第四次中東戦争

出典: Wikipedio


Template:Battlebox 中東戦争の全体については、中東戦争を参照

第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)とは、1973年10月にイスラエルエジプトシリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた戦争。イスラエル側ではヨム・キプル戦争Template:Lang-he (Milẖemet Yom HaKipurim), GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/ (Milẖemet Yom Kipur))、アラブ側では十月戦争Template:Lang-ar (ħarb Octōber), GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/ (ħarb Tishrīn))とも呼ばれる。欧米の一部文献やイスラエル軍では消耗戦争を第四次中東戦争とし、この戦争を第五次中東戦争とする場合もある。

第三次中東戦争(六日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、一時イスラエルはスエズ運河ゴラン高原にて苦戦を強いられたものの、その後イスラエルが巻き返して逆にアラブ側が苦戦することとなり、両国の提案で停戦となった。

第二次世界大戦以降、両陣営がほぼ同等の兵器をもって対峙した数少ない例である(当時の米ソの新鋭戦車M60T62の対決など)。特にクルスクの戦い以来とも言われる大規模な戦車戦が展開されたこと、エジプト軍によりソ連考案の対戦車ミサイルを主軸とした対戦車戦術が本格運用されたことなどから、その戦訓は各国の戦車開発に大きな影響を及ぼすこととなった。

目次

背景

サーダートの戦争計画

エジプト革命の立役者ガマール・アブドゥン=ナーセル1970年9月28日心臓病で急死した。後継の大統領アンワル・アッ=サーダートはナーセルの同志であったが、対イスラエル戦争に集中するあまりに経済成長がないがしろにされたと感じていた。そして就任してからは、イスラエルと早期に講和し、安定したエジプトを経済成長させようと構想していた。

[[ファイル:Anwar_Sadat_1978.jpg|frame|エジプト大統領アンワル・アッ=サーダート]] サーダートはとりあえず、アラブ同士の結束を高めることに努力した。1971年9月にシリアリビアアラブ共和国連邦という緩やかな連邦を結成し、翌1972年4月にはヨルダンとの国交を断絶した。パレスチナ解放機構(PLO)を追放した裏切り者と断交することによって、アラブの盟主の地位を固めようとした。一方で、この年7月にソ連軍事顧問を国外退去させ、ソ連との繋がりを絶とうとした。これによってイスラエルに影響力のある米国が中東和平に本腰を入れるのではないかと期待した。しかし米国はベトナム問題やウォーターゲート事件で手が一杯で動かなかった。

この年、日本赤軍テルアビブ空港乱射事件を起こし、ミュンヘンオリンピック事件が起こったりと、何かとアラブの評判を下げる事件が続き、その中でエジプトの都合の良い講和(シナイ半島の全面返還)に導くには、穏便路線では大国に与える衝撃が足りないように思えた。

1973年3月にサーダートは首相を兼任し、強権体制を固めた。サーダートはここにおいて、イスラエルへ侵攻してシナイ半島を攻略し、戦況有利なままイスラエルとの講和へ導こうと構想していた。そのためにはアラブの結束を固め、各国がイスラエルと同時開戦し、イスラエル軍が多方面に気を取られてエジプト軍に集中できなくしなければならなかった。シリアのアサド、リビアのカダフィと特に連携し合い、73年8月にはリビアとの国家統合構想を発表した。またソ連の軍事顧問を復活させ、ソ連から最新兵器の購入を進めた。

一方、イスラエル諜報特務局は、サーダートの戦争計画に関する情報を逐次イスラエル本国に知らせていた。しかし、イスラエル政府と軍参謀はサーダートはナーセルと違って強硬手段は取れないと考えており、エジプトの侵攻は無いとしていた。加えて国内では、これまでの中東戦争での連戦連勝からアラブ諸国に対する油断が生じており、軍の士気も低下していた。

イスラエルを取り巻く国際情勢も変化していた。先の第三次中東戦争での「奇襲」による勝利と引き換えに、イスラエルとユダヤ人はホロコースト以来の国際的な同情と信頼を失っていた。加えてこの勝利により中東の軍事的均衡が崩れることを危惧したフランスイギリスは、アラブ側の経済制裁の影響もあってイスラエルへの武器供給停止などの措置をとり、米国も表立った援助ができなくなっていた。

1973年10月、エジプト・シリア軍はイスラエルへの侵攻を、イスラエル人が1年の罪を悔い改めるヨム・キプールの日に決定、10月6日に「バドル(アラビア語:満月)作戦」を実行した。

戦争の推移

奇襲の成功

thumb|250px|シナイ半島戦線1
左:1973年10月6日~13日、右:同14~15日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍
1973年10月6日、当日はユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプール(贖罪日)であり、イスラエルの警戒が緩む日でもあった。この日にエジプトシリアの連合軍はイスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行った。

エジプト軍はスエズ運河対岸から激しい砲撃を行い、イスラエル軍が陣地を張り巡らせた「バーレブライン」を、やすやすと突破してシナイ半島へ進出、イスラエル拠点を占領した。イスラエルは奇襲に対する備えが整っておらず、戦線の初期で決定的な敗北を喫した。エジプト軍はソ連製SA6ゲインフル地対空ミサイルを装備してイスラエル空軍機を撃墜し、運河地帯上空の制空権を確保した。またエジプト軍の歩兵や装甲車により運用されるRPG-7AT-3サガー対戦車ミサイルによって、歩兵の支援を受けていなかったイスラエル戦車隊は大きな損害を出し、壊滅した(対戦車ミサイルによる損害が強調されるが、実際には高地に陣取ったエジプト軍戦車隊や対戦車砲の砲撃による損害の方が大きかった)。10月8日のイスラエルの反撃も撃破されており、開戦から3日間でイスラエル軍は戦車400両以上、死傷者3000名以上という大損害を被った。

ゴラン高原のシリア軍は、イスラエル国防軍の二個旅団および11の砲台に対し五個師団および188の野砲で攻撃した。緒戦ではおよそ180両のイスラエル軍戦車(改良型M4中戦車を含む、主力は105mm砲センチュリオンM60)がおよそ1,400両のシリア軍戦車(内115mm滑空砲T-62は約400両)と対峙した。圧倒的な戦力差およびシリア軍車両の大半が夜戦用の装備を行っていたにもかかわらず、戦争初期でゴラン高原に展開したイスラエル軍戦車は奮戦した。中でもベンガル大佐が指揮する精鋭の第7装甲旅団は敵戦車500両の攻撃を100両の戦車で食い止め、「涙の谷」での戦闘では200両余りのシリア軍戦車を撃破した、結局この第7装甲旅団は延べ4日間に渡って昼夜を問わず奮戦し戦線を維持したが、ついに稼動戦車が7両にまで減少した時点で大佐は後退を余儀なくされた。シリア軍はゴラン高原の拠点都市アル・クネイティラを回復し、ヘリコプター降下したシリア軍コマンド部隊は様々な監視設備を擁するヘルモン山のイスラエル軍拠点、Jabal al Shaikh の制圧に成功した。またイスラエル戦車隊の一部が包囲されて全滅することも起こった。

アラブ諸国の参戦

thumb|250px|ゴラン高原戦線
左:1973年10月6~10日、右:同11~12日
青:イスラエル軍、赤:シリア・アラブ諸国軍
アラブ諸国は武器の供給と資金融資によってこの戦争に関与した。どの程度の支援が成されたかは定かでないが、複数の情報筋によると、イラクはエジプトへハンター戦闘機の小隊を派遣し、戦争が始まると18,000名の兵士からなる師団と、数百台の戦車、ミグ戦闘機が派遣された。戦車部隊はゴラン高原中央部に展開した。サウジアラビアクウェートは金融支援を行い、幾つかの戦闘部隊を派遣した。サウジアラビアは少数の部隊(特殊部隊もしくはコマンド部隊といわれる)をシリアに派遣し、ヨルダンは武装師団をシリアへ派兵し、イスラエル軍とゴラン高原で交戦した。

1971年から73年までリビアミラージュ5戦闘機と約10億ドルの支援を蜜月関係のエジプトに行った。アルジェリアは戦闘機と爆撃機の部隊、武装旅団、多数の戦車を派遣した。チュニジアは1,000名を越える兵士を派遣し、彼らはエジプト国防軍と共にナイル川の三角州で配置された。スーダンは3,500名の兵士を派遣し、モロッコは三個旅団を最前線に派遣した。

イスラエル反攻

イスラエルは奇襲攻撃からわずかの期間にシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、逆に自国領土まで侵攻の危険が出るほどの状態となった。しかし、予備役の招集による兵員の増強やアメリカから兵器の供給を受けるなど体制を整えて反撃に出る。10月10日からイスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、シリア師団の一部は壊滅、防戦一方となったシリア軍はシリア領内に撤収するが、イスラエル軍は追撃を止めずに首都ダマスカスへ接近した。しかし、ダマスカスのわずか手前で進軍を止め、突入しなかった。ダマスカスを陥落させると、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する用意があるとの情報がもたらされたからとされている。

シリアのアサドはサーダートに対して、シリアの窮状を救うために、シナイ半島西部からより内陸へ侵攻するように要請したが、サーダートはそれ以上侵攻するつもりは無かった。サーダートの目的はイスラエル占領ではなく、シナイ半島を返還すればイスラエルには手を出さないと世界に誇示することだったからである。

thumb|250px|シナイ半島戦線2
左:1973年10月15~17日、右:同18~23日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍
シリアでの進軍を止めたイスラエル軍は、転じてシナイ半島でも攻勢をかけた。緒戦の教訓から歩兵との連携を強めて対戦車ミサイルへの対策を講じたイスラエル軍戦車部隊はシナイ半島西岸中央部で激戦を展開、エジプト軍が撃破された。スエズ運河中央部をイスラエル軍が10月16日に逆渡河し、運河ごしにエジプト軍の半数を包囲し、首都カイロへの進撃姿勢をみせた。ただし、ダマスカス同様に突入しなかった。

石油戦略と石油危機

アラブ主要国は重要な産油国でもあり、1971年から73年までの間にリビアイラクといった産油国が次々に石油資源の国有化を発表していた。10月16日、これら以外の石油輸出国を含め、アラブ石油輸出国機構はイスラエルを支援している国(アメリカ合衆国オランダ)に対する石油の輸出を禁止すること、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ・ペルシャのイランを含む)は原油公示価格の大幅引き上げを一方的に決定した。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定すると言う方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック・石油危機・石油ショック)。しかし、それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。 すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。 石油の国内生産が消費量の1%に満たず、中東石油依存度の高い日本においても影響は深刻で、重厚長大型重化学工業を中心に大打撃を受け、高度経済成長時代が終焉した。石油は燃料のようなエネルギー源のみならず、化学工業によって生産される多くの化学製品の原料でもあり、この意味でも原油(石油)価格の高騰、欠乏という事態は深刻であった。しかし、この事件によって遠く離れた中東での紛争が自国に無関係でないことを一般の日本人も自覚することとなった。 また、オイルショックを契機に、わが国では、鉄鋼業などの重厚長大型重化学工業(素材産業)から自動車、家電などの組立加工産業に基軸産業が移動し、トヨタ生産方式によって生産性を向上させたこれらの産業は世界を席巻することとなるのである。

停戦

イスラエル反攻に国際世論は停戦の方向へ向かい、ようやく立った米国とソ連の仲裁によって10月22日停戦が宣言された。

[[ファイル:Golda Meir 03265u.jpg|thumb|right|イスラエル首相ゴルダ・メイア]] 初めてアラブの侵攻を受けたイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は、国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論は彼の辞職を要求した。最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出した。

一方、スエズ逆渡河作戦を成功させた指揮官アリエル・シャロンは国民的人気を博し、後の首相就任に繋がることとなった。またエジプトでも、前の戦争にて壊滅したエジプト空軍を再建して緒戦の勝利をもたらした空軍司令官ホスニー・ムバーラクがやはりヒーローとなり、1975年にはサーダートの下で副大統領に就任、後の大統領職に繋がっている。

1974年1月、イスラエルとエジプトはスエズ運河地帯の兵力引き離し協定に調印した。安保理決議340に基づき第二次国際連合緊急軍(UNEF II)がエジプトとイスラエルの停戦を監視し、二国間の国境巡回警備を行うこととなった。

ゴラン高原についても、1974年に安保理決議350により国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設立され、停戦監視にあたっている。

損失

thumb|right|停戦後の占領地の変化。
左中央の濃赤色はエジプト軍、左中央と右上ゴラン高原の焦茶色はイスラエル軍により新たに占領された。
イスラエルの統計によれば2,688名のイスラエル兵が戦死し、それ以上の者が負傷した。314名のイスラエル兵が降伏しアラブ側の捕虜となった(242名がエジプト軍の捕虜となり、68名がシリア軍、4名がレバノン軍の捕虜となった)。アラブ兵は8,738名がイスラエルに降伏、捕虜となった(8,372名がエジプト兵、392名がシリア兵、13名がイラク兵、6名がモロッコ兵)。全ての戦時捕虜は1974年中頃までに交換された。

特にイスラエル機甲師団の損失は(同国の人口を考えれば)甚大であった。イスラエルの第188“バラク”機甲旅団はゴラン高原南部における対シリア国境防衛で重要な役割を果たしたが、112名の兵士が同地で戦死した。これはイギリスからの新型戦車チーフテン購入計画が頓挫して更新計画に狂いが生じていたこと、航空部隊がエジプトの対空兵器の餌食となり航空支援が不十分だったこと、エジプト・シリアが使用したソ連製対戦車ミサイルに対する対抗手段を持っていなかったことなどに起因している。この教訓から同国は乗員の生存性と完全国産化を優先させた新型戦車の開発を推進し、主力戦車メルカバ」を生み出すこととなる。またミサイル対策として爆発反応装甲を実用化した。

合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡したと推測される。エジプトとシリアの空軍はその対空防御により114機のイスラエルの航空機を撃墜し、自軍の航空機を442機失った。その中には数十機に及ぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜された物を含む。なお戦闘機パイロットとして出撃したサーダート大統領の弟も緒戦で戦死している。

戦後

和平の構築へ

この戦争によってエジプトのイスラエルに対する立場を明確に表したサーダートは、いよいよイスラエルとの和平構築へと歩みだす。1975年6月に第三次戦争以来8年ぶりにスエズ運河の通航が再開され、同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。

1976年3月、シリアがレバノン内戦に足を踏み入れるころ、エジプトは対ソ友好条約の破棄を通告し、ソ連との決別を内外に強調した。同時に米国に接近し、国内では経済自由化を進め、冷戦の西側に位置するようになっていったが、同時に貧富の差が広がった。

1977年6月、メナヘム・ベギン内閣がイスラエルに成立すると、サーダートは急速に接近する。11月、彼はアラブ首脳として初めて公式にイスラエルのエルサレムを訪問し、12月に入ってイスマイリアでペギンと首脳会談を行った。これに激怒したのはリビアのカダフィーやシリアのアサドなどである。会談直後にトリポリ宣言を発し、エジプトを批判した。

1978年9月、米国キャンプ・デービッドにおいて米国、エジプト、イスラエル代表が会談し、ついにサーダートの念願である和平の合意に至った。合意は、長年の敵であるイスラエルとの和解のみならず、過去の中東戦争でイスラエルに奪われていたシナイ半島の返還に結び付くものであった。11月、エジプトを除くアラブ12カ国は首脳会談を開催して「バグダッド宣言」を発表し、エジプトを裏切り者として中東和平を激しく非難した。

サーダート暗殺

1979年3月、遂にエジプト・イスラエル間で中東和平条約に調印し、サーダートの希望は完成した。ベギンとサーダートは共に79年のノーベル平和賞を受賞した。しかしこのころ、世界はイラン革命に注目し、翌1980年9月に革命イランイラクの間で戦端が開かれる。一方、リビアとシリアは対エジプトで結びついて同じく9月に単一国家樹立を宣言した。中東が新たな混乱でゆれる1981年10月6日、対イスラエル戦勝記念パレードの最中に、サーダートはイスラム過激派ジハード団に所属する兵士に暗殺された。皮肉にも、対米協調のためにナーセルの社会主義路線を覆し、イスラム的な右派を復興させたのは彼自身の政策によるものだった。

サーダートが打ち立てた対米・イスラエル協調政策は後継者ムバーラクに引き継がれ、彼の独裁の下でエジプトは安定した成長を遂げた。また、サーダートの願いであったシナイ半島は1982年4月から返還が始まり、1989年に全面返還が完了した。一方でシリアのゴラン高原については、イスラエルが81年12月に自国領編入を宣言して国際的非難を浴び、翌年2月に国連から侵略と規定された。ゴラン高原についての交渉が始まるのはレバノン内戦が収束する1995年まで待たなければならない。

なお、エジプトとイスラエルの和平成立後、エジプト産の原油がイスラエルへ輸出されるようになった。原油の安定した取引先を確保したいエジプトと、安定した供給源を確保したいイスラエルの思惑が完全に一致していることから、サーダートの最大の狙いは石油取引にあったとの見方もある。

第四次中東戦争を題材とした作品

映画

ボードゲーム

  • コマンドマガジン日本語版 第65号 付録ゲーム:「ヨム・キプール:第四次中東戦争」 国際通信社

関連項目

  • 山城丸 - 日本郵船の貨物船。第四次中東戦争に巻き込まれ被災。

外部リンク

Template:Commons

Template:冷戦 Template:Link FA Template:Link FA

Template:Link FAar:حرب أكتوبر arz:حرب اكتوبر bg:Война от Йом Кипур bs:Jom Kipurski rat ca:Guerra del Iom Kippur cs:Jomkipurská válka cy:Rhyfel Yom Kippur da:Yom Kippur-krigen de:Jom-Kippur-Krieg el:Πόλεμος του Γιομ Κιπούρ en:Yom Kippur War eo:Milito de Jom Kippur es:Guerra de Yom Kipur eu:Yom Kippur Gerra fa:جنگ یوم کیپور fi:Jom kippur -sota fr:Guerre du Kippour gl:Guerra do Yom Kippur he:מלחמת יום הכיפורים hr:Jomkipurski rat hu:Jom kippuri háború id:Perang Yom Kippur is:Jom kippúr-stríðið it:Guerra del Kippur jv:Perang Yom Kippur ka:იომ-ქიფურის ომი ko:욤 키푸르 전쟁 lt:Jom Kipuro karas mk:Војната од Јом Кипурски ms:Perang Yom Kippur nl:Jom Kipoeroorlog nn:Jom kippúrkrigen no:Yom Kippur-krigen pl:Wojna Jom Kippur pt:Guerra do Yom Kipur ro:Războiul de Iom Kipur ru:Война Судного дня simple:Yom Kippur War sk:Jomkipurská vojna sl:Jomkipurska vojna sr:Јомкипурски рат sv:Oktoberkriget tr:1973 Arap-İsrail Savaşı uk:Війна Судного дня ur:جنگ یوم کپور vi:Chiến tranh Yom Kippur yi:יום כיפור מלחמה zh:贖罪日戰爭

個人用ツール