源義仲

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源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏武将木曾義仲の名でも知られる。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝義経とは従兄弟にあたる。『平家物語』において「朝日将軍旭将軍)」と称される。

以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って上洛する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍<ref name="seitoudaisyougun"/>となるが、源頼朝が送った源義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

目次

生涯

生い立ち

河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。母は遊女。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡群馬県多野郡)の可能性もある。

平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父義賢は伯父源義朝との対立により大蔵合戦源義平に討たれ、当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳母父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾谷(長野県の旧・日義村、現在の木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。

諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。

挙兵

230px|thumb|義仲館の銅像。巴御前と並ぶ 治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、佐久郡依田城にて挙兵する(上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている)。

翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後から攻め込んできた城助職千曲川横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。

寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に嫡子義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。

5月11日、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越中、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦する事になる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、また摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。このように平家包囲網が迫る中25日に平氏は安徳天皇とその異母弟守貞親王(皇太子に擬された)を擁して都を落ち、西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した後白河は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。

入京

7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた<ref>『玉葉』7月28日条には、「参入の間、かの両人相並び、敢へて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし」とある。</ref>。30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった(『玉葉』7月30日条)。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した(『吉記』7月30日条)。

8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下左馬頭越後守、行家は従五位下備後守に任ぜられる(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月11日条)。16日になると、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない(『玉葉』8月12日条)。

皇位継承問題への介入

後白河は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(後の惟明親王)か四之宮(後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯僧正を介して朝廷に執拗に申し立てた。

しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるなど、皇統の永続性を大切にする朝廷が受け入れるはずもなかった。兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、一介の武士が皇位継承問題に介入してくること自体、後白河にすれば不快に感じたと思われる。朝廷では義仲を制するため御占が数度行なわれた結果、8月20日に四之宮(後鳥羽天皇)が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、後白河の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという(『玉葉』8月18日条)。

いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる後白河や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない「粗野な人物」として疎まれるきっかけとなるに十分だった。山村に育った義仲は、平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうしたものに触れる機会が存在しなかったのである。

治安回復の失敗

また義仲は京都の治安回復にも失敗した。連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。京中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、源行家や安田義定近江源氏美濃源氏摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった。

『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。『平家物語』はこの発言を法住寺合戦の直前とするが、実際には狼藉が問題となっていた9月のことではないかと推測される。

たまりかねた後白河は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』9月21日条)と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。

後白河への抗議

義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、後白河は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。

そうとは知らぬ義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった(『玉葉』閏10月17日条))<ref>『玉葉』閏10月17日条には、「或人云はく、頼朝の郎従等、多く以て秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す」とあり、藤原秀衡が義仲に情報を伝えたとしている。</ref>。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした(『玉葉』同日条)。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。

義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では後白河を奉じて関東に出陣するという案を出し(『玉葉』閏10月20日条)、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された(『玉葉』閏10月26日条)。しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった(『玉葉』閏10月27日条)。

決裂

11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが(『玉葉』11月16日条)、後白河は延暦寺園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の近江源氏・摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。

院側の武力の中心である行家は、重大な局面にも関わらず平氏追討のため京を離れていたが(『玉葉』11月8日条)、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。

これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している(『玉葉』11月18日条)。義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王円恵法親王天台座主明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。

法住寺殿襲撃

Template:Main 11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は源光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は後白河を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により天台座主の明雲や後白河の皇子である円恵法親王が戦死した。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」(『玉葉』11月22日条)と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという(『愚管抄』)。20日、義仲は五条河原に源光長以下百余の首をさらした(『百錬抄」同日条、『吉記』は21日とする)。

21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」(『玉葉』同日条)と命じ、22日、基房の子・師家内大臣摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘・藤原伊子を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる。

11月28日、新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された(『吉記』『百錬抄』同日条、『玉葉』29日条)。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する(『吉記』同日条)<ref>ただし12月10日には、左馬頭を辞任している(『吉記』同日条)。</ref>。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた(『百錬抄』『吉記』同日条)。

最期

寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃へ入ったという噂を聞いて、義仲は大いに畏怖する。15日には自らを征東大将軍に任命させた<ref name="seitoudaisyougun"/>。播磨国の平氏との和睦工作を続け、後白河を伴って北国や近江への下向を図るが断念。まもなく源範頼、源義経率いる鎌倉軍が到着。義仲は京都の防備を固めて鎌倉軍との開戦に及んだが、法皇幽閉にはじまる一連の暴挙のため、義仲軍の兵士は次々と敵前逃亡し、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。義仲自身も20日、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」(『玉葉』同日条)と評した。享年31。

義仲が戦死したとき嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれ、義仲の家系は絶えた。

戦国時代木曾氏は義仲の子孫を自称している。

経歴

※日付=旧暦

  • 寿永2年(1183年
    • 8月11日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。越後守兼任。
    • 8月16日、伊予守兼任。越後守の任替。
    • 10月、左馬頭辞任。
    • 10月13日、従五位上に昇叙。伊予守如元。
  • 寿永3年(1184年
    • 1月2日、従四位下に昇叙。昇殿を許される。伊予守如元。
    • 1月15日、征東大将軍宣下<ref name="seitoudaisyougun"/>。

墓所

thumb|大津市義仲寺の境内にある義仲の墓 義仲の墓所は、室町時代に没地近くに開かれた朝日山義仲寺滋賀県大津市馬場)にある。義仲寺は江戸時代の俳人松尾芭蕉の墓があることでも有名な寺である。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬って欲しいと言っていた。首塚京都市東山区法観寺にある。

また、長野県日義村徳音寺には、義仲の霊廟と五基並んだ一族の墓が建立されている。

その他

生誕地

義仲の生誕地は、現在の埼玉県比企郡嵐山町だと言われている。現在は生誕地には鎌形八幡宮が建ち、義仲の産湯を汲んだとされる清水が残されている。

家臣・協力者

義仲の下で活躍した、今井兼平樋口兼光根井行親楯親忠の4人の武将を義仲四天王という。右筆覚明

容貌

「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」(『源平盛衰記』)

銅像

富山県小矢部市の護国八幡神社に騎馬姿で手綱を持った義仲の銅像がある。 長野県木曽郡日義村(現・木曽町)の歴史資料館「義仲館」の中庭に、巴御前と並ぶ銅像が立つ。

唱歌・地名

義仲は「信濃の国」(長野県歌)に、県出身者の一人として詠われている。また義仲が育った木曽郡日義村は、「朝将軍仲」に由来して明治7年に命名された地名であった(日義村は2005年11月1日から木曽町となり消滅)。

祭事・催事

清和源氏発祥の地、兵庫県川西市で毎年4月に行われる源氏まつりの「懐古行列」では、先祖源満仲を始めとする清和源氏累代の武将達と並び騎馬武者姿の義仲が登場する。

神楽

胡四王神楽。岩手県指定無形民俗文化財。早池峰岳流山伏神楽の弟子神楽。慶長3年(1598年)幕銘の獅子頭が伝承されており、そのころから始まっていた。「岩手県立博物館平成16年度伝統芸能鑑賞会/岩手県文化財愛護協会第57回岩手郷土芸能祭」に詳しい。

脚注

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参考文献

関連項目

  • 木曾氏
  • 義仲寺
  • 項羽 - 平家物語における義仲の最期の場面が、『史記』の「項羽本紀」の項羽の最期の場面を重ね合わせられたものであるという。
  • 長野県日義村(現木曽町) - 義仲が幼少時代を過ごした場所。村名は「朝将軍木曽仲」から採られている。

外部リンク

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