白村江の戦い

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Template:出典の明記 Template:Battlebox Template:朝鮮の事物 Template:中華圏の事物 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との間の、海と陸の会戦のことである。

この戦いは、唐・新羅連合軍の大勝利に終わった。大陸に超大国であるが出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした。

日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。朝鮮側では「白江」、中国側では「白江口」と表記され、この戦いの名称も異なる。なお、「はくすき」は当時の地名の「白村」の百済語発音を日本側が聞き取ったものである。

目次

背景

6世紀から7世紀朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。

倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたと『日本書紀』が記している。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。 『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。 しかしこの地域は、豪族による百済への割譲と新羅の進出によって弱体化し、562年以前に新羅に滅ぼされた。

一方581年に建国されたは、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗した。これが有力な原因となって隋は弱体化し618年には煬帝が殺害されて滅んだ。 同年に建国されたは、628年に国内を統一した後、二代太宗高宗の時に高句麗を3度(644年~648年)にわたって攻めたが、隋と同様に攻略に失敗した。

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし高句麗遠征により、高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで、唐と新羅との関係が親密化した。また、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、両国の間はさらに親密化した。

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

660年斉明天皇6年)、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済は滅亡した。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きた。

戦いの経過

660年斉明天皇6年)に、新羅連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされた。こののち、百済の遺臣は鬼室福信黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。これは倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。

中大兄皇子はこれを承諾し、661年に斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

  • 第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。661年5月出発。
  • 第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。662年3月出発。
  • 第三派:1万余人。指揮官は廬原君

倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。

663年天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。

百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。

同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。白村江で大敗北した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 

当時の唐は至るところで諸民族を征服しており、丁度このころの唐の勢力圏は中華史上最大のものであった。この時参加した唐の水軍も、その主力は女真族で構成されていたという。

戦後

天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。

日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。

これに対して「665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。その大使らは、唐の高宗の泰山封禅儀式の際に唐に対しての臣従を誓った。」との説もある。

日本書紀』の667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきたという記載がある(「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」)。

このように、唐との戦後交渉の実態については、様々な見解がある。

一方、朝鮮半島では唐と新羅が666年から高句麗攻撃に入っており、2度の攻勢によって668年についにこれを滅ぼした。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、その後高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。

戦後、唐が百済・高句麗の故地を占領し、新羅に対しても政治的な圧力をかけていたが、それも長くは続かなかった。新羅は旧高句麗の遺臣らを援助し、彼らは669年に反唐の蜂起を行った。唐がこの掃討を行っている隙に、新羅自身も670年に旧百済領に侵攻し、唐軍を駆逐した。 他方で唐へ使節を送って和議を願い出るなど、武力と交渉の両面をもって唐と対峙した。 何度かの戦闘の結果、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅へ与えるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年撤収し、新羅の半島統一がなった。

一方、倭国では、天智天皇は唐との友好関係を強化しようと669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される<ref>『舊唐書』卷八十八列傳第三十四</ref>。 天智10年(670年)正月)には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。

671年に天智天皇が急死(『扶桑略記』では、異説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」と紹介し、山中での狩の途中に行方不明となり暗殺されたことを示唆している)すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳~686年)として即位した。

皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築してゆき、新たな国家建設を進めていった。天武天皇は、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。 しかしながら、新羅が朝鮮半島統一の勢いを駆って侵攻して来ることも怖れた日本は、海岸の防備を固めるなどの警戒を怠らず、両国の関係は、天武天皇没(686年)後は次第に悪化する事になる。

日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある。 持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』といった。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。 幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。

698年に高句麗遺民を含む諸族は、中国東北一帯にひろがる渤海国を建国した。渤海は交易的国家であり、新羅とは対立を続けるも、唐からは冊封を受けて交易を進めた。また日本は、新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは秋田、新潟などの日本海側沿岸での文物交流を深めていった。

内政面では、天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、それまでの倭国(ヤマト王権)は「日本」という国家へと生まれ変わることとなった。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

影響

倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだ。 そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。

以上のように、白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。

なお、百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

関連項目

脚注

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参考文献

外部リンク

en:Battle of Baekgang fr:Bataille de Hakusukinoe ko:백강 전투 uk:Битва при Пекганг zh:白江口之战

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