楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められている。
サザンとソロ活動の両立
サザンとソロとの活動の違いが分かりづらいと指摘されることも多い。この疑問に対して桑田は、サザンのメンバーやサザンとしての活動は家族・家庭であり、ソロ時のサポートメンバーおよびソロとしての活動は愛人と逢っているようなものと例え、サザンの楽曲やソロの楽曲はそれぞれの間で生まれた子供達だと表現をしている。また、プロレスラーの武藤敬司にも例え、サザンの時は素顔の武藤として戦い、ソロの時はペイントをしてグレート・ムタとして戦うとも表現している。
また、ソロ名義で出演するライブやフェスティバル、単独名義で行っている自身のラジオ番組のライブなどでは、サザン名義の楽曲も演奏されることがある。この点に関してファンからは「ソロのライブでサザンの曲を唄わないで欲しい」との意見もあったが、その意見に対して桑田は「ファンの気持ちも分かるんですけど、『唄ったっていいじゃん、どっちでもいいじゃん』て思う時も実はあるんですよね」とインタビューで応えている。ソロ名義で行うワンマンライブやツアーでは、基本的にサザン名義の楽曲が歌われることは少ない。1986年のKUWATA BANDのときは、ライブでサザンの曲を封印していたが、1988年のサザン復活ライブでは、途中に桑田ソロコーナーを設け、「スキップ・ビート」も歌っていた。
交流関係
- 笑福亭鶴光のもとを破門になった元落語家、笑福亭笑光こと鳥飼達夫は1981年12月、桑田のソロ名義のライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」のライブに前座として出演。翌1982年にはビクターの営業マンとしてビクター社員達と共に「チャコの海岸物語」の宣伝活動に回りながら、サザンのライブの打ち上げにも毎回顔を出し、次第に桑田に気に入られる。そして鳥飼は「『嘉門』の姓を譲ってほしい」と桑田に頼み了解を得て、嘉門達夫と名乗るようになる。その後も現在に至るまで、桑田は嘉門の替え歌を容認し続けるなどの仲である。
- 同じアミューズの後輩である福山雅治のことを「マサジ」と呼んでいる。福山に対しては、ラジオや共演したライブの際に極端にイジり倒す場面も見られるが、実際にはプライベートでも一緒に飲みに行ったりビリヤードをやったりする等の仲である。桜坂を「あんないい曲、マサジに作れるわけがない」との発言は、逆に福山の才能を讃えての言葉とも言える。
- ゆずが、まだ無名の頃に、ラジオ出演していた桑田に対して「桑田さんと路上ライブをやってみたい」といった趣旨の手紙を送ったところ、桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、桑田佳祐&ゆずという夢のセッションをしたことがある。
- サザンの大ファンとして知られる平井堅は、学生時代は「NO-NAME(サザンのシングル『EMANON』の逆さ読み)」というコピーバンドを組んでおり、また、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」と、メッセージを添えたデモテープを置いて行った、という過去を持つ(ミュージックステーション出演時に発言)。このテープに関し桑田は「雇っておけばよかった」「つめが折ってなかったから、EXILE録っちゃった」と、冗談交じりに発言している。
2003年の「FNS27時間テレビ〜みんなのうた」内の『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜サザンオールスターズスペシャル』では、桑田・原と共にサザンの『栞のテーマ』をハモり、夢の共演を果たした。さらに、2ndシングル『片方ずつのイヤフォン』の歌詞には“Southern All Stars”が登場し、アルバム『Ken's Bar』ではKUWATA BANDの『ONE DAY』、『Ken's Bar II』では『白い恋人達』をカバーしている。
人柄・エピソード
- 生まれも育ちも湘南であり、楽曲でも湘南のイメージが強いものの、桑田自身は湘南という呼称に否定的であり、自身が監督した映画『稲村ジェーン』に出てくる「地元の人間は湘南なんて誰も言わない」というセリフは桑田自身の言葉でもある。しかし、「勝手にシンドバッド」の歌詞には「いつになれば湘南 恋人に会えるの」というフレーズがある。サーフィンも、中学生時代に友人の板を借りて数回やったことがある程度で、その時はまったく立てなかったという。青学時代は「バンドマンとサーファーは敵対関係」と考えていた。デビューしてからも長い間サーフィンには目もくれず、泉谷しげるに丘サーファーなどとネタにされることもあったが、1993年、37歳にしてサーフィンを始め、現在も続けている。
- 振り付け師南流石の芸名の名付け親である。南は流石組を率いて、サザンの1988年のライブ「大復活祭」や、原の1991年のソロライブ「花咲く旅路」にも振付師・ダンサーとして出演し、原がライブでダンスを披露する際にも振り付けを担当した。
- オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のラジオ番組で「ベティーのマヨネーズ」のママに名付け、『ニューハーフ』という言葉を世間に広めた<ref>ベティのマヨネーズ</ref>。しかし本人は自分が広めた訳ではないと否定している。
- プライベートでは良きマイホームパパとしても知られており、ラジオ番組では度々「息子とサーフィンをした」「ギターを教えた」などの話題を話している。特に2000年春、次男の小学校の卒業式に行った際、教室で卒業生の前で当時ヒット中の『TSUNAMI』を生ギターで唄い、この時の様子が雑誌「FRIDAY」に写真入りで掲載された。桑田が唄っている最中、原は教室の後方から桑田の姿をビデオカメラで撮影していたという。
- かつてはヘビースモーカー(銘柄はハイライト)だったが、1999年10月23日から禁煙を開始<ref>SASダイヤリー サザンオールスターズラボラトリー 1999年10月</ref>。以降は「口元が寂しくなるとチュッパチャプスを舐める」とラジオで語ったほか、レコーディング中に禁煙パイポを吸っている姿も度々映っている<ref>『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』2000年10月20日放送回など。</ref>。
また、お酒は普段は朝まで飲むのだが、コンサートツアー中は一滴も飲まない。また、目覚めがいいため、ここ10年は目覚まし時計を使ったことが無いとのこと。 - 度々髪型を変えたり髭を伸ばすこともあり、CDのジャケット毎にイメージが異なる。特に桑田が四十路を迎え、アルバム『Young Love』リリースの1996年頃はそれまでになかった程、髪をロングヘア・茶髪にしてメディアに登場していた。本人は気に入っていたのだがおおむね不評で、抗議のファンレターまで届いたほどだという。翌年には元の短髪に戻していた。1999年秋 - 冬頃にはパーマもあてていたが、その期間も短く、1999年末の年越しライブ「晴れ着DEポン」の時にはすぐに戻していた。このパーマに失敗したらしく、『TSUNAMI』の大ヒットで特にメディア出演が多かったことゆえ、この時の髪型にはかなり後悔していた。
- ラジオなどで度々、クラプトンやレイ・チャールズをリスペクトする発言が目立つものの、本人に会ったことは一度も無いという(会えるチャンスは何度もあったとのこと)。これは「心底惚れたミュージシャンの普段の姿は見たくない」というファン心理からであるという。
- お笑いが好きで自身のラジオやライブ中のMCでは自分がその時気にいっている芸人のフレーズを多様する。
- 子供や動物を使って涙を誘おうとするようなテレビ番組、映画は嫌っている。
- プロレスファンでアントニオ猪木を敬愛している。猪木とは幾度か共演も果たしている。ライブの煽りではスタン・ハンセンの決め台詞「ウィー!」や、猪木の決め台詞「1、2、3、ダー!」を叫ぶのが定番。2007年、「WONDA」(アサヒ飲料)のCMで(合成映像の)ジャイアント馬場と“共演”した際に馬場から“十六文キック”を浴びせられた。
下ネタ好き
サザンが実力派バンドとして認知されてからも、本人は一貫して下ネタ好きの三枚目なキャラクターを通している。「経験 II」や「ボディ・スペシャルII」「マンピーのG★SPOT」等放送禁止用語を狙って作詞するケースも多い。特に、近年のライブでは、客席に向けての「ヤらせろ!!」や、「乳首見せろ!」「パンツ脱げ!」などの、セクハラ発言は恒例で、テレビ番組に出演の際に放送禁止用語を言ってしまうこともある。
- 『THE 夢人島 Fes.2006』では、WOWOWの生放送にも関わらず、放送禁止用語を言ってしまった。
- 2008年9月24日に生放送された『CDTVスペシャル!15周年プレミアライブ』にサザンオールスターズとして出演。サザン無期限活動休止前の最後のテレビ出演であるが、同年8月に行われたライブ『大感謝祭』後半と同一のピーマンを模したヅラをかぶり全4曲の最後の曲として「マンピーのG★SPOT」を披露。最後のサビにおいて生放送にもかかわらず「マンピーの・・・」の部分で「マンコの・・・」と叫んでしまった。
- 自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM製作)では、放送禁止用語を交えた替え歌を歌うなど下ネタを連発している。
- 自身のテレビ番組『音楽寅さん』でもしばしば下ネタやセクハラネタ(最悪は放送コードギリギリの行為)をするのがお約束になっている。(実際、2009年2期放送開始当初スポンサーだった花王は途中でクレジットから外れてしまった。)
これらの言動は、アミューズ後輩・福山雅治や岡野昭仁(ポルノグラフィティ)にも影響を与えている。なお福山と同じく、大のアダルトビデオ好きであり、夏目ナナや及川奈央の大ファンだと、自身のラジオで公言している。2003年の桑田の誕生日で、福山から及川奈央の2枚組DVDをプレゼントで貰ったことも、ラジオで発言している。
事務所のアミューズ内でのサザンや桑田関係のスタッフは「全裸になることが多い」と桑田がラジオでコメントしている。
変名
数多くの変名を使用しているがこれらの名前の由来は以下のとおり。いずれも桑田の遊び心が感じられる名前である。
- 嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)
- 1981年ライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」等で使用。英語の「COME ON(カモン)」と、同郷で桑田が敬愛する「加山雄三」から。
- 桑竹 居助(くわたけ いすけ)
- 1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』等で使用。名前の区切りを変えたぎなた読み。漢字は当て字である。
- JHON PAUL MacLENNON(ジョン ポール マッカレノン)
- 1988年、泉谷しげるのアルバム「吠えるバラッド」にスライドギター奏者として参加した際に使用。The Beatlesのジョン・レノンとポール・マッカートニーより。
- 夷撫 悶汰(いヴ もんた)
- 1996年のAAAライブで使用。フランスの俳優イヴ・モンタンより。
- 古賀 紅太(こが こうた)
- 2001年、シングル「波乗りジョニー」PV等で使用。桑田がCMソングを担当した「コカ・コーラ」のもじり。
音楽活動
ここではソロ活動を中心に記す。サザンオールスターズなどバンドとしての活動は各ページを参照のこと。
バンド活動と並行したり休業しつつ、ソロ活動を行っているが、活動期によりテーマやコンセプトを大きく異なることで、サザンオールスターズとしての活動とは特に一線を画している。
1986年のKUWATA BAND結成時には、桑田が「ロックを唄うのは英語しかない」と考えが行き着いた頃で、英語詞の洋楽テイストにこだわっていたこともある。その結果、KUWATA BAND唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切収録せず、全曲新曲の全英語詞アルバムになった。しかし発売後しばらくは、自身も完成度に満足していない旨の発言が目立っていた。その後、考え方に変化が見られたのか、現在ではソロ名義のコンサートでKUWATA BANDの楽曲(シングル曲のみ)が演奏されることも多くなっている。
1987年 - 88年の第1期ソロ活動では、前年のKUWATA BANDの方向性とはうって変わって、ミュージックシーケンサープログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開した。小林武史との共同作業によって築かれたこの方向性は、後年のサザンでの活動にも影響を与えた。また、ダリル・ホール&ジョン・オーツとの共演も話題となった。
1993年 - 94年の第2期ソロ活動は、それまでの活動とはさらに異なり、期間中に母親が亡くなったことの影響による内省的な世界観や、辛辣な風刺を前面に押し出した歌詞は、サザンでの活動とはかけ離れた、ソロならではの方向性を打ち出した。サウンド面でも、小倉博和との共同作業による、楽器本来の音に着目したアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線を展開した。
2001年 - 2002年の第3期ソロ活動は、前半と後半でさらに方向性が異なった。前半の2001年は、サザンとの差別化にはこだわらなくなった。この時はサザンでのメンバー脱退による移行があったため、もともとサザン名義で発表する予定だった楽曲を、ソロ名義で発売したものもある。また、逆にソロワークとして製作していた楽曲を、のちにサザンとしてカラーやアレンジを加えて発表した曲も生まれている(恋するレスポールなど)。後半の2002年は、斎藤誠らサポートメンバーで結成されたTHE BALDING COMPANYとの共同作業による、バンド形態の本格派ロック路線を展開した。ここでもサザンでの活動との差が色濃く出ている。CMタイアップとの関係で、思い切りポップ寄りな曲に挑戦した2001年に対し、2002年に発売された作品は、シングル・アルバムともに歴然とテーマの違いが出ている。2001年に発表された楽曲はアルバムに収録されることなく、ソロ活動の集大成として発表されたベストアルバムに収録された。
2007年の第4期ソロ活動は、楽曲的にはサザンとの差別化は特に図られていない。この4期目のソロ活動について桑田は、ラジオ番組や音楽雑誌インタビューなどの各メディアにおいて、『来年のサザン30周年に向けての足懸かりとしての期間』という旨のコメントをしている。なお、この時期のソロ活動でオリジナルアルバムは発表されていない。
2008年3月23日に、沖縄県・石垣島で行われた桑田の特別ライブ「Meet the Music 2008! 全国民放FM53局&KDDI present 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島」の模様が日本全国の民放FM53局(JFN系列38局、JFL系列5局、MegaNet系列4局および独立局6局)で同時生中継された。これは、全国の民放FMラジオ全局で構成する「全国FM連合」がKDDIの特別協賛によるキャンペーンの一環として、TOKYO FMが幹事局となって製作。系列の異なるFMラジオ局が、ネットワークの垣根を越えて1人のアーティストのライブ中継を放送するのは、史上初の試みである。
略歴
ここでは桑田佳祐のソロ活動に重点を置いて説明する。サザンオールスターズなどバンドとしての活動は各ページを参照のこと。
生い立ち〜1980年代
- 1956年
- 1977年
- 1978年
- 1979年
- 「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全国ネット)木曜1部を担当。
- 1980年
- 10月24日、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』で放送された映画『アメリカン・グラフィティ』で、桑田の敬愛するラジオDJ、ウルフマン・ジャックの吹き替えを担当。
- スペクトラムのギタリスト・西慎嗣のソロアルバム『NISHI』をプロデュース。
- 1981年
- 生理用品アンネナプキンのCMに出演。
- タモリのシングル曲『狂い咲きフライデイ・ナイト』を楽曲提供。
- Egg-man(現・Shibuya eggman)のオープニングアクトとして、3月21日・22日の2日間に渡り「桑田バンド」としてライブを行う。メンバーは桑田・関口和之・斎藤誠・国本佳宏・宮田茂男。
- 12月11日・12日、Egg-manで桑田の別名・「嘉門雄三」によるユニット『嘉門雄三&Victor Wheels』として、洋楽のカバーライブを開催。メンバーは3月のライブに今野多久郎が加わったもので、原由子もゲストとして数曲参加した。
- 自身がプロデュースした原由子初のソロシングル『I LOVE YOUはひとりごと』が卑猥な歌詞のため、放送禁止曲に。ビクタービル屋上にて抗議のゲリラライブを行うが、警察が出動するなどの騒ぎとなる。
- 1982年
- 2月26日、原由子と入籍。28日には東京プリンスホテルで結婚披露宴を行う。会場にはファン3000人を招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの芸能人も出席した。
- 小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム『もも』にて曲を提供。また『六本木のベンちゃん』ではボーカルも担当。
- 中村雅俊に『恋人も濡れる街角』を提供。
- 12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。『チャコの海岸物語』でサザンとして2度目の紅白出場を果たした際のものであり、当時の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「国民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう!裏番組はビデオで見ましょう!!」 - 研ナオコが歌った「夏をあきらめて」で第24回日本レコード大賞作曲賞受賞。
- 1983年
- 親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)で演ずるアミダばばあのために、『アミダばばあの唄』を提供する。レコーディングでは桑田と原がコーラスを担当した。レコード会社が異なったため、長年この事実は伏せられていたが、2008年さんまが「もういいやろ」と言って話してしまった。
- 高田みづえがカバーした『そんなヒロシに騙されて』が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞。
- 1984年
- 「オールナイトニッポン」に復帰。火曜1部を担当する。
- 1985年
- ラッツ&スターのメンバー全員の合同結婚式において媒酌人を務める。このときリーダー・鈴木雅之の父との会話が、後1996年のアルバム(サザン名義)『Young Love』に収録される『心を込めて花束を』を生むきっかけとなる。
- 6月15日、佐野元春なども参加したイベントライブ『ALL TOGETHER NOW』に飛び入り出演。段取り無視のパフォーマンスに佐野元春はあっけに取られたが、怒ってはいなかったという。
- 10月、サザンのツアー『KAMAKURA TO SENEGAL』で共演したトゥレ・クンダへのお礼の為、アフリカ・セネガルへ渡りトゥレ一家の元を訪れる。この模様はドキュメンタリー番組としてテレビでも放映された。
- 1986年
- 原の産休に伴い、サザンは最初の休業期間に入り、各メンバーのソロ活動がはじまる。
- 4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結成、『BAN BAN BAN』でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強調していた。
- 12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)』を出演者一同で唄う。
- 1987年
- 10月6日、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』発売。以降、ソロでの活動が続く。
- ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』収録)・『REALOVE』(ホール&オーツのアルバム『Oh Yeah!』収録)を共同レコーディング。
- 12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。
- 1988年
- 3月16日、2ndシングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』発売。
- 4月21日、河内淳一のアルバム『One Heart』に収録されている『Day After』と『恋に落ちた日 〜ANYDAY YOU LOVE ME〜』にコーラスで参加。
- 6月25日、『みんなのうた』で、サザンでの活動を再開させる。
- 7月9日、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』発売。
- 8月、RCサクセションの問題作アルバム『COVERS』に参加。この時には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ会報『代官山通信』の署名でも使用されていた。
- 10月、山下達郎のアルバム『僕の中の少年』収録の『蒼氓』に原由子と共にコーラスで参加。
- 10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
- 12月31日、『Keisuke Kuwata』で第30回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。
- 1989年
1990年代
- 1990年
- 4月、NHK-FMにてラジオ番組『ミュージック・スクエア』スタート。火曜日のDJを担当。民放での番組とは違い、下ネタなどの過激な発言は無かったものの、リスナーからのの投稿ハガキを読む『日本四方山話のコーナー』『句会のコーナー』、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる『訳詞のコーナー』、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する『My Count Down』などのコーナーが人気であった。また、1週おきにゲストミュージシャンを迎えてのトークも繰り広げた。この番組には、同じサザンの野沢秀行や渡辺美里・奥居香・高橋幸宏・杉真理・嘉門達夫・アン・ルイス・松尾和子、河内淳一といったミュージシャンのほか、プロレスラーの前田日明も出演した。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で担当を終了。
- 7月、『稲村ジェーン』クランク・アップ。映画公開までに、宣伝を兼ねて歌番組のほか、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試写会を藤沢市の海岸で行い、桑田も会場に登場して『恋はお熱く』を唄う。
- 9月7日、『稲村ジェーン』公開。
- 第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞。大賞にノミネートした「真夏の果実」は、最終選考で「おどるポンポコリン」との一騎打ちに敗れる。
- 1991年
- 3月24日 - 26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する『アコースティック・レボリューション』を行う。メンバーは小倉博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
- 6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」などを演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
- 9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で『クリといつまでも』発売。
- 10月2日、3月の『アコースティック・レボリューション』を収録したライブビデオ『Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26』発売。
- 1992年
- 6月27日、企画アルバム『フロム イエスタデイ』発売。KUWATA BAND時代のシングル4作が初CD化での収録となる。
- 1993年
- 10月6日、3rdシングル『真夜中のダンディー』を発売。サザン活動中のソロ名義でのリリース。
- 12月1日、世界エイズデーであるこの日、多数のアーティストを集めた「AAA〜アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで参加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奥田民生・宮田和弥(当時JUN SKY WALKER(S))・奥居香(当時プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブのために作られたチャリティーソング『光の世界』が唄われた。この後、様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化していくが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は、後々の活動の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」は、その後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。
- 1994年
- サザン2度目の休業期間に入る。
- 8月24日、4thシングル『月』発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年香港で張学友によるカバー曲が発売され、大ヒット。
- 9月23日、2ndアルバム『孤独の太陽』発売。収録曲『すべての歌に懺悔しな!!』が、矢沢永吉と長渕剛を揶揄しているとされ問題となり、桑田が「あれは自分を含めた芸能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「まったく気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長渕は『views』誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論争に発展。翌年に、長渕が大麻の不法所持で逮捕されたことで、なし崩し的に沈静化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論争を参照のこと。
- 9月 - 12月、初のソロ名義全国ツアー『さのさのさ』開催。全国29都市35公演を敢行。サザンでは長らく行われていなかった、ホール・市民会館などの小規模の会場でのライブを行う。ツアー期間中の10月28日には母校である青山学院大学において「帰って来た青山のダンディー」と題し、学園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口とともに、母校の思い出を綴った『Ya Ya (あの時代を忘れない)』を唄う。
- 10月31日、5thシングル『祭りのあと』発売。
- 12月1日、AAA武道館公演に出演者の1グループとしてサザンが登場し、オリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動中の同年において、久々にバンドとして、更に休養中の関口和之も復帰し、6人揃って登場した。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても『奇跡の地球』を初披露。
- 12月21日、『さのさのさ』ツアーを収録したライブビデオ『すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐 LIVE TOUR'94-』発売。ツアーが終了する前の発売であった。
- 12月31日、「月」で第36回日本レコード大賞・優秀賞を受賞、『孤独の太陽』でアルバム大賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、横浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。
- 1995年
- 1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で『奇跡の地球(ほし)』をチャリティーシングルとしてリリース。
- 4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜」(現・桑田佳祐のやさしい夜遊び、TOKYO FMなどJFN全国ネット)スタート。自身がパーソナリティを務め、現在も続く長寿番組になっている。
- 4月 - 5月、Mr.Childrenと共演のライブツアー『LIVE UFO '95桑田佳祐&Mr.Children“Acoustic Revolution with Orchestra”奇跡の地球(ほし)』開催。『奇跡の地球』のほかにビートルズなどの洋楽も披露した。
- 12月1日、Act Against AIDS'95をタイのバンコクにて開催。小林武史や小倉博和らとともに「真夏の果実」「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」のほか、ビートルズやジョン・レノンのナンバーなど、計7曲を歌う。
- 12月31日、横浜アリーナで行われた岸谷五朗主催のアミューズのイベント『THE VARIETY III 異業種共演 大晦日の宴 〜FOR AAA』に出演。サザンとしての年越しライブに替わる出演で、桑田はカウントダウンの直前に登場。爆風スランプの演奏で「勝手にシンドバッド」を唄い、1996年を迎えた。また、出演者の石橋貴明・唐沢寿明・岸谷五朗とともに「ゴロー&センズリッターズ」として、桑田の書き下ろしの曲『長嶋は教祖なんかと違います』を唄い、唐沢は本業とは違うコミカルな一面を見せた。カウントダウンの瞬間は、年が明けるよりも数十秒も早く曲が終わってしまい、年が明けるまで出演者がMCのみで会場を煽ったが、かなり間の悪いものになってしまった。
- 1996年
- 1997年
- 3月5日、昨年のAAAライブを収録したライブビデオ『夷撫悶汰レイト・ショー〜長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe〜』発売。
- 9月、サザンが影響を受けたバンドであるリトル・フィートのギタリスト、ローウェル・ジョージのトリビュート・アルバム『ROCK AND ROLL DOCTOR』のレコーディングのため渡米。「日本人でリトル・フィートのカバーを任せられるのはこの人だけ」と、唯一の日本人ボーカリストとして抜擢され「LONG DISTANCE LOVE」を歌った。10月には、同アルバムが日本でもリリース。
- 10月、桑田がAAAで『サルビアの花』などをカバーしたこともある早川義夫に、書き下ろしの新曲『アメンボの唄』を提供。作詞曲のほか、ギター・コーラスでレコーディングに参加。テレビ朝日系バラエティ番組『人気者で行こう!』エンディングテーマに起用され、早川とともに桑田も番組のエンディングに出演していた。
- 11月28日 - 12月1日、『Act Against AIDS '97 桑田佳祐 歌謡サスペンス劇場』開催。昭和の歌謡曲を全30曲披露し、長らく放送禁止曲とされてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』も熱唱。その模様は深夜とはいえ,テレビで放映された。
- 1998年
- 1999年
- 11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS '99 桑田佳祐 エリック・クラプトソ 横浜公演』開催。クリーム、ブラインド・フェイスの曲やエリック・クラプトンソロの曲など全26曲を披露。途中原由子もアコースティックギター・コーラスで参加し、12月1日公演のアンコールには関口和之も飛び入り参加した。
2000年代
- 2000年
- 1月29日 - 2月5日、FC会員限定ライブ『伊豆だらけのローラ』開催。
- 5月、山下久美子のデビュー20周年記念セルフカバーアルバム「THE HEARTS」に収録される『バスルームから愛を込めて』にコーラスで参加。アルバムは6月25日に発売。歌詞カードには山下と桑田が一緒に写ったポラロイド写真も載っている。
- 8月、自身の故郷・神奈川県茅ヶ崎市でサザンとして凱旋コンサート『茅ヶ崎ライブ』を行い話題を呼ぶ。
- 10月、「桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜」(フジテレビ系、第1期)放送開始。
- 11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング』開催。「21世紀に残したい曲」をテーマに、桑田が選曲した全28曲を熱唱した。
- 12月31日、サザンの大ヒット曲『TSUNAMI』で第42回日本レコード大賞を受賞。「やっと、ひばりさんの背中が見えました」とコメント。
- 2001年
- サザン3度目の休業期間に入り、各メンバーソロ活動を開始。
- 7月4日、6thソロシングル『波乗りジョニー』発売。発売に合わせ、地方都市でFMラジオ公開生放送と、ライブ『古賀紅太 No Reason! ライブハウスツアー』とを同時進行の形で行う。ラジオ放送は各地で数千人もの観客を集め、好評を得た。ライブはサザンとしての全国ツアーに替わる企画で、佐賀・青森・奈良など、それまでツアーで行くことが少なかった土地でも行われた。
- 8月7日、ラジオ番組内で、大森隆志のサザン脱退を発表。「プロになる気は無かったメンバーをまとめ、プロの世界に導いたのは大森。彼がいなければ自分達は世に出ることはなかった」と語る。
- 10月24日、7thシングル『白い恋人達』発売。桑田ソロ名義のシングル最高売上を記録。
- 11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』開催。ビートルズの曲を全38曲熱唱。ライブ初日にはビートルズのギタリスト・ジョージ・ハリスン逝去の訃報が報じられ、ステージで黙祷を捧げた。
- 12月6日、やまだひさしのラジアンリミテッドの企画でGLAYと競演。この模様は「桑田佳祐 meets GLAY スーパーFM」としてOAされた。最後はジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』をGLAY、番組スタッフを交えて全員でセッション。
- 12月22日 - 12月24日、札幌市の月寒グリーンドームで『桑田佳祐 Xmas LIVE in 札幌』開催。当初は札幌ドームを借りるつもりでいたが、計画したときにはすでに埋まっており、ライブのMCで月寒ドームになってしまったことをぼやいていた。ライブではサザン・ソロ・KUWATA BANDの楽曲のほか、『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』などのクリスマスソングも唄われた。また、24日のライブ終了後にはフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』のクリスマス特番の生中継も入り、会場の外で一面の雪とライブを見ていたファンに囲まれて『白い恋人達』をピアノ弾き語りで唄った。
- 12月31日、「白い恋人達」が第43回日本レコード大賞金賞受賞。最有力候補だったが、授賞式を欠席。大賞は浜崎あゆみに。
- 2002年
- 『波乗りジョニー』『白い恋人達』の2作で、第16回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞。
- 6月26日、8thシングル『東京』発売。ファンクラブ誌上にて「石原慎太郎に物申すみたいな気持ちで作った」とコメント。
- 8月10日、茨城県ひたちなか市で行なわれた邦楽ロックの音楽祭・ROCK IN JAPAN FESTIVALに参戦。2日目のトリを務める。未発表の新曲『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』(翌月発売のアルバムに収録)他、全14曲を熱唱。
- HOUND DOGのSHIBUYA-AXでのライブに飛び入り出演。大友康平とサザン初期の楽曲、『熱い胸さわぎ』収録の『恋はお熱く』を歌う。
- 9月22日、スペースシャワーTVの日比谷野外音楽堂でのライブイベント『SWEET LOVE SHOWER』にトップバッターで出演。当日までシークレット扱いで一般には一切知らされておらず、観客を驚かせた。桑田はプロレスの覆面を被って登場し、全5曲を歌唱。
- 9月26日、3rdアルバム『ROCK AND ROLL HERO』発売。
- 11月 - 12月、コンサートツアー『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』開催。ソロアーティストとして初めて全国5大ドームツアーを開催。
- 11月27日、初のソロベストアルバム『TOP OF THE POPS』発売。ソロ名義で1980年代、1990年代、2000年代と3世代に渡ってオリコンアルバムチャート1位を達成。3世代以上での1位は男性ソロでは長渕剛(1970年代を含め4世代)、井上陽水(3世代)に次ぐ3人目の快挙。
- 12月11日、ビデオクリップ集『桑田佳祐ビデオクリップス2001〜2002 D.V.D. WONDER WEAR』発売。
- 2003年
- 『東京』で第17回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞、『ROCK AND ROLL HERO』と『TOP OF THE POPS』の2作がロック & ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
- 2月、『東京』が「SPACE SHOWER Music Video Awards 03」BEST VIDEO OF THE YEARを受賞。
- 3月26日、『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』を収録したライブビデオ『桑田佳祐ライブビデオ「けいすけさん、ビデオも色々と大変ねぇ。」』発売。
- 7月23日、『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし、サザンでの活動を再開。
- 11月、桑田の息子が通う高校の学園祭でシークレットライブを行い、『勝手にシンドバッド』『涙の海で抱かれたい』などを歌った。この模様は女性週刊誌で報じられた。バンドメンバーは桑田の他に原や小倉博和・三沢またろう。4人とも学校の制服を衣装としていた。
- 12月2日 - 12月4日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2003 栄光のDISCO & SOUL』開催。ディスコ&ソウルをテーマに1960 - 70年代のディスコナンバー全34曲を披露。原由子・野沢秀行もゲスト出演した。
- 2004年
- 2006年
- 7月17日、ゆかりのある小林武史、Mr.Childrenの桜井和寿らが主催する「ap bank fes'06」にソロとして出演。最終日となるこの日は、桜井と1995年に発売された『奇跡の地球』を11年ぶりにセッションし、話題となった。ソロでの出演であったが、サザン名義での楽曲『いとしのエリー』『真夏の果実』も披露した。
- 8月26・27日の2日間、桑田がサザンを中心としてアミューズ所属のアーティストに呼びかけ、初の自身主催となる野外フェスティバル「THE 夢人島 Fes.2006」を開催。アミューズ外からもGLAY、Mr.Children、Dragon Ash、さらには加山雄三など、桑田とゆかりのあるアーティストがスペシャルゲストとして出演。
- 11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2006「星条旗よ永遠なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」』開催。桑田が影響を受けた1960 - 70年代のアメリカンミュージック37曲を熱唱した。
- 2007年
- 2008年
- 3月12日、ツアー『呼び捨てでも構いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』の12月31日のファイナル公演の模様を収めたライブDVDと、2007年発表のソロ楽曲9曲に、新曲1曲と原由子のソロ曲「大好き!ハッピーエンド」を加えたCDのセット『桑田さんのお仕事 07/08 〜魅惑のAVマリアージュ〜』を発売。
- 3月23日、『全国民放 FM53局 & KDDI presents 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島』が開催され、全国の民放FM局53社に同時ネットで生中継された。
- 5月19日、同日付でサザンオールスターズとしてのバンド活動再開を発表。同時に、翌2009年以降バンド活動の無期限休止を発表(すなわち5度目の休業。ただし期限を設けない休業はKUWATA BAND等の活動を行った1985〜88年以来2度目)。第4期ソロ活動はこの年の3月まででいったん終了した。
- 10月19日、かねてから療養中の病気により姉・えり子逝去。享年56。
- 11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦」』を開催。往年の歌謡曲から近年のJ-POP楽曲まで全61曲を熱唱。原由子・松田弘もゲスト出演した。
- 2009年
- 3月25日、前年に行われた「昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦」のライブDVD発売。同時に、桑田のソロ作品では初のBlu-ray Discでも発売。
- 4月20日、『桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜』(フジテレビ系列、第2期)開始。
- 5月30日、大阪城ホールにて行われたFM802の開局20周年イベント『FM802 STILL20 SPECIAL LIVE RADIO MAGIC』にユースケとともに飛び入り出演。桑田はトラの気ぐるみを着て登場し、上田正樹の「悲しい色やね」のカバーを含め全4曲を歌唱した。
- 8月30日、山梨県山中湖村でスペースシャワーTV開局20周年を記念して開催された野外フェスティバル『SPACESHOWER SWEET LOVE SHOWER 2009』に最終日に大トリをつとめる形で登場。この日のために1夜限りのスペシャルバンド「桑田佳祐 & SUPER MUSIC TIGERS」を結成し、サザンオールスターズと自身のソロ曲合わせ、全10曲を披露した。同イベントへの参加は2002年以来2回目となる。
- 11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2009 映画音楽寅さん チャラン・ポランスキー 監督・脚本・主演 「男はしたいよ」』開催。映画音楽をテーマに全42曲を歌唱。途中では自身初めてとなるフライングも披露した。原由子・渡辺直美もゲスト出演。
- 12月9日、12thシングル『君にサヨナラを』発売。
2010年代
ディスコグラフィ
シングル
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
1st | 1987年10月6日 | Template:Larger | EP | VIHX-1725 |
8cmCD | VDRS-1001 | |||
2nd | 1988年3月16日 | Template:Larger | EP | VIHX-1731 |
8cmCD | VDRS-1010 | |||
CT | VST-10347 | |||
3rd | 1993年10月6日 | Template:Larger | 8cmCD | VIDL-170 |
CT | VISL-280 | |||
4th | 1994年8月24日 | Template:Larger | 8cmCD | VIDL-201 |
CT | VISL-311 | |||
5th | 1994年10月31日 | Template:Larger | 8cmCD | VIDL-202 |
CT | VISL-312 | |||
6th | 2001年7月4日 | Template:Larger | EP | VIZL-60 |
12cmCD | VICL-35300 | |||
7th | 2001年10月24日 | Template:Larger | EP | VIJL-60090 |
12cmCD | VICL-35330 | |||
8th | 2002年6月26日 | Template:Larger | EP | VIJL-60095 |
12cmCD | VICL-35380 | |||
9th | 2007年5月16日 | Template:Larger | EP | VIJL-60600 |
12cmCD | VICL-36600 (初回版) | |||
VICL-36601 (通常版) | ||||
10th | 2007年8月22日 | Template:Larger | EP | VIJL-60800 |
12cmCD | VICL-36800 | |||
11th | 2007年12月5日 | Template:Larger | EP | VIJL-60900 |
12cmCD | VIZL-371 (初回版) | |||
VICL-37100 (通常版) | ||||
12th | 2009年12月9日 | Template:Larger | EP | VIJL-62000 |
12cmCD | VIZL-380 (初回版) | |||
VICL-37200 (通常版) |
再発盤
2001年6月25日 | 1st〜5th CD版12cm化リマスタリング再発(VICL-35305〜35310) |
アルバム
オリジナルアルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
1st | 1988年7月9日 | Template:Larger | LP | VIH-28333 |
CD | VDR-1520 | |||
CT | VCF-10360 | |||
2nd | 1994年9月23日 | Template:Larger | CD | VICL-555 |
CT | VITL-132 | |||
3rd | 2002年9月26日 | Template:Larger | LP (2枚組) | VIJL-60101〜60102 |
CD | VICL-60920 | |||
4th | 2010年10月20日 | (タイトル未定) |
ベストアルバム
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
1st | 1992年6月27日 | Template:Larger | CD | VICL-300 |
CT | VITL-107 | |||
2nd | 2002年11月27日 | Template:Larger | CD (2枚組) | VICL-61006〜61007 |
その他
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
ライブ盤 | 1982年3月2日 | Template:Larger | LP | VIX-1001 |
再発盤
1992年6月27日 | 1st CD版再発 (VICL-8061) |
2001年6月25日 | 1st・2nd+『フロム イエスタデイ』 リマスタリング再発 (VICL-60804、VICL-60805、VICL-60806) |
映像作品
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | |
---|---|---|---|---|
ライブビデオ | 1991年10月2日 | Template:Larger | VHS | VIVL-49 |
LD | VILL-43 | |||
DVD | VIBL-44 | |||
ライブビデオ | 1994年12月21日 | Template:Larger | VHS | VIVL-140 (初回版) |
VIVL-141 (通常版) | ||||
LD | VILL-99 (初回版) | |||
VILL-100 (通常版) | ||||
DVD | VIBL-45 | |||
ライブビデオ | 1997年3月5日 | Template:Larger | VHS | VIVL-200 |
DVD | VIBL-6 | |||
ミュージック・ビデオ | 2002年12月11日 | Template:Larger | VHS | VIVL-270 |
DVD | VIBL-67 | |||
ライブビデオ | 2003年3月26日 | Template:Larger | VHS | VIVL-286 |
DVD | VIBL-109 | |||
ライブビデオ+CD | 2008年3月12日 | Template:Larger | DVD+CD | VIZL-500 (初回版) |
VIZL-501 (通常版) | ||||
ライブビデオ | 2009年3月25日 | Template:Larger | DVD (2枚組) | VIBL-700〜701 |
Blu-ray | VIXL-200 |
再発盤
2001年12月5日 | 『夷撫悶汰(いヴもんた)レイト・ショー 〜長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe〜』 DVD版再発 (VIBL-46) |
楽曲提供
- 高田みづえ
- 『私はピアノ』(1980年)
- 『蒼いパリッシュ』『そんなヒロシに騙されて』(1983年)
- 中村雅俊
- 『マーマレードの朝』(1980年)
- 『恋人も濡れる街角』『おまかせください(ナカムラ・エレキ音頭)』(1982年)
- スペクトラム
- 『MOTION』(1980年)
- Lord,Lord,Lawdy Miss Clawdy Group
- 『すてきなトランスポーテイション』『Spin Love』『シュールなるなぎさ1963』(1980年)
- タモリ
- 『狂い咲きフライデーナイト』『スタンダード・ウイスキーボンボン』(1981年)
- 高樹澪
- 『恋の女のストーリー』『MIO-SUN』(1981年)
- 小林克也&ザ・ナンバーワンバンド
- 『六本木のベンちゃん』『ブルースだ〜れ!』『My Peggy Sue』(1982年)
- 『茅ヶ崎は今日も黄色い』『プロレスを10倍楽しく見る方法 〜今でも豊登を愛しています』(1983年)
- 研ナオコ
- 『夏をあきらめて』(1982年)
- 上田正樹
- 『Miss You Baby』(1983年)
- アミダばばあ&タケちゃんマン
- 『アミダばばあの唄』(1983年)
- キンヤ
- 『Let It Boogie』『タバコロードにセクシーばあちゃん』(1984年)
- ジューシーフルーツ
- 『萎えて女も意志をもて』『海』(1984年)
- 増田恵子
- 『女優』(1984年)
- 長山洋子
- 『シャボン』(1984年)
- 宮本典子
- 『海』(1984年)
- 明石家さんま
- 『さんまのまんま』(1987年)
- 古舘伊知郎
- 『夢見る頃を過ぎても』(1988年)
- 芳本美代子
- 『海』(1990年)
- 村田陽一
- 『クロス・タウン・トラフィック』(1993年)
- おおたか静流
- 『月(ZENTARO WATANABE MIX)』(1997年)
- 早川義夫
- 『アメンボの唄』(1997年)
- YUKIKO
- 『真夏の果実〜Slow Dance Version〜』『真夏の果実〜Ragga Mix Version〜』(1998年)
映画
- 稲村ジェーン(1990年、東宝)※監督
- アメリカン・グラフィティ ※TV放映(日本語吹替)の際、ウルフマン・ジャックの声を担当(小林克也が同役を担当したバージョンもあり)。
ライブ・コンサートツアー
出演
※すべて個人での出演によるもの。グループでの出演などはサザンオールスターズ#CMの節を参照。
テレビ番組
- 桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜(2000年 - 2001年、関西テレビ・フジテレビ)
- とりあえず4回だけ帰ってきた桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜(2001年、関西テレビ・フジテレビ)
- プロポーズ大作戦(2007年、フジテレビ)※エンドロールのみ
- 桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜(2009年、フジテレビ)
ラジオ
CM
- アンネット、アンネシャンテS(1981年)
- 雪印乳業、スライスチーズ(1982年)
- TDK、カセットテープSF46・AD46(1986年)
- フジフイルム、フジカラー(1989年)
- 日本生命、ロングラン(1989年 - 1991年)
- キヤノン、ビデオi(1991年 - 1992年)
- 角川書店、角川文庫(1994年)
- キリン、缶コーヒー「JIVE」(1993年 - 1995年)
- キリンビール、キリン・ラガー(1996年)
- ヤナセ、キャデラック・セヴィル(1996年)
- 三菱電機、「デジタル・ムーバ D207」「Pedion」(1998年)
- WOWOW、サマーキャンペーン(2000年)
- 日本コカ・コーラ、コカ・コーラ「No Reason!」キャンペーン(2001年 - 2002年)
- JAL、「FLY! JAL!」キャンペーン(2003年 - 2004年)
- トヨタ自動車、「MORE THAN BEST」キャンペーン(2004年 - 2005年)
- 明治製菓、ショコライフ(2006年 - 2007年)
- アメリカン・エキスプレス、「MORE THAN JUST A CARD」キャンペーン(2007年)
- ダンディハウス、「ニッポン ダンディ?」キャンペーン(2007年)
- アサヒ飲料、WONDA「モーニングショット」「アフターショット」「圧力仕立て ブラック」(2007年)「金の微糖」(2008年)
- 大塚製薬、UL・OS(ウル・オス) (2009年)
書籍
著書
- 『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』(エッセイつき歌詞集、1984年、新潮社)ISBN 4101353018
- 『ケースケランド』(1984年、集英社)ISBN 4087800792
- 『ロックの子』(1985年、講談社)ISBN 4062017172
- 『ONGAKU BAKADAISHO NO BOKEN』(1987年、扶桑社)ISBN 4893531255
- 『ブルーノート・スケール』(1987年、ロッキング・オン)ISBN 4947599138
- 『ただの歌詩じゃねえかこんなもん'84-'90』(上の同名作品の続編、1990年、新潮社)ISBN 4101353026
- 『桑田佳祐の「平成NG日記」』(映画「稲村ジェーン」の撮影日誌、1990年、講談社)ISBN 4061723375
- 『素敵な夢を叶えましょう』(1999年、角川書店)ISBN 4048836021
関連書籍
- 『総力特集桑田佳祐』(カドカワムック 別冊カドカワ)(2002年、角川書店) ISBN 4047213896
- 『クワタを聴け!』(中山康樹著、集英社新書、2007年) ISBN 4087203808
関連項目
- サザンオールスターズ
- KUWATA BAND
- SUPER CHIMPANZEE
- 桑田佳祐&Mr.Children
- アミューズ
- ビクターエンタテインメント
- ビクタータイシタ
- アクト・アゲインスト・エイズ
脚注
外部リンク
- STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!!(レコード会社公式)
- sas-fan.net(公式)
- KUWATA KEISUKE 2010(ソロ・2010年活動概要)
- S@S応援団(ファンクラブ公式 一部コーナーは会員以外利用不可)
- AMUSE(CD・出版物情報)
- 桑田佳祐のやさしい夜遊び(番組公式)
- KGM - Kuwata Guitar Magazine - 桑田佳祐が使用するギター紹介
Template:サザンオールスターズ Template:桑田佳祐 Template:KUWATA BAND
Template:Singer-stuben:Keisuke Kuwata fr:Keisuke Kuwata id:Keisuke Kuwata ko:구와타 게이스케 zh:桑田佳祐