田中耕太郎

出典: Wikipedio


プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項

田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年明治23年)10月25日 - 1974年昭和49年)3月1日)は、日本法学者法哲学者東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官国際司法裁判所判事、文化勲章受章者。日本国憲法施行後、皇族内閣総理大臣経験者を除き、唯一の大勲位菊花大綬章受章者であり、さらに生前に勲一等旭日桐花大綬章文化勲章を受勲したのは田中と横田喜三郎のみである。(ただし新叙勲制度が始まってからは井深大は生前に文化勲章と没後ではあるが勲一等旭日桐花大綬章を受勲している。)位階正二位

目次

経歴

裁判官田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。福岡県立中学修猷館(後の福岡県立修猷館高等学校)卒業。第一高等学校海軍兵学校の両方とも合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。卒業後、東京帝国大学法科大学法律学科に進学。1915年(大正4年)首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。

その後、内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で無教会主義キリスト教内村鑑三の門下生となっている。欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。1924年、商法講座の前任者であった松本烝治の娘である峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)に岩下壮一神父を代父として受洗している。田中はカトリックへの接近にともなって、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部長に就任する。

1945年(昭和20年)10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年(昭和21年)5月に第1次吉田内閣文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任。1947年参議院選挙に立候補し、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。

1950年(昭和25年)に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である<ref>最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己1973年から1980年まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年法務大臣に就任した例がある</ref>。長官在任期間は3889日で歴代1位。最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、後に「世紀の冤罪」として世間を賑わせた八海事件の際に、マスコミが検察側や判決に対して展開した批判や、弁護士正木ひろしが著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』で述べた批判に対しての「雑音に惑わされるな」という発言や、松川事件の下級審判決を「木を見て森を見ざるもの」という発言などがある。

砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、一審破棄・合憲(統治行為論を採用)の判決を下すが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米同盟に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に記されている<ref>『「米軍違憲」破棄へ米圧力 59年の砂川裁判 一審判決直後 解禁文書で判明 駐日大使 最高裁長官と密談』しんぶん赤旗</ref><ref>『砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談 破棄判決前に』毎日.jp 2008年4月30日</ref>。

1961年から1970年には、国際司法裁判所判事として活躍した。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。

1974年聖母病院において死去。

人物

妻の峰子は聖公会からカトリックに改宗しており、この妻の影響を受けて、無教会主義キリスト教からカトリックに改宗している。以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱える。なお、大学時代、「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋いこがれたエピソードもある。 実弟に、飯守重任(元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長)がいる。

第二次世界大戦末期には、南原繁高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。敗戦まで16年獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は軍部にとって要注意人物とされた。しかし、最高裁判所長官就任後に、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃『目的は憲法の否定』」と報じられるなど、田中自身は戦前も戦後も、一貫して反共主義者であった。

また、1957年8月の皇太子様(現在の今上天皇)と正田美智子様(現在の皇后)とのテニスコートでの出会いは、田中がカトリック人脈である小泉信三吉田茂らと共に演出したとされる。

松本烝治門下であり、門下生に鈴木竹雄西原寛一など日本を代表する商法学者がいる。

学説

専門は、商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(学士院賞朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱したことでも有名。

栄典

主な著作・論文

脚注

<references/>

関連項目

参考文献

  • 山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年、講談社+α文庫、1997年)
  • 芝崎厚士 「田中耕太郎の国際文化論 『文化的帝国主義批判』の思想と行動」『国際関係論研究』第13号(1999年3月)。
最高裁判所長官
前任:
三淵忠彦
1947年8月4日-1950年3月2日
田中耕太郎
1950年3月3日-1960年10月24日
後任:
横田喜三郎
1960年10月25日-1966年8月5日

Template:文部科学大臣de:Tanaka Kōtarō

個人用ツール