鈴木貫太郎
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プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項 Template:日本の内閣総理大臣 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、慶応3年12月24日(1868年1月18日) - 昭和23年(1948年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位<ref>鈴木は死後12年を経た昭和35年(1960年)8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後はこの鈴木が唯一の例である。</ref>勲一等功三級、男爵。和平派の軍人として、強行派勢力を押さえながら終戦を実現した宰相として評価が高い<ref>歴史街道特別増刊号『太平洋戦争 今語り伝えたいこと』記述より</ref>。
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経歴
和泉国大鳥郡久世村伏尾(現在の大阪府堺市中区伏尾)、(関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・東葛飾郡関宿町)。
群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、明治17年(1884年)に海軍兵学校に入学。日清戦争に従軍。明治31年(1898年)、海軍大学校を卒業。日露戦争では、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈するなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献した。
その後ドイツに駐在、大正3年(1914年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。大正12年(1923年)、海軍大将となり、大正13年(1924年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。
昭和4年(1929年)に昭和天皇と節子皇太后に侍従長就任を懇願され予備役に。昭和11年(1936年)年に起きた二・二六事件では、青年将校らに襲撃された。一命を取り留めたが、侍従長を辞任した。
昭和19年(1944年)に枢密院議長となり、昭和20年(1945年)4月内閣総理大臣就任。昭和天皇から“聖断”を引き出し、紛糾する軍部・政府部内の意見をポツダム宣言の受諾で日本降伏の一本に統一し、終戦(玉音放送)と同時に総辞職。
昭和23年(1948年)死去、享年81。先妻トヨとは死別、後妻はたか(昭和天皇の皇孫殿下時代の教育御用掛)。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。
不死身の鬼貫
幼い頃から鈴木は何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。
二・二六事件のときは事件前夜たか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待を受けて夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲撃される。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。
反乱軍が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねたという。たかは止血の処置をとってから宮内大臣湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけてきた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(昭和天皇のこと)に申し上げてください」と言った。しかし声を出すたびに傷口から血が溢れ出た<ref>鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んでしまったという風説を生んだ。</ref>。医師とたかで血まみれの鈴木を円タクに押し込み日本医科大学に運んだが、出血多量で顔面蒼白となり、やがて意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたこと、頭部に入った弾丸は貫通して耳の後ろから出たことが幸いしたが、なによりもたかの機転でとどめが刺されなかったことが鈴木の命を救った。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており、面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っていることなどから、一時、決起を思い止まろうとしたとも言われる。後に安藤が処刑されると、鈴木は記者の質問に答えて「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。
海軍出の侍従長
昭和4年(1929年)1月から侍従長を務めた。元々彼は海軍の軍人であり、侍従のような仕事は自分には適していない、と思っていた。彼の父・鈴木由哲(為之助)は、幕末の頃老中を務めた関宿藩主久世広周の家臣だった。
海軍では薩摩藩出身が優遇されていた。鈴木より後輩の連中がどんどん進級し、旧幕府系の者はその能力に関係なく差別され進級が遅かった。明治36年(1903年)、鈴木が海軍の露骨な差別にうんざりして辞めようとしたとき、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙が父親から届いた。鈴木はその手紙で辞職を思いとどまり、翌年から始まった日露戦争で駆逐隊司令として戦った。日本海海戦のときには、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を魚雷攻撃で撃沈した。そのため連合艦隊の秋山真之参謀から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われたくらいである。要するに鈴木は実戦の雄であり、心にもないお世辞を言えない性格のために平時では損をすることが多かった。
鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからだ。そういう性格だから天皇の信任は厚かったが、青年将校たちから見れば鈴木は「君側の奸」であり、それ故に命を狙われることになった。しかし、二・二六事件でのたか夫人の懇願と献身によって鈴木は九死に一生を得た。
なお、たか夫人(足立たか)は東京女子師範学校附属幼稚園の教諭であったが、東京帝国大学教授菊池大麓の推薦により、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、「たかは、どうしておる」、「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。
総理就任
昭和20年(1945年)4月、77歳の鈴木は枢密院議長になっていたが、戦況悪化の責任をとって辞職する小磯國昭総理の後継者を誰にするか、天皇に誰を推薦するか、それを決める重臣会議に出席した。構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣木戸幸一、そして鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介らは、後継総理に鈴木の名を出した。鈴木は「とんでもない話だ。おことわりする」と言った。しかし、すでに事前に根回しが行われていた。
東條英機は、陸軍が本土防衛の主体だから、陸軍の畑俊六元帥がいい、と言った。そして、陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがあるとも言った。二・二六事件のときの総理で、青年将校たちに狙われた岡田啓介が東條英機をたしなめた。「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか」。このとき、既に沖縄本島には連合国軍が上陸しており、国内でも東京を中心とした大都市は、アメリカ軍のB-29からの焼夷弾による絨毯爆撃で大損害を蒙っていた。日本がそこまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのかと問われると、東條は反論できずに黙ってしまった。
重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、総理として組閣するように命じた。このときのやりとりについては、侍立した侍従長藤田尚徳の証言(侍従長の回想)がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は言った。命令ではなく、“頼む”から総理をやってくれと言われた人物は、後にも先にもこの鈴木だけであろう。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に“頼む”と言われてはそれ以上辞退はできなかった。天皇の母、皇太后節子(貞明皇后)は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し「どうか陛下の親代わりになって」と語ったともいう。
なお、鈴木は非国会議員<ref>鈴木貫太郎より後の首相の東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂は貴族院議員であり、昭和22年(1947年)に日本国憲法が施行されて以降は内閣総理大臣は国会議員から選出されることになった</ref>・江戸時代生まれ<ref>これに関しては微妙なところで、一般に「江戸時代」の終わりは大政奉還とされるが、これは鈴木が生まれる前の慶応3年10月14日(1867年11月15日)である。一方、明治への改元は慶応4年9月8日(1868年10月23日)であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)が明治の始まりとなり、鈴木の誕生日の一週間後となる。したがって、厳密には「明治改元前に生まれた最後の総理大臣」である。</ref>という二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は平成22年(2010年)現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である<ref>退任時の年齢では大隈重信(満78歳6ヶ月)が最高齢である。</ref>。
終戦工作
鈴木の自覚とは別に、実際には優れた政治的感覚の持ち主であることを証明する出来事が起きた。敵国であるアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの死に対する対応である(詳細はエピソードに記す)。
しかし、ポツダム宣言記者会見を行なった際、新聞記者インタビューにより黙殺するという談話を記事に大きく取り上げられたことは誤算だった。昭和20年(1945年)7月27日にポツダム宣言を日本の新聞に論評抜きで公表したとき、7月28日の讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく取り上げられた。
陸軍の突き上げで、7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、昭和20年7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。しかし、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と誤訳され報道された<ref>このことが原子爆弾の広島と長崎への投下という結果となったとする見方も多く(例:終戦を遅らせ原爆を投下させたので鈴木には戦争責任がある、とする2006年8月15日付け読売新聞社説)、鈴木も後々まで発言を後悔したというが、トルーマン大統領の日記には原爆投下の決意を7月25日夜に行なったと記されており、鈴木の発言とは関わりがないことがわかる。長谷川毅「 暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』 </ref>。
8月6日の原爆投下、9日のソ連参戦から15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くす。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、これに対する鈴木の考えは「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」というものであった。
8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)ではポツダム宣言即時受諾の東郷外相説と、条件付受諾の阿南陸相説とで議論が分かれた。10日午前2時頃、鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」という言葉を搾り出した。天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。
一度天皇の聖断が下ったとはいえ、ポツダム宣言に記された戦後天皇制の処遇に関する解釈について外務省と軍部の間で見解が分裂するなか8月14日、再度御前会議を招集し天皇に再び聖断を懇願。ここでポツダム宣言全面受諾の聖断が下される。
8月15日正午、天皇本人の朗読による終戦の詔勅が全国民へラジオ放送される。この日の未明、表向きは主戦論を唱えつつも鈴木の終戦工作に気脈を通じていた陸軍大臣阿南惟幾が敗軍の将の責任を取って自刀。同日鈴木も天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。
なお、終戦の日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達に総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され(宮城事件一連)、警護官に間一髪救い出されている<ref>横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱</ref>(この襲撃事件は岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』でも再現されている)。生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木の信条は、「軍人は政治に関わるべきではない」だった。
年譜
- 慶応3年(1868年) - 関宿藩久世広周の和泉国の飛び領地(現・大阪府堺市中区)にて代官の子として生まれる
- 明治4年(1871年) - 本籍地の関宿町(現・千葉県野田市)に転居
- 明治10年(1877年) - 父・由哲群馬県庁に就職に伴い前橋市に転居
- 明治11年(1878年) - 第一番小学校厩橋学校(現・前橋市立桃井小学校)卒
- 明治16年(1883年) - 旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)卒
- 明治16年(1883年) - 海軍兵学校受験準備のため、攻玉社に進む
- 明治17年(1884年) - 海軍兵学校入校
- 明治20年(1887年)7月25日 - 海軍兵学校(14期)卒
- 明治21年(1888年) - 任海軍少尉。日清戦争に従軍。大沼とよと結婚。
- 明治25年(1892年)12月21日 - 任海軍大尉。
- 明治30年(1897年)3月30日 - 海大砲術学生。
- 明治31年(1898年)
- 明治34年(1901年)7月29日 - ドイツ駐在(~1903年12月30日)。
- 明治36年(1903年)9月26日 - 任海軍中佐。
- 明治37年(1904年) - 日露戦争に第四駆逐隊司令として参加(~1905年)。
- 明治39年(1906年)4月1日 - 功三級金鵄勲章受章。
- 明治40年(1907年)9月28日 - 任海軍大佐。
- 明治43年(1910年)7月25日 - 海軍水雷学校校長。
- 大正2年(1913年)
- 大正3(1914年)4月17日 - 海軍次官(~1917年5月31日)。
- 大正5年(1916年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章受章。
- 大正6年(1917年)
- 大正7年(1918年)12月1日 - 海軍大学校校長。
- 大正9年(1920年)12月1日 - 第二艦隊司令長官。
- 大正10年(1921年)12月1日 - 第三艦隊司令長官。
- 大正11年(1922年)7月27日 - 呉鎮守府司令長官。
- 大正12年(1923年)8月3日 - 任海軍大将。
- 大正13年(1924年)1月27日 - 第一艦隊司令長官。連合艦隊司令長官(兼任)。
- 大正14年(1925年)4月15日 - 軍令部部長。
- 昭和4年(1929年)
- 昭和9年(1934年)4月29日 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
- 昭和11年(1936年)
- 昭和15年(1940年)6月24日 - 枢密院副議長を経て、1944年に枢密院議長に就任。
- 昭和20年(1945年)
- 4月7日 - 組閣の大命を受け、内閣総理大臣となり終戦工作に奔走する。
- 4月12日にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが死去。海外向けに哀悼の談話を発表。
- 7月28日にポツダム宣言について記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」<ref>毎日新聞昭和20年 (1945年) 7月29日</ref>と回答。日本の同盟通信社で「ignore(無視)」、ロイター、AP通信で「reject(拒否)」と訳され配信された。
- 8月14日にポツダム宣言受諾を御前会議で決定。
- 8月15日、玉音放送のあと内閣総辞職(東久邇宮稔彦王内閣成立の同月17日まで職務執行)。早朝、佐々木武雄陸軍大尉率いる国粋主義者達の襲撃を受ける。至近の二重橋では近衛師団反乱部隊による閉塞が行われており、もし官邸にいたら危険な状態だった。夫妻は警護官の手により小石川の私邸から脱出し難を逃れる。直後、私邸は佐々木達により焼き払われる。
- 12月15日に平沼騏一郎枢密院議長が戦争犯罪容疑で逮捕されたために、再度枢密院議長となる。
- 昭和21年(1946年)6月3日 - 公職追放令の対象となったため、清水澄副議長に枢密院議長を譲って辞職。
- 昭和23年(1948年)4月17日 - 82歳で死去。関宿町(現:野田市)の実相寺に葬られた(遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた)。
- 昭和35年(1960年) - 終戦に関する功績から従一位を贈位される。
系譜・親族
- 鈴木氏
- 鈴木家に子供が無かったので鈴木由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利将軍家家臣の家柄で文書係り)。
- 靖国神社宮司を務めた鈴木孝雄陸軍大将は次弟。関東都督府外事総長・久邇宮御用掛の鈴木三郎は三弟。四弟永田茂陸軍中佐は軍務での無理がたたり40代前半で死去(『日本の名家・名門人物系譜騒乱』)。
- 貫太郎の子、一は農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等をつとめた。娘のさかえは、藤江恵輔陸軍大将と結婚した。
由哲━━┳貫太郎━┳ 一 ━┳哲太郎━┳真理絵 ┣孝雄 ┣さかえ ┗道子 ┗由里 ┣よし ┗ミつ子 ┣三郎 ┣君 ┣敬子(永田廉平海軍大尉(彦根藩士永田太郎兵衛正備の子)の妻) ┗茂(黄海海戦で永田廉平大尉戦死の為、永田家へ養子、家督相続)
エピソード
- 海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「負けっぷりをよくする」などといったことを伝えていたと言われている。
- 大正7年(1918年)、鈴木はアメリカ訪問の際「日米両国は太平洋を名の通り平和の海にせねばならない。もしどちらかが戦争をするのならたちまち天罰が下るであろう。」とスピーチした。組閣後帝国議会での演説において上記のスピーチをしたことを述べたことが、休戦の意志ありと抗戦派の議員からつっこまれた(天罰事件)。鈴木は要領の得ない答弁で相手を煙にまいた。だが、かえって議会は混乱し、すわ倒閣という雰囲気となった。閣僚は意気消沈し沈痛な雰囲気となった。しかし鈴木は何事もなかったかのように葉巻を吹かして新聞を読んでいた。この姿に閣僚達の中には「これが、大海戦のさ中に司令長官として船橋に泰然として立っている提督」とたのもしく感じた人もいた。また抗戦派と目された阿南惟幾陸軍大臣は、この時一言も発言していない。
- 枢密院議長をしていた昭和18年(1943年)のこと、会議の席で嶋田繁太郎海軍大臣が山本五十六の戦死(国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答え方をした。すると、鈴木は「俺は帝国の海軍大将だ! その答弁は何であるか!」と大声で叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされたという(鈴木は予備役ながら軍籍があった)。
- 昭和18年(1943年)頃、以前校長も経験した海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは二十年後だよ、二十年後!」と大声で言い、井上もわが意を得たりと大きく何度も頷いたという。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正しのちに名校長と言われるようになるが、鈴木の言葉を傍らで聞いていた兵学校長付副官は、「井上さんの、「戦後」のために生徒を教育している真意を見透かして、ただこの言葉だけを言いに江田島まで来たんだと思う」と述べている。
- 鈴木はルーズベルト大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送により、「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。」という談話を世界へ発信している。同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、対照的にルーズベルトを罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛した<ref>[1]</ref>。
- 首相官邸で本土決戦を担う国民義勇隊に支給される武器の展示が行われたときのことである。展示されているのは鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、さす又など、すべて江戸時代のしろものであった。物に動じない鈴木貫太郎も思わず「これはひどいなあ」と嘆声をあげた。
- 組閣当初から鈴木本人は和平派かそれとも和平と戦争継続に揺れ動いていたかは諸説あるが、和平派説の有力な一例として取り上げられるのが昭和20年(1945年)6月8日の重臣会議での出来事である。若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、「内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」(志賀直哉『鈴木貫太郎』)という若槻の証言が残っている。
- 8月14日の御前会議終了後、阿南陸相は紙に包んだ葉巻の束を手に「いろいろご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。ですがこれも国と陛下を思ってのことなのです。これは閣下がお好きと聞き持参いたしました。」と挨拶にきた。鈴木は「御心配いりません。陛下が常に神をお祭りしていますから。」と告げた。阿南は目に涙を浮かべながら「私も、そう思います。」と言って辞去した。鈴木は、内閣書記官長迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね。」とつぶやいた。その数時間後阿南は自決した。
著書
- <人間の記録24>日本図書センターで復刻再刊、1997年、ISBN 4820542656。
鈴木を演じた主な俳優
- 笠智衆 「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝)
- 西村晃 「歴史の涙」(TBS)
- 森繁久彌 「そして戦争が終った」(1985年 TBS終戦40年記念ドラマ)
- 芦田伸介 「226」(1989年 松竹)
- 松方弘樹 「聖断」(2005年 テレビ東京終戦60年記念ドラマ)
脚注
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関連項目
参考文献
- 半藤一利『聖断―天皇と鈴木貫太郎』(PHP研究所、ISBN 4-569629-84-9、PHP文庫 ISBN 4-569-66668-X)
- 旧版は(文藝春秋、ISBN 4-163399-00-3、文春文庫、ISBN 4-167483-01-7)
- 小堀桂一郎『宰相鈴木貫太郎』(文藝春秋、ISBN 4-163374-20-5、文春文庫、ISBN 4-167452-01-4)
- 小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、ISBN 4-769807-32-5)
- 花井等『終戦宰相 鈴木貫太郎』(廣池学園出版部、ISBN 4-892054-10-0)
- 立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP文庫、ISBN 4-569-57376-2)
- 平川祐弘『平和の海と戦いの海』(新潮社 1983年、講談社学術文庫 1993年)
- 『鈴木貫太郎伝』 同編纂委員会編 昭和35年(1960年)
- 御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎』 (ゆまに書房 2006年)で復刻
- 「別冊歴史読本57」 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱』 新人物往来社 2003年 266-267頁
外部リンク
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