鮎川哲也

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鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 2002年9月24日)は、日本小説家。本名、中川 透(なかがわとおる)。東京府に生まれ、大連に育つ。拓殖大学商学部卒。

アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』など、鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。『りら荘事件』『人それを情死と呼ぶ』などのほかに、アンソロジーの編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。

目次

経歴

1919年2月14日、東京府巣鴨に生まれた。父が南満州鉄道地質調査所の測量技師となったため、小学3年生のときに一家で満州大連に移り住み、旧制中学を卒業するまでここで過ごした。東京の音楽関係の上級学校に進学するが、肋膜炎を患い退学し満州に戻る。1938年、拓殖大学予科に入り、商学部に進むが、病のため満州に戻ることが多かった。この間に推理小説を読み始め、クロフツの『ポンスン事件』に影響され、「ペトロフ事件」を書きあげたが、原稿は引き上げの際に紛失してしまった。1944年、父の定年退職に伴い東京に戻るが、戦禍に遭い九州に疎開。

戦後に上京し、GHQ勤務のかたわら、那珂川透、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など多数の筆名で雑誌に投稿。1948年、『ロック』1月号に「月魄」(那珂川透名義)、8月号に「蛇と猪」(薔薇小路棘麿名義)を発表。1950年、『宝石』100万円懸賞の長篇部門に「ペトロフ事件」(本名の中川透名義)が第一席で入選し、本格デビューしたが、出版社との関係がねじれ<ref>『宝石』の発行元である岩谷書店の経営不振により賞金の支払いは棚上げされた。しかし鮎川は当時結核の治療費の支払いに窮していたため、頑強に賞金を請求。このことが岩谷満社長の怒りを買い、鮎川はその後長きにわたって『宝石』から締め出された(山村正夫『推理文壇戦後史』による)。</ref>、この作品は出版されなかった。1956年、公募で当てることになった講談社の『書下ろし長篇探偵小説全集』第13巻に、「黒いトランク」を応募し、当選。筆名を鮎川哲也に改める<ref>鮎川は「この作品で受賞できなければ首を括ろうと思っていた」という(有栖川有栖『有栖の乱読』による)。</ref>。この2作で探偵役を務める鬼貫警部は、主にアリバイ・トリックを主眼とした小説で活躍する。

1959年に、星影龍三が登場する『りら荘事件』を発表。 1960年には、『憎悪の化石』と『黒い白鳥』により、第13回日本探偵作家クラブ賞を受賞。社会派推理小説が主流となる中で、松本清張の『点と線』を意識して『人それを情死と呼ぶ』(1961年)を書くなど、寡作ながらも以後も一貫して本格推理小説を書き続ける。1972年から、銀座・三番館のバーテンを探偵役としたシリーズを開始。1964年に推理作家の芦川澄子と結婚、3年後に離婚したものの、のちに復縁した。

創作以外にも、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家・作品を発掘。また後進の育成にも力を入れ、1988年には自らのデビューに倣い、東京創元社から「鮎川哲也と十三の謎」と題したシリーズを刊行し、若手作家に発表の場を与えた。第12巻として予告された新作『白樺荘事件』の刊行が期待されていたが、未完となった。1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞である鮎川哲也賞が創設される。1993年からは、『本格推理』の編集長として、新人作家の発掘に尽力した。クラシックを中心に音楽にも造詣が深く、唱歌の作詞・作曲者を訪ねるエッセイ集『唱歌のふるさと』がある。

2001年に、本格推理小説への多大な貢献を評価され、第1回本格ミステリ大賞特別賞を受賞。翌年9月24日に、83歳で死去した。没後、第6回日本ミステリー文学大賞を贈られた。

作品一覧

全集

  • 鮎川哲也長編推理小説全集(全6巻/1975年 - 1976年、立風書房)

長編小説

  • ペトロフ事件(1950年4月、『別冊宝石』/1960年11月、光風社)
  • 黒いトランク(1956年7月、講談社〈書下ろし長篇小説全集〉)
  • りら荘事件(1956年9月 - 1957年12月、『探偵実話』/1958年8月、光風社)
  • 憎悪の化石(1959年11月、講談社〈書下ろし長編推理小説シリーズ〉)
  • 白の恐怖(1959年12月、桃源社〈書下ろし推理小説全集〉)
  • 黒い白鳥(1959年7月 - 12月、『宝石』/1960年2月、講談社)
  • 人それを情死と呼ぶ(1961年6月、東都書房〈東都ミステリー〉)
  • 翳ある墓標(1962年7月、早川書房〈日本ミステリ・シリーズ〉)
  • 砂の城(1963年4月、中央公論社)
  • 偽りの墳墓(1963年7月、文藝春秋新社〈ポケット文春〉
  • 死者を笞打て(1964年1月 - 5月/1965年8月、講談社)
  • 死のある風景(1965年1月、講談社)
  • 宛先不明(1965年7月、学習研究社〈ガッケン・ブックスミステリー〉)
  • 準急ながら(1966年6月、文藝春秋〈ポケット文春〉)
  • 積木の塔(1966年12月、読売新聞社〈新本格推理小説全集〉)
  • 鍵孔のない扉(1969年6月、光文社〈カッパ・ノベルス〉)
  • 風の証言(1971年11月、毎日新聞社)
  • 戌神はなにを見たか(1976年2月、講談社〈推理小説特別書下ろしシリーズ〉)
  • 沈黙の函(1978年1月 - 5月、「蝋の鶯」として『小説宝石』/1979年3月、光文社〈カッパ・ノベルス〉)
  • 朱の絶筆(1976年1月 - 1977年1月、『幻影城』/1979年7月、祥伝社〈ノン・ノベル〉)
  • 王を探せ(1979年4月、「王」として『野性時代』/1981年12月、角川書店〈カドカワ・ノベルズ〉)
  • 死びとの座(1982年10月 - 1983年5月、『週刊新潮』/1983年12月、新潮社)

短編小説

  • 白い密室、講談社、1958 
  • 海辺の悲劇 弥生書房、1960   
  • 達也が嗤う(「薔薇荘殺人事件」講談社 1960)
  • 誰の屍体か 春陽文庫、1960 
  • 赤い密室(「青い密室」雄山閣出版 1961)
  • 下り"はつかり" 講談社 1962
  • 砂の時計 毎日新聞社 1974
  • 太鼓叩きはなぜ笑う 徳間書店、1974 のち文庫   
  • ヘラクレスの犯罪 改題「サムソンの犯罪」徳間書店、1976 のち文庫   
  • ブロンズの使者 徳間ノベルス、1984 のち文庫 

リレー長編

  • ジュピター殺人事件(1954年5月、『密室』/他の執筆者は藤雪夫狩久

エッセイ集

  • 幻の探偵作家を求めて(1985年10月、晶文社)
  • 本格ミステリーを楽しむ法(1986年9月、晶文社)
  • こんな探偵小説が読みたい(1992年9月、晶文社)
  • 唱歌のふるさと 花(1992年5月、音楽之友社〈music gallery〉)
  • 唱歌のふるさと 旅愁(1993年12月、音楽之友社〈music gallery〉)
  • 唱歌のふるさと うみ(1995年9月、音楽之友社〈music gallery〉)

翻訳

  • C・デイリー・キング『鉄路のオベリスト』(1981年1月 - 7月、『EQ』/1983年、光文社〈カッパ・ノベルス〉)

参考文献

脚注

<references />

外部リンク

zh:鮎川哲也 en:Tetsuya Ayukawa

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