手塚治虫

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Template:統合文字 Template:Infobox 漫画家 Template:漫画 手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治1928年昭和3年)11月3日 - 1989年平成元年)2月9日)は、日本漫画家アニメーター医学博士。戦後日本においてストーリー漫画の手法を確立、現代にまでにつながる日本の漫画・アニメ表現の基礎を作った。

大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。旧制中学で大戦期を過ごし、大阪帝国大学附属医学専門部<ref name=daigaku>大阪帝国大学附属医学専門部は、手塚が在学中の1947年10月に大阪帝国大学が大阪大学へ改称されたことに伴い大阪大学附属医学専門部と改称した。</ref>在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるTVアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活。また『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を手がける。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「漫画の神様」と評された。

長男に手塚眞、長女に手塚るみ子、次女に手塚千以子がいる。また、姪に声優の松山薫

目次

生涯

出自

手塚治虫、本名治は1928年11月3日大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲(ゆたか)と母・文子の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた<ref>桜井、22p</ref>。父方の曽祖父手塚良仙適塾に学んだ蘭方医であり、1858年江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立したグループの一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉福翁自伝』にも記録が残っている。祖父にあたる手塚太郎は司法官であり、1886年に創立された関西法律学校(現在の関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任している。

父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回し映写機(パティベイビー)を所有しており、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画を観ることができた<ref>手塚(1997)、17-19p</ref>。もっとも治虫はこの父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白としても回想している<ref>桜井、34-38p</ref>(なお治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている<ref>桜井、34p</ref>)。母・文子は陸軍中将の娘で厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで勤める働き振りを示したという<ref>桜井、37p</ref>。この母は当時としては変わり者で、治虫に漫画本を買い与えただけでなく、登場人物ごとに声音を使い分けて幼少期の治虫に漫画本を読み聞かせていた。幼少期の手塚の家には『のらくろ』シリーズをはじめ200冊もの漫画本があったという<ref>手塚(1997)、10-12p</ref>。またのちに治虫の実子手塚眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところページの隅にパラパラ漫画を発見し、てっきり治虫によるものだと思っていたら、後で治虫の母が描いたものだったと判明したというエピソードもある<ref>桜井、40p</ref>。

幼少期

1933年、治虫が5歳のときに一家は兵庫県宝塚市に移った。戦前の宝塚は田園風景の中に新興の住宅地が散在し、その中心に宝塚歌劇団の本拠地の宝塚大劇場宝塚ファミリーランドの前身の宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの施設が立ち並び一種の異空間を形作っていた<ref>桜井、24-28p</ref>。このような人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる<ref>夏目、70-71p</ref>。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治虫は父に連れられてホテルのレストランで食事をし、母には宝塚歌劇団に連れて行ってもらっていた<ref>桜井、31p</ref>。また手塚家の隣家は宝塚歌劇団の実力者である天津乙女の家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られたほか、歌劇団の女性と接する機会も多かった<ref>手塚(1999)、20p</ref>。

1935年、池田師範付属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に入学。母が東京出身だったので関西弁を話さず、体が小さく、また眼鏡をかけていたこともあり学校では「ガジャボイ頭(天然パーマ)」などと言われからかいの対象になった。そのような中で同級生の石原実と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫科学天文学に興味を持つようになる<ref>手塚(1997)、6-9p</ref>。手塚家の広い庭は虫の宝庫であり<ref>桜井、32p</ref>、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境であった<ref>手塚(1999)、29p</ref>。ペンネームの「治虫」も甲虫のオサムシにちなんで小学4年生のときに作ったものである<ref>手塚(1999)、26-27p</ref>(なお1950年頃までは「治虫」は初期にはそのまま「おさむし」と読ませていた<ref>手塚(1999)、274p</ref>)。

治虫は幼い頃から見よう見真似で漫画を描くようになり、特に小学4年生から5年生にかけて懸命に漫画の練習をした<ref>手塚(1997)、20p</ref>。小学5年生の頃ノートに1冊分の漫画を書いて学校に持っていった時には担任の教師に取り上げられ、叱られるものとばかり思っていたら、実は職員室で回し読みされていて、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという<ref>手塚(1997)、20-22p</ref>。こうして漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなり、誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた<ref>手塚(1997)、13p</ref>。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治虫の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた<ref>手塚(1997)、13p</ref>。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている<ref>手塚治虫2009</ref>。

青年期と戦争体験

1941年、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。軍事色の強い厳格な学校であり、手塚は漫画を描いているのを教官に見つかり殴られるなどしている<ref>桜井、45p</ref>。同年より太平洋戦争が勃発、1944年の夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられ、9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され<ref>桜井、45p</ref>、ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていた<ref>手塚(1997)、52p</ref>。

1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下され九死に一生を得る<ref>手塚(1997)、52-59p</ref>。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、のちに「紙の砦」(1974年)や『どついたれ』(1979年-1980年)などの自伝的作品の中に描かれている<ref>桜井、48-50p</ref>。この体験以降手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった<ref>手塚(1997)、62</ref>。

1945年7月、手塚は試験を受けて大阪帝国大学附属医学専門部<ref name=daigaku/>に入学した(なお3月に旧制浪速高等学校を受験し落ちている<ref>桜井、58p</ref>)。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設されたもので、1951年に廃止されている。学制上は旧制医学専門学校と同じであったため旧制中学からの入学が可能であった<ref>桜井、59p</ref>。なお生前には手塚の経歴は一般に、1944年に(実際には不合格であった)旧制浪速高校理乙入学後、1945年に大阪大学医学部入学となっていたが、手塚の死後に出版された小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって初めて事実が明らかにされた<ref>桜井、59p</ref>。また生年もそれまで1926年だと思われていたのが実際には1928年であったことが死後確認されている<ref>桜井、60p</ref>。このように手塚が生前に経歴を訂正していなかったことについて桜井哲夫は、当時世間的に認められていなかった漫画家の社会的地位を押し上げるためにも、帝国大学の医学生という身分が必要だったのではないかと分析している<ref>桜井、60-61p</ref>。

デビュー、赤本の世界へ

終戦後、手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った<ref>手塚(1999)、57-60p</ref>。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』学芸部の程野という人物に会い<ref>手塚(1999)、61-65p</ref>、彼の依頼を受けて同紙に4コマ漫画マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。『マアチャンの日記帳』は描かれる風俗やタッチに新しさはあるものの、路線としては戦前からある家庭向けの新聞漫画にのっとったものであった<ref>米澤、13p</ref>。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている<ref>米澤、13p</ref>。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり後2者はどちらも中断に近い形で終わっている<ref>米澤、13p</ref>。

1946年、手塚は酒井七馬が後見役を務める同人誌『まんがマン』の例会を通じて酒井と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる<ref>手塚(1999)、89-90p</ref>。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を書き溜めていた手塚としては願ってもない話であった<ref>手塚(1999)、90p</ref>。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され<ref>手塚(1999)、91p</ref>、1947年1月に出版されると当時としては異例の40万部、一説に80万部を越すベストセラーとなった<ref>米澤、96p</ref>(もっとも手塚は原稿料3000円を受け取ったのみであった<ref>手塚(1999)、96p</ref>)。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている<ref>米澤、82p</ref><ref>呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局、1986年、128p</ref>(後段#スタイルの革新性も参照)。

ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった<ref>米澤、14-15p</ref>。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げければならなくなった<ref>手塚(1999)、96p</ref>。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中で様々な試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている<ref>米澤、15-16p</ref>。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描いており<ref>米澤、16p</ref>、1950年にはゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。

漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める<ref>手塚(1999)、98-99p</ref>。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部付属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得している<ref>桜井、72p</ref>。このため後に手塚は自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている<ref>手塚(1999)、100p</ref>。

雑誌連載開始

手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社は断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった<ref>桜井、72-73p</ref>。同年11月より漫画マニア誌『漫画少年』にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 -)の前身となる『アトム大使』を『少年』に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった<ref>米澤、21p</ref>。1953年には『少女クラブ』にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった<ref>米澤、27p</ref>。1954年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。

雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった<ref>米澤、23p</ref>。一方描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった<ref>米澤、23-24p</ref>。

私生活の面では、1952年に上京しており、1953年に『漫画少年』からの紹介で豊島区トキワ荘に入居<ref>手塚(1999)、183p</ref>、その後手塚に続いて寺田ヒロオ藤子不二雄石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫らが続々と入居し漫画家の一大メッカとなった。この1953年に手塚は長者番付の画家の部でトップとなっているが、住居が木造2階建て建築のトキワ荘であったため取材に来た記者に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている<ref>手塚(1999)、184-185p</ref>。この時、トキワ荘の漫画家には映画をたくさん観るように薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという<ref>徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)。</ref>。

劇画との闘い

『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作を連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている<ref>米澤、31p</ref>。1955年-58年の手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており<ref>米澤、31p</ref>、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞の対象作品となった。この他にも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており<ref>米澤、32-33p</ref>、1958年には東映動画の嘱託となってアニメーション映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っている<ref>桜井、118p</ref>。

しかし1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎武内つなよし横山光輝といった売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気の面ではそうした漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた<ref>米澤、85-86p</ref>。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新たに登場した劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした<ref>桜井、119p</ref>。さらに手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り精神鑑定も受けたという<ref>手塚(1999)、216-217p</ref>。またすでに1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、次第に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる<ref>桜井、121p</ref>。

1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)『少年サンデー』(小学館)が創刊、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となったが、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下書きだけして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている<ref>桜井、118p</ref>。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて華燭の典を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず<ref>手塚(1999)、217p</ref>、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという<ref>桜井、122p</ref>。

アニメーションへの情熱

少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であった。漫画家になる前の1945年の敗戦の年、手塚は焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したという<ref>手塚(1999)、33-34p</ref>。手塚にとって漫画はアニメ制作の資金を得るための手段だった<ref>虫プロ興亡記</ref>。「がめつい奴」と言われても蓄財に走った。自らを「ディズニー狂い」と称した。

1961年、手塚は自身のプロダクションに動画部を設立する。手塚プロダクション動画部は当初6人のスタッフから始まった<ref>手塚(1999)、237p</ref>。スタッフの給料から制作費まですべて手塚の原稿料で賄い、1年かけて40分のアニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する<ref>手塚(1999)、237p</ref>。動画部は1962年より「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし10名に満たないスタッフではディズニーのようなフルアニメーションを毎週行なうのは不可能であり、必然的に絵の枚数を最低限にするリミテッドアニメの手法を取ることとなった。それでも1本2000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人1日66枚を仕上げる<ref>桜井、136p</ref>という過酷な労働状況が作られることとなり、作品の評判が挙がるのと反比例してスタッフはどんどんやつれていった。

さらに、作品を1本55万円<ref>ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと文献の再調査を行った津堅信之は「当初は1本155万円が代理店より支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている。(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)</ref>という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くつけたのは、当時のテレビ劇映画の制作費が50万程度であったことと、それだけ安くすれば他のプロダクションがアニメに手をつけないだろうという考えからであったが<ref>手塚(1999)、242p</ref>、手塚自身が「大失敗だった」<ref>手塚(1999)、242p</ref>と認めるようにこれは大きな誤算となった。『鉄腕アトム』のヒットを受けて低予算のTVアニメが次々と作られていくことになったのである<ref>桜井、142p</ref>。さらに、当初経営の苦しかった虫プロは『鉄腕アトム』の版権収入などで利益を上げるようになると巨大化し、次第に手塚自身でも制御できない状態になっていた<ref>手塚(1999)、249p</ref>。『鉄腕アトム』の4年間の放映のうち手塚の原作があったのは最初の1年半だけで、スタッフが担当したその後のストーリーは人気を得るために戦いばかり描かれるようになり、手塚が好むアニメーションらしいユーモアが失われていった<ref>手塚(1999)、249p</ref><ref>アニメーターの大塚康生は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながら、それを成し遂げることが出来なかった原因を、商業主義のためではなく、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフルアニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)</ref>。

低迷と復活

アニメ制作に乗り出していて以降も手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーTVアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年-1965年にかけて行なわれている<ref>米澤、50p</ref>。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件1965年の出来事である。

1966年、手塚は実験漫画誌『COM』を創刊する。白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので<ref>米澤、55p</ref>、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった<ref>米澤、54p。なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる点描が用いられている。(夏目、151-152p)</ref>。1968年には青年誌『ビッグコミック』『プレイコミック』などが創刊し青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は、安保闘争などの社会的な背景もあり暗く陰惨な内容のものが多かった<ref>米澤、56-57p</ref>。

一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪ハレンチ学園』のヒットを受け<ref>米澤、59p</ref>「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』などを発表しているが、しかしこの時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた<ref>米澤、59-62p</ref>。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(既に1971年には経営者を退いていた)が倒産し、手塚も個人的に1億5千万円と推定される巨額の借金を背負うことになった<ref>桜井、166-167p</ref>。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している<ref>夏目、169-170p</ref>。

1973年に『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の好意で始まったものであった<ref>夏目、170p(脚注部)</ref>。しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった<ref>米澤、65p</ref>。さらに1974年、『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになる<ref>米澤、67p</ref>。

晩年

1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』の創刊によって再開。1977年時点で手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は漫画の第一人者、漫画の神様という評価を確かなものにしていった<ref>米澤、72p</ref>。1980年代になると幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる<ref>米澤、93p</ref>。

1988年11月、上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により半蔵門病院に入院、胃癌と判明する。病床でも仕事を続け、昏睡状態に陥るようになってからも意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。このため最期の言葉のようなものは残さなかった<ref name=SHIN>手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収</ref>。翌1989年1月21日手塚プロ社長が見舞いに来た時には「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せて聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという<ref>1989年2月10日放送おはよう!ナイスデイ</ref>。1月25日以降昏睡状態に陥る。そして、1989年2月9日午前10時50分死去。その死によって『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』そして『火の鳥』などの作品が未完のまま遺された<ref>米澤、80p</ref><ref>NHKスペシャル「いのち~わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)</ref>。亡くなる3週間前(1989年(平成元年)1月15日)まで書かれていた自身の日記にはその時の体調状態や新作のアイディアなどが書き連ねられていた。

作風と功績

スタイルの革新性

上述のように酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点とされているが、その一方でこの作品で手塚が「映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような一種の「神話」も生んだ<ref>竹内オサム『手塚治虫論』平凡社、1992年、224-232p</ref>。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である宍戸左行『スピード太郎』と比べても革新的なものとは言えないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」が見られるとしている<ref>呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局、1986年、128p</ref>。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている<ref>米澤、97p</ref>。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れ、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物の台詞による説明に頼っていた時間や状況の進行を、台詞によらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする<ref>野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小学館、2007年</ref>。

上記のような「構図やコマ割りの革新性」といった誤解が生まれた背景には、1938年内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書が10年近く表現規制がなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのような中で『新寶島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄など後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった<ref>「霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)</ref><ref>夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、48p</ref>。

夏目房之介は赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった<ref>夏目、44-46p</ref>。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし<ref>夏目、47-66p</ref>、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった<ref>米澤、161-162p</ref>。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった<ref>米澤、162-163</ref>。

上記の絵柄の記号化、体系化は、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした<ref>米澤、181p</ref>。漫画制作にアシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では丸ペンの使用が一般的だった)、スクリーントーンの導入などがある<ref>桜井、116p</ref>。

手塚のテーマ

17年もの間連載された代表作『鉄腕アトム』をはじめ、手塚は作品の中で異民族間、異文化間での対立や抗争を繰り返しテーマにしている。手塚は戦後間もない頃、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている<ref>手塚(1999)、53p</ref>。もっとも『ジャングル大帝』などにおける「分厚い唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により糾弾を受けている。これ以後手塚の単行本には差別と受け取られる表現について弁明する但し書きが付けられるようになった<ref>竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)</ref>。

手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている<ref>手塚(1997)</ref>。これらのテーマから手塚作品のヒューマニズム的な側面がしばしば強調されることになったが、インタビューではそのことを嫌い「はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と皮肉を込めた発言も残している<ref>渋谷陽一のインタビューでの発言、『風の帰る場所』P73</ref>。別のインタビューではヒューマニズムという側面からの制約がある自身の作風と比べ「つげ(義春)君とか、それから水木(しげる)氏、滝田ゆう、このへんなんか、ほんとに本音だけで描いてるんで、羨ましくてしょうがない」と述べている<ref>「SIGHT」vol.15、pring、2003年、p22(インタビューと撮影は渋谷陽一による)</ref>。

また、漫画を描く際にプロ・アマ、更には処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、“基本的人権を茶化さない事”を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが以下の事だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べていた。

  • 戦争災害の犠牲者をからかう
  • 特定の職業を見下す
  • 民族国民、そして大衆を馬鹿にする<ref>光文社刊『漫画の描き方』より</ref>

夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生の頃によく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている<ref>夏目、188-189p</ref>。

沼地の横で得体の知れないものがブルブル震えながらぼくを待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、ぼくと物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう(略)何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです(略)女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる(略)常に動いているような楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです(略)で、自分はどうかというと常にパッシブで常にそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです<ref>「対談 ヒゲオヤジ氏の生と性」石上三上志『手塚治虫の奇妙な世界』所収、学陽書房、1977年</ref>

夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという<ref>夏目、189p</ref>。

手塚が影響を受けたもの

手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、長じて田河水泡のらくろ』、横山隆一フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウス海賊版単行本に夢中になりこの本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。手塚は「尊敬する映画人」として、チャーリー・チャップリンウォルト・ディズニーを挙げている<ref>渡辺泰「アニメーションに魅せられた神様」、霜月たけなか編『誕生!「手塚治虫」』所収、朝日ソノラマ、1998年、101-102p</ref>。なお、竹熊健太郎は手塚が得意とした「楽屋落ち的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟のアニメーションからも影響を受けていることを指摘している<ref>「手塚治虫の引き裂かれた夢(2)」</ref>。

また、夏目房之介は、「手塚が漫画に持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに文学、演劇、宝塚文化を挙げている。幼少期の手塚の家には文学全集があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化したドストエフスキー罪と罰』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、とくに『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている<ref>手塚(1999)、21-22p</ref>。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている<ref>夏目、67-92p</ref>。

人物

Template:出典の明記 長らく生まれた年を大正15年(1926年)と2年繰り上げて自称し、著書の著者紹介でも書いていた。本当の生年が親戚等や学友以外の世間一般に初めて明らかにされたのは没後直後のことであった。<ref>1989年2月10日金曜日 テレビ朝日 こんにちは2時 マンガ界の神様手塚治虫さん逝く!! 「若く見られてはいけない」という事で、先生公称は大正十五年生まれとして手塚さんは通していらしていたという事ですね</ref>。

才能と敵愾心

手塚のアシスタントであった石坂啓は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことをテレビ番組で証言している(NHK教育1986年放送「手塚治虫 創作の秘密」より)。フリーハンドでかなり正確な円を描くことができ、揺れるタクシーの中や飛行機の中でもかなり正確な直線を引いたという。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が書けなくなった」と体の衰えを語っている(同テレビ番組でも「若い頃に比べて丸が正確に書けなくなってきた」と手塚本人が語っている)。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であることを繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったとも言われている<ref>大塚英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』講談社現代新書、2001年、19p</ref>。

漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの妖怪漫画が流行すると『どろろ』などの自作で水木風の点描を用い、大友克洋が注目されると大友風のタッチを取り入れるなど、その時々の流行に敏感に対応した。手塚は競争心・敵愾心が強かったことが知られており、ライバルの作家との様々な逸話が残っている(後段#関連のある漫画家を参照)。

速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという<ref>TBS系「輝く日本の星! 手塚治虫を作る」より</ref>。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。

漫画の製作に取り掛かりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。

夏目房之介は手塚に会った際に「怖い人だ」と記している。これは当時、無名に近かった夏目の作品について手塚が知っていた為でプロとして尊敬できる反面、面白いと思えば無名の新人であっても警戒する性格と分析し「必要以上に近づいてはいけない人」と語っている。また手塚の負の遺産として代表的に挙げられるのはアニメーターを薄給の上に長時間労働で酷使し、この悪習が業界に定着してしまった事である。虫プロ倒産の一因は待遇改善を求めた労働争議であった<ref>倒産に際し、社員だった西崎義展が版権を取得したが、相当な背信行為があったとされ、西崎と一緒に仕事をした人と仕事をするのを警戒するほど、終生嫌っていた。当時脚本家だった藤川桂介の回想より</ref>。

睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上眠ることはほとんど無かったと言われる。徹夜をすることも多く、手塚の死因を胃癌ではなく過労死と言う人も多い。

医学者・手塚治

既述のように手塚は医師免許を持っていたが、実際に医師として患者を診たことは無い(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っている)Template:要出典。手塚は旧制中学時代、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになった。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したというTemplate:要出典。ただし手塚は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めているTemplate:要出典

医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』などの作品に活かされている。ただし後に医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものであった。息子の手塚眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで医師の道を断念したと言う。漫画家になるか医師になるか迷ったとき、母に自分の好きな方をやりなさいと云われて決心したとも伝えられている。また医学校の恩師に、医師になるよりは漫画家になるように説かれたとも。

戦後に設立された奈良県立医科大学電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なおかつスケッチもできる日本で唯一の研究者となったTemplate:要出典。頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ、同大学はお礼の意味を込めて医学博士号を贈ったTemplate:要出典。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)<ref>論文中の図はすべて写真撮影されたものであって手書きによるスケッチではない。また論文は一般に信じられていたのと異なり日本語で記述されている。</ref>。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されている。なお、同大学の図書館には、手塚が後に贈った『ブラック・ジャック』の絵が展示されている。

なお血液型A型<ref>「漫画家・アニメ作家人名辞典」(日外アソーシエーツ)</ref>。生前のプロフィールにおいて血液型に諸説があると言われているが、戦後入院したときに判明したと手塚自身が述べている<ref>『血液型の迷路』朝日新聞社、1985年。</ref>。

プロ野球との関わり

1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことからサンケイスワローズ1965年のシーズン途中に国鉄スワローズより改称、現在の東京ヤクルトスワローズ)はサンケイアトムズに改称し、ヤクルト本社に経営権が移った後も1973年末に虫プロダクション倒産に伴いスワローズに球団名を戻すまでアトムをマスコットに使用していた。

1978年クラウンライターライオンズ西武グループに買収され西武ライオンズ2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され<ref>但し、手塚はレオでなく父親の「パンジャ」がモデルと説明している。</ref>、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた。また、レオの妹・ライナ1981年より登場している。

2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。 日本生命セ・パ交流戦西武ドームで開催された埼玉西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。

なお、手塚自身は阪神タイガースファンであった。1950年の年賀状では「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム<ref>トレードマークの縦縞が無く、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。</ref>を着たが素振りをしているイラストに添えてコメントしており<ref>手塚治虫もトラファンだった 60年前の文通に素顔残す朝日新聞・2008年9月25日)。なお、1950年当時の球団名は「大阪タイガース」であったが、この当時から通称としては「阪神」と呼ばれていた。</ref>、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。

年表

作品

漫画作品

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アニメ作品

実験アニメーション

監督

原案

その他

漫画以外の著書

キャラクターデザイン

メディア出演

テレビ

映画

ラジオ

CM

CD

  • 立川談志ひとり会」特典CD「とっておきの二大対談」
    • 1985年国立劇場における、談志との対談が収録されている。
  • オーディオドラマ火の鳥(CD12枚組)(日本音声保存)
  • 手塚治虫講演CD集~未来への遺言~CD6枚組~(日本音声保存)

関連人物

係累

妻は手塚悦子(えつこ)、映像作家の手塚眞(本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)は長男・長子、プランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子(少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)は長女・中子、舞台女優の手塚千以子(ちいこ・『千夜一夜物語』から命名)は次女・末子。長男・眞の妻は漫画家の岡野玲子。妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。下記の参考文献を参照。

手塚治は長男で、弟妹として2歳下に弟・手塚浩。4歳下に妹・宇都美奈子(旧姓:手塚)がいる。弟は「子供の頃昆虫の事が元でああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いの喧嘩になった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」というコメントを残している。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生と共に手塚治虫記念館に訪れている。妹は「戦争が始まって兄はどこか変わった。それまでは天国のような生活だったけど、戦争が始まって軍事教練などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。妹は手塚のキャラクター・ヒョウタンツギの作成者でもある<ref>2009年2月9日放送「BS20周年企画 手塚治虫2009」</ref>。

関連のある漫画家

南部正太郎
手塚が『マアチャンの日記帳』などの新聞連載を始めた頃、同時期に長谷川町子の『サザエさん』(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の『ヤネウラ3ちゃん』(『大阪新聞』)などの新聞連載漫画が始まっていた。手塚は『大阪新聞』を介して南部と知り合い、もう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成、たびたび3人で映画や漫画について話し合うなどしていた。当時は南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気が圧倒的で、3人組を意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人も多かったという<ref>手塚(1999)、87p</ref>。
福井英一
福井の柔道漫画『イガグリくん』(『冒険王』1952年-1954年連載)は連載時絶大な人気を誇っており、当時手塚は福井を最大のライバルと見なしていた(『イガグリくん』のようなスポーツ・熱血ものを手塚は苦手としており、このジャンルの作品をほとんど描いていない<ref>夏目、100-106p。ただし、上記の通り1950年のファンへの年賀状に「野球ものも考えています」との記述があり、関心を抱いた時期もあったことをうかがわせる。</ref>)。1954年頃、手塚は『漫画少年』連載の『漫画教室』の中で、良くないストーリ-漫画の例として『イガグリくん』を模した作品を登場させて福井の怒りを買い、福井の抗議を受けて馬場のぼるの仲裁で謝罪している。手塚は翌月の『漫画教室』に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描き謝罪の意を表した。その1ヵ月後に福井は過労で急逝しており、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情を覚え、そのことで自己嫌悪に陥ったと記している<ref>手塚(1999)、171-176p</ref>。
馬場のぼる
その穏やかな人柄と、馬場の作風が手塚のライバル心をそそるものでなかったこともあり、もっとも親しい友人として交際。また、自身の漫画のキャラクターとして登場させている。
藤子不二雄
手塚の競争心は藤子両人に対しても発揮され、トキワ荘時代に赤塚不二夫や石森章太郎らを食事に招待した際、藤本と安孫子には声を掛けなかったことがあったというTemplate:要出典藤子・F・不二雄(藤本弘)は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。手塚も「『ドラえもん』の人気にはかなわない」とコメントしたことがあるTemplate:要出典藤子不二雄(安孫子素雄)も藤本と同様に手塚を尊敬し、自伝漫画『まんが道』では手塚を最大の師として登場させ、黒澤明ウォルト・ディズニーと並ぶ「創作の神」として扱っている。
藤子不二雄が1988年にコンビ解消した際、手塚は「これで同等に勝負出来る」とコメントしているが、これは2人がコンビ解消と旅立ちを祝ったパーティーにおける挨拶の言葉であり、今までは2人だからかなわなかったが1人ずつとなって勝負できるようになったから、お互いにがんばろうというユーモアを込めた激励の言葉である。<ref>菅紘『藤子不二雄A―夢と友情のまんが道』(講談社火の鳥人物文庫)</ref>
石ノ森章太郎(注:1984年までは石森章太郎)
石森は『漫画少年』に投稿していた高校在学時、『鉄腕アトム』執筆中の手塚に依頼され、学業を中断して手塚のアシスタントを務めた。『COM』に発表した石森の実験的作品『ジュン』は発表当時大きな話題になっていたが、手塚は読者への手紙の中で「あれは漫画ではない」と批判。このことを知った石森はショックを受け編集部に連載打ち切りを宣言するが、その晩手塚が石森のアパートを訪れ、「なぜあんなことを言ったのかわからない」と謝罪した<ref>石ノ森章太郎『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』(2003年、鳥影社)</ref>。
梶原一騎さいとう・たかを
#経歴に記したように手塚は劇画ブームが起こった当時強い焦燥感を覚えており、梶原の『巨人の星』に対し「この漫画のどこが面白いんだ、教えてくれ」とスタッフに泣くように訴えたという<ref>『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)</ref>。またさいとうの劇画作品『ゴルゴ13』に対しても批判的であったTemplate:要出典。さいとうは「漫画の神様は漫画より絵図面が上手い」と反発しTemplate:要出典、後に手塚の批判について「(自分と)全く作風が違っていたから意に介さなかった」と語っているTemplate:要出典
水木しげる
『週刊少年マガジン』の編集長だった内田勝によると、1965年から同紙で連載開始された水木の妖怪漫画『墓場の鬼太郎』を目にした手塚は、その内容から受けたあまりの衝撃に、自宅で階段から転げ落ちたという<ref>『日本ヒーローは世界を制す』(角川書店)</ref> 。やがて『ゲゲゲの鬼太郎』と改題された同作品によって、「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して『バンパイヤ』『どろろ』を発表している<ref>米澤、54p</ref>。手塚はある出版社パーティーの席で全く面識のなかった水木に話しかけ、「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放ったという。水木はその場では全く反論せず、のちにこの体験をもとにして「自分が世界で一番で無ければ気がすまない棺桶職人」を主人公にした短編『一番病』<ref>初出は小学館の『ビッグコミック1969年10月25日号、角川文庫『畏悦録』収録</ref>を描いた。また水木が宝塚ファミリーランドで、『ゲゲゲの鬼太郎』のアトラクションを開催していた事に対し、手塚は「私の故郷の宝塚で勝手なマネをするな」と“難癖”と取られても仕方がない発言を行ったという<ref>足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、文藝春秋)</ref>。
ちなみに息子の手塚眞は幼少期は「ゲゲゲの鬼太郎」のファンで父親の漫画よりも好んでおり、手塚をがっかりさせている。後に眞が制作した映画「妖怪天国」は水木の影響を受けており、手塚治虫・水木しげる両人ともゲスト出演している。
やなせたかし
1960年代より晩年まで親交があった。手塚は劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)にやなせを美術監督として起用し、キャラクターデザインもやなせに依頼している。手塚はそのお礼として、やなせの原案によるアニメ映画『やさしいライオン』を制作した(大藤信郎賞を受賞)。2009年に江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」では、
「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」
というやなせのコメントが紹介された(やなせは手塚より9歳年長である)。
宮崎駿
宮崎は手塚のアニメーション制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における重要性を強調しつつ「だけどアニメーションに関しては(略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べ、スタッフに過酷な労働を強いる制作環境や組織に対する意識の低さを批判した<ref>「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」『COMIC BOX1989年5月号</ref>。生前手塚は「宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っているがTemplate:要出典、その後の宮崎作品に対してはコメントを残していない。手塚のアシスタントであった石坂啓は「先生、悔しくて仕方なかったんでしょうね」と述べている<ref>『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)元アシスタント吉住純のブログ―手塚治虫は「風の谷のナウシカ」を観たのか??/続・手塚治虫は「風の谷のナウシカ」を観たのか??も参照。</ref>。
大友克洋
『ユリイカ』の大友特集号で手塚は「僕はデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友の画力を賞賛している。ただし後に大友に会った際には「あなた描くような絵は僕にも描けるんです」と発言し、実際に大友タッチの繊細な絵を描き上げたという<ref>『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)</ref>。手塚は『陽だまりの樹』で、大友が影響を受けたメビウスのタッチを取り入れており、線分の集合のような特徴的な陰影を「メビウス線」と名付けてアシスタントへ指定していた<ref>夏目、254p</ref>。幼い頃から手塚作品を読んで育った大友は手塚に高い敬意を払っており、自身の著作『AKIRA』を手塚に捧げるとし、同作品の末尾部分に「手塚治虫先生、ありがとう」という感慨深いメッセージを織り込んでいる。また、手塚の作品を原作とする劇場用アニメーション映画『メトロポリス』で脚本を担当している。2005年の監督作品『スチームボーイ』のタイトルも、『鉄腕アトム』の英語版タイトル『アストロボーイ』を意識したものである。
諸星大二郎
手塚賞応募作である『生物都市』を手塚は筒井康隆とともに絶賛し、この作品は満場一致で手塚賞を受賞した。諸星および星野之宣と鼎談した際、手塚は「僕は諸星さんの絵だけは描けない」と発言しており、手塚が素直に賛辞する数少ない漫画家である。
いしかわじゅん吾妻ひでお
吾妻によるロリコン漫画ブームが起こった際、手塚は吾妻の作風を意識した作品『プライムローズ』を発表している<ref>米澤、75p</ref>。イベントで同席した際「この2人は若手の間では神様みたいな人」と手塚に紹介され恐縮したといしかわの著作にある<ref>いしかわじゅん『フロムK』(双葉社週刊漫画アクション1989年3月7日号掲載分)。</ref>。また2人を『七色いんこ』に登場させたいとのことでいしかわが手塚から電話をもらったとある。(ロリコンブームに関しては吾妻作品よりもむしろより過激な当時の週刊少年チャンピオン誌に連載されていた内山亜紀の「あんどろトリオ」を意識したのではと思われる。)

出典・脚注

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参照文献

  • 手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川文庫、2000年 日本図書センター、1999年(初版毎日新聞社、1969年)
  • 手塚治虫『ぼくのマンガ人生』岩波新書、1997年
  • 桜井哲夫『手塚治虫―時代と切り結ぶ表現者』講談社現代新書、1990年
  • 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、1995年
  • 米澤嘉博『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007年

アシスタント

トキワ荘・初台時代

アニメーションスタッフ

手塚を演じた俳優

近親者の回想録

  • 手塚眞『「父」手塚治虫の素顔』あいうえお館、2009年(『天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫』の拡張版)
  • 手塚眞『手塚治虫 知られざる天才の苦悩』アスキー・メディアワークス、2009年
  • 手塚悦子『手塚治虫の知られざる天才人生』講談社、1995年、講談社+α文庫、1999年
  • 手塚るみ子『オサムシに伝えて』大田出版、1994年、光文社知恵の森文庫、2003年
  • 手塚るみ子『こころにアトム』カタログハウス、1995年
  • 手塚眞『天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫』ソニー・マガジンズ、2003年

没後10年以降の参考文献

  • 柴山達雄、小林準治『虫プロてんやわんや 誰も知らない手塚治虫』創樹社美術出版、2009年
  • 福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社新書、2009年
  • 古田尚輝『「鉄腕アトム」の時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年
  • 滝田誠一郎『ビッグコミック創刊物語―ナマズの意地』、プレジデント社、2008年
  • 手塚治虫 小林準治『手塚治虫クラシック音楽館』平凡社、2008年
  • 竹内オサム『手塚治虫 アーチストになるな』(日本評伝選)ミネルヴァ書房、2008年
  • 小野卓司『描きかえられた「鉄腕アトム」』NTT出版、2008年
  • 津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫』NTT出版、2007年
  • 米澤嘉博『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007年
  • 昭和館、手塚プロダクション『手塚治虫の漫画の原点』昭和館、2007年
  • 二階堂黎人『僕らが愛した手塚治虫』小学館、2006年、『同2』、2008年
  • 手塚プロダクション『手塚治虫原画の秘密』(とんぼの本) 新潮社、2006年
  • 竹内一郎『手塚治虫 ストーリーマンガの起源』講談社選書メチエ、2006年
  • 中野晴行『そうだったのか手塚治虫』祥伝社新書、2005年
  • 巽尚之『鉄腕アトムを救った男』実業之日本社 、2004年
  • 石上三登志『定本手塚治虫の世界』(Key library)東京創元社 、2003年
  • 森晴路『図説鉄腕アトム』(ふくろうの本)河出書房新社、2003年
  • 大塚英志『アトムの命題』(アニメージュ叢書) 徳間書店、2003年
  • 神戸新聞阪神総局『アトムの世紀はじまる』神戸新聞総合出版センター 、2003年
  • 布施英利『鉄腕アトム55の謎』(生活人新書)日本放送出版協会、2003年
  • 沖光正『鉄腕アトム大事典』光文社知恵の森文庫、2003年
  • 高橋一郎(大阪教育大学教育学部)『手塚治虫と池田師範附属小学校~天才漫画家を育てた家庭・地域・学校~』
大阪教育大学紀要, 第Ⅳ部門 51巻第1号, 2002年9月
  • 手塚プロダクション『鉄腕アトムの軌跡展』朝日新聞社、2002年
  • 池田啓晶他『手塚治虫完全解体新書』集英社、2002年
  • 長谷川つとむ『鉄腕アトムのタイムカプセル』PHPエディターズ・グループ、2002年
  • 長谷川つとむ『手塚治虫氏に関する八つの誤解』中公文庫、1999年、初版柏書房
  • 豊田有恒『日本SFアニメ創世記 虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』TBSブリタニカ、2000年
  • 野口文雄『手塚治虫の奇妙な資料』実業之日本社、2002年
  • 大下英治『手塚治虫』潮出版社、1995年、講談社文庫、2002年
  • 水野雅士『手塚治虫とコナン・ドイル』青弓社、2002年
  • 『文藝別冊 総特集 手塚治虫』河出書房新社、1999年
  • 丸山昭『トキワ荘実録―手塚治虫と漫画家たちの青春』 
    • ほかに、小学館文庫編集部編『神様手塚を読む』 各(小学館文庫、1999年)

追悼出版ほか

  • 『朝日ジャーナル臨時増刊号 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年
  • 『一億人の手塚治虫』<宝島collection>JICC出版局(宝島社)、1989年
  • 竹内オサム 村上知彦編『手塚治虫の宇宙』<マンガ批評大系別巻>平凡社、1989年
  • 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年
  • 石上三登志『手塚治虫の時代』大陸書房、1989年
  • 竹内オサム『手塚治虫論』平凡社 1992年
  • 鈴木光明『マンガの神様! 追想の手塚治虫先生』白泉社、1995年
  • 今川清史『空を越えて 手塚治虫伝』創元社、1996年
  • 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、ちくま文庫、1995年
  • 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、1995年、小学館文庫、1998年
  • 中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』筑摩書房、1993年
  • 中野晴行『手塚治虫のタカラヅカ』筑摩書房、1994年
  • 手塚プロダクション 村上知彦共編『手塚治虫がいなくなった日』潮出版社、1995年
  • 手塚プロダクション 秋田書店共編 『手塚治虫全史 その素顔と業績』1998年
  • 米沢嘉博編『手塚治虫マンガ大全』<別冊太陽>平凡社、1997
  • 東京国立近代美術館編『手塚治虫展』1990年
  • 『もっと知りたい手塚治虫』<別冊家庭画報>世界文化社、1997年
手塚ファン26人が案内する手塚ワールド探検の手引き
  • 『手塚治虫劇場 手塚治虫のアニメーションフィルモグラフィー』手塚プロダクション、1991年
第2版<求龍堂グラフィックス>エスクァイアマガジンジャパン、1997年
  • 『NHK特集 手塚治虫・創作の秘密』。これは元はVHSであったが、2008年にDVDでTCエンタテインメントから発売。
  • 『生誕80周年記念特別展 手塚治虫展 未来へのメッセージ』江戸東京博物館、2009年
  • 『COMIC BOX』1989年5月号(ふゅーじょんぷろだくと)の手塚治虫への追悼記事の中で特筆されるものとして:

宮崎駿『手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した』がある。同文章は宮崎駿『出発点 1979~1996』スタジオジブリ、1996年にも再録されている。

関連雑誌社編集者

関連項目

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外部リンク

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