皇居

出典: Wikipedio


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東京の皇居の正門石橋
(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる)

皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における住居である。東京京都に所在するが、一般には後述する東京の皇居を指す場合が多い。

目次

概要

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京都御所の正門・建礼門。

現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された東京江戸城跡一帯を指して皇居と呼んでいる。英名は「The Imperial Palace」。天皇の住居である「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。#東京の皇居を参照。

京都の皇居は京都御所禁裏内裏などと呼ばれていたが、明治維新東京行幸の後に留守となり、天皇の指示で保存されて以降は京都皇宮とも呼ばれるようになった。英名は「Kyoto Imperial Palace」。平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存されている。京都御所を参照。

皇居の呼び名は、内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城(きゅうじょう)、蓬が洞(よもぎがほら)、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。

歴史

宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、天皇の住居は一世ごとに移転され、皇居は(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。

飛鳥の宮

592年推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので飛鳥京と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮603年 - 630年)、飛鳥岡本宮(630年 - 636年)、飛鳥板蓋宮643年 - 655年)、後飛鳥岡本宮656年 - 672年)、飛鳥浄御原宮672年 - 694年)などがある。その頃の大規模な居館がいくつか発見されている。それらは地面に穴を掘って柱の根本を固定する掘立柱建物である。これらの建物の内、7世紀以降では、中心建物は南を正面としているのが特徴である。

後には、中国王朝の影響で(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院を始めとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて宮城と呼ばれる。

京には、難波京(大阪)、藤原京(奈良)、平城京(奈良)、平安京京都)などがある。

平安時代から江戸時代

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京都御所の承明門。奥が紫宸殿。

平安京は、Template:和暦桓武天皇によって定められた。Template:和暦に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。Template:和暦にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。Template:和暦に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝時代Template:和暦北朝光厳天皇土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが土御門内裏と呼ばれ、現在の京都御所の前身となる。

明治時代以後

Template:和暦江戸東京と改められ明治天皇東京に行幸し江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている・現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められ、天皇は一旦京都に戻った。

Template:和暦再び東京に行幸し、Template:和暦には京都御所が保存され今に至る。東京奠都の項目を参照。

歴代の皇居

飛鳥時代以前の皇居は『日本書紀』(一部『古事記』)を典拠とする。また、南北朝時代の南朝の皇居は除外する。

名称置かれた期間(年代)天皇所在地(推定地含む)
畝傍橿原宮 神武天皇奈良県橿原市畝傍町
葛城高丘宮 綏靖天皇奈良県御所市森脇
片塩浮孔宮 安寧天皇奈良県大和高田市三倉堂
もしくは同県橿原市四条町
軽曲峡宮(軽境岡宮) 懿徳天皇奈良県橿原市見瀬町・白橿町
掖上池心宮(葛城掖上宮) 孝昭天皇奈良県御所市池之内
室秋津島宮 孝安天皇奈良県御所市室
庵戸宮(黒田廬戸宮) 孝霊天皇奈良県磯城郡田原本町黒田
軽境原宮 孝元天皇奈良県橿原市見瀬町
春日率川宮 開化天皇奈良県奈良市本子守町
磯城瑞籬宮 崇神天皇奈良県桜井市金屋
纒向珠城宮(師木玉垣宮) 垂仁天皇奈良県桜井市穴師
纒向日代宮 景行天皇奈良県桜井市穴師
志賀高穴穂宮 景行天皇 - 成務天皇滋賀県大津市穴太
穴門豊浦宮 仲哀天皇山口県下関市長府宮の内町
橿日宮(筑紫訶志比宮) 仲哀天皇福岡県福岡市東区香椎
磐余稚桜宮(若桜宮) 神功皇后奈良県桜井市池之内
もしくは桜井市谷
軽島豊明宮(軽島明宮) 応神天皇奈良県橿原市大軽町
難波大隅宮 応神天皇大阪府大阪市東淀川区大隅
もしくは大阪市中央区
難波高津宮 仁徳天皇大阪府大阪市天王寺区餌差町
もしくは大阪市中央区
磐余稚桜宮 履中天皇奈良県桜井市池之内
もしくは桜井市谷
丹比柴籬宮 反正天皇大阪府松原市上田
遠飛鳥宮 允恭天皇奈良県高市郡明日香村飛鳥
石上穴穂宮 安康天皇奈良県天理市田町
泊瀬朝倉宮 雄略天皇奈良県桜井市黒崎
もしくは桜井市岩坂
磐余甕栗宮 清寧天皇奈良県橿原市東池尻町
忍海角刺宮 飯豊青皇女奈良県葛城市忍海
近飛鳥八釣宮(近飛鳥宮) 顕宗天皇奈良県高市郡明日香村八釣
もしくは大阪府羽曳野市飛鳥
石上広高宮 仁賢天皇奈良県天理市石上町
もしくは天理市嘉幡町
泊瀬列城宮 武烈天皇奈良県桜井市出雲
樟葉宮507年 - 継体天皇大阪府枚方市楠葉丘
筒城宮511年 - 継体天皇京都府京田辺市多々羅都谷
弟国宮518年 - 継体天皇京都府長岡京市今里付近
磐余玉穂宮526年 - 継体天皇奈良県桜井市池之内
勾金橋宮534年 - 安閑天皇奈良県橿原市曲川町
檜隈廬入野宮536年 - 宣化天皇奈良県高市郡明日香村檜前
磯城島金刺宮540年 - 欽明天皇奈良県桜井市金屋
百済大井宮572年 - 575年敏達天皇奈良県桜井市
もしくは同県北葛城郡広陵町百済
訳語田幸玉宮
(他田宮・磐余訳語田宮)
575年 - 敏達天皇奈良県桜井市戒重
磐余池辺雙槻宮585年 - 用明天皇奈良県桜井市阿倍
もしくは桜井市池之内
倉梯宮(倉椅柴垣宮)587年 - 崇峻天皇奈良県桜井市倉橋
豊浦宮(桜井等由羅宮)592年 - 推古天皇奈良県高市郡明日香村豊浦
小墾田宮603年 - 推古天皇奈良県高市郡明日香村雷
飛鳥岡本宮(高市岡本宮)630年 - 636年舒明天皇奈良県高市郡明日香村岡
田中宮636年 - 舒明天皇奈良県橿原市田中町
厩坂宮640年舒明天皇奈良県橿原市大軽町・石川町
百済宮640年 - 舒明天皇奈良県桜井市吉備
もしくは同県北葛城郡広陵町百済
飛鳥板蓋宮642年 - 655年皇極天皇 - 斉明天皇奈良県高市郡明日香村
難波長柄豊碕宮652年 - 686年孝徳天皇大阪府大阪市中央区法円坂
飛鳥川原宮655年 - 656年斉明天皇奈良県高市郡明日香村川原
後飛鳥岡本宮656年 - 斉明天皇奈良県高市郡明日香村岡
近江大津宮667年 - 天智天皇 - 弘文天皇滋賀県大津市錦織
飛鳥浄御原宮673年頃 - 天武天皇 - 持統天皇奈良県高市郡明日香村
藤原宮694年 - Template:和暦持統天皇 - 元明天皇奈良県橿原市高殿町など
平城宮Template:和暦 - Template:和暦
Template:和暦 - Template:和暦
元明天皇 - 桓武天皇奈良県奈良市佐紀町
大養徳恭仁大宮(恭仁宮)Template:和暦 - Template:和暦聖武天皇京都府木津川市加茂町例幣など
難波宮Template:和暦 - Template:和暦聖武天皇大阪府大阪市中央区法円坂
紫香楽宮
(信楽宮・甲賀宮)
Template:和暦聖武天皇滋賀県甲賀市信楽町宮町
保良宮Template:和暦 - Template:和暦淳仁天皇滋賀県大津市国分
由義宮Template:和暦 - Template:和暦称徳天皇大阪府八尾市八尾木
長岡宮Template:和暦 - Template:和暦桓武天皇京都府向日市鶏冠井町など
平安宮Template:和暦 - (Template:和暦保存)桓武天皇 - 京都府京都市上京区
福原宮Template:和暦安徳天皇兵庫県神戸市兵庫区荒田町など
宮城・皇居Template:和暦 - 明治天皇 - 東京都千代田区千代田

東京の皇居

画像:Imperial Palace Tokyo Panorama.jpg
東京の皇居一帯のパノラマ写真
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正門(江戸城の西丸大手門)、手前は正門石橋
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桔梗濠、建物は辰巳櫓
画像:The Moat of The Imperial Palace.JPG
半蔵門付近から警視庁方面を望む、堀は桜田濠
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皇居東御苑全景。東御苑は、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸に当たる。
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天皇誕生日の際、一般参賀に訪れた人々に対し皇族が皇居長和殿ベランダにて応える

thumb|250px|東庭から宮殿、長和殿を望む 東京の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸二の丸三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(Template:和暦)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。

皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている<ref>現在は上・中・下道灌濠の3つの濠に分かれている。</ref>。城郭としての江戸城は本丸、二の丸、三の丸および西の丸部分のみを言い、道灌堀の西側にある庭園部分は厳密には江戸城には含まれないので、御所は城郭としての江戸城跡に建っているわけではない<ref>江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分は、現在は皇居東御苑として一般公開されている。</ref>。

現在、皇居一帯は東京の中央部にありながら、緑豊かな地区で、濠の周りはジョギングとして人気が高い。皇居の住所表示は東京都千代田区千代田1番1号で、本籍として人気が高い住所になっている(郵便番号は100-0001)。また、国有財産としての皇居の価値は、2146億4487万円である(財務省資料に基づく、2009年5月現在)<ref>出典は『皇室 Our Imperial Family』43号、扶桑社、2009、p15</ref>。

衛星パノラマ画像プログラムのグーグルアースにおいては世界のランドマークの一つとして登録されている。

歴史

  • Template:和暦、明治天皇の東京行幸により江戸城が東京城(とうけいじょう)と称され、東京の皇居となる。
  • Template:和暦、2度目の東京行幸で天皇の東京滞在が発表され、東京城は皇城(こうじょう)と称される。
  • Template:和暦、それまで天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が火災のため焼失し、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。
  • Template:和暦西の丸に新宮殿を造営することが決まり、Template:和暦明治宮殿が落成した。以後、宮城(きゅうじょう)と称された。

明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は太平洋戦争大東亜戦争)中のTemplate:和暦5月、空襲による飛び火で焼失した。明治宮殿の焼失後、昭和天皇香淳皇后は、吹上御苑内の御文庫(おぶんこ)を仮の住まいとし、Template:和暦からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。

戦後、Template:和暦に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。

戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、自らの著書で「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」旨のことを記している。

昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、Template:和暦皇居造営審議会の答申に基づき、翌Template:和暦から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まずTemplate:和暦、昭和天皇及び香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接して建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地にTemplate:和暦着工し、Template:和暦10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌Template:和暦4月から使用された。なお吹上御所は、昭和天皇の崩御後に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された。

今上天皇皇后は、即位後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、Template:和暦12月から使用している。

東京の皇居内の施設

  • 宮殿
    Template:和暦4月から使用されている。鉄骨鉄筋造で、地上2階、地下1階、延べ面積22,949平方メートル。基本設計は吉村順三。表御座所棟、表御座所附属棟、正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、千草の間・千鳥の間の7棟からなり、これら建物に面して中庭(ちゅうてい)、東庭(とうてい)、南庭(なんてい)がある。
    • 表御座所棟
      天皇が日常の執務をする部屋(表御座所)のほか、侍従の部屋などがある。
    • 正殿
    • 豊明殿
      宮殿内で最も広い大広間で、宮中晩餐会天皇誕生日宴会の儀等の多人数の宴会に使用される。
    • 連翠
      午餐会晩餐会等の小人数の宴会に使用される。
    • 長和殿
      南北163メートルにおよぶ細長い建物で、参殿者の休所や、もてなし、拝謁等多目的に使用される。部屋名は北から南へ順に、北溜、北の間、石橋(しゃっきょう)の間、春秋の間、松風の間、波の間、南溜。一般参賀の行なわれる東庭に面しており、一般参賀の際には皇族は長和殿ベランダの中央部に立つ。Template:和暦1月2日、新宮殿完成後初の皇居一般参賀で昭和天皇らが長和殿ベランダに立った際、パチンコ玉で狙われる事件が発生した。皇族は負傷しなかったが、この事件の後、長和殿ベランダ中央部には防弾ガラスが設けられた。
      • 春秋の間
        宮内では豊明殿に次いで広い大広間で、各国賓客の歓迎会や拝謁等に用いられる。平成に入ってからは、各種レセプションに使用される機会も多くなった。
      • 石橋の間、松風の間
        春秋の間に隣接した広間で、参殿者の休所等として利用される。
      • 北の間、波の間
        参殿者の休所等として利用される部屋。
      • 北溜、南溜
        北車寄、南車寄につながる玄関ホール。北溜は記帳所として利用されることもある。波の間と正殿の間には長さ70メートルほどの回廊があり、国賓等は長和殿から回廊を経て正殿に向かう。
      • 北車寄、中車寄、南車寄
        北車寄は長和殿の北端、南車寄は長和殿の南端、中車寄は長和殿の地下にある。長和殿と東庭の地下は、参殿者のための地下駐車場となっている。
    • 回廊、千草の間、千鳥の間
    • 庭園(中庭、東庭、南庭)
      東庭は新年・天皇誕生日の一般参賀の場として使用される。
  • 御所
    今上天皇及び皇后の住居。吹上御苑内にあり、Template:和暦に着工、Template:和暦12月8日から使用されている。設計は内井昭蔵による。
  • 吹上大宮御所
    吹上御苑内にあり、吹上御所としてTemplate:和暦に建設され、生前の昭和天皇香淳皇后の住居として使用された。昭和天皇の崩御後は吹上大宮御所と改称され、皇太后(香淳皇后)の住居として使用されていたが、Template:和暦の香淳皇后の崩御後は使用されていない。
  • 宮中三殿賢所皇霊殿神殿
  • 宮内庁庁舎
  • 生物学御研究所
    Template:和暦、昭和天皇が生物学の研究を行うために建設された施設。
    現在は今上天皇がハゼを始めとする魚類学の研究を行ったり、その年の新嘗祭を執り行う際に用いられる新穀米を栽培するなど多岐に亘って供用されている。
  • 紅葉山御養蚕所
    Template:和暦貞明皇后の命により建てられ、以来、歴代皇后がを飼育している施設である。
    御養蚕所で飼われる蚕から出来た絹製品は、主に皇室の儀典用衣裳等に用立てられる。
  • 皇居東御苑
    Template:和暦10月1日から一般公開されている。

thumb|250px|桃華楽堂

その他

脚注

<references />

関連項目

Template:Wiktionary

外部リンク

Template:Commons

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