真言宗
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Template:密教 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。
同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は著作「秘密曼荼羅十住心論」(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)、「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。
天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教を「東密」と称する。真言宗の密教は東寺を基盤としたので「東密」と呼ばれた。
目次 |
歴史
開宗
空海は、816年(弘仁7年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創し、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。
空海入定後
空海は入定に際して、住持していた寺院を弟子に付嘱した。
教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(ねんぶんどしゃ)(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。
東寺と高野山(本末争い)
観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。東寺長者が真言宗を統括することになった。金剛峯寺は、この本末争いに負けた。
落雷により伽藍・諸堂を焼失した。また、国司による押妨などにより、高野山は衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。
その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、財政においても安定した。
覚鑁と新義派教学
宗団は、師資相承を重視するために分派していった。 事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いによる分派であった。
教学(教義)そのものは、空海により大成されていたため、平安時代半ばまで、宗内での論争はあまりなかった。 しかし、11世紀末、覚鑁(かくばん)別名・興教大師(こうぎょうだいし)が高野山で秘密念仏思想を提唱したことにより対立が生じる。
また、覚鑁は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。
これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。
豊山派・智山派
根来山は大伝法院を含めて根来寺となり隆盛を極めたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉により、焼き討ちにされ灰燼に帰した。
そのため、1588年(天正16年)にこれを逃れた専誉が奈良県桜井市の長谷寺に入り、ここが後に真言宗豊山派の総本山となった。
また、徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥(げんゆう)が、根来寺にあった智積院を京都・七条に再建した。後に真言宗智山派の総本山となった。
古義派教学の振興
南北朝時代に東寺の僧、杲宝(ごうほう)・賢宝(げんぼう)らにより東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。
また、高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。
江戸幕府による統制
江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じた。1604年(慶長14年)に、関東真言宗古義法度、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出された。また、1615年(元和元年)7月24日、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出した。こうして、幕府の監視下に置かれることになった。
同時に、幕府の宗教政策である寺壇制度が確立した。
宗門改などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。寺壇制度は、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみが見られた。
戒律への関心
江戸時代、幕府の支配体制に組み込まれることによって、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部に綱紀のゆるみが起きた。 このことから、浄厳・慈雲らが戒律に関心をよせ、戒律の研鑽・研究を行い、戒律の復興を行った。
廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の打撃
明治維新以降、明治政府は神仏分離を推進した。宮中では勅修法会が廃止され、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い、廃仏棄釈が起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧侶も現れた。
政府の命令で、寺院の所有している土地の返納を要求して、政府へ強制的に返納させた。また、没収する場合もあった。特権も廃され、勅願所・門跡の称号を禁止された。これらの施策により、財政基盤を失うこととなった。結果、多くの寺院の経営が立ち行かなくなり、廃寺に追い込まれた。
宗団の近代化
政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗では金剛峯寺・東寺、新義真言宗は智積院・長谷寺が交替で、真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し、宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。
しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置くこととなった。
また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置くこととなった。古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して、独自の管長を置いた。
こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、真言宗西部・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。
このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に合同が図られた。あわせて、東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。
画一宗派(かくいつしゅうは)と分離独立派の抗争
1896年(明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。
1899年(明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や事相(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の2派による対立があり、紛糾した。
古義八派・各派の分離独立
1890年(明治33年)9月、真言宗高野派(金剛峯寺)・真言宗御室派(仁和寺)・真言宗大覚寺派(大覚寺)・真言宗醍醐派(醍醐寺)・新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)・律宗(現・真言律宗)に対して独立が認可された。 さらに、1907年(明治40年)、真言宗東寺派(東寺)・真言宗山階派(勧修寺)・真言宗泉涌寺派(泉涌寺)・真言宗小野派(随心院)が独立し、真言宗は解体された。
古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。
1925年(大正14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。
真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。古義真言宗は他の古義真言宗系宗派との間に真言宗各派協約を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。
大真言宗(戦時下・戦後の宗団)
太平洋戦争下の1941年(昭和16年)、政府の宗教政策により、古義真言宗・新義真言宗系の宗派は大真言宗へ強制的に編入された。また、戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において、たびたび行われた。
戦後、大真言宗から独立していく、古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。新しい宗教法人制度が制定されて、この動きがさらに加速した。
大師信仰
宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤い。10世紀には高野山で空海の入定信仰が起った。弘法大師信仰(大師信仰)を説いているのが真言宗の各派にいえる特徴の一つでもある。
宗祖・空海(774 - 835年)は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。
弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。
835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定(にゅうじょう)した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。
真言八祖(しんごんはっそ)
密教がインドで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承がある。これを真言八祖(しんごんはっそ)という。
付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作「秘密曼荼羅教付法伝」・「真言付法伝」で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。
本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)を祀られているのが、真言宗の寺院の特徴の一つである。(祀られていない寺院もある。)
付法の八祖
真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。
- 大日如来(だいにちにょらい)
- 金剛薩埵(こんごうさった)
- 龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
- 龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
- 金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
- 不空三蔵(ふくうさんぞう)
- 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)
- 弘法大師
伝持の八祖
真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖の内、大日如来、金剛薩埵は歴史上の人物ではないために除いて、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。 一人一人持ち物を持っているが、その持ち物は悟りの本質をあらわしている。
- 龍猛菩薩 : 大日如来の直弟子金剛薩埵(こんごうさった)から密教経典を授かって、世に伝えたといわれている。(三鈷杵(さんこしょ)を右手に持っている)
- 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった。(経文を右手に持っている)
- 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、「金剛頂経」を伝える。(数珠を右手に持っている)
- 不空三蔵 : 西域生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。「金剛頂経」を漢語に翻訳し、灌頂道場を開いた。(外縛印(げばくいん)を結んでいる)
- 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。大乗仏教を学び、さらに密教を受け継ぐ。80歳になって唐に渡り、「大日経」を伝える。(右手の人さし指をたてている)
- 一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。禅や天台教学、天文学、数学を学ぶ。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を完成させた。(法衣のなかで印を結んでいる)
- 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。金剛界・胎蔵界両部の密教を受け継いだ。(椅子に座り、横に童子を待らせている)
- 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。空海。(五鈷杵(ごこしょ)を右手にもち、左手には念珠をもっている)
教義
真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。本尊は宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。
- 所依の経典(基本の重要経典)
- 論疏(論文の類)
- 空海の著作
- 三密(「身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ」、「口密(語密)・口に真言を読誦する」、「心密・心に曼荼羅の諸尊を観想する」)の修行により、本尊と一体となり、即身成仏が実現するとしている。
事相と教相
真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と教相(きょうそう)が重要視される。
事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂・護摩・観法・印契・真言などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。真言宗の主要経典「大日経」は教相の経典、金剛頂経は事相の経典である。
教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。
事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、慈雲は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。
9世紀半ば(平安時代中期)から、事相の研究が盛んとなった。益信(やくしん)に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝(しょうほう)を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢(やたく)十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。
広沢流・小野流(野沢十二流)
平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。
野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。また、中院流を小野流に入れない。いずれの法流も、高野山に移ったためである。これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。
広沢流
特徴は、儀軌を重んじる。寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。
- 広沢流系流派略系譜
- 仁和御流略系譜(派祖・覚法) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚法
- 西院流略系譜(派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-信証
- 保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳
- 華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-聖恵
- 忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-寛遍
- 伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚鑁
小野流
小野流は、真言宗善通寺派大本山随心院(旧称・曼荼羅寺)がある京都市東山区山科小野が語源となっている。聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。口伝口訣を重じるのが特徴である。
広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。単に随心院流のみを指す場合もある。
- 小野流系流派略系譜
古義派・新義派
真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
古義派
大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
新義派
覚鑁(かくばん)(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。
真言宗各派総大本山会(各山会)
昭和14年(1939年)の宗教団体法成立により、真言律宗以外の宗派は真言宗として統合された。しかし、戦後は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。そのうち主要な16派の18の総大本山が、昭和33年(1958年)6月15日に、真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。これらの寺院を真言宗十八本山という。
真言宗長者
- 真言宗内最高の名誉職。真言宗を代表して、真言宗内外の重要な法会、諸行事に参列する。
- 任期は1年間。その年の後七日御修法(御修法)の大阿闍梨が真言宗長者となる。
- 毎年、各山会に属する真言宗十八本山の管長・山主の中から推戴で、毎年、御修法(後七日御修法)の大阿闍梨を選出する。
- 御修法が成満した後、各山会から長者杖が贈られる。
各山会に参画する真言宗十八本山(順不同)
- 金剛峯寺 - 高野山真言宗総本山
- 教王護国寺 - 東寺真言宗総本山
- 善通寺 - 真言宗善通寺派総本山
- 随心院 - 真言宗善通寺派大本山
- 醍醐寺 - 真言宗醍醐派総本山
- 仁和寺 - 真言宗御室派総本山
- 大覚寺 - 真言宗大覚寺派大本山
- 泉涌寺 - 真言宗泉涌寺派総本山
- 勧修寺 - 真言宗山階派大本山
- 朝護孫子寺 - 信貴山真言宗総本山
- 中山寺 - 真言宗中山寺派大本山
- 清澄寺 - 真言三宝宗大本山
- 須磨寺 - 真言宗須磨寺派大本山
後七日御修法(ごしちにちのみしほ)
真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ定額僧(じょうがくそう)により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法を行っている。真言宗最高の秘儀とされている。
沿革
後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅわう)と呼ばれている。真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。
正月1日から7日まで宮中で行われている、宮中前七日節会に対する行事。834年(承和元年)に、仁明天皇の勅を奉じて、空海(弘法大師)が宮中真言院にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。
南北朝時代の戦乱期や地震などを含めて、数度、中断する時期があったが、後水尾天皇と醍醐寺座主義演の尽力により、1623年(元和9年)に170年ぶりに復活された。1871年(明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。
釈雲照らの嘆願により、1883年(明治16年)1月8日に復活した。そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。
1920年(大正9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。
1968年より、各山会の事業となった。
次第
修法は、合計21ヶ座行われる。金剛界法と胎蔵界法を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。
前日の7日、修法に出仕する供僧が、東寺の集会所で習礼を行う。
初日(開白)の1月8日には、宮内庁より、天皇の御衣を納めた唐櫃(からびつ)を捧持した勅使を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂に安置する。
11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場において焼香し、参拝をされる。同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。
修法で使用する念珠・五鈷杵(ごこしょ)・袈裟などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。以前は、東寺長者(とうじちょうじゃ)が大阿闍梨を務めていた。
結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。
- 構成(真言宗各派総大本山会所属の各宗派より選出された者)
- 法務法印大阿闍梨(1名)
- 御手替(1名)
- 息災護摩供(1名)
- 増益護摩供(1名)
- 五大尊供(1名)
- 十二天供(1名)
- 聖天供(1名)
- 神供(1名)
- 二間観音供(1名)
- 舎利守(1名)
- 咒頭(1名)
- 伴僧(4名)
- 事務局
- 別当(1名)
- 大行事(1名)
- 小行事(1名)
- 局長(1名)
- 総務(1名)
- 用度(1名)
- 承仕(16名)
- 随行(17名)
- 従弟子(2名)
- 定額僧
- 御修法事務局員
真言宗各派総大本山会(各山会) 人事
真言宗長者歴代
- 1968年 平野龍法(泉涌寺長老)
- 1969年 那須政隆(智積院化主)
- 1970年 木村澄覚(教王護国寺長者)
- 1971年 堀田真快(金剛峯寺座主)
- 1972年 平林宥高(長谷寺化主)
- 1973年 森諦圓(仁和寺門跡)
- 1974年 松本實道(宝山寺貫主)
- 1975年 石堂恵俊(中山寺長老)
- 1976年 関 尚道(根来寺座主)
- 1977年 蓮生善隆(善通寺法主)
- 1978年 川田聖見(長谷寺能化)
- 1979年 芙蓉良順(智積院化主)
- 1980年 田中真弘(朝護孫子寺法主)
- 1981年 小松道圓(泉涌寺長老)
- 1982年 立部瑞祐(仁和寺門跡)
- 1983年 上野頼栄(智積院化主)
- 1984年 松本實道(西大寺長老)
- 1985年 小峰順誉(智積院化主)
- 1986年 小林隆仁(仁和寺門跡)
- 1987年 村主恵快(中山寺長老)
- 1988年 勝又俊教(長谷寺化主)
- 1989年 藤井龍心(智積院化主)
- 1990年 鈴木凰永(朝護孫子寺法主)
- 1991年 池田瑩輝(中山寺長老)
- 1992年 広澤純孝(根来寺座主)
- 1993年 竹内崇峯(金剛峯寺座主)
- 1994年 小林海暢(泉涌寺長老)
- 1995年 吉田俊誉(長谷寺化主)
- 1996年 吉田裕信(仁和寺門跡)
- 1997年 野澤密厳(朝護孫子寺法主)
- 1998年 麻生文雄(醍醐寺座主)
- 1999年 稲葉信隆(根来寺座主)
- 2000年 和田有玄(金剛峯寺座主)
- 2001年 高吉清順(善通寺法主)
- 2002年 堀 智範(仁和寺門跡)
- 2003年 川田聖定(長谷寺化主)
- 2004年 片山宥雄(大覚寺門跡)
- 2005年 宮坂宥勝(智積院化主)
- 2006年 佐藤令宜(仁和寺門跡)
- 2007年 大矢実圓(宝山寺貫主)
- 2008年 上村貞郎(泉涌寺長老)
- 2009年 阿部龍文(智積院化主)
- 2010年 松長有慶(金剛峯寺座主)
密教学芸賞・密教教化賞
各山会の事業として、後七日御修法の他に密教学芸賞及び密教教化賞の授与がある。受賞者は以下の通りである。
- 1961年、長谷宝秀・栂尾祥雲・小野立妙・安間立雄・神林隆浄
- 1962年、鈴木智辨・那須政隆(大正大学学長)・堂本印象
- 1963年、大山公淳・勝又俊教・伊藤久
- 1964年、岩原諦信・渡辺照宏(東京大学教授)・辻井弘洲
- 1965年、田中海応・干潟龍祥・文化財保護委員会古文書調査特別調査班
- 1966年、守山聖真
- 1967年、佐和隆研(京都市立芸術大学教授)
- 1968年、小田慈舟(高野山大学教授)
- 1969年、青木融光(円通寺住職)・服部如実(種智院大学教授)・芙蓉良順(大正大学学長)
- 1970年、櫛田良洪(大正大学学長)
- 1972年、梶芳光雲(大正大学教授)・中川善教(高野山大学教授)
- 1973年、田久保周誉(福性寺住職)・山本智教(高野山大学教授)
- 1974年、酒井真典(高野山大学教授)
- 1975年、高橋宥順(観智院住職)
- 1976年、堀内寛仁(高野山大学教授)・宮坂宥勝(名古屋大学教授)
- 1977年、加藤章一(大正大学教授)・大森健二((財)建築研究協会)
- 1978年、金岡秀友(東洋大学教授)・ 松長有慶(高野山大学教授)
- 1980年、高田仁覚(高野山大学教授)・高木紳元(高野山大学教授)
- 1981年、伊原照蓮(九州大学教授)・羽毛田義人(コロンビア大学教授)
- 1982年、松尾義海(京都大学名誉教授)・吉原榮覚(神戸商船大学教授)
- 1983年、和多秀乗(高野山大学教授)
- 1984年、高井隆秀(種智院大学教授)・田村隆照(京都市立芸術大学教授)
- 1985年、藤井龍心(種智院大学教授)
- 1986年、永井義憲(大妻女子大学教授)
- 1987年、(財)美術院国宝修理所
- 1988年、吉井芳純(清水寺住職)・手嶋千俊((財)京都市芸術協会)
- 1989年、高見寛恭(萬福寺住職)
- 1990年、加藤宥雄(種智院大学教授)・山崎泰廣(種智院大学教授)
- 1991年、周藤真雄(林昌寺住職)・三神榮昇(智山講傳所)
- 1992年、壁瀬潅雄(種智院大学助教授)・日野西眞定(高野山大学教授)・上田霊城(延命寺住職)
- 1993年、川原榮峰(早稲田大学教授)
- 1994年、牧尾良海(大正大学学長)・村主恵快(追手門学院大学教授)・蜜波羅鳳洲(高野山大学教授)・東智學(高野山大学教授)
- 1995年、佐藤良盛(智山講伝所、山形・地蔵寺住職)・加藤精一(大正大学教授)・頼富本宏(種智院大学教授)
- 1996年、和田仁雅(龍華寺住職)・佐藤隆賢(大正大学学長)・柏本弘雄(松阪女子短期大学教授)・川﨑信定(筑波大学教授)
- 1997年、鳥越正道(神泉院住職、種智院大学教授)・吉田宏晢(大正大学教授)・加藤純章(名古屋大学教授)
- 1998年、上山春平(京都大学教授)・齋藤昭俊(大正大学教授)・橋本初子(大谷大学教授)・津田真阿(国際仏教学大学院大学教授)
- 1999年、上島有(花園大学教授)・小野塚幾澄(大正大学教授)・岡村圭真(高知大学教授)・静慈圓(高野山大学教授)
- 2000年、金田一春彦(玉川大学客員教授)・北条賢三(大正大学教授)・浜田泰介(日本画家)・村上保壽(山口大学教授)
- 2001年、松崎恵水(大正大学教授)・村岡空(光明寺名誉住職)・福田亮成(大正大学教授)・北村太道(種智院大学教授)・真鍋俊照(宝仙短期大学学長)
- 2002年、辻井弘(旧嵯峨御所華道総司所副総裁)・池口恵観(最福寺法主)
- 2003年、稲葉義猛(高野山本覚院住職)
- 2004年、吉田寛如(正興寺住職)
- 2005年、--
- 2006年、--
- 2007年、越智淳仁(高野山大学教授)・小峰彌彦(大正大学学長)
- 2008年、児玉義隆(種智院大学教授)
- 2009年、梅原猛(京都市立芸術大学名誉教授)
- 1968年、安達本識(智山)・岩本為雄(御室)・佐伯厚仁(善山)・寺河俊海(高野)・平林宥高(豊山)
- 1969年、岡田杲師(豊山)・亀山弘応(高野)・高木泰澄(高野)・乃村龍澄(峨山)・長谷川興真(智山)
- 1970年、坂田徹全(高野)・宮崎識栄(豊山)
- 1972年、高橋成通(高野)
- 1973年、加登田哲英(高野)、常盤勝憲(豊山)
- 1974年、高島真雄(西大寺)、佐藤明義(御室)、鳥取密明(高野)、小峰順誉(智山)、中川祐俊(豊山)
- 1975年、西田隆演(智山)
- 1976年、権田快寿(豊山)・曽我部了勝(高野)・松村祐澄(御室)
- 1977年、岩根智俊(高野)・宮本義範(醐山)・松本隆寛(連盟)・住田恵孝(豊山)・玉山英光(智山)・阿部龍汪(善山)
- 1978年、吉川法城(醐山)・橋爪良全(高野)・磯善晴(智山)
- 1979年、富田道斅(豊山)・松井円戒(高野)・小宮勝憲(智山)
- 1980年、平岡宕峯(高野)・城光寺教進(醐山)・塚田賢昭(智山)
- 1981年、水口芳郎(善山)・岩堀至道(根嶺)・小松原賢誉(豊山)・新居祐政(高野)
- 1982年、島田信了(高野)・別所弘因(智山)・大沢自聚(醐山)
- 1983年、盛川光範(高野)
- 1984年、富樫了清(御室)・渡部俊現(醐山)・久原盛重(智山)・麻生恵光(高野)
- 1985年、山城祐尊(豊山)・大月俊信(高野)・上田龍憲(智山)・斎藤明道(醐山)・川村秀範(智山)
- 1986年、大森順雄(泉山)・鈴木常俊(豊山)・斉隆套(智山)
- 1987年、高山宥進(豊山)
- 1988年、宇喜多元洞(峨山)・高野一能(智山)・宮本真光(醐山)・佐伯仁経(高野)
- 1989年、三井英光(高野)・中條真善(醐山)・吉田俊誉(豊山)
- 1990年、岩井昌純(豊山)・安室舜海(高野)・佐伯泉澄(善山)・真保龍敞(智山)
- 1991年、資延敏雄(高野)・名取盛雄(豊山)・宮原美妙(御室)
- 1992年、栗山秀澄(豊山)・山尾弘雄(醐山)・大原正敬(御室)・橋爪良恒(高野)・石川良泰(智山)
- 1993年、田邊観應(高野)・石井聖巳(豊山)
- 1994年、小澤照禧(智山)・根元日清(智山)・菅生戒応(豊山)・壽山良知(高野)
- 1995年、濱田政亮(智山)・中賢乗(豊山)・嬉野覚昭(高野)
- 1996年、藍川浄諦(醐山)・池田瑩輝(中山)・川田聖定(豊山)・安井覚明(高野)・杉本榮宣(智山)
- 1997年、浅井戒雅(醐山)・穐月敬吾(御室)・久保埜太清(豊山)・後藤善猛(峨山)・小塩祐光(高野)
- 1998年、氷見聖宏(豊山)・高木寶瑞(東寺)・好井快源(峨山)・十時法照(醐山)・小室裕充(智山)・岩坪真弘(高野)
- 1999年、宮崎忍勝(高野)・正城宥基(豊山)・橋本照稔(智山)・岩堀法道(醐山)
- 2000年、中川壬門(醐山)・門屋大寿(豊山)・北原裕康(高野)
- 2001年、鳥居愼誉(豊山)・三輪照峰(智山)・宮田諦詮(高野)
- 2002年、松本俊彰(醍醐)・秋山泰憲(高野)・吉野孟彦(豊山)・小山榮雅(智山)
- 2003年、阿部龍文(智山)・桐生公俊(高野)・塚田晃信(豊山)・小松庸祐(泉山)
- 2004年、渡慈秀(高野)・大山隆玄(智山)
- 2005年、堀井隆水(高野)・川澄祐勝(智山)・大塚惠章(豊山)・羽田野賢照(醐山)
- 2006年、--
- 2007年、服部善教(峨山)・田中量賢(豊山)・吉田宏晢(智山)・福井英昭(根嶺)・密門光範(高野)
- 2008年、高山照襄(智山)・庄司隆興(高野)
- 2009年、佐伯快勝(西大寺)・立葉了照(高野)・浅井侃雄(豊山)・渡邉照敬(智山)
真言宗系大学
真言宗系高等学校
- 高野山高等学校(高野山真言宗)(和歌山県高野町)
- 洛南高等学校(古義真言宗14本山、新義3派)(京都市南区)
- 成田高等学校(真言宗智山派大本山成田山新勝寺)(千葉県成田市)
- 清風高等学校(大阪市天王寺区)
- 清風南海高等学校(大阪府高石市)
- 横浜清風高等学校(横浜市保土ケ谷区)
- 宣真高等学校(大阪府池田市)
- 千代田高等学校(大阪府河内長野市)
- 小松原高等学校、小松原女子高等学校(埼玉県さいたま市)
- 宝仙学園高等学校(東京都中野区)
- 智辯学園高等学校(奈良県五條市)、智辯学園和歌山高等学校(和歌山県和歌山市)
真言宗系中等学校他の由緒地
- 京都市立紫野高等学校(大徳寺内にあった高野山真言宗系京都淑徳女学園の敷地に設置)
- 日本大学豊山中学校・高等学校(前身は旧制豊山中学校)
- 早稲田大学高等学院・中学部(旧制智山専門学校、智山中学校、新制智山高等学校の敷地に設置)
真言宗系諸派 総本山・大本山 (各山会所属宗派以外)
- 古義真言宗系
- 霊雲寺 - 真言宗霊雲寺派総本山
- 七宝瀧寺 - 真言宗犬鳴派大本山(犬鳴山)
- 長柄国分寺 - 真言宗国分寺派大本山
- 鳳閣寺 - 真言宗鳳閣寺派大本山
- 極楽寺(西条市/石鎚山峰下) - 石鎚山真言宗派総本山
- 前神寺 - 真言宗石鉄派総本山
- 菩提寺 - 真言宗花山院派大本山
- 鳳来寺 - 真言宗五智教団大本山
- 東長寺 - 真言宗九州教団本山
- 霊山寺 - 霊山寺真言宗大本山
- 長栄寺 - 新真言宗総本山
- 光明宝院 - 光明真言宗大本山
- 圓蔵院 - 明算真言宗大本山
- 日石寺 - 真言密宗大本山
- 福田寺 - 真言聖天宗大本山
- 千手寺 - 真言毘盧舎那宗大本山
- 大聖観音寺 - 観音宗総本山
- 護国院(紀三井寺) - 救世観音宗総本山
- 正暦寺 - 菩提山真言宗大本山
- 新義真言宗系
- その他新宗教系教団
- 大王寺 - 一切宗大本山
- 解脱会
- 真澄寺 - 真如苑総本部
- 如意寺 - 辯天宗総本山
- 阿含宗
- 瀧光徳寺 - 中山身語正宗大本山
- 本福寺 - 光明念佛身語聖宗総本山
- 台覚寺 - 身言正宗総本山
- 卍教団(真言宗諸派連合)系
外部リンク
真言宗十八本山リンク
- 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
- 東寺真言宗 総本山教王護国寺(東寺)
- 真言宗御室派 総本山仁和寺
- 真言宗大覚寺派 旧嵯峨御所 大覚寺
- 真言宗醍醐派 総本山醍醐寺
- 真言宗泉涌寺派 総本山泉涌寺
- 真言宗善通寺派 総本山善通寺
- 真言宗善通寺派 大本山随心院
- 真言宗中山寺派 大本山中山寺
- 真言三宝宗 大本山清荒神清澄寺
- 真言宗須磨寺派 大本山須磨寺
- 真言律宗 総本山西大寺
- 真言律宗 大本山宝山寺
- 信貴山真言宗 総本山朝護孫子寺
- 新義真言宗 総本山根来寺
- 真言宗豊山派 総本山長谷寺
- 真言宗智山派 総本山智積院
真言宗系諸派・本山リンク
真言宗系大学
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