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{{観点}} '''元号'''(げんごう)は、[[中国]]をはじめ[[中華文化|中国文化]]の影響を受けた[[漢字文化圏]]において、特定の年代に[[年]]を単位として付けられる呼称である。'''年号'''(ねんごう)とも呼ぶ。なお[[日本]]の[[歴史学]]においては、「元号」と「年号」の定義を、「元号」が任意の年を[[紀元]]と定めて数える紀年数のみを指すのに対し、「年号」はそれに付ける漢字名を指すとして区別することもあるが、一般には両者は混用されており、また中国では「年号」しか使われない。本稿では区別せず「元号」を使用する。 == 総説 == 元号は[[紀年法]]の一種であるが、[[西暦]]や[[ヒジュラ暦|イスラム暦]]や[[神武天皇即位紀元|皇紀]]などの[[紀元]]とは異なり、[[皇帝]]や[[王]]、[[天皇]]など[[天子]]([[君主]]の称号)の[[即位]]、また治世の途中にも随意に行われる[[改元]]によって元年から数え直され、元号も改められるというシステムから成り立っている。天子が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に[[時]](世)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と[[暦|暦法]]を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。 元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより既存の[[王朝]]よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。従って、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また時の政権に何らかの批判を持つ勢力が密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように後世から公認されなかった元号を[[私年号]]と呼ぶ。 中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示す為に建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から[[冊封]]を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであった為、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。この矛盾の均衡点は中国王朝と冊封国との力関係によって決まっており、地理的に近く何度も国土を占領されている[[朝鮮半島]]では独自元号が少ないのに対し、地理的に遠く、中国王朝との戦争に勝っている[[ベトナム]]や、海を隔て、後には冊封すら受けなくなった日本では長期間独自元号が使用されている。 元号は漢字2字で表される場合が普通だが、稀に3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。極初期には改元の理由に因んだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、[[漢籍]][[古典]]を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は僅かに72字であり、内21字は10回以上用いられている。 独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、[[柔然]]、[[高昌]]、[[南詔]]、[[大理国|大理]]、[[渤海 (国)|渤海]]がある。また[[遼]]、[[西遼]]、[[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]は[[中国の歴史|中国史]]に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。 == 中国 == [[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の治世・[[紀元前115年]]頃に、統治の初年に遡って「[[建元 (漢)|建元]]」という元号が創始されて以降、[[清]]まで用いられた。 武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・2年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は[[文帝 (漢)|文帝]]によるものが最初で、改元後は後元年・後2年([[景帝 (漢)|景帝]]は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、[[彗星]]出現の年を「光」、[[ユニコーン|一角獣]]([[麒麟]])捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「[[元光 (漢)|元光]]」「[[元狩]]」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。 中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた[[朝鮮]]<!--・[[モンゴル]]-->・[[南詔]]・[[渤海 (国)|渤海]]・[[琉球王国|琉球]]などでもそのまま使われた(南詔・渤海は独自の元号も使用)。 [[明]]の太祖([[朱元璋]])は、皇帝の即位毎に改元する[[一世一元の制]]を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。 [[1912年]]に[[辛亥革命]]によって[[清]]が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の[[黄帝紀元]]を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、[[共和制]]に馴染まないという理由で、[[中華民国]]建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「[[中華民国暦]]」(民国紀元)が定められた。[[1916年]]に[[袁世凱]]が[[君主制|帝制]]([[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]])を布いた時には「[[洪憲]]」の元号を建てた。但し、[[清室優待条件]]によって[[愛新覚羅溥儀|宣統帝溥儀]]は[[紫禁城]]で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「[[宣統]]」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。 [[満州国]]が[[1932年]]に建国すると「[[大同 (満州)|大同]]」と建元し、[[1934年]]に溥儀が皇帝に即位すると「[[康徳]]」と改元され、[[1945年]]の滅亡まで続いた。[[中華人民共和国]]が中国大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用された。 一方、[[中華民国]]([[台湾]])では[[中華民国暦]]が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、「[[民国]]」と表し、「[[宣統]]」の次の元号として扱われることが多い。 == ベトナム == [[ベトナム]]では、中国から独立した[[970年]]から独自の元号が用いられるようになり、[[1945年]]の[[阮朝]]滅亡まで続いた。阮朝は一世一元の制を採用したが、それ以前も[[陳朝]]期以降は在位中の改元が少ない。 [[19世紀]]後半にフランス植民地支配が始まると、新たに公用文となった[[フランス語]]文書で元号が使われることはなく、次いで広まった[[クオック・グー|クォックグー]]([[ベトナム語]]の[[ラテン文字|ローマ字]]表記)でも同様であり、元号の認知度は次第に低下した。1945年に[[ベトナム八月革命]]が勃発し、[[ベトナム民主共和国]](1945年 - [[1976年]])の成立に伴い[[君主制]]が廃止されると、元号も全廃され、公用年号は西暦に統一された。しかし、1976年までの旧北ベトナムにおいて、寺社などの建築物の棟札・扁額や祈祷文などに見られる漢字テクストの中には1945年を元年とする「[[越南民主共和]]」と[[干支]]を非公式に使用した例があり、また、1946年発行の2[[ドン (通貨)|ドン(đồng)]]銅貨にも西暦とともに1945年を元年としたnam II(2年)という表示がある。1976年以後も「共和社会主義越南」の使用例が同様に存在する(「共和社会主義越南」元年は「越南民主共和」元年と同じ1945年である)。また、同様に旧[[南ベトナム]]の寺社においても「[[越南共和]]」([[ベトナム共和国]]:[[1955年]] - [[1975年]])を非公式の紀年法として使用した例がある。 == 朝鮮半島 == 朝鮮半島では三国時代の[[高句麗]]の[[広開土王]]が西暦[[391年]]に「[[永楽 (高句麗)|永楽]]」という独自元号を使ったという記録が一番古いものであり、その後も複数の元号を使った史料がある。 [[新羅]]でも[[650年]]までは独自の元号が用いられていた。[[高麗]]も第4代の[[光宗 (高麗王)|光宗]]までは独自の元号が用いられたが、その後は中国の元号を用いた。[[李氏朝鮮]]では中国の元号を初めから用いたが、清に征服されその冊封を受けた後も、内心ではなおその正統性を認めずに国内文書では干支と国王の在位紀年が用いられ、また一部では明の[[崇禎帝|崇禎]]の元号を用い続けた(崇禎紀元)他、近代に入ると太祖[[李成桂]]が即位した[[1392年]]を元年とする「[[開国 (李氏朝鮮)|開国紀元]]」の使用が見られるようになった。[[日清戦争]]により清の影響下から離れると「開国紀元」が公用化され、次いで[[1896年]]の[[グレゴリオ暦]]採用に伴い「[[建陽]]」の元号を建てた。[[1897年]]の[[大韓帝国]]成立後は一世一元の制を採用して「[[光武 (元号)|光武]]」「[[隆熙]]」の元号が定められ、[[1910年]]の[[韓国併合]]まで使用された。日本に併合されていた期間には日本の元号が西暦と併せて用いられた。 独立後、[[朝鮮民主主義人民共和国]]は西暦を公式の紀年法としていたが、[[1997年]][[9月9日]]、[[金日成]]の生年である[[1912年]]を元年とする「[[主体暦]]」の採用を宣言し、西暦と併用している。 [[大韓民国]]では、建国当初の一時期([[1948年]][[8月15日]] - [[9月24日]])[[上海市|上海]]に[[大韓民国臨時政府]]が樹立された[[1919年]]を元年とする[[大韓民国 (年号)|大韓民国紀元]]を公用年号としたが、その後[[李承晩]]政権時代には神話上最初の君主とされる[[檀君]]が即位した[[紀元前2333年]]を元年とする[[檀君紀元]](檀紀)を採用した。[[1962年]]からは西暦に切り替えたが、その後も非公式に檀紀が使われることがある。 == 日本 == === 元号使用の歴史 === 『[[日本書紀]]』によれば、[[大化の改新]]([[645年]])の時に「[[大化]]」が用いられたのが最初であるとされる。以後、[[7世紀]]中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。[[文武天皇]]5年([[701年]])に「[[大宝 (日本)|大宝]]」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。 [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[持明院統]]([[北朝_(日本)|北朝]])、[[大覚寺統]]([[南朝_(日本)|南朝]])が独自に元号を制定したため、[[1331年]]から[[1392年]]まで2つの元号が並存した([[建武_(日本)|建武]]元年、同2年は、南北共通)。 [[室町時代]]には特に足利3代将軍[[足利義満|義満]]以降改元に幕府の影響が強まるが、一方で京都の幕府と対立した[[鎌倉府]]が改元を認めずに反抗すると言う事態も生じた。 [[江戸時代]]に入ると[[江戸幕府|幕府]]によって出された[[禁中並公家諸法度]]第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に介入することになった。 [[明治]]以前は、[[天皇]]の交代時以外にも随意に改元していた。しかし、明治に改元された時に[[一世一元の詔]]が発布され、明治以後は、新天皇の即位時に改元する[[一世一元の制]]に変更された。これにより、[[辛酉]]改元や[[甲子]]改元も廃止された。更に、明治5年には、西洋に合わせて太陽暦([[グレゴリオ暦]]、いわゆる西暦)へと移行することになり、''[[旧暦]](太陰暦)に代わる暦として永久にこれを採用する''との明治天皇の勅令によって採用された<ref>自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン(明治五年十一月九日改暦詔書) [http://www.ron.gr.jp/law/law/kaireki.htm 改暦詔書の全文]</ref>。それに伴い、元号や干支や[[神武天皇即位紀元]](皇紀、神武暦)<ref>[[1840年代]]から[[1860年代]]にかけては、[[藤田東湖]]など[[国学]]者が皇紀を用いていた。</ref>に加えて、キリスト紀元(西紀、西暦)の使用も始まった。しかし、太陽暦に移行しても、[[1910年代]]までは旧来の太陰暦での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。 [[第二次世界大戦]]後に、[[日本国憲法]]制定に伴う[[皇室典範]]の改正を以って、元号の法的根拠は消失した。しかし官民関わらず慣例的に「昭和」の元号が使用され続けた。だが第二次世界大戦終結の翌年に当たる[[1946年]]1月には、[[尾崎行雄]]が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた[[1945年]]限りで「昭和」の元号を廃止し、1946年を以って「新日本」の元年として、1946年以後は'''無期限'''の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、[[石橋湛山]]は、『[[東洋経済新報]]』1946年1月12日号のコラム「顕正義」において、元号の廃止と西暦の使用を主張した。尚、尾崎が提唱した「新日本」に相当する名称として、実際には「[[戦後]]」が用いられている。[[1950年]]2月下旬になると、参議院で元号の廃止が議題に上がった。しかし、[[1950年]]6月に[[朝鮮戦争]]が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。 その後論争を経て[[1979年]]に[[元号法]]が制定された。これは[[昭和天皇]]の高齢化と、世論調査で国民の87.5%が元号を使用している世論に鑑みたものである<ref>[http://www8.cao.go.jp/survey/s51/S51-08-51-10.html 「元号に関する世論調査」]</ref>。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、一世一元の制が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至る。 === 元号使用の現状 === 日本において、元号使用の法的根拠は元号法であり、使用しないことに対する罰条などはない。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている<ref>公文書の書式においては[[生年]]などを記載する際、西暦を選択しまたは記載するためのスペースは設けられていない。そのため、事実上西暦が禁止され元号の使用が強制されているという主張もある。</ref>。また、[[日本共産党]]などの[[左派]]系の団体などは、「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは好ましくない」と主張している<ref>「[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/991106_faq.html 元号にかんする考え方は?](1999年11月6日)、[http://www.jcp.or.jp/faq_box/01-12/1216-faq.html 日本共産党が西暦を使うのは?](2001年12月16日)」日本共産党中央委員会</ref>。 [[画像:Driving_License.jpg|thumb|200px|[[運転免許証]]に見る元号の使用例。]] 国、[[地方公共団体]]などの公文書ではほぼ全てにおいて元号が用いられる(反面、皇紀は用いられていない)が、[[特許庁]]が発行する[[公開特許公報]]は「平成22年(2010年)」の形で元号の後に西暦を併記している。また[[旅券]](パスポート)は日本国外で用いられることを想定しているため、例外的に名義人の生年が西暦で記載されている。[[住民基本台帳カード]]は有効期限が西暦で生年月日が元号で表記されている。また国内でもっぱら使用される器具に対する例外も存在しており、気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部などは、西暦を使用するよう規定した法令も存在する。 日本国内において西暦の併用が増加したのは、[[1964年]]の[[東京オリンピック]]に向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、[[1952年]]に分離された[[沖縄]]と[[小笠原諸島]]を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。それでも[[1976年]]に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、併用は7.1%、西暦のみは僅か2.5%だった。元号が[[昭和]]から[[平成]]に替わると、「西暦を併用する人」も次第に多くなってきた。[[21世紀]]に入った今日では[[インターネット]]の普及などもあり、日常において元号より「西暦を主に使用する人」も格段に増えている。しかしながら、前述の通り公文書では元号のみが使用され、さらに、改まった[[年賀状]]や縦書きの[[手紙]]など、元号を使用することが生活の一部となっており、「'''西暦のみ'''と厳格に区分して使用している人」は少数派である。 報道機関では[[朝日新聞]]が[[1976年]]に、[[毎日新聞]]が[[1978年]]に、[[読売新聞]]が[[1988年]]に、いずれも年明けから日付欄を「西暦(元号)」表記に改めた。それでも、昭和時代の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をするのが一般的であった。[[1989年]]の[[平成]]改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則西暦記載、日付欄は「2010年(平成22年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなったが、[[産経新聞]]や一部の[[地方紙]]<ref>産経新聞では、国内の記事に関しては元号のみの表記をしている。産経新聞系列の[[サンケイスポーツ]]も原則元号のみの表記であり、[[夕刊フジ]]も同様であったが、[[2007年]][[2月1日]]より原則西暦表記に変更している。</ref>や[[日本放送協会|NHK]]のニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成22年(2010年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。ただし産経新聞のウェブサイト「産経ニュース」では、ホームページは「2010年(平成22)04月04日」、個々の記事のタイトルの下には「2010.4.4 02:04」、記事の本文中では「平成22年」のように不統一が見受けられる。[[しんぶん赤旗]]は日付欄に元号と西暦を併記していた時期があったが、現在では西暦のみを表記している。 なお現在において伝統的な元号を用いている国は日本1ヶ国<ref>北朝鮮の主体歴や中華民国歴も現在も使われているが、これらは出自が異なる。</ref>だけである。もっとも元号制度の前提である「君主」が存在するのも東アジアでは日本のみとなっている。また西暦に対応して元号を'''[[和暦]]'''または'''邦暦'''と呼称することもある。 こうした中、次の理由を挙げて西暦を使用する者もいる。 *西暦には改元が無く紀年数は常に不変だが、元号は([[皇位継承]]を基準に)いつか改元されるものであるため、例えば“平成100年”([[2088年]])の様な遠い未来の紀年を正確に表現できない<ref>昭和時代には[[行政庁]]の政策計画に“昭和7n年”(昭和70年代)なるものまで存在した例や、[[荒俣宏]]の小説『[[帝都物語]]』に“昭和73年”([[1998年]]、実際の元号は平成10年)の用例がある。平成時代においても、高速道路の開通予定年度などで“平成3n年”(平成30年代)なるものが存在している。また運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)といった存在しない年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった</ref>。 *日本独自の紀年であるために国外では通用せず、外国人に理解されにくい。 *西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、[[改元#改元の種類|立年改元]]ではなく即日改元を行う現行の元号制度では、1つの西暦年に対し2つ以上の元号([[1989年]]=昭和64年・平成元年)が対応する場合もある。過去日本では[[749年]]に、[[天平]]→[[天平感宝]]→[[天平勝宝]]と、同一の西暦年に2度の改元が行われた例がある。現在は一世一元の改元であり、1年に2度天皇の即位が起こる可能性は極めて低いが、当該事項が発生した場合大きな混乱が予想される。これらは特にコンピュータで年を扱う際の事務処理や[[アルゴリズム]]が煩雑になる(『'''[[昭和100年問題]]'''』のような[[年問題]]も発生させている。後述)。 *改元に際して各種印刷物記載の旧元号を新元号に修正する作業のための時間と費用が生じること。また修正が困難である(いったん公に出回ったもので回収や再配布にコストがかかるもの)か修正に時間がかかる<ref>1989年に発行された硬貨がこの例に当てはまる。昭和天皇の崩御後も、「平成元年」の金型が出来上がるまでの期間は、刻印の製作が完了していなかった50円と100円硬貨以外の額面の硬貨は「昭和64年」の刻印で発行された。また平成最初の日である1989年1月8日が日曜日であり、新聞社によってはあらかじめ印刷されていた日曜版を後日配達したため、その日付けが「昭和64年1月8日」という幽日になった。</ref>ため旧元号の使用を続けざるを得ないケースがあり、混乱のもととなる。 *元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、西暦へ換算するか、前の(および間の)元号の継続年を知っていなければならない。 *[[年度]]の区切りが改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。 *改元があるために、時代の流れを切断し、[[世界史]]の中における[[日本史]]についての認識をさまたげる。 === 切手における元号 === [[画像:Image-Japaneas New year Stamp of 1956.jpg|thumb|110px|right|[[1955年]]に発行された[[1956年]]用[[年賀切手]]。西暦のみの表記である]] 日本で発行されている[[切手]]には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には[[万国郵便連合]]によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。 日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし[[国立公園]]切手の[[小型シート]]には皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが[[1949年]]頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、[[1959年]]に発行された今上天皇の皇太子時代の御成婚記念切手は元号のみの表示であるほか、年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、[[1960年]]頃からなくなった。 [[1979年]]に施行された元号法による政策のためか、[[1979年]]7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、理由は不明だが毎年発行される国際文通週間記念切手のみは西暦しか表記されていない。また[[1995年]]頃から切手シートの余白に「H21.7.23」とローマ字による発行年月日が、[[2000年]]からは「平成12年7月23日」といったように入るようになった。 なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかにはイスラム暦、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[主体暦]]、[[中華民国]]([[台湾]])の[[民国紀元]]などがある。 === 元号をめぐる事件 === *「大正16年元旦」に配達される予定であった[[年賀状|年賀郵便]]には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、年末に大正天皇が崩御したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達されたが、訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある。 *大正から昭和へ改元される際、東京日日新聞(現・[[毎日新聞]])が新しい元号を「光文」との誤報を流した(詳細は[[光文事件]]を参照) *盗難預金通帳を偽造された保険証で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「昭和元年6月1日」という存在しない日付であるのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例<ref>「[http://shihoushoshi.main.jp/blog/archives/000834.html 昭和元年6月1日]」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年2月23日</ref>がある。 === 西暦と元号の数え方 === 公文書の発行を申請し、または書面で各種の手続きを取るなどの際、申請者の生年・交付年・有効期限など年に関する項目は全て元号年で記載した方が役所側の対応を円滑に行わせる可能性が高い(逆に、西暦のままでは受理を拒否される可能性がある)。そのような場合の便宜的な計算法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年の西暦(下2ケタでよい)を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(その逆で西暦も割り出せる)。 * [[1867年]] = 慶応 3年 = 「明治 0年」 ** [[1878年]] : 78-67 = 明治11年 ** (明治11年 : 1867+11 = 1878年) ** [[1968年]](昭和43年)の項目の「できごと」の一覧からわかるように、この年の10月23日に「明治100年」の式典が行われたが、1968年は1868年(慶応4年=明治元年)から100年なので「明治101年」になる。「明治100年」に相当するのは「明治0年」に当たる[[1867年]](慶応3年)から100年経過した[[1967年]](昭和42年)である。 * [[1911年]] = 明治44年 = 「大正 0年」 ** [[1919年]] : 19-11 = 大正 8年 * [[1925年]] = 大正14年 = 「昭和 0年」 ** [[1947年]] : 47-25 = 昭和22年 ** 昭和は西暦と10進法で下1ケタが5ずれているので、比較的数えやすい。 * [[1988年]] = 昭和63年 = 「平成 0年」 ** [[1995年]] : 95-88 = 平成7年 ** [[2008年]] : 108-88 = 平成20年 ** 平成20年は昭和43年から40年経っているので「昭和83年」に相当する。 他にも * [[1900年]] = 明治33年([[19世紀]]最後の年) * [[1901年]] = 明治34年([[20世紀]]最初の年) * [[1945年]] = 昭和20年([[第二次世界大戦]]終戦の年) * [[2000年]] = 平成12年([[20世紀]]最後の年) * [[2001年]] = 平成13年([[21世紀]]最初の年) のように、歴史的な節目の年を対応させて覚える方法もある。 == コンピュータでの処理 == 元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便宜であるとされる。 *元号では改元される毎に新元号に換算する処理を追加する必要があるが、西暦ではそれが不要である。但しアプリケーションによっては、コンピュータの内部処理として特定の日付を基準とした(例えば[[Microsoft Excel|Excel]]では1900年1月1日を基準日とする)シリアル値で管理しているので、西暦であっても基準日以前を使用する場合は別途計算処理が必要となる。 *西暦を使用する外国の情報を利用する際に、元号で表記するには西暦から和暦に換算する処理が必要となる。 *[[オペレーティングシステム]]の大半は、ファイル作成日付に見られるように西暦を使用している。 これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、全ての[[公文書]]では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強い為、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されている[[オフィススイート]]に顕著である([[Microsoft Excel|Excel]]や[[OpenOffice.org]]など多種)。 なお、昭和期に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、[[1989年|1989年(平成元年=昭和64年)]]、[[1990年|1990年(平成2年=昭和65年)]]、[[1991年|1991年(平成3年=昭和66年)]]…として処理される。しかし、3桁になる[[2025年|2025年(平成37年=昭和100年)]]に誤作動が起きる可能性([[昭和100年問題]])が懸念されている。 また、2000以前のExcelは、年を2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、2000以降では「2008年3月1日」と処理されるが、それ以前では「平成8年(1996年)3月1日」と処理されていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == *[[所功]]『日本の年号 揺れ動く<元号>問題の原点』[[雄山閣]]、1977年、ISBN 4639002378 **続刊『年号の歴史 元号制度の史的研究』 雄山閣出版、1988年、増補版1996年 *[[村松剛]]ほか 『元号 いま問われているもの』 [[日本教文社]]、1977年 *[[瀧川政次郎]] 『元号考証』 永田書房 1974年 == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|紀年法}} *[[紀元]] *[[紀年法]] *[[改元]] *[[私年号]] *[[元号一覧 (日本)|日本の元号一覧]] *[[元号一覧 (中国)|中国の元号一覧]] *[[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮の元号一覧]] *[[元号一覧 (ベトナム)|ベトナムの元号一覧]] *[[元号から西暦への変換表]] {{DEFAULTSORT:けんこう}} [[Category:元号|* けんこう]] [[Category:紀年法]] [[Category:東アジア]] [[Category:東アジア史]] [[cs:Éra vlády]] [[de:Äraname]] [[en:Chinese era name]] [[fi:Kiinalainen aikakausinimi]] [[fr:Nianhao]] [[it:Niánhào]] [[ko:연호]] [[lt:Nianhao]] [[nl:Nian Hao]] [[no:Kinesiske æranavn]] [[pl:Ery chińskie]] [[pt:Nome de era]] [[ru:Девиз правления]] [[sr:Владарско име (Кина)]] [[uk:Ненґо]] [[vi:Niên hiệu]] [[zh:年号]] [[zh-classical:年號]]
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