菊池寛

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Template:Infobox 作家 菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家劇作家ジャーナリスト文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は菊池 寛(きくち ひろし)。

目次

来歴

香川県香川郡高松の生まれ。菊池家は江戸時代高松藩儒学者の家柄だった。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受けた。

しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。

1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。

京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞直木賞の設立者でもある。

大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。 1925年文化学院文学部長就任。 1928年第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。

麻雀競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。

また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。

太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。 [[ファイル:Kikuchi Kan,Akutagawa Ryunosuke,and so on.jpg|thumb|240px|大正8年の写真、一番左が菊池寛で、隣が芥川龍之介]]

菊池寛の麻雀賛

「とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。

しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロパビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。

最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。」

大正時代の中期から麻雀をやり続け、かなり強かったそうであるが、自分が負けると、ムッとして黙り込んでしまい、「くちきかん」と陰口を言われたそうである。 Template:-

その他

thumb|none|200px|中央公園の銅像 [[ファイル:ChichiKaeru.jpg|thumb|none|240px|『父帰る』の銅像</br>高松市菊池寛通り]] [[ファイル:菊池寛肖像.jpg|thumb|none|200px|『恩讐の彼方に』の舞台</br>青の洞門そばに設置されている肖像]]

  • 両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。この少年との関係は大学時代まで続いた。一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからであるといわれる。また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人に小森和子がいる。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
  • 1977年9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巌谷大四井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎の場合は、金ならありますと言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。永井荷風はそういう菊池の言動を嫌悪し、日記「断腸亭日乗」の中で散々にこきおろしている。
  • 人材の発掘にも優れていた。文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。古川青年は喜劇俳優「古川ロッパ」として成功した。2009年に清流出版で『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』が出された。
  • 馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
  • 名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊」書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
  • 喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼けこげだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
  • 長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。後に妹は文藝春秋に入社した(肋膜炎を患い退社)。長谷川は菊池に関し、妹から「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという。戦後の初期に執筆された『サザエさん』には、菊池が実名と似顔絵で登場するエピソードがある。

主要作品

  • 『菊池寛全集』は全24巻が、高松市菊池寛記念館で1993~95年に出され、『菊池寛全集補巻』全5巻が、武蔵野書房で1999~2003年に刊行した。

関連項目

外部リンク

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