UFJ銀行

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thumb|319px|UFJ銀行本店(旧東海銀行本店)
現三菱東京UFJ銀行名古屋営業部

UFJ銀行(ユーエフジェイぎんこう、英称UFJ Bank Limited)は、2005年まで存在した日本都市銀行である。2002年1月15日三和銀行東海銀行合併して誕生した。存続会社は三和銀行であった。登記上の商号株式会社ユーエフジェイ銀行

目次

概要

本店は愛知県名古屋市中区にある旧東海銀行本店。実質的な本社機構は東京都千代田区大手町の東京本部(旧三和銀行東京本部)であった<ref>

  • 旧三和・旧東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を、名古屋にあった旧東海銀行本店としつつも、本社機能は事実上旧三和銀行東京本部(サンワ東京ビル)に置いたためUFJは、本店営業部と呼称する営業店を設けなかった。
    • 旧三和の「本店営業部」「本店公務部」は、「大阪営業部」「大阪公務部」へ、旧東海の「本店営業部」「本店公務部」は、「名古屋営業部」「東海公務部」へと、それぞれ合併時に改称された。
    • 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の旧三和店舗であり、旧東海の「東京営業部」(大手町の東海朝日ビルに所在。2006年に朝日生命大手町ビルへ改称)は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧三和・東京営業部に統合・閉鎖された。
    • さらに、旧東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、旧三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。
    • そして、三菱東京UFJ銀行に移行後の2007年に「東京公務部」は、神田鍛冶町にある旧東京三菱の「神田駅前支店」を持つ、神田三菱ビルディング内に移転している。

</ref>。 UFJは“United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン、和訳:日本金融連合)”の頭文字を取って名付けた<ref>大阪ではユニバーサル・スタジオ・ジャパン(通称:USJ)としばしば混同されていた。ちなみに、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン内には同パーク開業当初から旧三和銀行の店舗外ATMが設置されている(※現在の名称は三菱東京UFJ銀行大阪営業部ユニバーサル・スタジオ・ジャパン出張所)。また近年ではUSJだけではなく、三菱UFJフィナンシャル・グループの略称である「MUFG」と混同され「三菱東京UFG銀行」や、「東京三菱UFJ銀行」などと誤用されるケースも散見される。</ref>。社名発表当時、「英文法的におかしいのではないか」と多くの批判もあったが、旧UFJ銀行側は「固有名詞ではこういった用法は珍しくない」としている。

UFJ銀行は、発足当初から、「こたえていくチカラ。」をコーポレートステートメントに定めていた。

2006年1月1日東京三菱銀行に合併されて解散した。以後の歴史などについては三菱東京UFJ銀行を、旧三和銀行ならびに旧東海銀行の歴史などについては、三和銀行東海銀行の各項目を参照。

三行経営統合の破談

当初は、1998年9月にあさひ銀行(現:りそな銀行・現:埼玉りそな銀行)と東海銀行2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意(東海あさひ銀行構想)、2001年秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。

しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月に第一勧業銀行富士銀行日本興業銀行による3行統合(みずほフィナンシャルグループ)、続く同年10月にはさくら銀行住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。

こうした金融再編に取り残されていたのは、拓銀破綻後は都銀下位行に甘んじた大和銀行と、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった<ref>1990年代前半に富士銀行との合併も検討されたが、この時は公正取引委員会の許可が出ずご破算になった。また、1998年頃、東京三菱銀行との交渉もあったが、東京三菱側が合併間もないこともあり、雲散霧消した。しかし、この事が後の救済合併の伏線になる。</ref>。

再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身<ref>当時、3行の首脳であった室町鐘緒・三和銀行頭取、西垣覚・東海銀行会長、伊藤龍郎・あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。</ref>であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが首都圏東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大和銀行の参加を呼び掛けた。

しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀系の金融各社で構成される「フィナンシャルワン」へ東海・あさひ両行の参入検討を図った。

その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したために、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱<ref>この背景には、あさひ行内で主導権を握りつつあった旧埼玉銀行出身者及び埼玉財界の意向が働いた。</ref>。結局、三和銀行と東海銀行の合併という形で決着した。

この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には不良債権処理による損失から公的資金注入の優先株に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と金融持株会社大和銀ホールディングスを設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は2003年5月のりそなショック発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。

UFJグループ発足

2001年4月2日に上場企業であった三和銀行東海銀行東洋信託銀行株式を、新設した金融持株会社UFJホールディングス株式移転させ、経営統合を行った。<ref>後年に救済合併される結果となった三菱東京フィナンシャルグループも、同日に東京三菱銀行・三菱信託銀行らの株式移転によって発足している。</ref> また、三和銀行・東海銀行はシステム統合準備のため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止させ、ハッピーマンデー制度による成人の日明けの2002年1月15日という変則的な日付で合併し、UFJ銀行が発足した。

合併時のシステム統合

三和・東海銀行が合併した2002年1月15日に両行の基幹システム(旧三和が日立、旧東海が日本IBM)を旧三和銀行系に統合している。両行とも日立製作所を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。
これによって顧客は、旧三和・旧東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。口座自動振替の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。

後の同年4月に発生したみずほ銀行のシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させたみずほフィナンシャルグループの役員陣は非難されることになる。

不良債権処理の遅れ

三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、旧三和・旧東海はそれぞれ近畿地方東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。

また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエー、ニチメン・日商岩井(現・双日)、日本信販(現・三菱UFJニコス)、アプラス大京藤和不動産ミサワホーム国際興業国際自動車などみどり会構成企業や三和銀行親密先に対しての貸し出しの焦げ付きや過剰な貸付、それらに対する損失引き当て不足が当初から懸念されており、多額の不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。

特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5,000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、UFJ銀行の発足によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。

2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任し、同年10月には「金融再生プログラム」が発表される。大手行に対して、2005年3月末までに不良債権残高を半減するよう要求した。これを受け、みずほフィナンシャルグループが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。

ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1,200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した大和銀ホールディングスは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「りそなショック」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。

結果、日本の株式市場はりそなショック後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1,300億円程度であった。

派閥抗争

当時のUFJ銀行内は旧三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧東海の1.6倍あった旧三和が主導権を握っていた。旧三和行員は、“緑化作戦”(旧三和のロゴカラーが色であることによる)と称して旧東海行員を放逐し、愛知県を中心に旧東海店舗を30店近く統廃合していた。こうした動きは、名古屋財界からの不満を招き、東海3県における預貸シェアは低下していく。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。

金融庁との対立と特別検査

2003年10月に実施された金融庁特別検査では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」<ref>金融庁に提出した経営計画の目標数値が2期連続して3割以上下回った場合、その経営責任を問うというもの。</ref>により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。

この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にMOF担だった早川潜常務(一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」・「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。

岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧三和銀行は、尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件等、過去の金融スキャンダルでは常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年の大蔵省接待汚職の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に東京地検特捜部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興をかっていた。また早川自身も、金融当局に対してはかねてより反抗的であった。

こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、敵対派閥からと見られる内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場の検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4,000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年4月、今度は中日新聞がスクープの形でUFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ金融庁に約束した利益が未達となり寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。

結局、2004年の3月期決算では不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって約4,000億円の赤字となった。この2期連続の赤字となり経営責任を取って、2004年5月に頭取の寺西正司は退任に追いこまれ、この検査忌避によりUFJ銀行は一部業務停止を含む行政処分を受け、さらに、2004年10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が銀行法違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受けた<ref>2005年4月、一審・東京地裁は岡崎元副頭取に懲役10月・執行猶予3年、早川・稲葉元役員に懲役8月・執行猶予3年、法人としてのUFJ銀行に罰金9,000万円とする判決を言い渡した。3名とUFJ銀行は控訴せず判決は確定した。</ref>。

旧三和銀行の行風

メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する都銀大手6行(他は東京三菱銀行第一勧業銀行さくら銀行住友銀行富士銀行)の中で、旧三和銀行は唯一地方銀行の業容が拡大した銀行であった。このため、旧財閥系や特殊銀行を起源とする他行<ref>東京三菱・さくら(太陽神戸銀行三井銀行が合併)・住友・富士(旧安田)は旧財閥系であり、第一勧銀(第一銀行日本勧業銀行が合併)は前身の第一が1873年8月1日に営業開始した日本初の商業銀行で、勧銀は旧特殊銀行である。</ref>に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて、学閥内の繋がりが密接になり、人事抗争を展開する事になる。他行はこれを“三和のDNA”と蔑称した。

特に、渡辺滉頭取(一橋大卒)時代、企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に、一橋大・京都大出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は、高杉良の小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ銀行最後の頭取となる沖原隆宗が居た)を補佐官として登用し、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で都市銀行トップを実現した。

こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は、1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等、陰惨を極めた。

結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒名古屋大卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。

室町の後任は、秘書室長経験者だった寺西正司大阪大卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應大卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し、旧三和でフィナンシャルワンを立ち上げるなど、かつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をアプラスに転出させ<ref>後にアプラスの親会社となった新生銀行の副会長に転出、後に同社会長。新生銀行会長就任後にアプラス会長も兼任していたが、2008年6月にいずれも退任している。</ref>、また、旧東海で合併を担当した藤田泰久常務(京都大卒)に事実上退行を迫り<ref>2007年6月よりトヨタファイナンス社長。</ref>、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。

前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任し、沖原隆宗慶應大卒。現在は、三菱東京UFJ銀行の代表権のない副会長)が取締役付きでないにも関わらず、常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時、沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ。」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている。」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる。」などとのべ不良債権処理の断行を示唆した。

しかし、人事面で見れば、寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を日本信販会長へ、中村常務をJCB専務への転出<ref>後にイオン顧問として迎えられ、現在はイオン銀行副社長に就任。</ref>を決定し、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。

こうした旧態依然たる人事施策は、再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなく、UFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊し、派閥抗争の余裕すら失っていく。

三菱東京FGによる救済

住信へのUFJ信託売却と撤回

前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な自己資本比率8%の維持が困難となった。このため、2004年5月21日に持株会社のUFJホールディングスUFJ信託銀行住友信託銀行へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められて、2004年3月期の自己資本比率割れを何とか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権はダイエー双日で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。

この売却発表から2ヶ月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却を撤回と、三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)UFJホールディングス(UFJHD)の経営統合で大筋合意し、翌7月16日三菱東京フィナンシャル・グループと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年8月12日、2005年10月をメドにMTFGが三菱UFJホールディングス(当時の仮称)へ商号変更のうえ、UFJHDは吸収合併される事に基本合意し、「三菱東京UFJ銀行」に行名を改める予定となった。

これに対して、住友信託側が東京地方裁判所に交渉差し止めを求める仮処分申請を行ない、東京地裁は2004年7月27日、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、8月4日に却下された。
さらに、UFJ側は即日東京高等裁判所抗告し、2004年8月11日、東京高裁は、地裁の決定を取消し、三菱東京とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、最高裁判所に特別抗告を行ったが、最高裁は8月30日、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、2006年11月21日に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。

三井住友FGによる経営統合の申入れ

2004年7月30日、電撃的に三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった<ref>前日8月23日の株価を基準にすれば、MTFG:UFJは「1:0.48」、SMFG:UFJは「1:0.78」だった。</ref>。8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。

2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。増資は、公開企業のUFJHDに対してではなく、その傘下の非公開企業であるUFJ銀行に優先株7,000億円で行い、さらに、TOB(公開買い付け)によりUFJホールディングス株が20%超買い占められた場合は、その優先株に議決権が発生するポイズンピルを盛り込ませる。

2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD・300株を取得、「委任状争奪戦」(プロキシーファイト)を仕掛ける姿勢を鮮明にする。しかし、UFJ側にしてみれば先の住友信託に続く2度目の契約反故は許されない道義的な問題のほか、公的資金を完済したMTFGに対して、SMFGの中核企業である三井住友銀行(SMBC)は当時1兆3,000億円の公的資金残高があり、UFJの1兆5,000億円を合わせると「SMBC+UFJ」新銀行は発足当初から2兆8,000億円の公的資金を抱え込む経済的な問題がネックとされていた。

2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。

救済までの不良債権処理

この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのはダイエー向けの債権だった。当時のダイエーは中内功の会長退任後、高木邦夫の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で産業再生機構に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。

金融庁の懸念と合併延期

年が明けた2005年2月17日、三菱東京とUFJは正式に合併を決定し社名を「三菱UFJフィナンシャル・グループ」とすることになった<ref>

余談だがUFJ(United Financial of Japan)のFは「フィナンシャル」であるため「三菱UFJフィナンシャル・グループ」は「Mitsubishi United Financial of Japan Financial Group」となってしまった。当初は持株会社を意味する「ホールディングス」を用い「三菱UFJホールディングス」となる予定だった。

</ref>。 翌2月18日には合併比率を「1:0.62」で最終合意<ref>直近の時価比率は「1:0.6弱」で推移していた。</ref>、4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3ヶ月延期が発表された。

そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、東京三菱銀行に事実上救済合併され、発足からわずか3年11カ月と15日余りで消滅した<ref>合併による新行名は、合併の主導権をとった「三菱」と、国際業務における周知行名である「東京」、事実上の救済合併となった「UFJ」の順に並べて、三菱東京UFJ銀行となり、「UFJ」の呼称は消滅しなかった。</ref>。

引当と経営統合の妥当性

三菱東京との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループが2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、旧UFJグループが過去に積んだ貸倒引当金戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。前述の金融庁の指導により旧UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。その内訳は、2005年度上期で約4,000億円、同年下期にも、旧UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していた繰延税金資産を、5,000億円近く資本として繰入れた。2005年通期だけで旧UFJからの戻益は9,000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。

これは旧三菱東京が旧UFJ救済のため出資した7,000億円を大きく上回るだけでなく、旧UFJにとって「統合に突き進んだ過去の経営判断が正しかったのか」という疑問を想起させかねず(2006/11/21付日経金融新聞)、さらに、過去の金融庁検査が妥当であったかの疑問を提起させた。

もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。

沿革

関連企業

旧三和銀行関連

みどり会

旧東海銀行関連(現物出資&親密)

補足

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関連項目

外部リンク

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