織田信忠

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織田 信忠(おだ のぶただ)は、安土桃山時代武将大名織田信長の嫡男で世子である。

  • 織田信長の嫡男(長男は織田信正という説がある)。
  • 実母は生駒氏という説があるが、異説もある(後述)。生駒氏が生母なら同母弟に北畠信雄、異母弟に神戸信孝羽柴秀勝など。
  • 幼名は奇妙丸、元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と改める。通称は三位中将、または岐阜中将。
  • 子供は側室の塩河長満の娘、または森可成の娘との間(どちらの女性の子か確定していない)に秀信(三法師)。別の側室との間に秀則がいる。正室はいなかったため、信忠死亡時には信忠自身が認めた嫡男はいなかった。

目次

生涯

少年期

弘治3年(1557年)、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張で生まれる。

永禄年間に織田氏は甲斐国の武田氏と接近しており、信長養女が武田信玄の世子である勝頼の正室となっていたが、『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄五女松姫と婚約が成立する。永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀年間に信玄は大規模な西上作戦を開始し、これにより松姫との婚約は事実上解消された。

元亀3年(1572年)に元服し、江北攻めで初陣して以来、信長に従って石山合戦伊勢長島攻め、長篠の戦いと各地を転戦する。

信長の後継者

天正3年(1575年)、岩村城攻めの総大将となり、武田家部将・秋山信友を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく事となる。

天正4年(1576年)、信長から織田家の家督と美濃国東部・尾張国の一部を譲られてその支配を任され、岐阜城の城主となった。同年に 正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官する。

天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将を率いるようになる。

天正6年(1578年)、播磨国上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春小早川隆景宇喜多忠家村上水軍の6万1,000人を播磨に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。

天正8年(1580年)には、尾張国南部を統括していた佐久間信盛西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がる。

武田征伐

天正10年(1582年)の武田征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は伊那方面から進軍して、信濃国南部の武田方の拠点である飯田城高遠城を次々と攻略する。信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられた事から、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす事となる。

本能寺の変

thumb|140px|二条良基邸・二条殿址。京都市中京区 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代村井貞勝らと共に儲君皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。しかし明智軍の精鋭伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害した。介錯は鎌田新介が務めたという。享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。

また、その奮戦の具体的な内容だが、惟任謀反記や蓮成院記録によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい(足利義輝の最期に似ているため創作ではないかとも思われるが信忠は実際に剣術を習っており、当時はたしなみの1つであったため、あながち嘘とも言えない)。

人物

  • かつては暗愚な凡将との評価が有力だったが、現在では、信長には及ばないものの後継者としては十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流になっている。信忠が暗愚とする根拠は、高柳光寿の著書『青史端紅』において松平信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて、家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、嫡子の将来を危惧し信康を除いておいたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、その結果、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。そのため近年、信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘された。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在主流の評価に移ってきている。いずれにしても人物評が定着するのはまだ先のことであろう。
  • 本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった(織田長益前田玄以らが脱出しているのを見てもわかるように、光秀は京都を封鎖していなかった)。にも関わらず父と共に散る運命をたどったあたりが、偉大なる父を持つ2代目の限界として現れていると言われる。一方で戦場に臨んだ時点では逃走可能かは不明であり、明智光秀ほどの武将が逃走を許すはずがないと判断したともいわれ、逃走するより武将らしく戦って散った(逃げるよりも戦って死を選ぶのは当時では武士として当然の考え方であった)信忠を評価する声もある。
  • 天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際、織田家一門の中における序列は第一位であった。また、信長存命中は形式的ながらも家督を譲られていることと、父がかつて礎としていた尾張と美濃の統治を任されている所を見ると、信長から信頼されていたことがうかがえる。
  • 名将富鉱録では、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されている。
  • 武田征伐高遠城を落とした際、信長からその働きを賞賛され、「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる」(信長公記)と述べられたという。

生母

Template:出典

  • 信忠の生母については生駒氏と言われているが、これには異説も多い。当時の文献には織田信忠の生母について記されておらず、後年生駒氏腹の織田信雄の家系が主流になってからの文献から、生駒氏生母説が登場するようになる。また信長の正室である濃姫の養子となると複数の文献に見られる。またそれらの文献の生母の記載は、織田信雄からみて第三者が記したものには生母そのものが記されておらず、織田信雄に近しいと思われる文献には生駒氏生母説が記されている。この事から、生母は公に広く知られていなかったことが推測され、本当に生駒氏生母説が正しいのか、主流となった織田信雄が嫡流により近づけるために捏造したものかは、現在のところ不明。生母とされる生駒氏の喪主も茶筅丸(織田信雄)が務めており、織田信忠存命中の史料により、織田信忠と生駒氏を直接的に結びつける事は、現状では困難である。生駒家も織田信雄の側近であり、織田信忠の側近は斎藤家や美濃衆が務めているため、そちらからの考察も困難である。また、生駒氏が側室となったのが、俗説にある通り弘治2年(1556年)9月以降であり、織田信雄の誕生が永禄元年(1558年)3月末であるならば、通常の妊娠期間等を考えると、信忠生母説に疑問が出てくる事となる。Template:要出典
  • 信忠の生母が生駒氏ではないと推測される史料としては、元亀2年(1571年)6月11日に信忠が元服前の奇妙の名前で出した、岐阜の崇福寺に一切の諸役を免除する判物と、その後天正5年(1577年)6月に出した、同じく崇福寺に諸役を免除する判物がある。この天正5年の判物に崇福寺が久庵慶珠の位牌所であると記載されており、元亀2年(1571年)の奇妙時代の判物から考えると6年後となり、久庵慶珠の7回忌にあたって、崇福寺にて7回忌法要を行ったことによる優遇と考えることができる。生駒氏の喪主を信雄が元服前の茶筅丸のまま務めたとされているが、同じように、通常は判物を出せない元服前の奇妙の名で出していることからも、奇妙丸が元亀2年(1571年)6月に久庵慶珠の葬儀の喪主を務めたと考えられ、この久庵慶珠こそ信忠の生母だと推測できるのではないだろうか。久庵慶珠の出自は不明であるが、信雄には生駒家、信孝には坂家、岡本家というように、生母の一族を側近につけられているので、信忠の側近の中に信忠の生母の実家の一族のものがいる可能性もある。信忠の側近は美濃衆で固められていたが、これは養母濃姫との関係のみではなく、久庵慶珠が美濃衆の誰かの息女であったからではないかと思われる。ただし、信忠誕生時には美濃は信長と敵対していたため、美濃衆の息女であったとしても、濃姫の侍女や縁者などを側室として差し出したと考えられ、美濃衆の有力者の息女などは考えにくい。Template:要出典

逸話

  • 出生した時、顔が奇妙であるということから、信長より奇妙丸という幼名を与えられたという。
  • 幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの待遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、闘いを学んでいた。
  • 父信長が足利義昭より尾張守護の斯波家の家督を与えられた折に、自らは辞し息子信忠に斯波家を継承させたともいわれる。
  • 父に忠実だったイメージが強いが、播磨三木城攻めの時には督戦に来た信長に作戦をめぐって抗弁した。また「人間50年」で有名な『敦盛』など、幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言を異常なほどに好んだ。徳川家康を通じ、稀少であった世阿弥の著作を入手したりもしている。また、伊勢松島で群集を前に能を演じたとの記録もあり(勢州軍記)、そのために信長と衝突して能道具を取り上げられたこともあったとされている(当代記)。
  • 三河物語』によると、本能寺で異変に気づいた信長の最初の言葉は「城介が別心か(信忠の謀反か)」であったとされる。三河物語の信憑性はともかく、信忠が信長に忠実だったとする現在の評価は、この記述からも疑惑の余地があるとの説もある。
  • 高遠城に攻め入る際に、信長に武田氏の深追いは避けるよう託けされていたが、現地での情勢を見た信忠はこの命を破り、深く攻め入った。結果、最終的に武田氏を滅亡に追いやった。このことで信長は信忠の武才を認めたという。

官歴

※日付=旧暦

  • 天正2年(1574年)4月、従五位下に叙位。
  • 天正3年(1575年
    • 2月23日、出羽介に任官。
    • 6月1日、正五位下に昇叙し、出羽介如元。
    • 11月7日、秋田城介と改める。
  • 天正4年(1576年
    • 1月5日、従四位下に昇叙し、秋田城介如元。
    • 8月4日、従四位上に昇叙し、秋田城介如元。
    • 12月17日、左近衛少将に転任。
  • 天正5年(1577年
    • 1月5日、正四位下に昇叙し、左近衛少将如元。
    • 10月15日、従三位に昇叙し、左近衛中将に転任。

関連作品

小説

関連項目

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