第一次インドシナ戦争

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Template:Battlebox 第一次インドシナ戦争(だいいちじインドシナせんそう)は1946年から1954年ベトナム民主共和国の独立に伴いフランスとの間で戦われた戦争。単にインドシナ戦争と呼んだ場合、これを指す事が多い。

目次

前史

東南アジアは19世紀以降、ヨーロッパ列強に侵略され植民地化が進んだ。 ベトナムでは阮朝内の混乱に乗じたフランスが軍を進め、第一次フエ条約第二次フエ条約によって、ベトナムを保護国化した(詳細フランス領インドシナ参照)。インドシナ総督府の支配下では重税、賦役、塩・アルコール・アヘンの専売、等の搾取を受けた。反抗運動は秘密警察により多数が投獄され、ギロチンにかけられた。経済的収奪だけでなく、伝統文化破壊やフランス文化強要など、典型的な植民地政策の圧政下におかれた。しかし、第二次世界大戦中にフランス本国がドイツに占領されると、日中戦争を拡大させて行き詰まっていた日本は、フランスから中国国民政府への物流を遮断する為、ヴィシー政権に近づいて仏印への日本軍進駐を認めさせ、1939年から1941年の間に段階的に進駐、全土に駐留したが、仏印の内政に関する主権は戦争末期の仏印処理までフランスにあった(仏印進駐)。

共産主義の伸張の素地

ベトナムの社会構造の基礎は家族制度であり、これを基礎単位に広範な自治権をもつ村落が形成されていた。これら村落が独自の長老会議を集約点とする自治形態を保持し、強固な団結心を維持しつつベトナム社会の底辺をなした。それ故に歴代王朝やフランス植民地行政機関も村落自治に容易に干渉できなかった。

総人口の約85%が農業牧畜漁業産業に従事し、国民総生産額の5割から6割を占めた。フランス植民地省はこのような経済構造を変革させるために積極的に資本投下したが、前述の村落自治形態に阻まれ旧態依然のまま日本軍の占領統治を受けることになった。また、19世紀末頃からフランスは、村落ごとの共同経営形態である公田制に介入し、地主制度をおき親仏カトリック教徒を地主とした。その結果、1930年には全耕作地の8割が私有地となったが、農民の内約7割近くが小作人で、最大期で約6%の大地主が耕作地の60%以上を所有していた。1930年代末の南部コーチシナでは、米田面積の82%を人口の8%に満たない中~大規模地主が占有し、6割の農民は土地を持たず、その他多くの零細農家がいた<ref>ガブリエル・コルコ「ベトナム戦争全史」p33 社会思想社</ref>。

土地問題はのちの共産主義勢力の伸張の根源の一つとなる。

戦後処理と連合国軍進駐

独立宣言

1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、8月18日から8月28日にかけてベトミンが指導する蜂起が全土で起こった<ref>ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p143 共同通信社</ref>。ベトミンは保大帝を退位させベトナム帝国から権力を奪取し、臨時ベトナム民主共和国政府が成立した(ベトナム八月革命)。日本が降伏文書に調印し戦争が終結した9月2日ハノイベトナム民主共和国独立を宣言がなされた。

日本軍憲兵隊

8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はべトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したりした。武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、信頼の置ける日本軍部隊に対し市中の警備を実施させ、日本軍の憲兵隊による取締りが(フランス国家憲兵隊が到着するまでの間)強化された。

連合国軍進駐

連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、北緯16度線以北が国民党軍に、以南がイギリス軍が割り当てられフランス軍が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる国民党軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー提督を高等弁務官に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、フィリップ・ルクレール<ref>ルクレール自身は9月2日の東京湾上における降伏文書調印式に参加したのち仏領インドシナに着任する。</ref>将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、10月5日に先遣部隊がサイゴンに到着、ルクレールは同月9日にジャック・マシュ大佐率いる行進群と一緒に到着した。11月までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。空軍は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、海軍はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、「戦艦リシュリュー」、「軽巡洋艦グロアール」、「駆逐艦ル・トリオンファン」、「航空機輸送艦ベアルン」が極東海域に展開した。

北部では、進駐国民党軍の共産主義敵視政策により、ホンガイ炭鉱などで多くのベトミン系労働者が逮捕・追放された。そのため臨時政府は非共産主義者を入閣させ、1945年11月にはインドシナ共産党を偽装解散した。以後インドシナ共産党は1951年にベトナム労働党となるまで、非合法組織として活動する。1946年2月、フランス・中華民国間で重慶協定が締結されると、国民党軍は4月以降順次撤退した。フランスは同協定で国民党軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港自由化・在インドシナ華僑に対する優遇措置などを受け入れた。

1946年2月28日と3月6日、べトミンとフランスは予備協定を締結し、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認め、3月26日にはフランス権益が多く存在する南部ベトナムにはコーチシナ共和国が成立し、相互に一時的妥協が成立した。独立宣言からこの間まで、各地でベトナム人と英印軍や10月末到着したフランス遠征軍を巻き込んだ小紛争が頻発した。

戦争

Template:ベトナム フランスとベトナム民主共和国との間では独立交渉が続けられ、ホー・チ・ミンはフランス本国まで赴いてベトナム全域の平和的独立への途を模索した。しかし、南部のプランテーション入植者達の既得権益を優先したフランスは、1946年3月26日ベトナム南部に傀儡のコーチシナ共和国を成立させた。フランスはインドシナ植民地をフランス連合内で5分割し、それぞれに連合の枠内での独立を認める方針を指向していた。世界は戦勝国の米国英国ソ連の対立が本格化し冷戦期に入り、西側に属するフランスは、共産主義のベトナム独立を容認できなくなっていた。1946年6月1日、ベトミンは独立戦争長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める<ref name="東京財団研究報告書"/>。

1946年11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件は同港制圧の口実となり、11月23日にフランス海軍艦も交えての制圧戦となった。

前半期(1946~1949年)

全面衝突

1946年12月19日から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。べトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部ではダナンフエプレイクを占領した。ヴォー・グエン・ザップを総司令官とするべトミン軍は内陸の農村地帯に退避しゲリラ戦に移行した。

5月、フランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明し強硬姿勢をとった。ベトミンはあくまでフランス本国政府に和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。

1947年10月、フランスは機械化部隊15,000人を投入し、北部山岳地帯のべトミン軍拠点を攻撃したが完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にべトミン軍は守勢を脱し以降は正規軍による積極的反攻にでた。1947年11月29日、フランス軍はミーチャック村虐殺事件を引き起こした。

戦争中、フランスはハノイ・ハイフォン・サイゴンの主要三都市を保持し、ベトミンは農村地帯の大部分を保持した<ref>ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p144 共同通信社</ref>。北部は山岳地帯はベトミンの牙城であり、トンキンデルタと中越国境地帯は一進一退が続いた。中部高原・中部沿岸諸省・南部メコンデルタではベトミンの抵抗は根強く、やがてフランス軍はフエ・ダナン・ニャチャン周辺に狭い橋頭堡を残すだけとなった<ref>バーナード・フォール「二つのベトナム」p130 毎日新聞社</ref>。

外国勢力の援助拡大

1949年、現地の情勢悪化を確認したフランス軍参謀総長は、近い将来べトミン軍は中国から援助され北部ベトナム制圧は困難になるため、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてべトミン軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、べトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利はできないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。

1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、10月に北隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始した。これによりベトミン軍は近代化され、正規軍の規模を以前より拡大し編成することが可能となった。しかし、南部デルタや農村のゲリラの間では以後も長く米仏製捕獲武器やベトミン製造武器が主流であった<ref>1961年国務省白書によれば当時の解放戦線の武器の大部分が米・仏製あるいはジャングル内の原始的工場で作られたものだった</ref>。一方アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。

1949年6月、フランスはコーチシナ共和国を廃して南部に旧阮朝バオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させた。また、ラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつベトナム国の正当性を強調しようとした。

手榴弾や小型地雷で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画だった。しかし現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。このため逐次に交代兵を利用し増員するのは不可能となり実質的に増援は来ない状態となった。

こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となったが、6月に朝鮮戦争が勃発すると米ソ中各国は朝鮮半島に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。

後半期(1950~1954年)

アメリカの援助

第二次世界大戦後の第四共和制のフランスは、国土再建とインドシナ戦争で疲弊し、アメリカに援助を要請した。1950年年5月、アメリカは要請に基づきベトナム援助計画を発表、6月にはグレイブス・アースキン少将の調査団が派遣された。10月、フランシス・ブレリンク准将率いる軍事顧問団が派遣された。同月ジュール・モック仏国防大臣とマルセル・ペッチェ仏財務大臣が要請し、援助物資がインドシナに送られた。12月、サイゴンでジャン・ルトルノー海外担当大臣とヒース米公使とチャン・バン・フーベトナム国首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれた。1952年度までに年額約3億ドル、1953年までに約4億ドルにおよび、4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上となり、その他医薬品、無線機などが送られた。また、アメリカ軍事顧問団約400人が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊を教育訓練した。

べトミンの大攻勢

1950年初頭、べトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタとトンキンでは間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。フランス軍は小規模陣地群を撤収させ、ラオカイカオバンドンケタトケ、ランソンに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくにカオバン攻防戦(植民地道4号線の戦い)は「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。

9月、べトミン軍は各地のフランス軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的部隊であった。フランス軍はマダガスカル、アフリカなどから増援部隊を送ったが、10月以降に国境地帯から逐次撤退した。12月17日、ド・ラトル・ド・タシニ極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼任し、フランス軍兵力は125,000人となった。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍に一任していた。べトミン軍は各所で攻勢に出て、1950年末、フランス軍はハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛するド・ラトル線まで戦線を縮小した。

1951年、べトミン軍は総攻撃を成功させ反攻段階に移る。べトミン軍は1月にビンエン、3月にはアンチャウ、4月にはナムディンと次々攻撃したが、フランス軍はナパーム弾投下で反撃した。1951年前半期、べトミン軍は正規戦の経験も訓練も不十分だったため都市部はまだ劣勢だった。北部ベトナムを押さえたべトミン軍だが、これ以後トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力再編成を行なった。10月、ライチャウソンラを攻撃。11月、フランス軍は要衝ホアビンを占領、年末から1952年初頭にかけて激戦となった。南ベトナムでは10月、サイゴンで大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。

1951年2月、インドシナ共産党の後身であるベトナム労働党が結成された。1951年3月3日、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けた。 更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。一方、ベトナム国側は宗教団体私兵団4万人を基幹に国軍を編成、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まった。同年7月には土地改革計画を発表したが計画は貫徹されなかった。

一進一退の攻防戦とラオスへの戦火拡大

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仏軍外人部隊兵士に尋問されるベトミン兵容疑者(1954年)

1952年2月、べトミン軍はホアビンを占領、ハノイ包囲網を狭めた。フランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にべトミン軍は北西部で3個師団で攻勢に出る。黒河沿岸の要衝を攻略しナサンを攻撃、ラオス国境目前にせまった。べトミン軍は中ソ製の120mm迫撃砲、75mm無反動砲を使いフランス軍を撃退した。11月、フランス軍はソンラを撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺の攻勢を阻止した。しかしラウル・サラン極東遠征軍団司令官はラオカイを奪回をせず、これが戦局の転換点となり、実質的な敗北となった<ref>1954年3月11日にワシントンD.C.で行なわれた米仏統合参謀総長会談でアーサー・W・ラドフォード米海軍大将がポール・エリー仏陸軍大将に「あなたがたは1952年冬の時点で敗北していた。」と語った。</ref>。

1953年1月、アンケ攻防戦でフランス軍は空母を動員し海軍部隊も投入した。べトミン軍はタイピン、ホアビンに進出、ハイフォン南に切迫。紅河デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてべトミン軍は南進し、北部沿岸および中部フエ、ダナン、クイニョンを占領する。4月、べトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻、これに対しフランス軍もビエンチャンに部隊を増派、ジャール平原に空挺部隊を降下させ防戦した。

フランスの報告によれば、1954年初期には南ベトナム農村地帯の90%はベトミンが支配していた<ref>Pentagon Papers,Origins of Insurgency in South Vietnam 54-60,pp270-282</ref>。

ナヴァール計画

1952年5月、アンリ・ナヴァールが遠征軍司令官に着任、1953年、米英仏外相会談でナヴァール計画への援助が約束された。この計画で1955年を目処にべトミン軍の中核体を破壊するため、ベトナム国軍やラオス軍および少数民族部隊の諸整備と作戦を実施することとなった。本計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施した。7月にランソン、10月にラオカイを占領しニンビンでべトミン軍1個師団を捕捉し損害を与えるも山岳部に逃走され決戦は回避された。これによりフランス軍が自主選定した地域での撃破は困難とわかり、山岳地帯に入り拠点にしべトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。

1953年4月のべトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはべトミン軍も同じだった。補給能力を比較すれば、ベトミン根拠地の東部ラオスと中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、べトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーを拠点とし、べトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に空挺部隊を降下させ、べトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。

本計画に対して、トンキン軍管区司令官ルネ・コニー将軍はトンキンデルタの守備兵力減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。

ディエンビエンフーの戦い

Template:Main 1953年11月20日、カストール作戦が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備・空中補給および近接航空支援態勢が整えられた<ref>ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特にニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。</ref>。

べトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。周辺の山岳諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。

1954年3月13日、戦闘が始まるが、攻撃開始日からべトミン軍の猛烈な砲撃が加えられ、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は早々に陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になった。4月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るべトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、べトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった<ref>ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する原爆の使用をアイゼンハワー大統領に進言したが却下された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年 ISBN 4062024462)に記している。</ref><ref>ディエンビエンフーの戦いでは、1万人にのぼるフランス連合軍兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿して、フランスとの交渉での取引材料とし、ジュネーヴ協定の交渉過程でフランス政府に身代金の支払と引き換えでの送還が実現した。この捕虜問題は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こし、フランスはかつて反仏的だったカオダイ教ホアハオ教サイゴンであるビン・スエン派などを資金援助してフランスの私兵団化させた。</ref>

ディエンビエンフー後

ディエンビエンフー陥落後、べトミン軍はトンキンデルタに攻勢を仕掛けジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ・ハイフォン回廊に撤退しここにいたりフランスの敗北は明白となった。


兵力の推移

兵力の推移
フランス本国軍
フランス植民地軍
インドシナ現地兵軍べトミン正規軍べトミン非正規兵
1945年8月 - - 1個連隊500,000
1945年末2個師団 - 10,000程度500,000
1946年1月40,000 - 50,000500,000
1947年115,000 - - 500,000
1949年末108,00040,000
(宗教団体の私兵が主力)
80,000500,000
1951年末4個師団 - 80,000 (51年中葉)500,000
1952年末6個師団 - - 500,000
1953年半ば164,000100,000 - 500,000
1953年末7個師団
54個大隊
- - 500,000
1954年2月7個師団
200,000
50,000
一部は本国軍に編入
7個師団
100,000
500,000

戦争終結

ディエンビェンフーの戦いで敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、関係国の間でジュネーヴ協定が締結された。これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは、協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。それは民主共和国軍人として17度線以北に結集した兵士と南の家族の長い分断の始まりでもあった。

しかし、フランスはフランス領アルジェリアなどアフリカ植民地の独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、1955年10月、アメリカの強い影響力を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立、1956年6月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。南部のベトミンはゴ・ディン・ジエム政権により激しい弾圧を受け、やがて南ベトナム解放民族戦線を組織した。

犠牲と損失

8年間の戦争で、フランスは航空機177機を喪失した。フランス軍は7万5000人、フランス軍以外のフランス連合軍は1万9000人が戦死し、7万8000人が負傷した。またベトミンは兵士50万人の死傷者と25万人の民間人戦死者を出した<ref>Bernard B. Fall,The Two-Vietnams: a Political and Military Analysis,p129,Frederick Praeger, New York</ref>。別の推計ではベトミン側は50万人の戦死者を出した<ref>タウンゼント・フープス「アメリカの挫折」p94 草思社</ref>。

ベトミンへの日本人志願兵

日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた<ref name="東京財団研究報告書"/>。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた<ref name="東京財団研究報告書"/>。ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であった<ref name="東京財団研究報告書"/>。30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている<ref name="東京財団研究報告書"/>。

関連項目

参考文献

  • 陸戦学会『現代戦争史概説 上巻』(陸戦学会、1982年)
  • 戦略問題研究会『戦後世界軍事史1945~1969年』(原書房、1970年)
  • 学研『歴史群像アーカイブ VOL.5アジア紛争史』(学研、2008年)
  • 柏木明『フランス解放戦争史』(原書房、1995年)
  • Amédée Thévenet,LA GUERRE D`INDOCHINE,France-Empire 2001
  • Georges Fleuy,La Guerre en Indochine,tempus 2003
  • Marcel Bigeard,Bigeard ma Guerre d`indochine,Rocher 2004

脚注

<references />

外部リンク

Template:冷戦ar:الحرب الهندوصينية الفرنسية ca:Guerra d'Indoxina cs:Indočínská válka da:1. indokinesiske krig de:Indochinakrieg en:First Indochina War es:Guerra de Indochina eu:Indotxinako Gerra fi:Indokiinan sota fr:Guerre d'Indochine ga:An Chéad Chogadh Ind-Síneach he:מלחמת הודו-סין הראשונה hi:प्रथम हिन्दचीन युद्ध hu:Indokínai háború id:Perang Indochina Pertama it:Guerra d'Indocina ko:제1차 인도차이나 전쟁 nl:Eerste Indochinese Oorlog no:Den første indokinesiske krig pl:I wojna indochińska pt:Primeira Guerra da Indochina ru:Индокитайская война sr:Први индокинески рат sv:Indokinakriget tr:Birinci Çinhindi Savaşı uk:Перша індокитайська війна vi:Chiến tranh Đông Dương zh:法越战争

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