競輪
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プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項 競輪(けいりん)とは、自転車競技法という特別法に基き指定された自治体が自転車競走を開催、この結果を賭けの対象としてパリミュチュエル方式により勝者投票券(車券)を販売する公営競技(公営ギャンブル)の一つであり、日本(北九州市)を発祥の地とするギャンブルである。
目次 |
開催者・運営者・選手
開催者となる自治体は所管省庁の経済産業省へ競走の開催を届け出ると、競輪選手と呼ばれるプロの選手達と「競輪場」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。また、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域の日本自転車競技会支部へ委託している。審判および番組編成・選手管理・検車の4つの業務を管掌する自転車競技会への指導、また競輪選手の登録・斡旋、育成については中央団体である財団法人JKAが行っている(経済産業省はJKAを通して競輪選手、競技会、施行者などの監督指導を行う) 。
日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技とされ、およそ3500人(2010年3月末現在で3460人)より構成される。また初期には女性選手による「女子競輪」が1964年まで開催されたこともあった。
創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、韓国独自の施行者が国内3つの競輪場で開催している。
歴史
自転車競走の発展<ref>参考文献:競輪三十年史(日本自転車振興会発行) </ref>
明治時代の自転車業界紙記者であった真壁仁氏のメモによると、1895年(明治28年)7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。また、日本人が自転車競走に参加したのも同年、との記録がある。1897年(明治30年)春に不忍池において開催された大会では参加者約20名、優勝者は当時圧倒的な強さを誇った鶴田勝三であった。
その後、1905年(明治38年)以降、報知新聞など新聞社各社が主催し自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。日本において自転車競技のノンプロ選手第一号は小宮山長造であった。このように、戦前はロードレースを中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。
競輪誕生のいきさつ<ref>参考文献:ぺだるVol.2 春号(日本自転車振興会発行)</ref>
元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。<ref>現在の倉茂記念杯「昇竜賞」(大宮競輪場)はこの人物を記念している</ref>
当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。
2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会うことになる。林は戦前、三井物産の社員であったが、財閥解体と貿易国営を主張したものの受け入れられずに1942年に退社。その後交易営団に移り、1947年4月25日に行われた総選挙で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった、片山哲内閣総理大臣に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。
しかし、この草案に対して、GHQがいったんは許可を下ろしながらも<ref>当時はGHQの許可が下りなければ、国会での立法審議に入れなかった</ref>、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた地方分権に相反すると思われたからである。それに対して社会党は、GHQの地方分権案に同意。それにより、GHQも草案を認め、自転車競技法として国会審議へと入った。1948年6月26日に衆議院本会議で可決し、参議院へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。
競輪誕生まで
敗戦直後の1946年(昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回国民体育大会が近畿各地で開催される。
その国民体育大会は1948年(昭和23年)10月に第3回が福岡県で開催されることとなったが、莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設には県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。これを回避すべく、小倉市が「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。
その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年8月に成立し、同年11月20日、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した<ref>小倉競輪の歴史</ref>。
なお「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男。当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、後に鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」に改められた、という経緯がある<ref>門司競輪</ref>。
競輪黎明期
第1回の小倉競輪競走では、単勝式と複勝式の2種類の車券が発売された(連勝式の発売は、同年12月11日に開催された大阪府営府大競輪場(大阪住之江競輪場)が最初)。車券売り上げの中から25%が控除され、更にその中から必要経費を差し引いた額が自治体等の財源となるわけだが、ノウハウもなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪はいきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では正に競輪開催そのものが賭けであったという。
ただ予想に反し競輪は大好評をもって迎えられ、競輪ブームは次第に全国へと拡大していき、各地でも競輪が開催されていく。だが開催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、GHQが全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持つ。
この立法・運営側の曖昧さ、競走自体においても風圧を受けるトップが不利を蒙るという特殊な面が、逆に観客と選手による独自のローカルルールを生んだ。今日の公営競技において「競輪道」と呼ばれる精神性を語らせては競輪の右に出るものはないが、反面「わかりづらい」「情実優先の展開レース」という批判も根強い。
しかし、作家の阿佐田哲也(色川武大)はこの競輪の特殊性故に「競輪こそギャンブルの王様」と呼んでいる。
爆発的人気と相次ぐ暴動事件
競輪が誕生した1948年当時、国営競馬(現在のJRA)の控除率(寺銭)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった<ref>参考文献:新版 競馬歴史新聞(2004年初版。日本文芸社)</ref>。
しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、しばし暴動事件(当時のマスコミは『騒擾事件』という表記を使用していた)も発生していた。とりわけ大掛かりな事件となったのは1950年9月、鳴尾競輪場で発生した事件(鳴尾事件)であり、警官の威嚇射撃によって客が1人死亡する事態となったばかりか、最後には滞駐米軍のMPを出動させて漸く収拾させたほどであった。しかもこの事件がきっかけとなり、以後3ヶ月間の競輪開催全面自粛という事態となったばかりか、国会でも競輪廃止論議が巻き起こることになった。さらにこの事件は、全国紙の新聞社が相次いで競輪へのネガティブ・キャンペーンを行っていくことにも繋がった。また、その後も大掛かりな暴動事件はしばし発生した。主なものとして、1959年の松戸事件、1960年の西武園事件、1968年の川崎事件が挙げられる。
1955年、当時の大阪府知事であった赤間文三が府営で開催していた住之江競輪場、豊中競輪場の廃止を表明。理由は世論の反発が大きいため、これ以上競輪の開催は困難というものであった。そして豊中は同年に廃止された。住之江はかろうじてその後も開催は続けられたものの、1964年に休止(事実上の廃止)となった。加えて大阪市もまた、赤間のこの発言に強い影響を受けて、大阪中央競輪場を1962年限りで廃止することを決めた。
このことは後に、競輪場最大の売り上げを誇り、当時、「競輪のメッカ」とも称されていた後楽園競輪場の休止へと繋がっていくことになる。
収益金
競輪の収益金は、監督するJKAに納付される売上を元に各種の補助事業が行われ社会に還元されただけでなく、主催者として運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の佐橋滋らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産トランジスタ計算機の研究開発に競輪収益をあてたエピソードもある。
なお競輪の収益に当たる車券売上の75%が配当金に充てられ、残り25%のうち、JKAへの納付金が約3.3%、公営企業金融公庫への納付金が約1.1%となっており、そこから選手賞金などの開催運営費を差し引いた残りが自治体の収益となる。JKAへの納付金の多くが、経済産業省OBが役員として天下った公益法人に補助事業費の名目で転用されていることが明らかになっている。JKA自体も経済産業省OBの天下り先である。
オートレースとの統合
2007年6月13日に公布された自転車競技法及び小型自動車競走法の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」とオートレースを統括していた「日本小型自動車振興会」は、2008年4月1日をもって財団法人JKAに統合された<ref>財団法人日本自転車振興会のオートレース事業の開始及び名称変更について</ref>。また、それぞれの地域ごとの自転車競技会は「財団法人日本自転車競技会」に統合され、地域ごとの小型自動車競走会は財団法人に移行した。
競輪用自転車
Template:Main 競輪で用いられる自転車は、「ピスト(レーサー)」と呼ばれる専用の競技用自転車であり、競輪の関係法令においては『競走車』と呼称される。この自転車はJKA規格(日本自転車振興会時代はNJS規格)に適合する部品により製作されることが義務づけられており、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しないとレースに使用することができない。
車体となるフレームはクロムモリブデン鋼のパイプ(鋼管)を素材とした「クロモリフレーム」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイドで製作されたものである。車輪は金属スポークおよびリムにより構成されており、タイヤは大きさ675mm(26.5インチ相当)のチューブラー(チューブ一体型)タイヤを使用するが、コースコンディションや脚質による選択は出来ない。ハンドル・サドル・クランク・ペダル・ギア・チェーンなどの部品は規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。特にギアは空回りのない固定ギアで、クランク側と後輪ハブ側のスプロケットの歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着していない。
競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更されないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーといって良く、現在他のトラックレースで用いられるピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性など様々な要因も絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=ダイワボウプログレス)やリム(新家工業)など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。またフレームだけで10数万円以上の製作費が必要となるが、その他の部品は自転車における制限が存在するため、車体総額で50万円を超える事は稀である。
ちなみに競輪創生期は実用車、軽快車、タンデム式の自転車でも競走が行われた。
競走(レース)のルール
- コース(バンク)
- 1周 333.3m・335m・400m・500mのいずれかであり、競輪場により異なる(但し大部分の競輪場が400mを採用)。
- 競走距離
- 2,000m - 3,000m。競走格、周長により異なる。競技規則上の25mを端数算入する競輪場もあれば、ゴール線からスタートするために端数が出ないところもある。
- 自転車
- 上述の通り「ピストレーサー」を使用するが、ファンの車券作戦においてポイントとして結びつく重要なルールの一つに「ギヤ<ref>競輪ではJIS規格との関係から「ギヤ」が公式表記となっている。</ref>倍数」がある。これは出走表に掲載されている「3.57」などという数字がそれであり、無視はできない。自転車についている前後2枚のギア(スプロケット)のうち、ペダルについているギアの歯車の数÷後輪のギアの歯車の数で表示される。一般的には3.54または3.57で、「ギヤ倍数」が低いほど漕ぐ力が軽くなりダッシュ力に優れ、その逆では当然重くなることからダッシュ力は弱いがスピードに乗れば速くなる。出走表掲載後に急遽変更する場合もあり、その際は場内で告知される。「先行選手がギヤ倍数を普段より落とせば先行・逃げ切り狙い」「先行選手がギヤ倍数を上げれば捲り狙い」などが読み取れる。また、脚力が衰えたベテラン選手は先行選手についていくため「ギヤ倍数」を上げる傾向がある。
- 1レース当たり出走人数
- 2008年現在は最小6名 - 最大9名(かつては後楽園競輪場などで最大12名でのレースが行われていた)。枠番車券が発売できなくなるため、5名以下での競走は行われない。
- 4番5番・6番7番・8番9番は同一枠として単枠の1番・2番・3番をあわせて6枠を構成するため、慣習的に4番・6番・8番には格下、つまり競走成績の低い者がおかれる(例外もある)。中でも6番車は最も格下の選手があてがわれるが、これら4番・6番・8番の選手が入着した場合は高配当が出ることが多く、競輪ファンはこれをもじって「ヨーロッパ」と呼ぶ。
- 競走
- バンクと呼ばれるすりばち状のコースを4周 - 9周(基本は2,000m、但しGI決勝やKEIRINグランプリではそれ以上)し、通常9人で行われる。ゴール前半周のタイムは計測されているもののタイムトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。ただレース毎に、定められた時間以内にゴールしなければならないという「規定時間」(スタートから1周目のゴール地点までのタイムで計測)があり、これを超過すると「タイムオーバー」となり賞金が減額させられる(基本的に半額)。
- 競技中には時速70kmにもなり自転車は大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は2人 - 4人で連携(ラインと呼ばれる)して戦う方が有利であり、その場合には、各ラインの先頭の選手が風圧を受ける代わりに、その後ろについた選手は、他のラインに追い抜かせないように抵抗するという役割分担を行う。そのため、競技は当然個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持ち、推理に複雑さと面白さを加えている。
- 先頭の選手が残り1周半を通過してから、ゴールラインを通過して最後の1周となるまで、半鐘が打ち鳴らされる。これを「ジャンが鳴る」という。ここから誘導員が抜けてラストスパートがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。
- 先頭固定競走
- 現在行われている競走は先頭固定競走と呼ばれ、スタートから残り1周半付近(ジャンが鳴る地点)までは、風圧の影響を避けるため選手と同じ型の自転車に乗った誘導員が選手の前を走る。誘導員はレースに出走する選手と区別するため、橙色のV型帯の入った紺色のユニフォーム・トランシーバーのスピーカーが付いた<ref>誘導員は誘導することが目的であり、展開を確認する必要がなく後ろを振り向かないため、審判団がレースの流れを見て無線で誘導員にペース配分(「ピッチ上げて」や「スピード緩めて」など)を指示するためにスピーカーが付けてある。</ref>ヘルメットカバーを着用する。車券の対象とはならないが、誘導員の脚質により車券を購入する上で推理の一因となることもある。
- 誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。競輪選手であること、かつ誘導員試験において2,000mタイムトライアル2分55秒以内(選手なら必ず走破できる設定)が条件である。誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンクとし(東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、愛知、福岡といった同都県内に複数の競輪場がある地区の選手の場合、ホームバンク以外の競輪場でも誘導を行う場合がある)、当日競走に出走しない地元の選手(宮城や石川など競輪場のない県の選手が隣接県の競輪場で誘導を行う場合もある)が行う。誘導員にも競走に応じて手当てが支給されるので、収入が少ない成績下位の選手が比較的多く務める。特別競輪で優勝歴のある成績上位の選手が誘導員を務める例は極めて少ないが、地元での記念競輪 (GIII)の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある。
- かつて特別競輪や記念競輪で行われていた4000m程度の長距離戦に値するレースでは、2人の誘導員が誘導していた。その場合、最初の誘導員はジャンが鳴る前の周回でコースを出るが、もう1人の誘導員は、ジャンが鳴り終わる頃まで誘導して、その後コースから去っていた。
- 普通競走
- かつては誘導員のない競走(普通競走)もあったが、車番連勝式車券が発売される競走では行われないようになり、事実上の廃止となっている。
- 普通競走では誘導員の役割を選手が行なっており、これを「トップ引き」と呼ぶ。ルール上はどの選手がトップを引いてもかまわないことになっているが、やがてトップ引きを行う選手は、競輪の枠式車券で2人枠となる場合に最下位に当たる位置づけとなる事が最も多い6番車の選手が行うことが慣例となる。
- 車番連勝式車券が発売される直前の頃には「先頭固定競走」として行う予定の競走でもレース番組の確定直前に選手からトップ引きを行う旨の申告があった場合は「普通競走」に変更された。これは何らかの理由で明らかに格上の競走に出走することになった力の劣る選手、あるいは引退間際の選手などが事前に申告するもので、この場合該当選手の車番は最も勝ち目が薄くなるため、申し出た選手の車番は慣例に倣って6番車に変更される。普通競走でトップ引きを行った選手には正規の入着賞金のほかに先頭手当も支給され、雨敢闘手当なども他の選手同様に支給される。なお上述の「タイムオーバー」は、元々トップ引きの選手が極端にペースを落とすことを避けるための規定であったが、この規定は現在の先頭固定競走でもスタート時のスロー牽制を防止するため適用されている。
- 先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。当日の出走表などで普通競走に変更された旨の告知がされているため混乱はなく、投票者にも暗黙の了解であったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券は発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に1973年4月9日の千葉競輪場第7競走において、5枠両名を除く9人中7人が落車したため2,363,180円という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式としては全公営競技史上最高となっている。
- 1995年9月から車番連勝式勝者投票券が発売された後、しばらくは普通競走が行われていたものの、トップ引きの6番車が絡んだオッズに混乱をきたしたことから、同年12月に車番連勝式を発売するレースは先頭固定競走とすると明記された<ref>『競輪60年史』財団法人JKA</ref>。またトップ引きが公正な競走でないという問題については過去に裁判も行なわれており、「トップ引き自体が競輪の観客における公知の事実」という判断がなされている<ref>昭和34年9月25日福岡高等裁判所</ref>。
競技規則
競走に対するルール違反は、主なものが以下のように定められており、違反により落車および自転車故障の原因となった場合、または違反行為そのものにより、失格となる場合がある。ただし競技規則には違反を問わないケースも明記されている。
- 第11条…敢闘の義務、追走義務違反の禁止(前を走る選手および集団から極端に離れてはならない)
- 第11条の2…過失走行の禁止(端的にはいわゆる「自爆落車」など)
- 第13条…内側差込み等の禁止
- 第13条の2…外帯線内進入の禁止(内圏線と外帯線の間を走る選手を内側から抜いてはならない)
- 第14条第1項…押圧、押し上げ、押し合いの禁止
- 第14条第2項…斜行、蛇行の禁止
- 第14条第3項…中割りの禁止(前で並走している選手の隙間をこじ開けてはならない)
- 第15条…内圏線踏切りの禁止
- 第16条…イエローライン踏切りの禁止(先頭に位置する選手は2秒程度以上外側へ越えてはならない)
- 第58条…先頭員早期追い抜きの禁止
- 第59条…先頭員に対する妨害行為の禁止
- 第70条第1項第4号…周回誤認
- 内圏線(ないけんせん) - この線より内側の走行は禁止される。
- 外帯線(がいたいせん) - 内圏線の70cm外側に引かれた線。内側追抜判断の基準となる。
- イエローライン - 内圏線の3m外側に引かれた黄色い線。2003年12月31日実施の競走より追加された。
競輪の主な戦法
前述のように競輪はあくまで個人が他人より先着するために競走をするのが基本であるが、その競走をより有利に進めるために関係の深い選手同士で連携をする。連携は各選手の脚質による戦法で決まる。その戦法の主なものを次に述べる。
- 先行(せんこう)
- 競輪は残り1周半程度までは1本のラインを作って進む。その時は関係の深い者同士で並びの前後を決めるのであるが、その際に一番前を走る戦法の選手が先行選手である。決まり手は「逃げ」あるいは「逃」と表される。先行選手は残り1周半程度から後ろの選手を引き連れてダッシュをする。つまり先頭誘導員が下がって選手達のスピードが上がってから一番前を走っているのが先行選手と言ってよい。一番前を走るので誰にも邪魔されずゴールに先着する可能性は一番高いが、反面時速70km程度の速度で走るので猛烈な風圧を受けながら走らねばならないため相当な脚力と持久力がないと勤まらず、そのため並びの中で最も若い選手がなることが多い。疲労で速度が鈍った、いわゆるタレたときには追い込み選手がいかに残してくれるかによって良い着順を取ることが出来る。後ろに追込選手を引き連れて走るため先行選手を「機関車」と呼ぶこともある。
- 追込(おいこみ)
- 先行選手の後ろを走る戦法の選手を追い込み選手、あるいはマーク屋、差し屋といい、決まり手は「差」と表される。風圧を前の先行選手が受けてくれ、スリップストリームを作ってくれる中で走ることが出来るため楽にゴール前まで進むことが出来るが、先行選手をぎりぎりまで「残す」ために後ろから来る選手をブロックしなければならない。その後先行選手に先着するのが正しい追い込みの仕方で、早々と別のラインに切り替える、直線の手前でまだ脚のある先行選手を抜いていくなどの走法は邪道といわれる。先行選手やまくりの選手は「縦の競走」追い込み選手は「横の競走」をすると言われる。先行選手のすぐ後ろを走っている選手を番手、その後ろは三番手・四番手……と呼ぶ。
- 捲り(まくり)
- 先行選手は先にダッシュを仕掛けるが、先行するラインを後ろから追いかけて短い距離で一気に抜き去る戦法を捲りという。捲りを主戦法にする選手もいるが、先行選手が後手を踏んで捲りになったり、あえて力関係で捲りを選んだりすることもある。先行選手以上のダッシュ力は必要となり、かつ先行ラインを抜く時にそのラインの選手のブロックには耐えなければならない。もちろん捲り選手の後ろにも追い込み選手が続いている。
これらの選手の一般的な並び方は各選手の出身地域が3人ずつ分布している場合、それぞれの出身地域をA,B,Cの3地域だとすると「A先・A追・A追/B先・B追・B追/C先・C追・C追」となり,こういう形を三分戦と呼ぶ。もっと細かくなったものは細分戦あるいはコマ切れの競走と呼ばれる。一方で、先行選手が2名しかいないなどラインが2本しか形成されない場合は二分戦と呼ばれる。
ラインは一般に各選手が練習場所とする競輪場や所属する選手会単位で形成されることが多いが、中には競輪学校の同期生同士、世界選手権・オリンピックに出場した選手同士といったパターンや、同地域の選手がいない者同士がやむを得ず組むパターンなどもある。通常の番組編成(レース毎の選手の配分)においては、ラインの形成を考慮して先行・追込・捲りの選手の数がほぼ均等になるように主催者側で選手を割り振るのが普通。ただし開催最終日の順位決定戦など自動的に出場選手が決まってしまうレースでは、稀に先行選手が1名しかいないレース(逃げイチと呼ばれる)や、先行選手が一人もいないレースが行われることもある。
競走における競輪道
Template:独自研究 上述した戦法をふまえて、競輪競走においてはルールに明記されているわけではないが、選手全体に認知されている競走におけるやらなければならない行為、あるいはやってはいけない行為が存在する。これは選手道または競輪道とファンや選手に言われており、選手達の間で暗黙の内に決められた事と、ファンと選手の間で暗黙の内に決められた事がある。いわゆる不文律・アンリトゥン・ルール (Unwritten rule) の一つ。
選手達の間で決め事とされているものとしては以下のものがある
- ライン(上述)を組む際に、追込選手の並びを決める基準として、地区のつながりで先行選手との間に差がない場合は直近4ヶ月の平均競走得点が上の選手が有利な番手を得る
- 先行するラインの番手(※1)追込=番手あるいは3番手から最後の直線のみで一気にダッシュする戦法の選手は、外側を捲って来る選手に対して車体を振って牽制するか、いざというときは体当たりをしてブロックしなければならない
- 上記の際に、ラインの三番手の選手は内を閉めて(※2)インを突かれる(※3)のを防ぐ。また、自らインをつくこともしない
- 先行するラインの番手の選手は(三番手でも)インで他の選手に競られた場合、アウトで競り(※4)続けなければならない(一旦、先頭に立って、先行選手を迎え入れてインで競るのは他のラインに隙を付かれるため)
- 先行するラインの番手の選手は、他の選手が後ろから来ない場合は、最後の直線に達するまで先行選手を抜きに行かない
- 先行争いで敗れ、失速した選手は他の選手の邪魔にならないように後退する
- 二分戦(先行選手が2名しかいないレース)の場合、その先行選手同士が並列してマイペースで走ってはいけない。ライン後続を裏切る行為になる。本来はラインを組むべき選手同士がどちらも先行選手だった場合、やむなく二分戦となり先行争いを行わなければならない選手が練習仲間の同地区の選手ということがある。しかし、そのような行為はほぼ絶対に禁止されており、ほとんど見かけることは無い。
- もっとも競輪道に対する考え方は選手個々によって差があり、またレースの種類(勝ち上がり・負け戦)によって選手の動き方も変わってくる。
またファンとの間で決め事とされているものとしては以下のものがある
- 大本命の先行選手がラインの番手の選手のために、わざと無理な先行をして着外、つまり車券に関係しない順位になってはいけない
- 競走前の顔見せ(※5)で競りを表明した場合、必ず1回は競りにいかなければならない
- 先行1車の競走(先行選手が1人の競走)では必ず二番手を競りに行くか、いちかばちかその先行選手を相手に追込選手が先行か捲りで競走を動かさなければならない
- 一本棒(※6)で最初から最後まで何の動きも無いレースにしてはならない
- 競走前の顔見せで見せたラインの並びと違う並びを、本番の競走の最初からやってはいけない
- 顔見せで事前のコメントと違うライン並びを行なってはならない。これは、古くは顔見せでの並び変更は許されたが、最近は電話投票や前日発売などで事前に投票するファンが増えたことによる。但し事前に「顔見せで決める」とコメントすることは許される。
- 他に、中野浩一は特に先行選手に対して「『○○さん(自分をマークしてくれる選手)のために駆けます(目一杯先行します)』と言わないように!」と指導している。
- (※1)番手=二番手。先行および捲り選手の直後の位置。番手の直後は三番手。
- (※2)内を閉める=後続が内側から抜かすと反則と判定される位置を走ること
- (※3)インを突く=ルールにのっとり内側から追い抜く行為
- (※4)競り=併走状態で追込選手が互いに体当たりを行ない相手のスピードを落とす行為
- (※5)顔見せ=前の競走が終わった直後に行なわれる、次の競走に出る選手の試走
- (※6)一本棒=先行選手から最後尾まで風の抵抗を避けるため一列になる状態
上記に上げた行為はどちらもルールブックに明記されているルール違反ではなく、ただちに問題になることは滅多にないものの必ず反響を呼び、施行者側職員から注意を受けたり、選手の間でも仲間はずれにされる。また競輪場から競走の斡旋(競走参加の要請)をされなくなる事実上の制裁を受けることもある。トップスターでも時折こうした行為があり、ファンの記憶に残り語り継がれているものもある。斡旋の仕組みについては競輪選手の項を参照。
同様の選手道は競艇においても存在しているし、ロードレースにおいても暗黙の了解が多数存在している(詳しくは「ロードレース (自転車競技)」の「暗黙の了解」の項を参照)。ただ、競輪はこうした選手間の立場による要素が他の競技よりも多いとされており、これが競輪を知らない人から見た場合の予想の難解さを生んでいる側面もある。
なお明らかなルール違反であり、競輪道(選手道)に反するものとして「金網ブロック」がある。これは文字通り、後方から進んでくる選手をブロックする際に、バンクの外周フェンス(金網)近くまで自分の車体を持ち上げて、相手選手をよりフェンス近くで走らせる威嚇行為である。大変に危険な行為であり、故意に相手をフェンスへ激突させた場合は悪質失格とされ斡旋停止の処分等もありうる。昔はこの行為ですら合法だったが、選手同士に遺恨を残すこともしばしばあり、ブロック行為が寛容であった時代ですらルール違反とされることになった。
競輪選手は競走のグレードに対応した競走得点、マイナス計算となる失格点等によって「級班付け」が行われる。規定の点数を獲得できなければ事実上競輪選手としての資格を剥奪される。したがって、「点数がかかっている」選手がいる場合はラインでここぞとばかりに結束し、点数勝負の選手に勝利をもたらそうとするケースがある。その際は要注意であるとともに、ことギャンブルという視点で捉えた場合、チャンスでもある。
競輪選手
競輪選手は日本競輪学校を卒業した後に選手として登録され、S級とA級に分けられた2クラス制の中で、半年ごとに選手の入れ替えを行なって上位のS級を目指す体系となっている。
選手の育成については日本競輪学校、選手そのものについては競輪選手の項に詳しい。また、個々の選手については、競輪選手一覧も参照のこと。
歴代賞金王
- 1949年 小林源吉(埼玉) 1,921,000円
- 1950年 高橋澄(兵庫) 2,425,250円
- 1951年 (資料毀損のため集計せず)
- 1952年 高倉登(埼玉) 3,743,000円
- 1953年 山本清治(大阪) 3,532,100円
- 1954年 中井光雄(滋賀) 3,795,530円
- 1955年 松本勝明(京都) 3,793,780円
- 1956年 松本勝明(京都) 4,118,150円
- 1957年 西村公佑(大阪) 4,338,200円
- 1958年 石田雄彦(和歌山) 4,592,500円
- 1959年 山本清治(大阪) 5,010,370円
- 1960年 石田雄彦(和歌山) 5,796,080円
- 1961年 吉田実(香川) 4,876,590円
- 1962年 吉田実(香川) 6,160,800円
- 1963年 高原永伍(神奈川) 10,875,660円
- 1964年 石田雄彦(和歌山) 12,304,940円
- 1965年 白鳥伸雄(千葉) 12,101,480円
- 1966年 稲村雅士(群馬) 12,384,020円
- 1967年 平間誠記(宮城) 19,093,920円
- 1968年 吉川多喜夫(神奈川) 16,923,220円
- 1969年 高原永伍(神奈川) 17,899,460円
- 1970年 福島正幸(群馬) 16,866,540円
- 1971年 太田義夫(千葉) 17,642,200円
- 1972年 福島正幸(群馬) 23,799,720円
- 1973年 阿部道(宮城) 35,937,630円
- 1974年 阿部道(宮城) 40,595,800円
- 1975年 福島正幸(群馬) 39,613,900円
- 1976年 藤巻昇(北海道) 56,742,000円
- 1977年 中野浩一(福岡) 66,139,600円
- 1978年 中野浩一(福岡) 82,385,200円
- 1979年 中野浩一(福岡) 92,186,200円
- 1980年 中野浩一(福岡)111,410,600円
- 1981年 中野浩一(福岡)107,685,711円
- 1982年 井上茂徳(佐賀)108,267,311円
- 1983年 中野浩一(福岡)109,093,600円
- 1984年 井上茂徳(佐賀) 98,545,100円
- 1985年 滝澤正光(千葉) 96,287,600円
- 1986年 滝澤正光(千葉)100,883,000円
- 1987年 滝澤正光(千葉)131,285,100円
- 1988年 滝澤正光(千葉)129,654,000円
- 1989年 坂本勉(青森) 99,305,700円
- 1990年 坂本勉(青森)121,627,000円
- 1991年 鈴木誠(千葉)118,745,700円
- 1992年 吉岡稔真(福岡)190,028,133円
- 1993年 神山雄一郎(栃木)156,129,100円
- 1994年 吉岡稔真(福岡)158,604,533円
- 1995年 神山雄一郎(栃木)185,597,533円
- 1996年 吉岡稔真(福岡)178,409,511円
- 1997年 神山雄一郎(栃木)228,571,400円
- 1998年 神山雄一郎(栃木)183,822,500円
- 1999年 神山雄一郎(栃木)180,272,200円
- 2000年 児玉広志(香川)170,820,200円
- 2001年 伏見俊昭(福島)203,315,600円
- 2002年 山田裕仁(岐阜)244,348,500円(歴代最高賞金獲得額)
- 2003年 山田裕仁(岐阜)215,344,600円
- 2004年 小野俊之(大分)183,537,300円
- 2005年 加藤慎平(岐阜)186,102,000円
- 2006年 有坂直樹(秋田)191,489,111円
- 2007年 伏見俊昭(福島)185,159,999円
- 2008年 井上昌己(長崎)167,933,900円
- 2009年 海老根恵太(千葉)224,791,000円
競走格付け
競輪の競走格付けにはグレード制が採用されており、上位のグレードから以下のように分類される(本来の数字表記はローマ数字)。
- GP (KEIRINグランプリ)
- GI (グレード制施行前は「特別競輪」と呼称)
- GII (グレード制施行前は「準特別競輪」や「特別記念競輪」と呼称)
- GIII (記念競輪)
- FI (S級シリーズ)
- FII (主に一般競走)
それぞれの詳細については競輪の競走格付けを参照のこと。
全国の競輪場
詳細については競輪場を参照のこと。
自転車競技場
競輪場の他にも全ての都道府県には、自転車競技が行われる国体が開催された関係から、競輪場を含め1ヶ所以上の自転車競技用バンクが設営されており、競輪場がない県でも選手の本拠所属地にする事ができる。なお沖縄県を本拠所属地にしている選手もいるが、島根県が本拠所属地の選手は2010年5月現在では存在しない。
車券発売種類
thumb|競輪場での車券発売 現在発売できる車券の種類は以下の8賭式である。ただし重勝式は一部の競輪場で、かつ会員制サイトのみでの販売となる
- 枠番二連勝複式(2枠複)18通り
- 枠番二連勝単式(2枠単)33通り
- 車番二連勝複式(2車複)36通り
- 車番二連勝単式(2車単)72通り
- 車番拡大二連勝複式(ワイド)36通り
- 車番三連勝複式(3連複)84通り
- 車番三連勝単式(3連単)504通り
- 重勝式 最高で4,782,969通り
単勝式・複勝式は規則上上記から重勝式を除く7賭式を発売する場合は発売しなくてよいとされているため、事実上廃止。元来から単勝式・複勝式の売り上げは微々たるものであり、レースによっては「的中者なし」で購入金額の30%を控除して購入者全員に払い戻すことも多々あった。このため、電話投票でも取り扱いをしたことはない。なお他の公営競技と同様に20歳未満の車券購入は禁止されている(2007年の法改正で20歳以上の学生は解禁)。
高額配当
競輪がギャンブルの側面を持つ以上、高額配当というのは常に話題に上るものであるが、その最高配当は2008年6月5日に平塚競輪場で行われた第5 - 11競走で、チャリロト(重勝式)における79,698,600円である。これは日本の公営競技史上最高配当記録である。
なお重勝式以外の最高配当は、2006年9月21日に奈良競輪場で行われた第10競走で、三連勝単式における4,760,700円である。
また、重勝式や三連勝単式以前の最高配当は、1973年4月9日に千葉競輪場で行われた第7競走で、枠連(現在の枠番二連勝複式)における2,363,180円である。この最高配当記録は30年間破られることはなかった。
なお、最新の情報については、Keirin-Dataplaza ランキング情報を参照されたい。
場外発売
電話投票では1991年から各地の記念競輪 (GIII) 以上の競走を対象に全国発売されるようになり、現在では全国全競走を購入できる。また場外発売でもGIII以上は場間場外発売を行っている他、S級シリーズ (FI) や一般戦 (FII) でも地方都市を中心にしてサテライトなどの専用場外で発売する場合もある。なお、1998年11月に開設された東京都港区にあるラ・ピスタ新橋と、2004年10月に開設された神奈川県横浜市中区のサテライト横浜、2007年3月に開設されたサテライト大阪は有料会員制となっている。詳細については競輪場外車券売場を参照のこと。
広報活動
放送媒体での実況中継
テレビ
地上波
記念競輪(GIII)以上の競走は一部が地上波テレビで中継され、本場所在地にあるテレビ局が制作し、主に場外発売を実施する地域のテレビ局がネットする形態が多く見られる。S級シリーズ (FI) などの競走を地元ローカルで生中継することもある。
競輪がテレビ(地上波)で初めて放映されたのは、1963年の第16回全国争覇競輪(一宮競輪場)で、地元CBCが中継を担当し、TBSやABC(当時はTBSの番組をネット)でもネットされた。ちなみに、カラー放送による最初の中継は、1969年の第14回オールスター競輪(岸和田競輪場)決勝戦である。
特にGII以上の競走は関東・中京・近畿の各広域圏にある独立UHF放送局でレース実況・関連情報・開催地の紹介など時間枠を拡大して放送している。また現地スポーツ新聞記者のほか元競輪選手など専属の解説者も日替わりで出演している。
長らく「KEIRINグランプリ(GP)」やGI決勝戦についてはテレビ東京をキー局としてTXN系列局がネットしてきたが、特にGI決勝戦については原則日曜日または祝日開催となったことからTXN系列では中継できない競走もでてきたため、独立UHF局がある地域ではTXN系列に代わって独立UHF局が中継することが増えている<ref>但しKBS京都やサンテレビのように競馬中継を優先する地域では放送されないことも多い。TXN系列局がない地域では従来からいずれかの既存放送局が中継している。</ref>。GI決勝戦では、一時期古舘伊知郎が実況を担当していたこともある<ref>古舘は一時期KEIRINイメージキャラクターを務めていたことがあった。1997年のオールスター競輪決勝戦から2000年の日本選手権競輪決勝戦まで担当。</ref>。
2006年から日本テレビが地上波テレビでの生中継を始め、同年の「全日本選抜競輪」から開催地の日本テレビ系列局が制作協力して全国ネットで生中継している。また、「KEIRINグランプリ」も2008年以降は日本テレビ系列局で放送されている。加えて、テレビ朝日も2009年の「競輪祭」を全国ネットで生中継した<ref>但しこれらは、特別番組として『北京オリンピックへの道』や『自転車レース!熱き夢への挑戦』などといったタイトルで放送されており、レース中継はその特別番組に内包される形で放送されている。</ref>。
上記のほか、以下のテレビ局では競輪を紹介する番組をレギュラー放送していた。
- サンテレビ:「まいど!火曜日はKEIRIN」(2005年4月 - 2010年3月)
- 毎週火曜日放送。岸和田競輪場の中継や、競輪全般の話題が主な内容。
- テレビ神奈川:「めざせ!競輪キング」(2009年3月終了)
- タイトルの変遷はあるが、1978年4月から毎週土曜に競輪番組を放送していた。
- テレ玉:「ももチャリでGO!」(2008年4月 - 2009年3月)
- テレ玉での放送は終了したが、番組自体は日本ちゃり党として残っているといえる。
BSデジタル放送・CS放送
CS放送で初めて中継が行われたのは、1992年の高松宮杯競輪で、地元びわ湖放送の中継映像を用いてスポーツ・アイで放送された。また、1993年の和歌山競輪開設43周年記念から開設記念(GIII)の中継も開始された。
「KEIRINグランプリ(GP)」は、上記のように日本テレビ系列が地上波で「全日本選抜競輪」決勝戦の生中継を始めた関係もありBS日テレで放送するほか、NHK-BS1でも放送している(NHK-BShiも2006年まで放送)。これは収益金の一部がNHK厚生文化事業団に寄贈され、また優勝者に対してNHKから寄贈トロフィーが贈られるためである。
上記のほか、2008年の「ふるさとダービー弥彦」は、BS11デジタルでも放送した。
スカパー!の「SPEEDチャンネル」では、5チャンネル体制で一般戦も含め各地の競輪を完全中継している。また、かつて西宮競輪や甲子園競輪などでは、無料放送であるベターライフチャンネルでの完全中継を行っていた。
かつて日本で展開していたディレクTVでは「南関ケイリンチャンネル」「関東ケイリンチャンネル」などが存在した。
競輪中継番組の主な主演者
- 元選手(主に解説者として出演)
- タレント(番組の司会やゲストとして出演することもある)
- リポーター・インタビュアー・司会
ラジオ
ラジオでは主に「KEIRINグランプリ」やGIの決勝戦を中心に放送しており、一部は全国ネットしている。番組はRFラジオ日本が制作することが多いが、近年はTBSラジオも制作する場合がある。これはTBSラジオで競輪提供の番組中野浩一のフリートークを放送しているためと考えられる。
実況
RFラジオ日本
TBSラジオ
競輪の歴代イメージキャラクター
キャンペーンガール
競輪場によっては、広報活動のためのキャンペーンガールが存在するところもある。主な活動としては、重賞競走などでラウンドガールや、優勝選手への花束贈呈などの表彰式の演出を行ったり、イベントなどで競輪ファンと交流をしたりすることなどがある。中には自転車競技の魅力を伝えるために、彼女らによる競輪や自転車競技の模擬レースが行われることもある。
また、これらとは別に、2008年より「ガールズケイリン」と称したアマチュア女子自転車競技選手によるエキシビションレース(車券販売を伴う往年の女子競輪とは異なる)も行われている。
脚注
参考文献
- 『競輪十年史』『競輪二十年史』『競輪三十年史』『競輪四十年史』『競輪五十年史』特殊法人日本自転車振興会
- 『競輪六十年史』財団法人JKA
- 清水一行『新人王』集英社 1999年 ISBN 4087470040
関連項目
- ギャンブル
- 競輪の競走格付け
- 競輪の競走一覧
- 競輪選手一覧
- トラックレース(自転車競技)
- SPEEDチャンネル
- ケイリンライブ!282
- 岸和田BBスタジオ
- 四国競輪インターネットライブ
- 競輪場
- ギャンブルレーサー(競輪を主題とした漫画作品で、2シリーズ通算18年間連載)
- 競輪場外車券売場
- 競輪プログラム改革構想
外部リンク
- 競輪の総合サイト KEIRIN.JP
- 財団法人JKA
- 「ケイリン」(自転車文化センター)
- We love Keirin !!!
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