石川五右衛門

出典: Wikipedio


プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項 [[File:Excecution of Goemon Ishikawa.jpg|thumb|250px|五右衛門の処刑


一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』]] 石川五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。

従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会宣教師の日記からその存在が確定した。

目次

伝説の五右衛門

出生地は伊賀国遠江国(現浜松市)・河内国丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者抜け忍百地丹波の弟子という説もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。

また一説には三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた。

三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。

処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」(たとえ砂浜の砂が無くなるようなことがあったとしても、盗人は世の中からは消えないだろう)と辞世の句を詠んだという。

史料に残る五右衛門

史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』<ref>Avila Giron "Relación del Reino de Nippon a que llaman Corruptante Japon(転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)"</ref>によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、Template:Quotationと記している。<ref></ref>

また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るもののTemplate:和暦に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。

また、(以下、「」、「」、「」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』には、Template:Quotationとあり、『歴朝要紀』には、Template:Quotationとある。

架空の英雄としての五右衛門

江戸時代には伝説の大泥棒として認知されている。盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたことにもよるであろう。また徳川政権の下では権力者の象徴として前政権の秀吉が適当だった為と考えられる。

歌舞伎楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の句といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。ただし実際の南禅寺山門は五右衛門の死後30年以上経ったの寛永5年(1628年)の建築である。この場面の、金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。

戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。

一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。

半生

その半生についてはさまざまな説がある。

  • 幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」とか「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
  • 百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
  • その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が圧政や朝鮮出兵の失敗で嫌われていた事もあり、庶民のヒーロー的存在になっていた。
  • 秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、香炉が鳴って捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。
  • 有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。

石川五右衛門が登場する作品

古典

浄瑠璃・人形浄瑠璃
  • 石川五右衛門
  • 傾城吉岡染(近松門左衛門作)
  • 釜淵双級巴
  • 木下蔭狭間合戦
歌舞伎
読本
落語

現代

新歌舞伎・新作歌舞伎
新劇・現代劇
映画
テレビドラマ
小説
漫画
アニメ
ラジオドラマ
テレビ人形劇
ゲーム
その他

出典

Template:Reflist

外部リンク

Template:Commons

en:Ishikawa Goemon it:Ishikawa Goemon th:อิชิคาวา โกเอมอน vi:Ishikawa Goemon zh:石川五右衛門

個人用ツール