遺伝学

出典: Wikipedio


遺伝学(いでんがく)は生物遺伝現象を研究する生物学の一分野である。遺伝とは世代を超えて形質が伝わっていくことである。

目次

概要

遺伝現象は、元来は世代を超えて生物の形質が伝えられることを指す。これは生物に見られる重要な特徴であり、例えば分類学や系統学もこれを基礎とするものである。この現象を扱う生物学の分野が遺伝学である。現象そのものは古くから知られてきたことであるが、19世紀以前はその扱い方が難しく、具体的な研究は簡単な交配実験が行われた程度である。ただし、生物学の分野で実験が取り入れられた、という点ではこれは古いものである。これは品種改良などの形で現実世界でこれに近いことが行われてきたからでもあるだろう。その意味では、この分野はその初期から実用的側面が強く、それは育種学へと引き継がれる。

メンデルの得た法則はこの分野の進歩の基礎となったが、遺伝学の実質的な進歩はその法則の再発見からである。これによって遺伝子という概念が確立し、具体的に追求すべき対象が明らかにされた。しかも、それがその後すぐに染色体にを介して細胞核に結びつけられることで、遺伝現象は単に世代を超えて何かを伝えるしくみではなく、生命の日常的活動をその基礎で支えるものと判明したことで、生物学の中心的な位置に出てくることになった。

ワトソンとクリックらによるDNAの2重らせん構造の発見後は、DNA上にある遺伝子の物質的な側面からの研究が発展し分子生物学とよばれる研究分野が開拓された。遺伝子の機能の解析は生物学のほとんどの分野と関係がある。

一方、個体群における遺伝子頻度の変化を、特に自然選択の視点から実験、観察、および数学的手法にもとづいて研究する分野は集団遺伝学と呼ばれる。

遺伝学の歴史

前史

遺伝現象は古くから知られていたが、その理論付けは困難であった。古くはヒポクラテスがこれについて言及し、生物体の各部分が何らかの物質を作り、これが子孫に伝わって子を親の形に似せる、という、遺伝物質を想定したような表現をしている。アリストテレスはこの点についてははっきりとした表現をしていない。彼は優性を現象的には知っていたが、説明を持ち合わせなかった。彼は多くの生物が異種間の雑種として生まれたと考えていた<ref>中沢(1985)、p.15-17</ref>。

他方、農業部門では雌雄異株の植物(イチジクなど)を通じて人工授粉の手法が古くから成立し、17世紀頃にはこれが交配に当たるとの認識が成り立った。植物で交雑実験を行ったのはドイツのヨーゼフ・ケールロイターとされる。彼は18世紀半ばに様々な交配実験を行い、雑種は中間の形質を示すこと、ただし片方に似ることもあること、両者の縁が遠い場合には不稔の雑種ができること、また時に両者より強い雑種を生じること(雑種強勢)などを認めた。それ以降19世紀までこれに追随する交配実験が行われた。1830年にはオランダの科学アカデミーが交雑によって新変種を作る研究の懸賞論文を出している<ref>中沢(1985)、p.22-25</ref>。

このような中で、遺伝する形質(表現型)は交雑とともに混じりあっていくと考えられていた。これは、雑種がその両親の中間的な性質を示すことが多いことに基づく。しかし、たとえばトーマス・ナイトは純系の株同士の交配では片親の継室だけが子に現れることを報告している。ちなみに、彼が行ったエンドウの実験が、後のメンデルの実験の基礎となっている。他に、1824年にジョン・ゴスはやはりエンドウについて、一代目で見られなかった形質が二代目に出現することも見ている。カール・ゲルトナーは上記懸賞論文に応募して賞を得た。彼は想定された遺伝物質をエレメントと名付け、これはメンデルも採用したところである。チャールズ・ダーウィンも交配実験に取り組み、一代目が片親の形質を示すこと、二代目には両方の形質が現れることなどを見ている。ただし二代目の分離比が一定になる、というような観点を持たず、やはり体で作られる物質が子の体の各部に配分される、というような説にまとまっている<ref>中沢(1985)、p.27</ref>。

メンデルとその再発見以前

メンデルはエンドウマメの形態に注目して1867年から交配実験を行い、その結果を分析し、それが三つの法則にまとめられると考えた。彼は1865年にブルノ自然研究会で口頭発表し、翌年には会誌に論文を発表した。彼によると、形態の遺伝は一対の遺伝粒子を仮定することで説明できる。それは親の体内では変化を被ることなく子に受け継がれる。また各個体は両親からこれを1個ずつ受け取り、子をなす際には自分の作る配偶子にこれを1個ずつ分配する。詳しくはメンデルの法則を参照。

彼の発表、および論文がある程度の範囲の専門家の耳に入っていたのは間違いないが、大きな評価を得ることはできず、1900年に再発見されるまで反響はなかった。他方でそれまでと同様に様々な交配実験が行われ、時にはその報告にメンデルの論文が引用された例もある。むしろ、この間に細胞や染色体に関する知見が正確かした点が大きいかもしれない。たとえば植物において花粉と卵子が受精することが判明し、また減数分裂の存在が予想されるようになっている。

再発見以降

1900年に3人の研究者がそれぞれ独自にメンデルの法則を再発見した。ちなみに、同年、ウィリアム・ベイトソンはたまたまメンデルの論文を入手して、これまたとの重要性に驚いて広く説いて回った。このようにして遺伝子の論が広く知られると、1902年にはウォルター・S・サットン染色体の観察から遺伝の染色体説を提唱した。染色体上に遺伝子があるとすると独立の法則が危うくなるが、これを埋めたのが連鎖組み替えの発見である。これらを用いてモーガンらが遺伝学的手法を用いて遺伝子が染色体上にあることを証明した。

これ以降、セントラルドグマの時代までの研究は大きく2つの流れがある。一つは遺伝子の物質的な基礎の研究であり、もうひとつは遺伝子の形質発現のしくみの解明である。

遺伝子の本体の追求

染色体は DNAタンパク質から構成されており、当時、遺伝子の正体はタンパク質であると考えられていた。しかしまず肺炎双球菌形質転換の研究やハーシーらの実験により DNA が遺伝子の本体であることが明らかにされた。その立体構造についてはワトソンとクリック二重螺旋構造を提唱し、認められた。

形質発現の過程

フェニルケトン尿症などの研究から、遺伝子の発現が酵素の合成に関わるものであるとの予測はあった。ビードルテータムアカパンカビを用いて栄養要求株の研究を行い、遺伝子は特定の酵素の合成に預かるもので、形質は酵素の働きの結果であるとする一遺伝子一酵素説を発表した。


出典

<references />

参考文献

  • 中沢信午、『遺伝学の誕生』、(1985)、中央公論社(中公新書)

関連項目

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