明石家さんま

出典: Wikipedio


Template:未検証 Template:出典の明記 Template:雑多な内容の箇条書き Template:Infobox お笑い芸人

明石家 さんま(あかしや さんま、本名:杉本 高文(すぎもと たかふみ)、1955年(昭和30年)7月1日 - )は、日本お笑いタレント司会者俳優歌手ラジオパーソナリティー

1980年代後半以降、タモリビートたけしと共に、日本お笑い芸人BIG3の1人として称される。

和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)生まれ、奈良県奈良市育ち。 奈良県立奈良商業高等学校卒業。

目次

プロフィール

人物

芸風

デビュー当初は菅原文太ものまねや、当時人気だったプロ野球阪神タイガース投手の小林繁形態模写漫談が主であった。ピンで演じることもあったが、兄弟子の明石家小禄(後に五所の家小禄と改名)とのコンビで、コントスタイルで演じることもあった。

ただし、最初は巨人の小林繁として形態模写をしており、江川卓とのトレードで阪神に移籍した際に、この芸を封印したが、トレード直後の阪神タイガースで小林繁の活躍に伴い、関西地区で小林繁の形態模写を熱望されるようになり、本人は渋々再開した所、小林繁と相乗効果で人気を集めるようになった。

現在では司会業が中心で、中には二十年以上続く番組がある。

聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。トークのテンポに関してはこだわりを持っており、テンポを崩されるとすかさずツッコミやボケを入れる。例えば、番組中に質問した際に相手が考え込んでしまうと、大抵は「早く言え」等とツッコんだり自らボケを挟んで笑いを取りにかかる(本人曰く、嘘や適当な答えでも話が広がりさえすればそれでいいので、とにかくパッと早く答えて欲しいという)。張り芸(声を張って笑いをとる芸)を得意とする。

芸名(愛称)

松之助に弟子入りした当初の芸名は「笑福亭さんま」であった。そのためさんまは笑福亭鶴瓶を「兄さん」と呼んでいる。なお、「さんま」という芸名は、さんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名。その後、「明石家さんま」に改名。「明石家」は師匠・笑福亭松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた(「明石さんま」は誤字。)。亭号を「明石家」に改めた理由としては、落語を演じない者に一門の「笑福亭」を与えることは許されないとした、一門の方針によるというのが通説になっている。しかし師である松之助自身一時落語を離れ、喜劇役者に専念していた時期があったことや、吉本に所属していた月亭可朝笑福亭仁鶴桂三枝らのタレントとしての活躍、兄弟子の明石家つる松(後の橘家圓三)は古典落語しか演じなかったことを考えると、落語をしないことが「明石家」を名乗る直接の理由ではないと考えられる。松之助の兄弟子にあたる6代目笑福亭松鶴は、直弟子の鶴瓶にはほとんど落語の稽古をつけていないし、当時鶴瓶も落語をほとんど演じなかった。対して松之助はさんまには落語を少ないながらも教えている。 さんまの落語家よりタレント志向であったことも理由であろうが、「明石家」という語呂の良さや、本家筋にあたる直系松鶴一門との差別化が大きな要因と考えられる(さんまの兄弟子にあたる小禄(廃業)は松之助から「こいつさんまやからお前ひらめにせぇ」と言われたが、土下座して断った)。さんまもデビュー間もない頃は岩田寄席など地域寄席古典落語を演じ、毎日放送大喜利番組では着物を着て落語家として出演していた。 ちなみに松之助は長男には明石家のんきと、次男にはパーポ明石と芸名を付けている。

松之助は、家業から名前を付けることが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車屋から明石家サドル、美容室から明石家パーマなどが命名されている。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に芸名を決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐあとに「さんま」という芸名をもらった話を聞いて「こいつ(芸能人として)終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。

愛称は「さんちゃん」(所ジョージなど同年代の親しい人物が使用。)

同じくBIG3であるタモリビートたけしからは「さんま」「さんちゃん」「さんまちゃん」「明石家さんま師匠」「出っ歯」「お前」「あんた」と呼ばれる。たけしは「明石家」と呼ぶこともある。またタモリは第三者とさんまのことについて話す際は、「あの男」と表現する。さんまは年上のタモリとたけしを基本的にはさん付けで呼ぶが、突っ込む時には、たけしを「ビート」、「たけ」、「たけし」、「おっさん」と呼び捨て、タモリにも「タモリ」、「タモさん」、「森田」と呼び捨てにしたり「あんた」「お前」と呼ぶ場合もある。

身体的特徴

いわゆる「出っ歯」の代表的人物として有名。

かん高い笑い声とドナルドダックの様な、「クワーッ(もしくは「フニャー!」、「ファーーッ!」)」という引き笑いが特徴。音声学的見地から言えば、アホウドリの鳴き声と同じであると言われる(嘉門達夫は「引き笑い鳥」と名づけている)。普段の話し声は65歳と分析されたが、この笑い声だけは30代(さんま曰く35歳)と解析された。とんねるずの木梨憲武はゴルフ場での鳴き声を聞いて「あー、さんまさんも(このゴルフ場に)来てるんだ」と言い、雉とさんまの声を真剣に聞き間違えた。

睡眠時間が極度に少ない。本人曰く、「今までの人生で10時間以上寝たことは一度もない」とのこと。雨上がり決死隊宮迫博之によると「仕事で3日間一緒になった際、多分あの人はあの3日間一睡もしていない。機内で寝ようとしたら、さんまさんに起こされた。初日の収録が終わって、次の日の入り時間が早朝だったにも関わらず深夜まで一緒に飲み、次の日フラフラになって収録現場に行ったら、何も無かったかのように元気なさんまさんがいた。こんなことが3日間続きながらも収録が終わって、ダウン寸前で家に帰ってテレビをつけたら、さんまさんが生放送番組に出演していた」との事。また、寝顔を人に見られるのを極端に嫌い、新幹線で寝ていた際、すぐ後ろに座っていた宮迫博之が寝ていると思った次の瞬間、パッと起き上がって振り返り、宮迫に「(俺が寝ていたこと)絶対言うなや」と言った。自身の番組『明石家さんちゃんねる』(TBS系列)では、さんまがあまりにも寝顔を見せないため、「さんまの寝顔写真大募集」という企画が行われた。しかし、送られてきたのはたったの1通で、しかも13年前に1度だけ寝顔を撮られた写真のみであった。またタモリ曰く、さんまは寝付くのは異常に早く、ずっとしゃべり続けた後「じゃあ寝まっか」と言った次の瞬間には寝ていたらしい。すぐ寝られるのと同様、起きた瞬間からもう陽気であるという。本人曰く、「寝ないのではなく寝られない」という一種の病気であることを医者から診断されており、睡眠導入剤を使って無理やり寝ることもある。寝ないというイメージがついてしまったために新幹線で寝ているとがっかりされるとも語ることもある。娘のIMALUでさえも、「父の寝顔は見たことが無い。」と語る。

2008年7月放送の「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」で総合司会を務めた際には、26日19時から翌27日22時まで出演し続け、番組が終わった後には放送スタジオでの打ち上げで深夜1時までビートたけしと語り明かし、帰宅後も朝6時まで起きていたという。その時さんまは「次は35時間テレビができる」と思ったらしい。この番組で太平サブローに「こんな元気な53(歳)、(他の)アジア(の国)にはおらん!!」と言われた。

スポーツ

 巨人ファンである。

競馬

  • 2003年・2004年のJRAのイメージキャラクターを務めた。時々番組内で競馬について語り、フジテレビの競馬番組「うまッチ!」内に「さんま馬主プロジェクト」なる企画が登場。手始めに「マイネル」の冠号で知られるラフィアン・ターフマンクラブの岡田繁幸が、妻岡田美佐子名義で所有する競走馬馬名を付けて欲しいとの依頼を受け、「シャチョマンユウキ」と命名。喜劇映画の名作『社長漫遊記』にちなんでいるが、JRAの規定により9文字以下でなければならないため「ウ」が抜けた。後日、他の牝馬も「シアワセナンダッケ」と命名した。
  • 2004年の日本ダービーに岡田美佐子が所有するコスモバルクで勝負し惨敗。コスモバルクの枠が5枠(黄色)だったため、黄色のスーツに黄色のネクタイを着用。表彰式では勝利したキングカメハメハの手綱を取った安藤勝己に対して、トロフィー授与のプレゼンターを務めた。その際、レッドカーペットの上で土下座をした。
  • 同郷の杉本清大和高田市出身)とも親交があり、桜花賞天皇賞(春・秋)、日本ダービー宝塚記念菊花賞エリザベス女王杯ジャパンカップ有馬記念の前日には「サタうま!」で予想トークをする。また年末に「夢競馬」として1年間のGI振り返りトークする番組がある(両番組とも関西テレビ制作である)。姓が同じ『杉本』なので、杉本清をお父さんと呼ぶ事もある(杉本清が馬券を取ったときに『お父さんからお小遣いをもらった』など)。

親交関係

  • 同期の島田紳助とは、若手時代には営業に一緒に出演する機会が多く、私生活でもお互いの家に出入りする仲であった。多忙になった現在は2人で私生活で会うことはないが、テレビ局ではお互いに楽屋を訪れたり、酔っぱらった紳助が泣きながらさんまに電話をかけ会話をしている仲であるとのこと。
  • 中村勘九郎(現・中村勘三郎)の依頼で、NHK大河ドラマ『元禄繚乱』にゲスト出演する(遊郭の主人役)。その際、遊興にふける勘九郎扮する大石内蔵助に「嫁ハンには気を付けや」とアドリブを入れる(内蔵助の妻、りく役はさんまの元妻・大竹しのぶ)も、オンエアではカットされていた。
  • 自分の出た番組のビデオを後輩芸人に延々と見せる。ラサール石井が「なんとかなりませんかね?」と窮状を訴えていることをビートたけしに明かされ、さんまは苦笑していた。
  • 東西のお笑い芸人達が仕事抜きで開催するゴルフコンペにおいて、自分以外の者が優勝しても「真の優勝者はオレや」と豪語する。その理由も「(○番ホールでの)球筋がよかった」だの、「(○番ホールでの)スイングのキレがよかった」だのとピンポイントでの調子よさを強調するものである。なおこのコンペには、さんまを筆頭に、所ジョージ笑福亭鶴瓶関根勤などの面々が顔を揃えている。かつてはタモリビートたけしも参加していた。
  • 大竹しのぶと結婚していたころ、親交の深い人物(芸能人一般人問わず)を集めて自宅で餅つき大会を開催していた。

仕事

  • 一部の番組では自ら企画構成も行っている。その時の名義は本名の「杉本高文」としている。
  • 年末から翌年のお正月にかけてオーストラリアの別荘に滞在するため、クリスマス明けからお正月にかけて放送される番組は全て収録で行い、仕事納めは『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』である。
  • 近年のバラエティー番組に見られるテロップ演出について否定的な意見を述べており、自身の出演する番組では一部を除きテロップ演出を使用していない。特番などテロップ演出のある番組に出演する場合も、(他人の発言はともかく)自分の発言についてはテロップを一切被せないようにさせているため、他のバラエティ番組よりもテロップの使用量が控えめになる傾向がある。2010年4月現在では原則テロップ演出なし(『踊る!さんま御殿』、『恋のから騒ぎ』、『さんまのまんま』)、VTR部分のみテロップ演出を施しスタジオパートではテロップを使用しないパターン(『さんまのSUPERからくりTV』)、さんま以外の出演者の発言のみテロップを使用する「テロップ控えめ」パターン(『痛快!明石家電視台』)、さんま本人の意向に関係なく出演者全員にテロップを使用するパターン(『ホンマでっか!?TV』)の4種類に分かれる。
  • 関西ローカルで『痛快!明石家電視台』(大阪収録)、『ヤングタウン土曜日』(東京収録)の2本の番組にも出演しているが、これは「大阪の番組という初心を忘れないため」だと言われている。また本人は「女性問題で一時期干された時にラジオの若手スタッフだけがかばってくれ、そのスタッフがそのままテレビに異動したので(義理で)出ないとしゃあない」と発言した。
  • サタデーナイトショー』が打ち切られた1985年以降テレビ東京制作番組に、『さんまのナンでもダービー』が終了した1995年以降テレビ朝日制作番組に、またデビュー時からNHK制作番組には一部の例外を除きそれぞれ出演していない。また、自身もパーソナリティを務めたオールナイトニッポンの40周年特番『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』に参加しないのかという『ヤングタウン土曜日』での投稿には、「ニッポン放送と揉めて辞めているから」とコメントしている。
  • 日本テレビが「チャリティー番組」として放送している『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演をビートたけし笑福亭鶴瓶同様、基本的に辞退(拒否)している(例外として1度だけ、1995年に間寛平の24時間マラソンの応援として同番組に、スタジオではなく休憩所でわずかな時間、チアガールの扮装をしてという条件下で出演した)。同番組から出演依頼が来た際、さんまのノーギャラ出演の意向を制作者が拒否し出演辞退となった経緯がある<ref>『女性自身』2007/09/11 34P</ref>。
  • ゴールデンタイムでは不適切とされてきた「SEX」という言葉を「エッチ」と言い換えることで放送で発言しやすくし、一般の会話でも用いられるようになった<ref>2009年8月6日放送の『アメトーーク』にて本人が発言</ref>。
  • 年齢が30歳を越えた女優なら「大女優」じゃなくても「大女優」と呼び持ち上げることもある。
  • さんまのまんま』に若手女性タレントや若手女優が出演すると、泣かせてしまうことが多い。酒井法子山瀬まみ羽野晶紀西田ひかる星野真里などが泣かされた。また、別番組の『さんまのSUPERからくりTV』では小倉優子を泣かせた。
  • 数々の女性タレントを泣かせてきたが、さんまは「バラエティは戦場。出演したら素人玄人関係ない」というポリシーをもっており、泣かした人物の関係者が抗議しても「泣くんだったら(オレの番組に)出るな!」と反論している<ref>明石家さんちゃんねる堀内健の暴走に巻き込まれた女性ADが泣きだした事があったが、さんまはADに「バラエティで泣くな、アホ!」と叱った(2008年9月10日放送)。</ref>。この「バラエティは戦場」というさんまの発言に後輩であるダウンタウン松本人志は「バラエティは戦場ではないんですよね」と否定的な態度を取っている。
  • CM撮影に時間をかけないとして知られており、撮影現場に到着するやほぼ一発録りに近い撮影で短時間で現場を去る。
  • 遅刻魔として有名で、仕事の時は尚更寝坊する。目に余る遅刻のため電話をしても、返答するだけで電話ごと破壊して眠り続ける事もあったという(電話を壊したという記憶は欠落している)。「笑っていいとも」においても、寝坊の為に移動中の自動車内からの電話出演などが多々見られた(島田紳助は、「あいつはどんなに遅刻しそうでも絶対に走らへん!」と証言している)。
  • オフィス事務所主宰で定期的にコントライブを行っている。チケット代はさんまの「多くの人が来られる価格にする」という方針により安く設定されている。このため収支が赤字であるが、関係者からの「売れるから値上げしよう」との声を却下しており、村上ショージや松尾伴内の貴重な収入源であるため辞められないとしている。
  • 北野武松本人志ダウンタウン)など様々な芸人が映画監督を行っている中、自分も映画監督をしてみたいという気持ちを持っている。また、初映画監督作品の主演にはSMAP木村拓哉を起用する事も決定している。しかし、「木村拓哉の人気に肖って映画を作った」と思われるのが嫌な為今は行わず、木村拓哉の人気がなくなった時に映画監督をしようと考えている。この事は木村も了承している。

私生活

  • よく番組内で共演者が「さんまさんは普段からあの調子でベラベラしゃべっている」と言うことがあり、宮迫博之からは『痛快!明石家電視台』収録のための移動(新幹線)では、隣同士に座る共演者の松尾伴内と行き帰りの4時間以上ずっとしゃべり続けており、「他の乗客は疲れて寝たいサラリーマンの人達ばかりなのに、ずっと二人がしゃべり続けているから寝られなくて困っている」と言われている。常時しゃべっているため喉への負担が大きく、寝起き時はかすれた声しか出ない。
  • 滅多に体調を崩さない。そのため、37度の微熱でも当人にはとても辛く感じられるという。「風邪を引いたときはみかんを食べて太陽に向かって走れば治る」を持論としているが、東野幸治が実行し逆に悪化させてしまった際には、気持ちの問題で本当やったらダメとコメントしている。
  • 「日本のいいところは四季を味わえることや!」として、家では冷暖房を一切使わずに、夏は窓を開け冬はこたつを使用する生活をしている<ref>恋のから騒ぎにて発言</ref>。
  • 愛車はメルセデス・ベンツG55AMG long(新車価格1703万円)。しかし2008年27時間テレビにてビートたけしに外装をペンキだらけにされてしまった。過去にはレンジローバーにも乗っていたがこれもビートたけしに傷だらけにされてしまった。
  • ポリシーとして、愛車のガラスにスモークフィルムは一切貼らず、透明のままである。

家族

  • 実母とは死別している。また、1983年4月に弟が火事で焼死し、実父は2006年2月4日に死去。
  • 実父は、さんまが噺家(芸人・芸能人)になるのを反対していたようだが、さんまが売れた後、「カラオケスナック・さんま」を開店した。また、電話で本名の高文でなくさんまと呼ぶようになり、さんま本人はショックを受けたと述べた。
  • さんまは実家を出たあとまったく実家に帰っていなかった時期があり、父親はさんまに合うため吉本興業に電話してさんまの余興を依頼した。
  • 1989年9月、女優大竹しのぶと結婚、長女 いまるが誕生するが、1992年9月に離婚。
  • 子供には「お父さん」と呼ばせず「ボス」と呼ばせている。本人はその理由を、常々自分という人間は父親という器ではなく、昔から「ボス」と呼ばせるのが夢だったと語っている。但し、これには、さんまを「お父さん」と呼ぶことに抵抗があるかもしれない長男(大竹しのぶの連れ子)への気遣いもあると大竹が著書で語っている。
  • さんまによると、長女・いまるの名前も座右の銘「生きているだけで丸もうけ(きているだけでまるもうけ)」と「1=まる・2=ちか・3=さんま・4=のぶと並ぶようにした」から名付けたという。それに対して、大竹は「今を生きる(いまをいき)から名付けた」と言っている。TV等では名前が公表されているにもかかわらずさんまの番組などでは顔出ししたことが一切無かったが、2006年、大竹が出版した自叙伝の中で二人の顔が初めて公開された。『27時間テレビ』・今夜は眠れないのコーナーで、大竹や長男とともに電話出演が一度ある。その長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界デビュー。
  • 2006年7月23日放送の『おしゃれイズム夏の60分SP』によると、「老後に一人でいるのは嫌」という理由から再婚する気は満々らしい。また、番組中に長女が3歳の時に製作した父の日の初めてのプレゼントを紹介している。
  • 長女が出演する番組は、ダメ出しをしてしまいそうになるため一切見ない。<ref>『おしゃれイズム』(2010年4月18日放送)にて本人談。</ref>

ひょうきん族エピソード

  • 1981年ビートたけし島田紳助などとともにフジテレビ系のバラエティ番組オレたちひょうきん族』にレギュラー出演。
    • 人気の火種となったコーナー「THE タケちゃんマン」の敵役・ブラックデビルは、当初は高田純次が務めていたが、第2回収録前に高田がおたふく風邪で入院し、代役として急遽さんまが抜擢され好評を得、それ以後レギュラーになる。
    • 怪人アミダ婆。コシノジュンコデザインの服、桑田佳祐作詞作曲のアミダ婆の曲で登場。
    • 怪人ビックリ箱。ビックリ箱で人を驚かせる。感傷的なテーマソング曲の作詞作曲は松山千春
    • 怪人ナンデスカマン。万博に似せたテーマソングで登場。甲高い声で「ナンデスカー」と聞き返し相手に不快感を与える。
    • 青森県出身の妖怪人間「しっとるけ」。「ヒャーホホ」と叫び、民謡を歌う少年少女合唱団と共に登場。
    • 数々演じてきたキャラクターの中で「パーデンネン」だけは恥ずかしかったと語る。逆に一番好きだったキャラクターは「ブラックデビル」。一方、たけしがさんまのキャラで一番好きだったのは、「サラリーマン」である。このサラリーマンはスーツにネクタイ、メガネといったありきたりの風貌で「高卒、手取り18万」という境遇でタケちゃんマンに難癖をつけて絡むというキャラクターだったが、視聴者から「夢が無い」と苦情がきてわずが3週で消えてしまう。カルチャークラブのボーイ・ジョージにパーデンネンの格好を見られたとき"You crazy"と言われた。
    • 「パーデンネン」に扮装したさんまは、派手な服装や髪型で有名だった芳村真理から「さんまちゃん、派手ねー」と言われたことがある。芳村は当時フジテレビの歌番組『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会をしており、1985年に同番組の放送曜日が変更となってから、収録日が『ひょうきん族』と同じ水曜日になっていた。さんまは未だにこのエピソードが強烈に記憶に残っており、『夜ヒット』あるいは芳村真理と言えば真っ先にこのエピソードを紹介することが多い。また、芳村の代名詞ともなっていた「どうもー」という挨拶であるが、芳村本人が「どうもー」を言ったことは少なく、実際にはさんまが『ひょうきん族』などで芳村の物真似をしていた中で「どうもー」を連発していた。
    • 番組終了後、フジテレビの美術スタッフから歴代キャラクターのフィギュアを贈られている。
  • 出演当初は、春風亭小朝と即席漫才コンビを組んで出演したこともある。
  • 1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故では、事故機に搭乗する予定だったが、搭乗を1便早めたために事故に巻き込まれなかった。当時東京 - 大阪間の移動にいつも使っていたのが同便で、事故当日は『オレたちひょうきん族』の収録が中止となったために1本早い便に搭乗。その日は月曜日で、ラジオのレギュラー番組『MBSヤングタウン』の生放送があった。番組はほとんどが事故の報道となっていたが、途中でさんまが登場し、事故の報道以外は音楽を流すことをリスナーに告げ「もう今日はしゃあないやろ」とぼやき、その後はずっと音楽が流されていた。これ以降ショックでしばらく仕事が手につかず、これ以後東京-大阪間の移動手段を新幹線に変更した。
  • 1987年、『笑っていいとも!』のトークコーナーで、吉永小百合のファンであるタモリをいじるため、楽曲中に「鹿のふん」という吉永らしからぬ歌詞が出て来る「奈良の春日野」を発掘・放送、大きな話題を集めた。レコードは吉永の許諾の下 再発売され、フライデー襲撃事件でたけし不在となっていた『ひょうきん族』でもこの曲を流用。そこではさんまが着ぐるみを着て踊っていた。しかし、実際には「ひょうきん族」で取り上げられる以前に小堺一機関根勤がパーソナリティを務めていた「スーパーギャング・コサキン無理矢理100%」(TBSラジオ)で、いわゆる「コサキンソング」として紹介されていた他、幾つかのメディアでもこの曲が知られていたのだが、後に「ひょうきん族」での人気が一人歩きしていったというのが実情である。
  • 「ひょうきんニュース」のコーナーに出演する時は、本名の「杉本高文」を名乗っていた。
  • 「ひょうきんベストテン」の初代司会者。

笑っていいとも!エピソード

  • 1984年4月6日に『森田一義アワー 笑っていいとも!』の金曜日レギュラーとして登板。タモリと共に談話するタモリとさんまのトークコーナーは「テレフォンショッキング」及び「曜日対抗!いいとも選手権」に次ぐいいとも!の名物コーナーとして親しまれ、『笑っていいとも!』の歴代コーナーの中でも1位、2位の人気を誇る。またタモリ不在の場合は代理司会も務め、最多代理司会者として表彰された。1987年4月から1990年3月まで関根勤、片岡鶴太郎、所ジョージ、笑福亭鶴瓶らと共にタモリを支える曜日リーダー(通称:いいとも!ビッグ5)として親しまれる。やがてベテランの域となり自分の番組を持つようになったさんまは特大号に出なくなり、 1995年の4月からは遅刻する事が多くなった。
  • 1984年2月13日、斉藤慶子の紹介でテレフォンショッキングに出演。1991年10月3日には10周年記念週間として最多代理司会として出演。1997年12月11日には大竹しのぶが「お友達を紹介してほしい」と言われた際、「友達じゃなくてもいいですか」と前置きした上で元夫・さんまを紹介し、さんまからも「友達ちゃうやろ!」と指摘され苦笑しつつ電話をする。これ以降、いいともでのさんまの出演はなかったが、しかし2008年7月27日のFNSの日の「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」において実に11年ぶりにテレフォンショッキングに出演した。2009年7月24日の放送ではレギュラー放送としては12年ぶりに登場し、通常より20分ほど長い12時47分ごろまで喋り続けてしまった。
  • タモリとさんまのトークコーナーのタイトルは以下の通り。(①、⑮、⑯のOPのジングルは同じで、最も馴染みのある曲である。)
  1. タモリ・さんまの雑談コーナー(1984年4月~)
  2. タモリ・さんまの日本一の最低男⇒タモリ・さんまの日本一のサイテー男(85~87年頃まで)
  3. さんま・タモリの喋っちゃいまホー
  4. さんま・タモリの笑いごっちゃおまへんで
  5. 続・笑いごっちゃおまへんで
  6. さんま・タモリのおいしいんだかだぁ~!!
  7. タモリ・さんまのんなアホな!
  8. タモリ・さんまのなんちゅうこというの!(90年夏頃は確実にこのタイトル 初期は『タモリ・さんま・山瀬の-』というタイトル)
  9. タモリ・さんまの2000回~3000回にむかって
  10. タモリ・さんまのどっちもどっち
  11. タモリ・さんまの狼がきたぞ~!(91年夏頃は確実にこのタイトル)
  12. タモリ・さんまの日本一のホラ吹き野郎!(92年春~秋)
  13. タモリ・さんまの何はともあれ(92年秋~93年春)
  14. タモリ・さんまの何でもしゃべれる!!(93年春~秋)
  15. タモリ・さんまのもう大人なんだから(93年秋~94年春)
  16. タモリ・さんまのもう大人なんだからネ(94年春~秋)
  17. タモリ・さんまのもっとしゃべらせてよ!!(94年秋~95年春)
  18. タモリ・さんまのもっともっとしゃべらせてよ!!(95年春~1995年9月)
  • 「タモリンピック」終了した1993年10月からその時間にミニコーナーがあったが、これはさんまが先輩から「(ウケ狙いで)コケろ!」「(色物が)真剣にやってどうする」と伝統的に言われてきたさんまと「真剣勝負でやって欲しい」とのスタッフとの対立から生まれた暫定処置であった。その後、降板した翌週に「曜日対抗いいとも!選手権」が誕生し、本人は「人気あったのねタモリンピック・・・」と自虐的に語っている。

来歴・エピソード

若年時代

  • さんまの出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時捕まえたムササビが展示されている。また当時「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。2009年7月24日放送の『笑っていいとも!』の『テレフォンショッキング』では、この話題だけで20分程度を費やした。
  • 中学校時代、家庭教師から英単語を覚えるように言われて「そんなもの覚えたって何の役にも立たへんわ。僕はアメリカ人になるつもりはない」と反論した(1987年8月29日放送のクイズダービーでも出題されたエピソード)。
  • 奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。さんま曰く、「ほとんど経験ゼロで出場し、突進してくる対戦相手が怖くて土俵上で逃げ回っていたら、相手が勝手に自滅し、気づいた時には決勝戦だった。」
  • 高校時代に運動会の徒競走でスタートと共に後ろへ逆走した。その結果、運動会は一時中断し、さんま含む8人の悪ふざけグループは正座させられ、教師に竹の旗で頭を叩かれる。ある一人に対しての音が「ポコン」だった為、さんまは笑いをこらえ下を向いていた。その様子を教師が見て、さんまが泣いているものと勘違いしたが、さんまは吹き出してしまった。それを見た教師はさんまを追いかけ腕を掴んで怒られた。
  • さんまは中学、高校の頃はアメリカの女子水泳選手:シャーリー・ババショフのファンであったことを、1997年頃の自分の番組『さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル』(TBS)の中で語っていた。その縁でババショフがさんまの番組にVTRで出演してくれたことがある。
  • 小学生時代は肥満であった。
  • 少年期の頃はプロレスラー志望で体を大きくしたいために「毎日肉が食べたい」と懇願する。

内弟子時代

  • 1974年2月、高校3年の時に2代目笑福亭松之助に弟子入り。下積み時代は兵庫県西宮市甲子園に在住。当初の芸名は「笑福亭さんま」。入門の動機は花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったから。初めて顔を合わせた際、松之助に入門の理由を問われたさんまは「センスがある」と、さんまとしては素直な気持ちを伝えただけだったが、それに対し松之助は「おおきに」と礼を言った。入門生活は、丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったという。この時に春風亭小朝と出会っている。

関西ローカル時代

  • 18才当時、ラジオのDJをやっていた白川和子によくご飯をねだっていた。<ref>さんま&くりぃむの第5回芸能界(秘)個人情報グランプリ (2010年4月16日、フジテレビ系) にて本人談。</ref>
  • 初舞台は、京都花月。古典落語で10日間ほど出演した。当時若手タレントのマネジャー的存在だった佐敷愼次は、さんまに「ミラーボール」というあだ名をつけ、その才能に注目。松之助に「さんまを落語ではなくタレントとして立たせたい」と直訴した。<ref>1998年3月12日大阪読売新聞「[上方放送お笑い史](111)しゃべりの天才 さんま時代」</ref>
  • 1975年、『11PM』(日本テレビ系)でテレビデビューを果たす。「落語家の成人式」というテーマだったが、さんまは師匠・松之助の忠告により営業用の赤いブレザーを着用。また番組内で、女性漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(現在の上沼恵美子)から、「SEXの四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問に対し、「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」とCM中に叱責される。しかし、横山やすしには「気に入った!飲みに行こ!」と気に入られ、その後やすしの家に招待された。また、この放送を見ていた松之助は、この件を大いに絶賛している。
  • 兄弟子に当たる五所の家小禄と漫才コンビを組んでいたことがある(コンビ名はアトム・スリムで芸名はスリム。その当時のVTRは現在もよみうりテレビお笑いネットワーク)に残されている)。好評を博し、吉本興業の社員はコンビで売り出そうとしていたが、さんまのピンでいきたいという意思は固く自然解散となった<ref>1996年9月28日放送の『MBSヤングタウン土曜日』にて本人が発言</ref>。
  • 1976年に毎日放送(MBSテレビ)の人気番組『ヤングおー!おー!』に出演。形態模写の芸が司会の桂三枝の目に留まり、レギュラー出演を果たす。「チャッピー」と名付けられ、司会の桂三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。番組内ユニット「ザ・パンダ」(先代林家小染月亭八方桂きん枝桂文珍)を改編してさんまをメインにした「さんまアンド大阪スペシャル」(SOS)を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになる(当時のキャッチフレーズ「おれは大阪のさんまや!」)。その後、プロ野球阪神タイガース小林繁投手の投球フォームを形態模写して評判になり、関西を中心にアイドル的な人気を勝ち取る。そして、1980年より、10年余りにわたる同番組司会を卒業することとなった三枝からの指名によって後継司会者の座に付き、番組終了時まで2年9ヶ月にわたり晩期の同番組の大黒柱として活躍した。
  • 駆け出しの頃は、よく同期の島田紳助と二人で遊園地などに営業に行っていた。この他、同期にはオール巨人桂小枝らがいる。また中川一美と一緒に新喜劇の舞台で共演していた事がある。
  • 1979年関西テレビで午後7時から放送された番組『誰がカバやねんロックンロールショー』の司会を担当。同名のバンドや、紳助・竜介らと共演し、関西の若者を中心に人気を呼んだ。
  • 1979年、シングル「Mr.アンダースロー」で歌手デビュー。大阪ガスのCM曲だったこのシングルは、オリコンの大阪チャートで1位を獲得した。キャッチコピーは「頼れるエースはアンダースロー」。「CMが放映されブレイクしていた時に、番組内で『燃料といえば?』と振られたので、あえて『練炭』と答え、ガスのCMから降ろされてしまった」と本人はネタにしている。
  • また、『花王名人劇場』(関西テレビ制作 フジテレビ系)の『裸の大将放浪記』で、和菓子屋ぎおん堂の番頭としてゲスト出演。
  • 営業の余興で島田紳助の手足を縛り上げプールに落とし脱出するという脱出劇をするが、水没する紳助が見たのは両手を叩いて大笑いしているさんまの顔だった。

1980年代前半

  • 20代の頃は、芸能人オールスター運動会で、田原俊彦など当時人気絶頂のアイドル相手に空気を読まずにリレーで先着したことがある。番組関係者からこってり怒られたとも言われる。
  • 笑っていいとも!ではタモリと共に佐賀県をこき下ろした発言を繰り返した。また、別番組ではサガテレビ内田信子アナウンサー(当時)を必要以上にからかうなど、佐賀と言うだけで必要以上に侮蔑したりする態度を見せていた。

1980年代後半

  • 1985年サザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』のテレビCMに出演した。その時のギャラはCDウォークマン(当時の価格としては5万円相当と推測される)だけだったという話を多くのレギュラー番組で吹聴したが、実際のところは判然としていない(桑田佳祐はサザンの20周年特番内で本当だったとコメントしている。ただし、桑田もこの手の冗談が大好きなので真偽は不明である)。
  • 1985年、第1回東京国際映画祭においてタモリとともに司会者をつとめる。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「ソフィー・マルソー知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。当時のレギュラーだった金曜日・笑っていいとも!でトークのネタにする。タモリといっしょに「始末か!オレたちは!」と叫び、挙手をしながら「私がやりました!」と言った。
  • 1985年8月12日、前述のとおり、日本航空123便墜落事故を逃れる。
  • 1989年10月6日放送のさんまのまんまにゲストで梓みちよが出た際、さんまが言った一言が梓の気に障ったようで、自分が飲んでいたシャンパンをさんま目掛けて2度もかけた。それが週刊誌で騒がれ、後日お詫びとして梓から高いブレスレット(値段は不明)がさんまに送られてきたとさんま本人が語っている。
  • 1987年ナムコファミリーコンピュータ用ソフト『さんまの名探偵』を発売する。

1990年代前半

  • この頃には『オレたちひょうきん族』も終わり、またダウンタウンウッチャンナンチャンなどの人気が急上昇してタレントとしては陰りが見え始めてきた<ref>1990年10月13日毎日新聞夕刊「「テレビタレントイメージ」さんまが15位と低迷 ダブル浅野は1、2位」</ref>。さんま自身も全国放送のゴールデンタイムのレギュラーがなくなったことで「さんま限界説」が業界内で囁かれた。
  • この時期、関西で、痛快!明石家電視台毎日放送)が関西地方で開始された。既に活動拠点を東京に移していたさんまが、突然関西ローカルの番組を持つ事については様々な憶測が飛んだ。番組開始した頃は、さんまがレギュラー出演していた『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列)の打ち切りなどの影響で、「さんまがつまらなくなった」「さんま賞味期限切れ」とテレビ業界で囁かれ、さんまの人気が下降気味であった事から、大阪の番組という初心を忘れないため、また救済の意味合いも込めて所属の吉本興業の口添えで始められたものと言われている。収録前に、さんま、村上ショージ、間寛平の3人でゴルフに行ってからスタジオ入りしていると語っている。 なお、この番組が関西での唯一のレギュラー番組となっている(2009年2月現在)。
  • この頃、東西の芸人(芸能人・タレントよりも狭義)でのゴルフコンペ「素人名人会」が行われており、さんまも常連参加者であった。ある回で第1打を打とうとしたところ、自慢のドライバーのヘッドが何故か折れていて、シャフトだけを振りかぶっていた(同組の上岡龍太郎から「さんまくん、今日は釣りか」とツッコまれて気が付く)。錚々たるメンバーの揃った会でありながら、その中でも最も目立つ事をしてしまい、参加メンバーの番組で軒並み語られる事になった。
  • 卓球福原愛が幼少時、『明石家さんまのスポーツするぞ!大放送』に出演した時、さんまとの試合で敗北した際、福原が失敗するとさんまは大人気ない行為を行ったり、自分が成功すると大はしゃぎで喜んでいた為、番組中に泣かせた事がある。福原の主張によればこれはさんまがルール違反のサーブをした為で、それを今でも認めないさんまとは対立関係が続いている。

1990年代後半

  • 1995年MBSヤングタウン土曜日1月14日放送分のエンディングにて、放送区域である関西地区の聴取者に向けて、地震の際の心構えと対処の方法を講義した。これは当時さんまが関東で頻繁に地震に遭遇していた事を受けてのものだったが、この3日後には阪神・淡路大震災が発生しており、先んじて注意を促す結果となった。
  • 1995年9月29日、11年半レギュラーだったフジテレビ「笑っていいとも!」のレギュラーを突然卒業。突然の人気レギュラー出演者の降板について、出演末期の1993年、1994年の同番組のスペシャルに出演していなかったため、当時週刊誌ではスタッフとの確執説がささかやれた。村上ショージが1997年に前述するさんまの紹介で出演して、いまいち手ごたえのなかったことを、後日さんまと共演しているヤングタウンのラジオでつつかれていたが、放送を見ていたさんまが最終的には「ショージ、悲観することない」と言った後「今のいいとも(1997年当時)全曜日おもろない」と、いいとも全般を批判した。いいとも降板の真相はヤングタウンや、FM-TOKYOでやっていたG1グルーパー等のラジオで語られている。
  • 1996年、フジテレビの人気刑事ドラマ『古畑任三郎』に犯人役でゲスト出演。やり手の弁護士・小清水潔を熱演する。当初は売れないロックシンガーの役の予定だったが、プロットを聞いたさんまは脚本家三谷幸喜に対して軽い気持ちで「弁護士と古畑が闘うってのはおもしろいんじゃない?」と提案。すると自らも法廷物が好きな三谷は快諾し脚本を書くが、余りにもセリフが多くなりそれを覚えられないさんまに対し、主演の田村正和が撮影中に「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。さんまは撮影後、「法廷物はもう嫌だ」と漏らしたと言われているが、後にゲスト出演したイチローもさんまが出演した回が好きだと語っている。
  • 1999年、「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。

2000年代前半

2000年
  • 7月7日、TBSスーパーフライデー枠で、関西ローカルの『痛快!明石家電視台』が『明石家さんま生誕45年記念番組・大成功!明石家電視台』として一度だけ全国放送された。
2001年
  • FNSオールスターズ27時間笑いの夢列島』では、当時放送していたバラエティー番組『明石家マンション物語』で演じていた「横山3兄弟」というキャラクターに扮して、27時間テレビ内のコーナー『クイズ$ミリオネア』に出演し、9問連続正解するも100万円の問題(10問目)で不正解となる。また、解答中にライフラインとして前妻である大竹しのぶに生電話をかけた。(翌年も「さんま・中居の今夜も眠れない」で大竹に生電話。子供である長男や長女の声も電波に乗った)。
  • すぽると!』(フジテレビ系)が『感動ファクトリー・すぽると!』だった時代、「工場長」をつとめており、土曜日の放送に不定期に作業服姿で出演していた。
2002年
  • 阪神タイガース監督に親交のある星野仙一が就任した際「優勝したらパレードに参加して土下座します」と明言したが、その翌年の2003年に優勝。巨人ファンであるさんまだが、約束通り11月3日のパレードに参加する予定だった。ところが星野監督が辞意を表明していたため、「自分がおふざけで行くわけにはいかない」と参加を辞退した(春のキャンプを訪れた際に星野からさんま用ユニフォームが用意されていたが、ユニフォーム背番号は800番であった。星野監督が選んだもので、理由は「嘘八百」から来ている)。またこの当日、さんま司会の優勝特別番組が朝日放送系列で全国放送され、星野監督他、主力選手達がゲスト出演した。この特番の関西地区での視聴率は33.4%と高かった。
  • ドラマ空から降る一億の星』でダブル主演を務めた木村拓哉と交友を深めたのがキッカケで、2003年1月3日に放送された『さんタク』をすることになったと言われている。2003年以降、毎年、お正月に放送されており、2005年には、ついに元日に放送された。この『さんタク』を始めたことにより、SMAP中居正広さんま・中居の今夜も眠れない』と木村拓哉さんタク』それぞれと番組を持ったことになる。
  • 2002 FIFAワールドカップの準決勝、韓国ドイツ戦の中継が日本テレビ系列にて放送された際、韓国への渡航を拒否し、ドイツ代表のユニフォームを着用して、日本のスタジオで司会進行を務めた。これについて韓国サイドからは批判の声があがった。さんまは後に「ドイツ代表が好きだから、ユニホームを着てただけなのに」と語っている。
2004年
  • さんまのSUPERからくりTV』で打倒・松岡修造を目標に「からくりテニス同好会」を結成するが、メンバーの上達の遅さに苦労した。初対戦となった2003年末SPでは最後はお見合い状態で敗れ雪辱を架けて挑んだリベンジ戦の第2戦(舞台は有明コロシアム)でも最後は浅田美代子のフォルトで敗れ、返り討ちにあってしまった。
  • 2004年3月26日放送の『さんまのまんま』にやしきたかじんと共演(1990年代にも一度たかじんは同番組に出演していた。また、1995年1月15日にはさんまも『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』にゲスト出演した)。この時は、たかじんの司会におけるスタイル(パネル芸など)に対して、駄目出しを連発した。
  • 韓国ドラマ『冬のソナタ』の主演俳優であるペ・ヨンジュンが「ヨン様」と呼ばれて大人気となったことを受け、彼の髪型に似せたかつらを被り微笑を見せ、自らを「サン様」と称して笑いを取ることもある。この「サン様」は、日本テレビ系『恋のから騒ぎ』の「さんま 愛の説教部屋」のコーナーで、「ヨン様」のコスプレをしたことがきっかけで誕生。また2004年7月24日 - 25日に放送されたフジテレビ系『FNS27時間テレビ』内で、SMAP中居正広と共演した『さんま・中居の今夜は眠れない』の中では、ヨン様についての話題になった際、ヨン様スマイルの真似をして自ら「似てる!」「俺の差し歯とヨン様の差し歯は同じメーカーや!」などと豪語、笑いを誘った。さらに、フジテレビ系『さんま・玉緒・美代子のいきあたりばったり珍道中inドイツ』でもオーケストラの演奏を聴くシーンで登場。
  • この年の「彦八まつり」にこの年の実行委員長・笑福亭鶴瓶の要請に応える形で出演。混乱を避けるため、出演日は公表されなかった。当日落語を披露するという情報も手伝って、来場者が2日間で例年の2倍である10万人を超え、過去最多記録を更新した(着物姿で「大喜利ガバチョ!」に出演したものの、落語は口演しなかった)。
2005年

2000年代後半

2006年
  • さんま・福澤のホンマでっか!?ニュース』(2006年9月15日放送)で、前回(同年4月28日放送)の罰ゲームで安倍晋三(2006年4月の時点では官房長官)を焼肉店へ連れて行くという約束をし、日付まで決まっていたが、その日に北朝鮮がテポドンを発射したためそれどころではなくなってしまったというエピソードを披露した。
  • 所萬遊記で、所ジョージがさんまがかねてから熱望していた「コカ・コーラ」のCM出演について語り、本人は「スカッと爽やかな」イメージをしていたが、実際のCMは「コッカ・コーラを飲もーうよ」とお笑いテイストたっぷりであったことにショックを受けていたというエピソードを披露した。
  • 石原真理子著『ふぞろいな秘密』で過去に男女関係にあったことを暴露される。
2007年
2008年
2009年
  • 娘のIMALUがデビュー。当初は猛反対しており、反対を押し切ってのデビューであった。「芸人の嫁には、絶対させん」と言い切っており、芸人側も「明石家さんまがついてくる」と交際は厳禁するように言われている。めちゃイケでIMALUと共演したことを岡村隆史が報告した所、「ええけど……分かってんやろな……何かあったら殺すかんな」と言った。
  • 陣内智則が離婚後島田紳助に報告のメールをしたところ、涙を流して感動するほどのアドバイスが返信された。続いてさんまにもアドバイスをもらおうとメールをしたが、即座に「そんな事より、俺オモロい?」と返信されたという。陣内は「オモンないわ!」と返した<ref>痛快!明石家電視台(2009年10月29日放送)</ref>。

2010年代前半

2010年

持ちギャグ

他人がテレビで発した思いがけない一言を、さんまが持ちギャグにしてしまうことが多い。

評価

  • NHKが1975年から2003年にかけて毎年実施していた好きなタレント調査では、1985年に男性1位に選ばれてからは、2003年に調査終了するまでの19回のうち通算12回で男性1位を獲得、それ以外は全て男性2位となっている<ref>Template:Cite web</ref>。
  • 日経エンタテインメント!の「好きな芸人」ランキングでは9年連続1位を獲得。しかし、2008年には「嫌いな芸人」ランキングの2位に浮上した。
  • 1999年に「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。
  • ビートたけしが著書『コマネチ!』の中で「こいつには負けた、と思った数少ない中の1人」とさんまのことを評した。また『SMAP×SMAP』(フジテレビ系列)2009年10月19日放送回においても「ひょうきん族の時に『さんまには勝てない』と思った」との発言をしている。さらに、『たけし・さんまの有名人の集まる店5』(フジテレビ系列)では、さんま本人の前で「日本のテレビ文化が生んだ天才」と絶賛した(ただし、泥酔状態だった為、真意かどうかは不明)。
  • 島田紳助が初めてさんまを見たときの印象は「24時間明るい」「こんな華のある奴は見たことない」。そして「俺と肩を張れる奴はこいつしかおらん」「自分が(自分と同期の芸人の中で)もし負けるとしたらさんまとオール巨人だけ」と当時を振り返っている(紳助には「コンビ組まないか」と誘われたことがあるが、「解散がイヤだから」と断っている。そして自分のかわりとして紳助に紹介したのが松本竜介であり、その結果紳助・竜介が誕生することになる)。
  • また紳助とは親友同士であり、以前紳助が司会を勤めていた「紳助のMTV倶楽部」(テレビ朝日)にさんまがゲスト出演した際、「お互い知りすぎていて、何を喋ったらいいのかわからないので、(二人のトーク番組は)非常に困る」と番組冒頭で話していた。しかし、お互い多忙のため電話やメールのやり取りがほとんどで1982年にオール巨人と3人でお好み焼き屋に行って以来、一緒に食事をしていないという。
  • さんまの落語については、島田紳助は自身の番組で「一度見たことがあるがつまらなかった」と語り、春風亭小朝は「あれだけの話術を持っている人なのに、驚くぐらい面白くない」と評していた(小朝とは『THE MANZAI』で漫才をしたことがある)。生前の古今亭志ん朝にも「どこが面白いのかさっぱり分からない」と真顔で評価され、これにはさんまも返す言葉がなかったとか。ただし「枕は面白い噺家」との評価がある。従兄弟子の笑福亭鶴瓶は過去出演のラジオで、枕のみオンエアした。鶴瓶は現在でもさんまを落語界に引き戻そうと画策中である。
  • 落語自体や最近の落語ブームに関しては一切コメントしていない。これは以前「オレは落語を辞めたから」と落語界から距離を置いているからである。さんまのまんま2代目林家木久蔵に「落語を教えて下さい」と言われ「もうしていないからな」と答えていた。
  • 漫才に関しては「間とか抑揚や言葉の使い方、かぶせ方が重要だ」とアマチュアの小学生に話していた(2008年27時間テレビにて)。
  • 上岡龍太郎は「素人相手にしゃべったらさんま、芸能人相手なら紳助」と評している。
  • お笑い評論家・西条昇を始め、戦前から戦後にかけてお笑い界トップスターとして活躍した柳家金語楼と、現在のさんまの共通点を指摘する論者は少なくない<ref>西条昇・著『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』白泉社、2003年の「柳家金語楼」の項参照</ref>。
    1. どちらも落語家を出発点とし、落語家の枠を超えたスーパースターになった。金語楼は大正末に『兵隊落語』で一世を風靡、その後は映画や軽演劇にも進出した後、1942年に落語家の鑑札を返上、喜劇俳優に専念する。戦後は『おトラさん』『ジェスチャー』などでテレビタレントとして人気を博した。さんまは笑福亭松之助門下の落語家として出発するが、現在はテレビタレント・司会者・俳優として大活躍である。
    2. どちらも吉本興業のトップスターである。現在のさんまが吉本のトップスターであり、その年収もトップクラスであることは言うまでも無いが、金語楼も戦前は東京吉本に所属しており、横山エンタツ花菱アチャコ柳家三亀松川田義雄と共に吉本の五大スターと称されていた。そして戦前の吉本で最も高給を取っていたのが金語楼であった。
    3. どちらもお笑い界ビッグ3の1人。金語楼は喜劇俳優の榎本健一古川ロッパと共にビッグ3と言われた。さんまもビートたけしタモリと共にビック3と称される。
    4. どちらも息の長い芸人である。金語楼は大正末の『兵隊落語』以降、長い人気を博し、戦後は失速していった榎本健一古川ロッパを尻目にテレビ時代の波にも乗り、晩年まで第一線で活躍した。さんまも1981年の『オレたちひょうきん族』で全国規模の人気者になって以来、近年の若手お笑いブームもものともせず、長期に亘ってお笑い界トップの座に君臨し続けている。

受賞歴

  • 第10回(1982年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) ホープ賞
  • 第11回(1983年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 奨励賞
  • 第13回(1985年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 優秀賞
  • 第14回(1986年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 特別賞
  • 第15回(1987年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 大賞
  • 第2回(1982年度)花王名人大賞花王名人劇場) 新人賞
  • 第5回(1985年度)花王名人大賞(花王名人劇場) 大衆賞
  • 第23回(1985年度)ゴールデン・アロー賞 芸能賞

現在の出演番組

レギュラー番組

単発・不定期番組

ラジオ番組

過去の出演番組

日本テレビ系列

特記のないものは日本テレビ

TBS系列

特記のないものはTBS製作

フジテレビ系列

特記のないものはフジテレビ製作

テレビ朝日系列

特記のないものはテレビ朝日製作

テレビ東京系列

衛星放送系列

テレビドラマ

  • 母の償い「第1話」(1978年、TBS)※ドラマ初出演
  • 大喜劇!忠臣蔵(1980年1月1日、MBS)
  • 恋のかけら-大阪物語-(1980年3月9日、KTV)
  • ゆるしません!「第1・2話」(1980年10月2・7日、KTV)- 吉田(刑事) 役
  • 天皇の料理番(1980年10月19日~1982年3月22日、TBS)- 平野(山本)辰吉 役
  • ひまわりの歌「第15話」(1981年、TBS)
  • 五辮の椿(1981年4月2日、YTV、木曜ゴールデンドラマ
  • 裸の大将放浪記・第5作(1981年5月3日、KTV、花王名人劇場
  • シャネルズ・さんまの笑タイム(1982年9月5日、日曜お楽しみ劇場)
  • どきどき婦警さん1(1983年9月26日、フジテレビ、月曜ドラマランド
  • 新・女捜査官 「第7話 刑事の初恋は夫殺しの美女! 」(1983年、ABC)
  • のんき君1(1983年12月12日、フジテレビ、月曜ドラマランド)主演
    • のんき君2(1984年4月9日)
    • のんき君3(1984年10月4日)
  • やすきよの御用だ!まかせなさい(1984年1月4日、ABC)
  • 風の中のあいつ(1984年5月12日~9月29日、NTV、【共演:渡辺徹榊原郁恵】) 
  • 離婚テキレイ期(1984年10月9日~12月25日、TBS)
  • 心はロンリー気持ちは「…」シリーズ(1984年 - 2003年、フジテレビ系、【演出:三宅恵介、脚本:君塚良一で1984年から続く2時間ドラマ仕立てのコントシリーズ】)主演
    • 心はロンリー気持ちは「…」1(1984年12月17日、月曜ドラマランド)主演
    • 心はロンリー気持ちは「…」2(1985年7月15日、月曜ドラマランド) - 主演・順平 役
    • 心はロンリー気持ちは「…」3(1986年2月21日、金曜おもしろバラエティ)
    • 心はロンリー気持ちは「…」4(1986年9月26日、木曜ドラマストリート
    • 心はロンリー気持ちは「…」5(1987年3月20日、木曜ドラマストリート)
    • 心はロンリー気持ちは「…」6(1987年10月2日、ザ・ドラマチックナイト
    • 心はロンリー気持ちは「…」7(1988年5月13日、男と女のミステリー
    • 心はロンリー気持ちは「…」8(1989年3月3日、男と女のミステリー)
    • 心はロンリー気持ちは「…」9(1989年11月24日、男と女のミステリー)
    • 心はロンリー気持ちは「…」10 南の国から'97 (1997年8月29日、金曜エンタテイメント
    • 心はロンリー気持ちは「…」11 京都湯けむり旅情 OLグルメ三人旅 謎の密室殺人事件!(2003年、金曜エンタテイメント) - 証券会社をリストラされた功二 役
  • 澪つくし(1985年4月1日~10月5日、NHK、NHK朝の連続テレビ小説、【主演:沢口靖子】)- ラッパの弥太郎 役
  • 花の女子校 聖カトレア学園(1985年4月10日~10月2日、TX)
  • 気になるあいつ (1985年8月3日~12月28日、NTV、【共演:渡辺徹・榊原郁恵】)
  • 好色一代男 世之介の愛して愛して物語(1986年1月1日、TBS) - 世之介 役
  • 春風一番!(1986年1月11日~3月29日、NTV)
  • 男女7人夏物語(1986年7月25日~9月26日、TBS、【共演:大竹しのぶ(後に妻となり離婚する)】)- 主演・今井良介 役
    • 男女7人夏物語 評判編 生放送だよ!さんちゃん・しーちゃんのなんでもトーク(1987年4月3日)
    • 男女7人秋物語(1987年10月9日~12月18日)
    • 男女7人秋物語 評判編 さんちゃんしーちゃんなんでもトーク!7人再会!!(1988年4月4日)
  • アナウンサーぷっつん物語(1987年、CX)
    • アナウンサーぷっつん物語スペシャル(1987年10月1日、CX)
  • さんまの花ムコ見習い試験(1987年4月1日、TBS、水曜ドラマスペシャル)
  • オバの魔法使い(1987年8月10日、CX、ライオンスペシャル、夏休み妖怪バラエティ) - オバの魔法使い
  • 善化者~さんまのホンじゃたのンます~(1988年1月1日、CX、新春スペシャル、※3話オムニバス形式)
  • 子連れ家政婦アッコさん(1988年3月25日、CX)
  • 明石第三小隊物語・男の約束(1988年4月2日、CX、春のひょうきんスペシャル)
  • 明石家さんま殺人事件(1989年9月29日、CX、男と女のミステリー)- 明石家さんま(本人)役
  • 特別企画 さんまの「おれは裸だ」(1988年10月10日、YTV、木曜ゴールデンドラマ) - 大和菊夫(画廊の営業マン)役
  • 風よ、鈴鹿へ(1988年11月5日、TBS、【原作:島田紳助】)※友情出演
  • さんまのほんじゃたのんます(1988年11月25日、CX)
  • ナオコ、さんまの結婚式ララバイ(1989年5月23日、ABC、火曜スーパーワイド
  • 世にも奇妙な物語(1991年 - 、CX)
    • 91'春の特別編 「偶然やろ?」(1991年、【原案も担当】)
    • 「スローモーション」(1992年)
  • ずっとあなたが好きだった「第5話」(1992年、TBS)
  • ふんだりけったり(1992年4月16日、YTVドラマシティ'92)主演
  • ユーミン・ドラマブックス「ノーサイド」(1992年10月11日、TBS、秋のドラマスペシャル)
  • 天下を獲った男・豊臣秀吉(1993年1月1日、TBS、新春大型時代劇スペシャル)
  • 極道落ちこぼれシリーズ(1993年 - 1994年、TBS、春のドラマスペシャル、【W主演:柳葉敏郎】)- 主演・高柳喜八 役
    • 極道落ちこぼれ1 カタギになりたい!(1993年4月3日)
    • 極道落ちこぼれ2 駆けおちしました!?(1994年4月8日)
  • 恋も2度目なら(1995年1月11日~3月15日、NTV、【共演:葉月里緒奈佐藤浩市】)- 主演・三上耕介 役
    • 恋も2度目ならスペシャル  あのバツイチコンビ復活!(1995年10月11日)
  • 古畑任三郎 第2シーズン「第1話 しゃべりすぎた男」(1996年1月10日、CX、【主演:田村正和】) - 犯人・小清水潔 役
  • その気になるまで(1996年4月7日~6月30日、TBS、東芝日曜劇場、【共演:赤井英和】)- 主演・田口 賢一 役
  • 恋のバカンス(1997年1月8日~3月12日、NTV、【共演:鈴木杏樹】)- 主演・黛勘九郎 役
  • ガラスの靴 a Cinderella Story(1997年、NTV)
  • 星に願いを(1998年4月1日、NTV、明石家さんまドラマSP) - ゼネコン会社の営業副部長・龍太 役
  • 元禄繚乱「第13話 誘拐」(1999年、NHK、NHK大河ドラマ) - 笹屋の主人・清右衛門 役
  • 世界で一番パパが好き(1998年7月8日~9月23日、CX、【共演:広末涼子】)- 主演・岡田善三 役
  • 甘い生活。(1999年7月7日~9月22日、NTV、【共演:内田有紀】)- 主演・鵜飼力丸 役
  • 七人ぐらいの兵士 全4回(2000年、NTV) - 主演・水嶋兵吉
  • 真夏のクリスマス「限りある命の恋人に、さんまが贈る最後のクリスマスプレゼント」(2000年10月9日、TBS、ドラマ特別企画、【共演:浅野ゆう子】) - 長谷川大吉(姫路出身) 役
  • 空から降る一億の星(2002年4月15日~6月24日、CX、【W主演:木村拓哉】)- 主演・堂島完三 役
  • いつもふたりで 「第11話(最終話) ファースト・キス」(2003年3月17日、CX)※友情出演
  • さとうきび畑の唄(2003年9月28日、TBS系、太平洋戦争末期の沖縄戦を舞台にした反戦ドラマ、※2003年度芸術祭大賞受賞作品)- 主演・平山幸一 役
  • THE WAVE!(2005年7月23日・24日、CX、フジテレビFNS25時間テレビドラマ、【W主演:内村光良】)主演
  • 和田アキ子殺人事件(2007年2月12日、TBS系、月曜ゴールデン)- 明石家さんま(本人)役
  • ハタチの恋人(2007年10月14日~12月16日、TBS、日曜劇場、【W主演:長澤まさみ】)- 主演・井上圭祐 役

ラジオ

映画

CM

舞台

ゲームソフト

代表曲

豪華な作家陣を揃えた楽曲が数多い。また、1986 - 1988年に発売した曲が多いが、これらの多くはさんまが主演の単発ギャグドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』の主題歌として作られた曲である。

関連人物

脚注

Template:脚注ヘルプ Template:Reflist

Template:明石家さんま Template:FNSの日 Template:日本放送演芸大賞 Template:平成教育委員会シリーズ Template:ビッグ3 (日本のお笑いタレント)Template:Owarai-stub

en:Sanma Akashiya ga:Sanma Akashiya ko:아카시야 산마 zh:明石家秋刀鱼

個人用ツール