レッド・ツェッペリン

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(時代を超えた音楽性)
(解散後、再結成)
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[[1985年]]の[[ライヴエイド]]で[[フィル・コリンズ]]がパフォーマンス中、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込み、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏した(ドラムスはトニー・トンプソンと[[フィル・コリンズ]]、「天国への階段」のベースギターはポール・マルチネスが担当)。この時は「LED ZEPPELIN」名義では無かった(フィル本人がツェッペリンと共演したいが為にイベントを利用したと後日語っている)が、その後、残りの元メンバー3人が集まった時のみ([[1988年]]からは、ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加し)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、何度か行われている。
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[[2003年]]には、ジミーの監修による映像作品「[[レッド・ツェッペリンDVD]]」が発売された。5時間20分にわたってツェッペリンの初期から全盛期のライヴが楽しめるたいへんな作品であるが、ツェッペリンが活躍していた頃はミュージシャンが映像を製作することがあまり盛んではなく、ジミー本人が「マッチ棒でお城を作るようなもの」を言うくらいの大変な苦労を経て製作された。どうしても映像が揃わない部分に、ブートレッグの映像が使用されている。また、この作業の時に見つかった音源を元にして、3枚組ライヴアルバム「[[伝説のライヴ]](原題How The West Was Won)」が製作された。
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[[2003年]]には、ジミーの監修による映像作品「[[レッド・ツェッペリンDVD]]」が発売された。5時間20分にわたってツェッペリンの初期から全盛期のライヴが楽しめるたいへんな作品であるが、ツェッペリンが活躍していた頃はミュージシャンが映像を製作することがあまり盛んではなく、ジミー本人が「マッチ棒でお城を作るようなもの」と言うくらいの大変な苦労を経て製作された。どうしても映像が揃わない部分に、ブートレッグの映像が使用されている。また、この作業の時に見つかった音源を元にして、3枚組ライヴアルバム「[[伝説のライヴ]](原題:How The West Was Won)」が製作された。
[[2007年]][[12月10日]]にはロンドンの[[O2アリーナ (ロンドン)|O2アリーナ]]にて、2006年12月に死去した[[アトランティック・レコード]]の創始者、[[アーメット・アーティガン]]を追悼するチャリティーライブとして、先述のメンバーで一夜限りの再結成が行われ、[[アンコール]]を含め約2時間の演奏をした。このライブには実に世界50ヶ国以上から彼等のファンが訪れ、インターネットを経由してチケットの購入を登録を済ませた約2500万人の応募者<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=1000034293 ツェッペリン、チケット申し込みが延長] - BARKSニュース 2007年9月17日</ref>から、抽選で約2万人の観客が選ばれた。観客の中にはチャリティーオークションに出品された1枚のペアチケットに、8万3000ポンド(約1900万円)もの値をつけ、購入した者が居たことでも話題となった。それまで数回の再結成を不本意なものと感じていた彼らは、この日のためにリハーサルを繰り返し、その結果全盛期を彷彿とさせる圧倒的なパフォーマンスを見せた<ref>[http://guitar.digimart.net/2007/12/_london_o2_arena_1.html ライブレポート/レッド・ツェッペリン London O2 Arena] - ギター・マガジン・オンライン 2007年12月27日</ref>。この再結成の話題は彼らの本国を含め世界各国の新聞やテレビの[[ニュース番組]]でも盛んに報道されるほどの騒ぎとなり、会場には[[ミック・ジャガー]]、[[デヴィッド・ギルモア]]、[[ノエル・ギャラガー]]、[[ケイト・モス]]、[[ナオミ・キャンベル]]など多数の有名著名人の姿があった<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=1000036344 ツェッペリンの再結成ライヴ、訪れたセレブたち] - BARKSニュース 2007年12月12日</ref>。
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2010年2月4日 (木) 06:06時点における版

Template:Infobox Musician 250px|right|thumbnail|レッド・ツェッペリンのメンバー4人を表したシンボル


レッド・ツェッペリンLed Zeppelin, 1968年 - 1980年)はイギリスロックバンド人気実力共に1970年代を代表する世界的なロックバンドである。略称は、ZepもしくはLed Zep

目次

概要

1970年代、世界的な人気を誇ったロックバンドである。日本においてもデビュー後すぐにスーパースターとなり、1971年の初来日公演は日本の音楽史上に残る伝説となった。

1960年代中頃、イギリスの若いミュージシャンの間では、本国アメリカでは忘れられていたブルーズがブームとなっていたが、それをさらにドラマティックにした彼らは後の世代にハードロックと言われる音楽を世界中に知らしめた。また彼らの楽曲にはアコースティックナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に渡る幅広い音楽性を持ち、1960年代のビートルズとはまた違った方法論でロックの限界を押し広げた。

レッド・ツェッペリン I』でデビューした彼らは音楽シーンに衝撃を与えると同時に広い人気を得たが、オフステージでの乱痴気騒ぎは酒池肉林を地で行く激しさで、プレスの眉をひそめさせた。また新人としては破格の、アルバム5枚で20万ドルというレコード会社との契約金は、ヒッピー文化の色濃い当時にそぐわぬ華々しさであり、その素行などは常にマスメディアからの攻撃の的であった。またテレビでの演奏を拒否し、プレスに対し辛辣な態度を取るツェッペリンにマスメディアの大勢は、熱狂する聴衆と市場に反してバンドの解散まで酷評し続けていた。

この様に、常にマスメディアと距離を置き、最初期を除きテレビでは殆ど演奏しなかったが、小さなクラブや大学のステージでの歌と演奏の凄まじさが口コミで伝わり、人気を獲得していった結果、アルバムセールスや観客動員数では大きな記録を残した。現代においてもツェッペリンのアルバムはアメリカだけでも年に100万枚以上を販売する実績を誇り、通算では1億枚を超える。こうした実績は、エルヴィス・プレスリービートルズ に匹敵するものである。なお、全世界でのアルバムセールスの累計は現在のところ3億枚を突破している<ref>レッドツェッペリン プレスリリース - ワーナーミュージック・ジャパン</ref>。

デビュー当時、アルバムは若者にとってまだまだ高価であったため、先ずはシングルを出し、それをラジオやテレビで流した上でレコードを買ってもらうのが普通であったが、彼らが本国イギリスで発売したシングルは「胸いっぱいの愛を」と「トランプルド・アンダー・フット」の2枚のみである(しかも「胸いっぱいの愛を」においてはイギリスではシングル発売直後、さしたる理由も発表なく回収されている)。 また、海賊盤CDブートレッグビデオなど、非公式に販売されている音源の種類も世界最多と言われている。 1995年には「ロックの殿堂」入りを果たし、2004年には日本ゴールドディスク大賞を受賞<ref>第18回日本ゴールドディスク大賞授賞式を開催 - Impress AV Watch 2004年3月11日</ref>。2005年にはグラミー賞(功労賞)を受賞。2006年にはUKミュージックの殿堂「UK Music Hall Of Fame」入りを果たしている。

メンバーと主な担当楽器

バンドのリーダーであり、ヤードバーズ歴代の3大ギタリストの一人。楽曲、ビジュアル面も含めたプロデュース能力に秀で、ツェッペリン全アルバムのプロデューサーでもある。キャリアの中期以降テクニカルな演奏能力の面では酷評されることも多いが、曲の印象を決定づけるリフの作成能力、曲想と調和したメロディアスなソロ演奏能力の面では高く評価される。1980年代はポール・ロジャースと共にザ・ファームを結成。その後、カヴァデール・ペイジ、ジミー・ペイジ&ブラック・クロウズなど様々なプロジェクトに参加するが、現在ではギタリストとしての活躍は少なく、過去の未発表音源のリリースやアルバムのリマスタリング作業にあたるなど、ツェッペリンの業績を良好な形で現代に伝える、ツェッペリンの守り手としての活動が主である。

その神がかり的な広い音域を自在に操る歌唱力、凄まじい声量、美しいルックスで世界中のロックファンを震撼させたが、喉を痛めた1973年以降は初期のアクロバテックなヴォーカルスタイルを変化させ、独特の味のある歌唱法を完成させた。元ツェッペリン中で唯一現在でもパーマネントなバンドを組んで精力的に活動している。解散後はツェッペリンでも見せていたケルト音楽民族音楽を大きく取り入れたサウンドを志向する事が多い。

ベースに限らず、幅広い楽器を嗜み、卓越した技術と安定した演奏力でツェッペリンの演奏を支えた。現在では、アレンジや若手バンドのプロデュースの仕事に加え、ライブを行ったり、自身のソロアルバムをリリースしたりとマイペースに活動している。

独自のグルーヴ感、タイム感を持ち、そのヘヴィなドラムスでツェッペリンの音楽における核としての役割を果たした。現在でも多くのドラマーに影響を与え続けている偉大なアーティスト。彼のドラミングはヒップホップシーンにおいてすら伝説となっている。1980年に死去。

来歴

結成までの経過

スタジオ・セッション・ギタリストを経てエリック・クラプトンジェフ・ベックに続く、ヤードバーズ最後のリードギタリストとなったジミー・ペイジが、同バンドの録音を経験するうち、レコード制作に要求される配慮やボーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる各パートのメンバーをそろえて結成されたものとされる。

ヤードバーズは1968年7月7日のコンサートを最後に、キース・レルフ(vo)とジム・マッカーティ(ds)が脱退。クリス・ドレヤ(b)とペイジは同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リード(vo.g)とプロコル・ハルムB.J.ウイルソン(ds)をメンバーに誘うが、テリーには自らのバンドのアメリカツアーが決まっていたため断られ、ウイルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた。

ところがすぐにテリーから「シンガーを見つけた」とペイジに電話があった。テリーはバクストンで共演したバンド・オブ・ジョイで歌っていたロバート・プラントを推薦。ペイジはステージをチェックしロバートを引き抜いた。そしてロバートがバンド・オブ・ジョイにいたことのあるドラマー、ジョン・ボーナムを推薦。プラントの紹介で1968年7月に北ロンドンのハムステッドにおけるアメリカのシンガーソングライター、ティム・ローズのUKツアーに参加しており、そのステージでドラムを叩くボーナムに会ったペイジは、彼をバンドに加えることを即座に決め、アメリカに滞在中であったピーター・グラントに国際電話をかけて報告した。だが、ボーナムの加入はすんなりとはいかず、ロバート・プラント曰く、当時何かの理由(一説には、当時テイスト結成前のロリー・ギャラガーとバンドを組みたがっていたとされる)でバンドへの加入を頑強に拒んでいたボーナムを、プラントとグラントの両名で合計40回近くにもなる電報での説得を行い、強引にツェッペリンに加入させたといわれる。最終的に「お前はこのバンドに入るんだよ!」とプラントが叱り付けてロンドンのスタジオまで引っ張っていき、より高いギャラが保証されるならとヤードバーズ入りを承諾。しかし、ドレヤがメンバー探しの途中にカメラマンに転向するとして脱退。そこで以前からペイジとスタジオ・セッションで顔を合わす機会の多かった、ベーシストキーボーディストジョン・ポール・ジョーンズを誘う。ジョーンズは、黒人音楽に精通するアレンジャーとしての地位を既に確立していて、ペイジ同様、若いながらも、売れっ子のスタジオセッションプレイヤーとして活躍していた。 ヤードバーズとしての契約が残っていたスカンジナビア・ツアーをNew Yardbirdsと名乗り行う。この時既にレッド・ツェッペリンのデビューアルバムの曲が演奏されている。(因みにそれにもかかわらずレコード会社がツェッペリンとヤードバーズで違うのは、ペイジが当時ヤードバーズの所属していたレコード会社の商業主義に嫌気が差していたからである)帰国後すぐにアルバムを録音。

1968年10月15日、サリー大学でのイギリス初のコンサートではNew Yardbirds featuring Led Zeppelinと名乗っている。ヤードバーズはアメリカのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートをしたほどのビッグ・ネームであったが、古いポップグループのイメージが残る名前と決別したかったため改名したといわれている。

ヤードバーズの音楽性を継承しつつも、ブルースベースのハードロックをより推し進めた彼らの1stアルバムにおける音楽性について、同じミッキー・モスト・プロダクションにいた(第一期)ジェフ・ベック・グループがヒントであったといわれることがある(ジェフ・ベックはツェッペリンのステージを見て「あれは俺のパクリだ」と言ったらしい)。しかし、ツェッペリン結成時の状況を鑑みるに、音楽性が似通っていることは偶然であった可能性も否定できない。

バンド名の由来

1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のためジェフとジミー・ペイジギター)、ジョン・ポール・ジョーンズベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーンドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の風船みたいに急降下だろうぜ、いや、鉛の飛行船(lead zeppelin)かな?」と発言したことによる。「going like lead Zeppelin」はムーンの口癖であったという。

また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史に、ファミリーネームの無断使用で訴えられかけて一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあった。エヴァは法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言う。

デビュー後の快進撃

[[ファイル:LedZepMontreaux.jpg|250px|right|thumb|1970年3月7日モントルー公演より]] 1968年10月に録音したアルバムのテープはペイジとマネージャーのピーター・グラントとの共同出資によるものであった。そのテープを持って渡米したグラントは当時としては破格の20万ドル(当時の日本円にして約7200万円)でアトランティック・レコードと契約。グラントがマネージメントしていたジェフ・ベックがヴァニラ・ファッジとのアメリカツアーに参加できなくなった代わりにレッド・ツェッペリンを送り込み、12月26日から参加させる。このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、1969年1月12日にアメリカで発売予定のデビューアルバムに5万枚の予約が入り全米10位、イギリスでは3月28日に発売され、全英6位となっている。

1969年10月に発売されたセカンドアルバムはビートルズのアビーロードを蹴落とし英米共に7週連続1位、1970年10月発売のサードアルバムも英米共に1位となった。1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベストグループ1位となった。その後も解散するまで全てのアルバムが巨大セールスを記録、コンサートツアーでの観客動員数もトップであった。

音楽的独自性

各メンバーの担当パートにおける、実力に裏打ちされたオーソリティーとしての感性や音楽性、特にドラムスの独特のタイム感覚(グルーブ感)、そして、当初ペイジが中心になり、後にプラント、ジョーンズそしてボンゾも参加しだした楽曲の完成度は、「ブリテッシュハードロックの聖域」といわれるほど独自なもので、各メンバーのピーク時のコピーは、現在に至っても当の本人すら不可能なものであった。インプロヴィゼーション、つまり即興演奏を得意としたバンドであり、ライブにおける「胸いっぱいの愛を」や「幻惑されて」、「ノー・クォーター」などは30分以上に及ぶこともあった。ただ、ロバートが喉を痛め、かつてのような神がかり的な音域や声量を失ってしまった後の1973年以降のライブでは、ジミーのプレイも年を追うごとに雑になってしまう。一部では「デビューから最後まで演奏能力の向上することのなかった唯一のバンド」との評価もある。一般に単なるハードロックバンドの一種であると誤解されやすいが、独特のタイム感、リズム感を持つツェッペリンには、典型的なハードロックにとどまらない楽曲が非常に多く、またアコースティックギター中心のナンバーにも力を入れ、トラッド風、メローなバラード調をはじめ、中東風民族音楽的要素、踊れないファンク調等々、特に5枚目のアルバム以降は様々な音楽を意図的に取り入れ(正確には、あらゆる音楽を自分流に作曲・演奏できた)、1980年に解散するまで貪欲にその音楽的独自性を高めていた。またツェッペリンは結成当初トラッド・フォーク・ロックバンドとして活動する構想もあったといわれている。これはジミー・ペイジのフォーク趣味とプラントのケルト志向、民族音楽志向もあってのことであったが、結果的にジョン・ボーナムという最高のドラマーを得たことにより、バンドは轟音のロックを基本的に志向することになる。しかしこのペイジとプラントのフォーク・トラッド志向は「天国への階段」をはじめ、ツェッペリンの様々な曲に大きく影響している。彼らの多様な音楽性を物語るエピソードとして、6枚目のアルバム「フィジカル・グラフィティ」に収録された「トランプルド・アンダー・フット」は当時ニューヨークのアンダーグラウンドで黒人の間で盛り上がっていたディスコ(ここで言われるディスコとは日本で通常使用される風俗としてのディスコではなく、いわゆるクラブ音楽としてのディスコ。ディスコの項参照)で頻繁にプレイされ、現在に至るもディスコ音楽においてDJ達からクラシックとして敬意を払われ、プレイされ続けてきている。本人たちも意図しない形で他のジャンルの名曲を作り出したという形であり、彼らのハードロックはもとよりロックにもとどまらない音楽的、リズム的な懐の広さを良く表している。

特に4thアルバム収録の「天国への階段」は、かのカラヤンをして「私がこの曲をアレンジしたとしても、全く同様になったことであろう」と言わしめたTemplate:要出典ロックの名曲であり、近年での再結成時においても、存命中のメンバー3名がそろった時にしか(歌入りで)完奏されない、彼らのシンボル的曲である。

活動の歴史

250px|right|thumbnail|1977年の北米ツアーでのロバート・プラントとジミー・ペイジ ライヴツアーの行われた年は、以下の通り

  • 1968年
  • 1969年
  • 1970年
  • 1971年初来日。
  • 1972年二度目で、「レッド・ツェッペリン」としては最後の来日。
  • 1973年前年から兆候はあったが、この年にプラントの喉が支障をきたしてしまい、往年の歌い方がほぼ不可能になってしまう。プラントは73年のアメリカツアーの後、傷めた喉の手術をしたと82年に雑誌のインタビューで告白。
  • 1975年ギリシャロードス島でプラントが自動車の運転中事故に遭い両脚を折る重態となりワールドツアー後半で中止。
  • 1977年若干、ボーカルのコンディションが75年より回復。だがツアー後半、プラントの長男カラックがウィルス性感染症で死去、その後の活動は無期限で中止となる。
  • 1979年イギリスネブワースでの復活コンサートの2回を含む4回のライブのみ。
  • 1980年この年のヨーロッパ・ツアーの後、アメリカツアーが予定されていたが、ジョン・ボーナムの死によってキャンセルとなり、活動を終了。

解散

1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死(過剰飲酒後の就寝時に吐瀉物が喉に詰まったための窒息死)によって、同年12月4日に解散を表明した。後継者として何名かのドラマーが名乗りを上げ、バンドでも人選について議論されたが、ボーナムのドラミングに見られるグルーブ感やノリには余人の模倣を許さないほどの特徴があり、彼のバンドサウンドへの貢献度は非常に高かったため、「彼なしでのバンド継続は無理」と判断されたもの。1982年には彼への追悼アルバム『CODA』が発表されている。

解散後、再結成

270px|right|thumb|(左から)ジョン・ポール・ジョーンズ、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ(2007年のレッド・ツェッペリン再結成コンサートより) 1985年ライヴエイドフィル・コリンズがパフォーマンス中、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込み、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏した(ドラムスはトニー・トンプソンとフィル・コリンズ、「天国への階段」のベースギターはポール・マルチネスが担当)。この時は「LED ZEPPELIN」名義では無かった(フィル本人がツェッペリンと共演したいが為にイベントを利用したと後日語っている)が、その後、残りの元メンバー3人が集まった時のみ(1988年からは、ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加し)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、何度か行われている。

2003年には、ジミーの監修による映像作品「レッド・ツェッペリンDVD」が発売された。5時間20分にわたってツェッペリンの初期から全盛期のライヴが楽しめるたいへんな作品であるが、ツェッペリンが活躍していた頃はミュージシャンが映像を製作することがあまり盛んではなく、ジミー本人が「マッチ棒でお城を作るようなもの」と言うくらいの大変な苦労を経て製作された。どうしても映像が揃わない部分に、ブートレッグの映像が使用されている。また、この作業の時に見つかった音源を元にして、3枚組ライヴアルバム「伝説のライヴ(原題:How The West Was Won)」が製作された。

2007年12月10日にはロンドンのO2アリーナにて、2006年12月に死去したアトランティック・レコードの創始者、アーメット・アーティガンを追悼するチャリティーライブとして、先述のメンバーで一夜限りの再結成が行われ、アンコールを含め約2時間の演奏をした。このライブには実に世界50ヶ国以上から彼等のファンが訪れ、インターネットを経由してチケットの購入を登録を済ませた約2500万人の応募者<ref>ツェッペリン、チケット申し込みが延長 - BARKSニュース 2007年9月17日</ref>から、抽選で約2万人の観客が選ばれた。観客の中にはチャリティーオークションに出品された1枚のペアチケットに、8万3000ポンド(約1900万円)もの値をつけ、購入した者が居たことでも話題となった。それまで数回の再結成を不本意なものと感じていた彼らは、この日のためにリハーサルを繰り返し、その結果全盛期を彷彿とさせる圧倒的なパフォーマンスを見せた<ref>ライブレポート/レッド・ツェッペリン London O2 Arena - ギター・マガジン・オンライン 2007年12月27日</ref>。この再結成の話題は彼らの本国を含め世界各国の新聞やテレビのニュース番組でも盛んに報道されるほどの騒ぎとなり、会場にはミック・ジャガーデヴィッド・ギルモアノエル・ギャラガーケイト・モスナオミ・キャンベルなど多数の有名著名人の姿があった<ref>ツェッペリンの再結成ライヴ、訪れたセレブたち - BARKSニュース 2007年12月12日</ref>。

影響と評価、功罪

政治性に関して

ツェッペリンの残した音楽性や奏法が、いまなお後進のミュージシャンに多大な影響を与えたのは論を俟たないが、いわゆる政治や社会性に触発されたと思しきストレートなメッセージ作品はほとんど残していない。

これは1980年代以降の商業ベースが定着したシーンにおいてさして特筆すべきことでもないが、元来ロックミュージックはエルヴィス・プレスリーが白人音楽に黒人の「ブルース」テイストを融合させセクシャルに歌いあげた事件以降、タブーへの挑戦や反逆性を秘めたジャンルであった。とくにツェッペリンが結成された1960年代後半はラブ・アンド・ピースウッドストックなどに代表される反戦メッセージや、ヒッピー文化を背景にした理想の追求が音楽面にとどまらず世代的ムーブメントにまで昇華したのであるが、後述のように今日彼らの活動や高い音楽性がそれら政治思想の影響として評価される例はほとんど稀である。その極めて政治的に中庸なバンドコンセプトもまた、現在まで連なるHR/HMの様式のひとつとして無意識に継承されているといえるかも知れない。

ただし、その中でも1971年9月の来日時自ら広島でチャリティーコンサートを開き、当時の金額にして約700万円の売上金を広島市役所を通して原爆被災者に寄付したという事実は、日本人にとっては忘れてはいけない事である。(ただし単なる税金対策に過ぎず被災者は利用されただけとの指摘も多い。)<ref>中国新聞記事抜粋、2003/08/15 (金) その2</ref><ref>谷口悟「Led Zeppelinトリビュート・イン・ヒロシマ開催趣旨」 LED ZEPPELINルネッサンス。</ref>。 前月1日ニューヨークジョージ・ハリスンによるバングラデシュ・コンサートが先立って開催されており、世相としても興味深いところだ。

時代を超えた音楽性

彼らの長髪や乱痴気騒ぎは「反社会的」ではあったが、1960年代から1970年代前半に流行していたプロテストソングのような反体制的な歌を特にやっていたわけではない。革新的なサウンド、高い演奏能力と同時にケルト文学の造詣が深いロバート・プラントの歌詞は今でも高く評価されている。「天国への階段」の歌詞のみが資本主義に対する警鐘であると評されるが、後のインタービューで「深い意味なんて無い」と語っているようにプラントに明確な政治的意図があったとは考えにくい。また、ペイジやプラントが歌詞や行動を通じてほめのかしていた神秘主義アレイスター・クロウリーへの傾倒など)やケルト趣味は1970年代前半においてはリスナーにバンドの背景に神秘的で得体の知れない危険なイメージを与えていた。

また1976-1977年にかけて肥大しすぎたロックは逆に当時の若いリスナーの反感を買い、パンク・ロックニュー・ウェイヴが全盛期だった。ローリング・ストーンズなどと並んで「ダイナソー(恐竜=時代遅れ)・ロック」、「オールド・ウェイヴ」と揶揄されてしまうこととなる。その当時、イギリスは未曾有の大不況の真っ只中であった。路上には職を求める若者があふれ、社会全体が不満に包まれていた。そんな中で巨大になりすぎ、余りにも音楽として純粋、理想主義でありすぎたツェッペリンの音楽はリアリティを失っていったのである。イギリスではストラングラーズザ・クラッシュセックス・ピストルズなど、政治やストリートの「リアル」を反映した「パンク」ロックが人気を集め、アメリカではディスコ・ブームが起こり、イギリス出身のローリング・ストーンズロッド・スチュワートまでもがディスコ・ソングを歌った。しかし、レッド・ツェッペリンはそんな流行には目もくれず、2年間たっぷりと休養し、1979年、アルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」を発表、その売上は英米のみならず世界でトップを独走した。

1990年代にはパンク〜ニューウェーブを通過したオルタナティブ・ロックが世界を席巻したが、その中でもニルヴァーナパール・ジャムに代表されるグランジロッカーたちは、モトリー・クルーボン・ジョビといったヘアメタルバンドを軽蔑・酷評しながらも、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったブルース性を残したハードロックを崇拝し、その影響を口にしている。2000年代にはガレージ・ロック・リバイバルの代表格バンド、ホワイト・ストライプスジャック・ホワイトが再結成ライブに際し「ツェッペリンを嫌う奴は信用していない」などと発言(ジミー・ペイジもジャック・ホワイトに関しては「最近のギタリストではNo1」などと最大級の賛辞を送っている)。依然後進への影響力は大きく、解散後の1980年代、1990年代、2000年代も世界でアルバムは売れ続け、時代を超えた音楽家として別格の地位を保っている。

ペイジの録音技術への拘りから、ツェッペリンの音源は同時代の水準に比べると遥かに高品質であり、それが後の時代のリスナーの鑑賞に耐える要因の一つになっている。

再評価

1980 年代中期前後以降、ロックではなくR&Bヒップホップなどのシーンにおいて、レッド・ツェッペリン独自のビートリズム、グルーヴ感が再評価され、「レヴィー・ブレイク」などがビースティ・ボーイズなどによりサンプリングされるようになり(現在では「レヴィー・ブレイク」のドラムスは、サンプリングにおけるスタンダードの一つになっている)、ツェッペリンの音楽性は、再び日の目を見ることとなった。だが、1980年代末から1990年代初めのロックシーンでは、ロックが政治的・学問的様相を帯びて来るにしたがって、メディア媒体ではとかくレッド・ツェッペリンの影響は軽視されがちであった。U2ブルース・スプリングスティーンに比べて余りにも「反骨精神」がなく、ニルヴァーナに比べて「リアル」でもないとされてしまったのである(カート・コバーンがその影響を口にするなど、メディア外では当時も彼らの影響を受けたと公言するアーティストは数多かったが)。現在ではそのような批判は薄れており、殿堂的ロックバンドとして定着した感がある<ref>ツェッペリンを好きじゃない奴は信用していない - BARKSニュース 2007年11月13日]</ref>。また、2005年にイギリスのロック専門ラジオ局、Planet Rockにおいて行われた、リスナーによる投票で各パートにおけるベストパフォーマーを選出し、架空の究極バンドを作ると言う趣旨の企画「究極のバンド」アンケートにおいて、結果的にレッド・ツェッペリンのメンバーが各パートで1位を独占するという現象がおこり、「究極のバンド」は実在していたという結果が出された<ref>夢のスーパー・グループはレッド・ツェッペリン - BARKSニュース 2005年7月12日</ref>。日本においては、ディープ・パープルなどのいわゆる1970年代ハードロックバンド群と一緒にして語られることもあるが、世界的にはツェッペリンはジャンルを越えたロックバンドとして、上記にもあるような様々なジャンルのミュージシャンや音楽スタイルに影響を与えた、偉大な存在として評価されている。しかしながら、同時期に活躍したエリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどを含むミュージシャンからは、無断盗用のせいか評価の対象にもされていない。

ディスコグラフィー

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タイトル 備考
レッド・ツェッペリン I
Led Zeppelin|
1969年1月12日発売/収録曲ジャケット
ニュー・ヤードバーズでのツアーで演奏していた曲を中心にレコーディングしたため、レコーディング作業はわずか36時間で終えられた。全米売上:800万枚(米国内での生産分。輸入盤やブートレッグの売上は含まない)
レッド・ツェッペリン II
Led Zeppelin II
1969年10月22日発売/収録曲ジャケット
英米でともに初となるアルバム・チャート1位を獲得。全米売上:1300万枚
レッド・ツェッペリン III
Led Zeppelin III
1970年10月5日発売/収録曲ジャケット
「I」「II」で確立した「ハード・ロック」のイメージに拘泥することなくアコースティック・サウンドを追及したため、発売当時は賛否両論となった。全米売上:650万枚
レッド・ツェッペリン IV
Led Zeppelin IV
1971年, 11月8日発売/収録曲ジャケット
邦題は便宜上付けられたものである。正式なタイトル名は付けられていない無題のアルバムである。レコード版では内袋に記された天国への階段 の歌詞と収録曲の曲名以外に、ジャケットには一切の文字情報が記されていない。ここに記されたメンバー四人のシンボルマーク75px|から通称「フォー・シンボルズ」、「フォー・ルーンズ」、「ルーンドアルバム」、"Zoso"などとも呼ばれている。全米売上:2320万枚
聖なる館
Houses of the Holy
1973年3月28日発売/収録曲ジャケット
ヒプノシスが制作したジャケットで裸の子供の写真が使用されているため、ジャケットに帯をつけたり写真の上にタイトルを重ねて子供を隠すなどの配慮がなされた。全米売上:1200万枚
フィジカル・グラフィティ
Physical Graffiti
1975年2月24日発売/収録曲ジャケット
レコード、CD共に2枚組。新録音曲がアルバム1枚分あったが、サード・アルバムから前作アルバムまでの録音曲を足して2枚組にしたもの。全米売上:1630万枚
プレゼンス
Presence
1976年3月31日発売/収録曲ジャケット
後期の傑作のひとつであり、ジミー・ペイジ自身がもっとも気に入っている作品といわれる。「アキレス最後の戦い」はじめ名曲揃いである。シンプルだが重量感のあるサウンドで、とりわけヘヴィメタルファンやアーティストの間で人気が高く、影響が大きい。全米売上:350万枚
永遠の詩 (狂熱のライヴ)
The Song Remains the Same
1976年9月21日発売/収録曲ジャケット
1973年の全米ツアー最終の3日間、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで録音されたライヴ音源を元に作られた映画のサウンドトラック。ライヴ音源に手の込んだ後処理がなされており、映像版とは一部曲目が異なっている。

2007年11月、未収録曲6曲を加え、さらにリマスタリング&リミックスを施した「最強盤」として再リリースされた。

イン・スルー・ジ・アウト・ドア
In Through the Out Door
1979年8月15日発売/収録曲ジャケット
アナログ盤のアルバムジャケットは6種類あり、紙袋から出すまでどのジャケットか分からない仕組みであった。ジョン・ポール・ジョーンズの主導でレコーディングが行われたため、シンセサイザーがフィーチャーされた異色アルバムであるが、このアルバム発売直前の米レコード業界は低迷していたが、このアルバムと続いて全米ナンバー1に輝いたイーグルスの「ザ・ロング・ラン」により活況を取り戻したのが、この1979年の特徴であった。全米売上:650万枚
最終楽章 (コーダ)
Coda
1982年11月19日発売/収録曲ジャケット
結果的には「ボーナムに対する追悼盤」の形になってしまったが、セカンドから前作のころまでに作られた未発表曲を集めたもの。全米売上:150万枚
BBCライヴ
BBC Sessions
1997年11月11日発売/収録曲ジャケット
1969年1971年のBBCラジオでの放送用音源を纏めたもの。CD2枚組。完収録ではなく数曲が外されている。1969年のBBCでの放送はモノラルで行われたが、CDではステレオで収録されている。日本でも1974年にラジオ関東(ラジオ日本)の番組、「BBC・イン・コンサート」で、1971年4月1日に公開録音された音源の一部が初放送され、その後BBCから放送権を得たNHK-FMラジオにより1980年代までに数回放送された。
伝説のライヴ
How the West Was Won
2003年5月27日発売/収録曲ジャケット
3枚組。1972年アメリカツアーでのLAフォーラム、ロングビーチなどでのライヴを収録。当時のステージでの典型的な演奏曲目はほぼ網羅されており、全盛期のバンドのライブ演奏が堪能できる。

脚注

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関連項目

外部リンク

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