湘南ベルマーレ

出典: Wikipedio


Template:サッカークラブ 湘南ベルマーレ(しょうなんベルマーレ、Shonan Bellmare)は、日本神奈川県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称はベルマーレ平塚(ベルマーレひらつか)。

目次

クラブ概要

1994年Jリーグ加盟。ホームタウンは、神奈川県の7市3町(平塚市伊勢原市小田原市茅ヶ崎市秦野市厚木市藤沢市高座郡寒川町中郡大磯町二宮町)である。ホームスタジアム平塚競技場。練習場は平塚市の馬入ふれあい公園内にある馬入サッカー場、産能大サッカーグランドなどを使用している。チーム名はラテン語のベルス(Bellus、美しい)とマーレ(Mare、海)の2つの単語を合わせた造語。

クラブの歴史

前身

前身は藤和不動産サッカー部(フジタSC)。発足は、栃木県日本リーグでは、1972年には1部に昇格し、1975年に、フジタ工業サッカー部に改称し、1977年には、初優勝し、以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回と強豪として鳴らした。

1993年(JFL)

1993年に湘南ベルマーレとしてJリーグ準会員申請を行い(磐田とともに適用第1号)JFL1部で優勝し、1994年にベルマーレ平塚とチーム名を改めてJリーグ昇格。元ブラジル代表MFのベッチーニョミランジーニャの活躍が大きく、岩本輝雄名良橋晃野口幸司名塚善寛など、後に日本代表にも選ばれる20代前半の若手との融合でJFLでは圧倒的な実力を誇った。

当時はホームタウンが1つの市区町村を原則としていたため、地域名である湘南のチーム名採用が却下され、本拠地の平塚市の名前を採用した経緯がある。(参考として地域密着#チーム名参照されたい)また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで15000人以上収容、芝生部分はカウントしない等。当時メインスタンド以外はすべて芝生スタンドであった)を満たしておらず、その改修工事がネックとなって一時はJリーグ昇格が凍結される恐れがあったが、急遽平塚市が競技場のJリーグ規格への改修の予算を取り付けて昇格へとこぎつけた。

1994年 - 1997年(黄金期)

昇格したこの年はサントリーシリーズこそ12チーム中11位と低迷したが、ニコスシリーズでは優勝争いをするほどの躍進を遂げる。JFL時代以来、名良橋、岩本の両サイドバックが常に攻撃参加する超攻撃を展開していたが、サントリーシリーズでは守備が破綻、大量失点に苦しんでいた。そこで左サイドバックに公文裕明を起用、エジソン田坂和昭の両ボランチがサイドバックのカバーにまわる守備体系を整備、大躍進につながり、湘南の暴れん坊ベルマーレ旋風などと言われた。特に公文の守備面での活躍は目覚しく、左サイドにおける絶対的存在であった。公文出場停止時の2試合に2敗しており、優勝したヴェルディ川崎との差が1勝差で、得失点差は同点であったために、これがなければ優勝できた可能性が高い。結局セカンドステージ2位に終わったが、同年の天皇杯全日本サッカー選手権大会では勢いそのままに優勝を成し遂げた。田坂が新人王、ベッチーニョ、名塚がベストイレブンを受賞した。

さらに天皇杯優勝により出場権を得たアジアカップウィナーズカップでも優勝を果たすなど、Jリーグの強豪としての地歩を固めていき、若い選手中心の攻撃的サッカーは、多くのサポーターを魅了した。ベルマーレの黄金期であった。翌1995年には後に日本代表の中心選手となる中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置く戦術スリーボランチも日本では斬新なシステムであった。さらに1997年シーズンには、当時20代ながら長く日本でプレーし“日本代表の秘密兵器”と囁かれ出していたFWロペスと、韓国代表DF洪明甫が加入し、Jリーグ上位に常にいるチームとなった。

1998年 - 1999年(低迷期)

1998年フランスW杯にはGK小島伸幸、DF洪、MF中田、FW呂比須(ロペス改め)と日韓合わせて4人の代表選手を輩出。しかしW杯終了後に中田がイタリアACペルージャへ移籍すると、時期を同じくして成績が低迷。1999年には親会社だったゼネコン・フジタが経営の建て直しを図るためスポンサーから撤退したこともあって、94年~95年の黄金期にスタメンであった選手の全員がチームを離れるなどして(小島、野口幸司、名塚、田坂、渡辺卓、公文、岩元など。岩本、名良橋、ベッチーニョ、アウミールは98年1stステージ以前にチームを離れている)メンバーが手薄となり、その結果J1で年間成績最下位となりJ2降格。前年に妹チーム的存在であったL・リーグフジタサッカークラブ・マーキュリーが同じ様な境遇から廃部となったこともあり、ベルマーレに対してもチーム存続の危機が囁かれた。

2000年 - 2005年(J2)

そんな中、2000年にはチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新して、新たなスタートを切った。

名古屋グランパスエイトからベテランGK伊藤裕二清水エスパルスからDF白井博幸、そして当時ブラジルのチームなどを渡り歩いていた前園真聖、チーム始動日に突然練習に現れ、契約に至った松原良香などアトランタ五輪世代の即戦力を補強し、1年でJ1復帰を目指したが2000年シーズンは8位と低迷。加藤久監督をこの期限りで解任するとシーズン中に発表したフロントに不信感を持った前園、松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去る事になった。

2001年シーズンは元コロンビア代表パラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強。98年以来の復帰となった栗原圭介とエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。昨年と同じく8位に終わる。

2002年シーズンはパラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾吉野智行らを中心としたJ2でも屈指の中盤を携え、また、前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に雷に撃たれ死亡すると言う悲報にチームが奮起し、5位と躍進。着実にJ1昇格に向けチーム力は上がっているものと思われた。

そして、チーム創設10年目にJ1復帰と、大型予算で挑んだ2003年。監督にフィリップ・トルシエの右腕として元日本代表コーチを務めていたサミアを迎えた。フラット3を組み込んだ3-5-2システムは開幕戦こそ機能したが、日本中に知れ渡っている作戦だけに弱点を露呈。また、パラシオスの怪我による離脱、期待されていた元プレミアリーグミドルスブラハミルトン・リカルドの不調など序盤で躓き、10位に低迷(サミアは途中退任、リカルドも「諸事情により」途中帰国してしまった)。

2004年はFC東京よりアマラオを獲得も昨年と同じ場面を見ているかのように波に乗れず、山田松市監督に対する批判が集中。第4クールからは、アテネ五輪のサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)の監督を務めた上田栄治が後任の監督に就任し巻き返しを図ったが、時は遅く、前年と同じく10位で終わった。シーズン終了後には2003年より攻撃の中心として据えられていたキム・グンチョル、シーズン途中で柏レイソルへレンタル移籍していたパラシオスの退団が発表された。サポーターはパラシオスのお別れ会を開催するなど、2001年からチームの象徴とされていたDFを惜しんだ。

2005年シーズンの出だしは快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられてしまい、結局リーグ戦7位でシーズンを終え、明確な目標としていた昇格争いに食い込むことはできなかった。シーズン終了後、ベルマーレを支えてきたユースからの生え抜きのFW高田保則をはじめとした主力クラス(鈴木良和佐野裕哉、吉野智行、バリシッチなど)を根こそぎ放出すると言う異例の大量解雇を行い、選手、サポーター共に辛く、悲しいシーズンになった(ちなみに、このシーズンに移籍していった主力クラスはその後他クラブの主力として活躍。サッカー誌のベスト11の常連になるなどの活躍を見せている)。なおこのシーズンの最終戦は湘南vs横浜FCの対戦となり、横浜FCにレンタル移籍中であった高田が試合後、横浜FCのユニフォームを脱ぎ、ベルマーレのユニフォーム姿で湘南サポーターに向けて疾走した。

2006年 - 2009年(J2-J1昇格)

2006年シーズン、前年レンタル加入していたFW梅田直哉浦和レッズから完全移籍させ、モンテディオ山形からMF外池大亮らを補強。外国人助っ人には2000年に浦和で活躍した攻撃的MFのアジエルと、元山形のボランチMF、ニヴァウド、若いFWファビオを補強し、J1昇格を狙った。しかし、シーズン前より明確であった戦力不足(中町公祐を主軸とした中盤の構成の失敗、現場が計算外だと嘆いたほどの守備陣の脆さが露呈した)が響き、シーズン中盤に8連敗を喫し、その間に上田監督は辞任した。さらに終盤にも6連敗するなど過去最低の11位に終わってしまった。シーズン後、2年間ほぼフル稼働し、2006シーズンにはチームMVPクラスの活躍をしたキャプテン佐藤悠介が本人の希望により東京ヴェルディ1969に移籍。さらに城定信次小林弘記など昨年に引き続き7人を放出。2年連続での大量解雇となった。

低迷の続く中、2007年、J1昇格のための反攻が始まる。シーズンを前に浅野哲也をトップチームコーチに招聘し、補強面ではFC東京からジャーンモンテディオ山形から原竜太、清水エスパルスから斉藤俊秀、ドイツ3部リーグなどを渡り歩いた鈴木伸貴鹿島アントラーズを戦力外となり11年ぶりに湘南に復帰となる名良橋晃などの獲得に成功した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻すなど、積極的な補強を敢行した(2006年までのベルマーレのレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。過去最低成績に終わったシーズン終了直後から他チームよりも早くチーム作りを開始した。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで、J2降格から(また、湘南と名を変えてから)初めてとも言える昇格争いに肉薄する。終盤まで昇格の可能性を残していたものの昇格はならず、6位でシーズンを終えた。なお、このシーズンをもって選手会長の外池大亮が引退。ホーム最終戦セレモニー中に発表し、サポーターはその場で急遽「トノありがとう」の横断幕を作成。昇格の可能性が消えた直後のスタジアムだったが、福岡サポーターも「外池」コールで送り出すなど、非常に雰囲気の良いホーム最終戦で昇格争いを終えた。昇格が叶わなかったとは言え、はじめて年間を通して昇格争いに加ったことで、サポーターも翌シーズンに期待を持った。

2008年は2005年の加入から左サイドバックとしてほぼレギュラーを務めていた尾亦弘友希をセレッソ大阪に放出するも、2007年を戦った戦力はほぼ残留。さらにアビスパ福岡よりリンコン、アルビレックス新潟から三田光、FC東京から阿部吉朗そして山形から湘南ユース出身で8年ぶりの古巣復帰となる臼井幸平を獲得。2007年シーズン戦力に即戦力を加入させ、本格的にJ1昇格を狙うチームを作り上げ、実際に最終節まで昇格争いに絡んだものの最終順位は5位で10シーズンぶりのJ1復帰にあと一歩及ばなかった。

2009年は、1994年から1997年までベルマーレで現役生活を過ごした北京五輪サッカー日本男子代表監督の反町康治が監督に就任し、11年ぶりの悲願達成へ「湘南の暴れん坊復活」をテーマに全51試合に及ぶ嘗て無い長丁場の戦いに挑んだ。新たな戦力としてアルビレックス新潟時代に反町監督が指導した寺川能人野澤洋輔を獲得も、加入以来ジャーンとともにディフェンスラインを形成していた斉藤俊秀、エースストライカー石原直樹など『主力級』の放出が目につき、シーズン前のサッカー誌などの評価は決して高くなく、「J1昇格は時期尚早、今後へつなげるためのシーズン」と言う評価が目立った。しかし、開幕直前に京都サンガを戦力外となっていたFW田原豊が練習に参加、開幕2日前に正式に契約し、斉藤を放出し不安視されていたDFもHonda FCから獲得した村松大輔が開幕スタメンで起用されると結果を残し、開幕5連勝を飾るなどスタートダッシュに成功した。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日に水戸ホーリーホックを3-2で下して勝ち点98で3位が確定し11年ぶりとなる来季のJ1復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録になる。)。 このシーズンはシーズン終盤の甲府戦(第49節。勝ち点91同士で並んでいた)を含むロスタイムでの得点が実に10得点を数え、最終戦である水戸戦も2点をビハインドを跳ね返すなど、劇的な場面を数多く作り出した。

2009年のチームの特徴として、前述したロスタイム弾の多さと、絶対的ストライカー不在を逆手に取った得点者の多さも挙げられる。10得点以上を記録した選手が5人を数え、どこからでも得点が取れるチームを作り出すことに成功した。反面、カウンター中心のサッカーにシフトしたことで運動量が求められ、高温多湿の夏場の試合では足が止まることもあり、夏場(第2クール)では4連敗を喫したこともある。またスタメン組とサブ組の実力差が大きく、主力が出場停止などで欠場するとその穴を埋める作業に頭を悩まされることもあった。

2010年(J1)

21世紀になってから、また湘南の名前を冠してから初のJ1となる2010年シーズンを前に、弱点をピンポイントに補った補強を敢行。ジェフ千葉から新居辰基アルビレックス新潟から松尾直人コンサドーレ札幌から中山元気水戸ホーリーホックより小澤雄希、ベルマーレユース出身の馬場賢治は期限付き移籍でヴィッセル神戸より獲得。ユースからの昇格選手や期限付き移籍からの復帰選手も多く、11年ぶりの舞台で戦う準備を整えた。その一方で、2007年に加入した原竜太と、2006年に加入した伊藤友彦が現役引退を発表。原に関してはサポーター有志が「お別れ会」を開催するなど、ベルマーレを支えた選手との別れを惜しんだ。ところが、GK陣の相次ぐ怪我に伴い引退した伊藤がユースチームのGKコーチ兼任で現役復帰した。

クラブについて

欧州式のスポーツクラブの誕生

2002年には総合スポーツクラブとして特定非営利活動法人(いわゆるNPO法人)湘南ベルマーレスポーツクラブが設立され、ジュニア、及びジュニアユース部門を移管(ユースチームは第1種チーム(トップ&サテライト)とともに株式会社側が引き続き管理運営)した。また、ビーチバレーボールとトライアスロンのチームも併設している。2005年からはソフトボールチームも編成されることが決まった。(詳細後述)さらに、地元の大学である産業能率大学に共同講座を設けたり、リーガ・エスパニョーラオサスナと提携するなど、従来のJクラブの枠にとらわれない活動に意欲的に取り組んでいる。

クラブハウス問題

湘南ベルマーレは、かつての親会社であったフジタから大神グラウンドを借り受けて練習場、並びにクラブハウスを運営していたが、2004年松蔭大学が買い取って、同大学の湘南グラウンドとして利用されている。ただし2006年までの2年間は暫定処理としてベルマーレの練習にも使用されていた。

しかしその期限も2006年9月で終了となり、大神グラウンドのクラブハウスも利用できなくなった。10月から馬入(ばにゅう)ふれあい公園内の馬入サッカー場を練習場とし、事務所やクラブハウスも隣接地に仮設のクラブハウスを建設し移転した。

日系ベルマーレ

2006年、日系ベルマーレ(CLUB NIKKEI BELLMARE)と言うチームを設立 強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの地域二部(実質四部に相当)に所属。チーム顧問として、南米サッカー連盟のニコラス・レオス会長も名を連ねる。

設立時にはあくまでも『湘南ベルマーレの強化』を目的とする事を強調されていたが、国内のサポーターからはJ2の中位から下位にいる現在の状況打破を優先するべきとの声や、本来「湘南ベルマーレ」として掲げていた「身の丈にあったクラブ経営」の枠を超えているのでは(実際には湘南ベルマーレと日系ベルマーレは別組織となっている為、湘南ベルマーレが日系ベルマーレを運営しているわけでは無い)と、否定的な意見が多かった。

また、国内ではアルビレックス新潟・シンガポールと同じような組織と思われがちだが、実際にはかなり異なった組織となっている(ブルーとライトグリーンのチームカラーは同じだが、ユニフォーム、チームエンブレムも異なる)。2007年開幕時点での所属選手は全員パラグアイ国籍選手と、どちらかと言えば、プロ野球広島東洋カープのカープアカデミーの組織に近い。クラブの運営主体は現地法人のサクラグループ社と日本のSEA Global社が出資して設立した「社団法人 日系ベルマーレ」である為、湘南ベルマーレは出資はしていない。両クラブの関係は提携・協力という形となる。

将来的にはこのクラブで育てた選手を湘南ベルマーレに補強する事を想定しているが、現時点(2007年)ではJのレベルには及ぶ選手は出て来ていないと現地スタッフが語っている。しかし、若くサッカーを純粋に楽しむ選手が揃っており(最年少15歳、最年長でも24歳)、将来的には化ける可能性もゼロでは無く、面白い試みであるとJリーグ幹部も期待の声を出している。

中田英寿との親密な関係

日本を代表するサッカー選手として知られた中田英寿(1995〜1998年途中まで在籍。2006年現役引退)は、このクラブでプロ生活をスタートさせ、今でも良好な関係を保つ。

獲得時、彼の希望であった海外留学を許可(実際にユヴェントスへ短期留学)し、1998年ワールドカップ終了時に快く彼を送り出したクラブの姿勢に彼は心から感激し、プロをスタートしたクラブとは言えわずか約3年半所属したのみの元所属チームへ支援を惜しまない。

  • 1999年、大神グランドが台風の影響で水没。その後グランドは整備されたものの、J2降格危機の迫っていたチームにとって、暗い話題がまた1つ増えた事による不安がサポーターも含む関係者に蔓延する中、U-22日本代表の一員としてU-22韓国代表との親善試合前に帰国した彼は、ベルマーレに「大神で練習させて欲しい」と名乗り出た。偶然その場に居合わせたサポーターはもちろん、その日に契約内容が更新された西本竜洋が、新しく用意された自分のロッカーの隣で着替えをしている人物が中田と気づき、大混乱してその場に立ちつくしたと言う逸話もある。
  • 2000年-2001年の2年間は年間5,000万円をポケットマネーから投資し、自らのHP nakata.netをユニフォームスポンサーとして提出。現役選手のクラブチームスポンサードは世界でも初であり、この2シーズンのレプリカユニフォームは海外でも人気を呼んだ。2001年以降も、サポーターにホームゲームチケットを提供したり、スタジアム広告に出資するなど、貢献を続けている。
  • 2006年には中田がデザインした特別なユニフォームを、ジュニアユースチームが着用(全国大会など特別な試合でのみ)する事になっている。詳細は後述の#特殊ユニフォーム参照。
  • 2008年5月、6月に自身の主催するTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けての身体作りの為、湘南の練習に参加。当初の予定は1週間だったが、予定の日数を超えて練習に参加。練習後にはファンサービスも行うなど、スポーツ新聞誌等にも「ベルマーレは特別」との意思を示すコメントを残している。なお、ミニゲームの最中、負傷明けであった田村雄三に思わず本気でチェイシングを行い再び負傷させてしまうなどアクシデントもあったが、現役時代と変わらぬ精度の高いパスでサポーター、スタッフ、なおかつ現役の選手達まで魅了、練習後の選手達も思わず中田との写真を頼み込む程であり、昇格に向けて活き上がるチームに更なる活力を与えた。
  • 2010年2月、『湘南ベルマーレJ1昇格記念試合』として、湘南OBチームの「We’re back F.C.」と「TAKE ACTION F.C.」とが対戦。中田にとっては海外移籍以来となる平塚競技場での試合となり、前半は「TAKE ACTION F.C.」、後半は「We’re back F.C.」のメンバーとして出場した。

サッカーチームの運営法人(株式会社湘南ベルマーレ)

現在の湘南ベルマーレは株式会社法人(社会人=プロとユースのサッカーチームを運営する側)とNPO法人(異競技交流・並びにサッカーのジュニアユース、ジュニアチームを運営する側)に分かれているが、株式会社法人は当初フジタが全額出資した「フジタスポーツクラブ」として運営されていた。その後1994年のJリーグ入りを機にフジタを筆頭スポンサーとして地元企業・団体などに出資を呼びかけて企業名をなくした「ベルマーレ平塚」(更に1996年からは「湘南ベルマーレ平塚」)に改めて運営された。

しかし長期不況が災い、フジタの資本提供も縮小され、チームも中田英寿ら主力クラスを他チームに放出するなど逼迫した経営が続き、1999年のJ1リーグでは戦力も大幅ダウンしわずか4勝(25敗1分け)の年間16位でJ2降格が決定。チーム存亡が取りざたされる。

その年のシーズン終了後、旧法人だった「湘南ベルマーレ平塚」と新法人である「湘南ベルマーレ」の株式等価交換が行われた。これは一度フジタが全額出資して新法人を設立した上で、その株式を平塚市などホームタウンの自治体や企業・団体・市民などで構成する株主に譲渡し、その代わり旧社の株式をフジタが買い取った上で会社を清算(解散)させるというものだった。旧社は清算後フジタの会社再建の資金に当ててベルマーレの経営から完全に撤退。そして市民参加型の総合スポーツクラブ作りを目指す新生湘南ベルマーレが誕生した。

Jリーグは1999年度からホームタウンをそれまでの原則1市区町村から複数の市区町村にまたぐ「広域ホームタウン制度」が認められ、新法人の設立をきっかけとして平塚市を含む湘南地区10市町村に拡大することになり、それに伴い登録チーム名称も1993年以来7年ぶりに地域名である「湘南」が復活した。

当初は元ジュビロ磐田小長谷喜久男が社長、会長に衆議院議員河野太郎が就任。最初はサッカーの全てのカテゴリーの運営のみでスタートしたが、2002年からJリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、法人を株式会社とNPOの2つにし、そのうちの株式会社法人はJリーグを戦うプロ(社会人)サッカーチーム(トップ&サテライト)と、それに付随する高校生世代を対象としたユースチームの運営に専念するようになった。

2009年9月12日20:00~20:30 tvkテレビ神奈川)で湘南ベルマーレの特別番組が放送された。 タイトルは「湘南ベルマーレJ1復帰カウントダウンスペシャル! 夢 ベルマーレとともに ~Dream with Bellmare~」 (制作著作:tvk 制作協力:メディアフォルトナボックス 演出:内田充昭)  J1復帰を目指す湘南ベルマーレの戦いぶり、監督や選手のインタビューをはじめ、スポーツクラブも含めたクラブ全体の取組みなどが紹介された。

チーム成績・歴代監督

年度所属順位勝点試合勝利引分敗戦監督
1992年旧JFL1部3位3118945古前田充
1993年優勝18162
1994年 J・サントリー11位22715
J・NICOS2位22166
1995年J・サントリー7位43261412
J・NICOS14位2226719古前田充/植木繁晴
1996年J11位36301218トニーニョ・モウラ/植木繁晴
1997年J・1st4位2816115植木繁晴
J・2nd9位211688
1998年J・1st11位201789
J・2nd12位221789
1999年J1・1st16位9153012上田栄治
J1・2nd16位4151113古前田充
2000年J28位434015124加藤久
2001年8位604420420田中孝司
2002年5位6444161612
2003年10位4444111122サミア山田松市
2004年10位364471522山田松市/望月達也/上田栄治
2005年7位5444131516上田栄治
2006年 11位4948131025上田栄治/菅野将晃
2007年6位774823817菅野将晃
2008年5位654219815
2009年3位9851291111反町康治
2010年J134

通算得点ランキング

順位 選手名 得点数
1 ベッチーニョ 56
2 野口幸司 53
3 坂本紘司 48
4 アジエル 44
5 高田保則 43
6 石原直樹 41
7 呂比須ワグナー 36
8 加藤望 30
9 栗原圭介29
10 柿本倫明 28
11 アウミール 17
11 原竜太 17
13 阿部吉朗 16
13 中田英寿 16
15 岩本輝雄 15

※2009年シーズン終了時 太字は2009シーズン開幕時に在籍する選手


(Jリーグ/J1/J2のみ。アジアカップウィナーズカップ天皇杯ナビスコカップ,ゼロックススーパーカップ等は含まない)

獲得タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別タイトル

ベストイレブン
1994年 名塚善寛ベッチーニョ
1997年 中田英寿
新人王
1994年 田坂和昭

ユニフォーム

世界的にも珍しいライトグリーンを採用したユニフォームは、サポーターのみならず、他のJリーグサポーター、また中田英寿の母国在籍唯一のクラブと言う事で海外からも人気・知名度があり、nakata.netのマークの入った2000年、2001年モデルは2007年現在でも海外のウェブショップなどで見かける事がある。

1997年にはJリーグ史上初めて、背番号の下に背ネームを採用。2000年、2001年は背スポンサーがnakata.netで「選手名と個人名で紛らわしくなるのでは」と言う理由(クラブが中田に敬意を表したと言う説もある)で見送られたが、2002年より復活。しかし2005年には再び採用を取りやめるなど、ネームを付けたり付けなかったりするチームもJでは唯一。

2005年にはアパレルメーカーPIKOをユニフォームサプライヤーに迎え注目を浴びた。ちなみに作製はエレアの代理店エレア・ジャポネスポーツ、2006年はA-LINE(エーライン・ジャポネスポーツ)が請け負った(代理店は双方とも株式会社カレッジリーグ)。

各年代のユニフォームとも、成績に関わらず毎年レプリカユニフォームはそれなりのセールスをあげている。その為、シーズン中にスポンサーが変更、追加されても新スポンサーレプリカを発売したり、スポンサーマーキングの後付対応をしたりと他チームならば選手支給品のみの展開になりそうなユニフォームも発売する事で知られる(ただし98年リーグ戦のアウェイ、99年・02年のアウェイユニフォームはレプリカ未発売。その為この2種はコレクターの間でも高値で取引されている)。

Template:ユニフォームの色

チームカラー

  • チームカラーはライトグリーン、ブルー、ホワイト。
    • 2000年まではメインカラーがライトグリーンだったが、2001年よりブルーに変更(Jリーグ昇格前はブルーがメインカラーだった為、実質的には復活)。
    • ライトグリーンは親会社であったフジタのイメージカラーであり、94年昇格時にJリーグ側の要望により青のユニフォームからの変更依頼を受諾した為にライトグリーンを全面に押し出した。詳しくは後述のユニフォームカラーの問題参照。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ラ・パルレLa PARLER2010年-
背中産業能率大学産業能率大学2010年-2004年途中-2009年までは胸
ジー・エデュケーションジーコムNOVA2010年-
パンツシノケングループシノケン2010年-

サプライの遍歴

  • 1992年 - 1993年(Jリーグ準会員) アシックス 93年天皇杯のみベーシック(フェニックス)
  • 1994年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はベーシック(フェニックス)
  • 1997年 - 1998年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はカッパ・スポーツ(フェニックス)
  • 1999年 - 2002年 カッパ・スポーツ(フェニックス)
  • 2003年 - 2004年 プーマ
  • 2005年 PIKO(製作:エレア・ジャポネスポーツ)
  • 2006年 PIKO(製作:エーライン・ジャポネスポーツ)
  • 2007年 - A-LINE(エーライン・ジャポネスポーツ/カレッジリーグ

歴代スポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1994年DDITohatoHOYAMizuno/Basic
1995年DDITohatoHOYAMizuno/Basic
1996年DDIFUjiTAHOYAMizuno/Basic
1997年DDIFUjiTAHOYA-Mizuno/Kappa
1998年DDIFUjiTAHOYA-Mizuno/Kappa
1999年DDI-/DDI POCKET-/cdmaOne-Kappa
2000年DDI/KDDI-/Bloombergnakata.net -Kappa
2001年BloombergRhythmedianakata.net-Kappa
2002年Rhythmedia Tribeavex group--Kappa
2003年Rhythmedia Tribeavex group-/Regain-/RegainPUMA
2004年Rhythmedia Tribe
/産業能率大学
avex group
/APT HOME
Regain/SANKYOSANKYOPUMA
2005年産業能率大学APT HOMESANKYOSANKYOPIKO
2006年産業能率大学APT HOME-/グッドウィルDaiichi-SankyoPIKO
2007年SANNOAPT HOMEグッドウィルDaiichi-SankyoA-LINE
2008年SANNOAPT HOME/--Daiichi-SankyoA-LINE
2009年SANNO--/クリック証券Daiichi-SankyoA-LINE
2010年La PARLERジーコムNOVA産業能率大学シノケンA-LINE

ユニフォームカラーの問題

1993年に翌年からのJリーグ参入を決定した時、チームはJ1(当時の名称)で使っていた青を基調としたユニフォームの使用を考えていたが、Jリーグ側から「青いユニフォームを使っているチームが多いので、別の色にして欲しい」との依頼があり(ジュビロ磐田がヤマハ時代の青から水色になったのもこの為)、メインカラーを世界的にも使用が珍しいライトグリーンを採用した。元々使われていた青はパンツやシャツの袖や裾などのワンポイントとして残った(実は意外と知られていないが、1997-1998シーズン前からの初代ミズノ製アウェイユニフォームにも、細いながらも青い縦線がワンポイントとして入っていた)。

しかし、2001年に当時のクラブ社長小長谷喜久男、元会長の河野太郎らチーム上層部が「J2という舞台と、湘南と名前の変わったチームで新たな出発をしよう」と言うことで青いユニフォームに戻した(当初Jリーグに参戦する事が決まった時に使用しようとしていた「湘南ベルマーレ」の名称が戻ってきた事で、また1からやり直そうと言う意味合いも込められているらしい)。ちなみに2000年に湘南ベルマーレがスタートした時にカラーを変更しなかったのは、ベルマーレがサプライヤーと交換期間を2年単位としていた為である。

この変更により、ホームカラーが青、アウェイカラーは白となった。ライトグリーンがホームユニフォームの首筋、ソックスの切り返しに残ってはいたが、アウェイユニフォームからはシャツ、パンツ、ソックスと黄緑が消えた(ちなみに97-98シーズンに使用された青と白のストライプを使用したカップ戦用アウェイユニフォームが、ベルマーレとして史上初めてライトグリーンを使わなかったユニフォームである。97-98リーグ戦アウェイには袖や細い縦線に、99-00モデルには肩筋の細いラインにさりげなく黄緑を採用している)。

しかし、既にサポーターの多くからはライトグリーンはベルマーレの象徴と認識されるようになっていた。そのためあまりに一方的なメインカラーの変更に反発が起き、過激な発言が公式webサイトの掲示板(現在は廃止)に書き込まれることもあった。このような動きを見たチームは、2003年よりアウェイユニフォームをライトグリーンに設定。ホームユニフォームにも、2001-2002モデルでは首周りだけだったライトグリーンの使用部分を増すよう、メーカーに依頼した。

しかし、ホームカラーが青、アウェイカラーが黄緑と、アウェイゲームの対戦相手によってはチームの区別が非常にしにくい、黄緑は(モノクロの)新聞紙上などでは淡いため見難いとの声がメディア、関係者などから上がった。また、2006年に東京ヴェルディ1969がJ2に降格。平塚でのホームゲームは東京Vのアウェイユニフォームが白の為問題はないが、東京Vのホームゲームではベルマーレがホームの青いユニフォームに白いパンツ、白いソックスと珍しい組み合わせを着用したが、それでも肩にかけてライトグリーンの走るベルマーレのユニフォームと東京Vの緑のユニフォームが非常に識別しにくい現象が起きた。

Jリーグ側はこのような事態に備え3rdユニフォームの採用許可を出していたが、2006年に湘南は3rdを採用せず、各チームやJリーグより抗議を受けた。

この為か、2007年度よりブルーを基調としながらも、例年よりもライトグリーンの比率を大きくし、アウェイカラーをホワイトとした。ブルーのパンツがホームカラーとなった事で、実質2000年までの色彩が復活する事になった(2000年まではソックスがライトグリーン基調だった)。尚、2008年度モデルはチーム設立40周年の記念モデルとなっている。2009年度モデルは、胸側の下はライトグリーンを使用しているが、選手がユニホームをパンツに入れるとほとんどブルーとなっているが、袖・背面にもライトグリーンが採用されている為、実際は2008年度モデルよりライトグリーンの比率が高くなっている。 J1に復帰した2010年、ついにライトグリーンがメインに戻った。今回はパンツ・ソックス共にライトグリーンメインとなり非常に鮮やかな配色になった。なお、97-98年モデルの復刻デザインとして採用されている。

2003年にプーマより限定発売されたライトグリーンのアウェイレプリカユニフォームは、発売初日(電話予約→オフィシャルショップかスタジアムで受け取り)にその大半を売り上げ、インターネットオークションでも高値で取引される物になったが、なぜか翌年に品番・型番もそのままに通常販売された。また、発表当初は湘南サポーター以外からも好評を博していたが、チームの低迷(このユニフォームを使用した2シーズンとも10位)と共に人気が低下。人気選手アマラオがチームにフィットできなかったのも影響し、移籍加入決定時には大量にあったアマラオモデルユニフォームの受注も失速、それに伴いレプリカの売り上げも目に見えて落ちていった。チーム史上初採用となった漢字胸スポンサー「産能大」モデルなどは発売数が通常のレプリカより少なめの生産枚数にも関わらず、アウェイモデルは店頭に多量の在庫を残してしまうなど、サポーター待望であったはずのライトグリーンを再採用した第1弾ユニフォームは、散々な結果になってしまった。

特殊ユニフォーム

  • アジアカップ戦用ユニフォーム
アジアでのカップ戦では、胸がHOYAの物、リーグ戦と同様にDDIの物などいくつか種類がある。基本はベーシック製のカップ戦ユニフォームと同じデザイン(ただし袖にスポンサーは無く、背も個人名が入っている)。また95年の中国遠征時のみ、胸スポンサーがFujitaになっている物も存在する。アジアスーパーカップでは、胸にDDI、袖に日の丸がついたユニフォームを着用した。
  • レジェンド・オブ・ベルマーレ
2003年、ベルマーレの誕生10周年を境に、ベルマーレ平塚・湘南ベルマーレにて100試合以上(9,000分以上)出場し、クラブの発展に貢献した選手を「レジェンド・オブ・ベルマーレ」と称し表彰。受賞者には在籍当時に付けていた背番号と名前をゴールドでプリントした、表彰したシーズンのホームモデルユニフォームが贈られる。
しかし、正式な受賞者は2003年のベッチーニョのみ。同じく2003年に呂比須ワグナーが規定出場時間には届かないが、フランスワールドカップ出場に貢献したなどの特例を受けて受賞した。チーム誕生10周年である2003年の内に、他に田坂和昭名塚善寛、岩元洋成、岩本輝雄野口幸司などが表彰の候補にあげられていたが、スケジュールの関係やチーム名称の変更(ベルマーレ平塚から湘南ベルマーレにチーム名が変わったのに、平塚時代の選手だけ表彰するのはどういう事なのか、などの言い掛かりにも聞こえる批判などがあった)の関係で、いつの間にか賞自体がフェイドアウトしていってしまった。
2006シーズンにザスパ草津高田保則をレジェンドオブベルマーレとして表彰すべきだと、一部サポーターが声をあげたが実現にはいたらず、このまま伝説と残るのはベッチーニョただ一人となる可能性が高い。
  • 全国大会用ユニフォーム(ジュニアユース)
2006年よりジュニアユースチームが公式戦の決勝トーナメントなど、特別な試合でのみ着用するユニフォームが存在する。ベルマーレOBの中田英寿が2004年にベルマーレから依頼された物で、デザインを中田が監修、ウェア自体も彼がチームにプレゼントしている。
これは、ジュニアユースの子供達に物を大切にして欲しい、そうした気持ちも育てていかなければならないと感じたジュニアユースコーチ達が、大学ラグビーの正選手のみに渡されるユニフォームにヒントを得て、"憧れの選手のデザインした物ならば、愛着が生まれ、大切に使うのでは"と思い立ち、中田氏にオファーした物。ビッグウェーブのロゴが象徴的なシンプルながらも力強いデザインが特徴的。
  • 七夕記念ユニフォーム
2007年7月7日の七夕にホームゲーム(対福岡戦)を開催する際、その当日のみ着用する「七夕記念ユニフォーム」を発表。
同時期に開催される湘南ひらつか七夕まつりの更なる盛り上げとホームタウンの結びつきをより強固なものとする意図がある。
1試合のみ着用されるユニフォームと言うのはジュビロ磐田の10周年記念ユニフォームに続き2例目で、登録上は両方ともサードシャツ扱いとなっている。
2007年に着用の物はベルマーレのチームカラーと笹の色であるライトグリーンと、夜空の黒を配色。デザインは2007年ホームモデルと同様だが、ホームモデルとはライトグリーン配色が反転している。
2008年も、七夕まつり開催中の7月5日の水戸戦に、この七夕ユニフォームが披露されることになった。前年と同様に、夜空の黒を配色、ホームモデルとライトグリーンが反転。今回は笹のライトグリーンを前面に押し出すモデルとなった(パンツ、ソックスともにライトグリーンがメインとなっており、ベルマーレ史上初めて全身がライトグリーン配色となった)。
3年目となった2009年は七夕まつり開催期間から外れていたが、エーライン側が七夕マンスリーと言う企画で7月のホームゲーム2試合(8日・26節甲府戦、19日・28節福岡戦)で着用した(七夕ユニフォームを着用しなかった試合でも、7月中のスタジアムは七夕マンスリー専用の演出がなされた)。フィールドプレーヤー用は夜空をイメージした黒をメインにステッチに星を表す金色を配色したモデル。ゴールキーパー用は七夕の笹を表したライトグリーンをメインにステッチに星を表す金色を配色したモデル。第26節の甲府戦において、七夕記念ユニフォーム着用試合での初勝利を飾った。
しかし続く7月19日の28節福岡戦で残り5分で2-0からの逆転負けを喫すると、チームは4連敗。一般販売用は追加販売や、その後に受注生産もかかるなど過去最高の売上を記録したが、後味の悪い結果に終わっている。
2007年 7月 7日 J2 第26節 対アビスパ福岡戦(0-2●)
2008年 7月 5日 J2 第24節 対水戸ホーリーホック戦(0-1●)
2009年 7月 9日 J2 第26節 対ヴァンフォーレ甲府戦(2-1○)
2009年 7月19日 J2 第28節 対アビスパ福岡戦(2-3●)
  • SHONAN10thユニフォーム
「ベルマーレ平塚」から市民クラブの「湘南ベルマーレ」に生まれ変わって10周年を迎えた2009年に作成されたユニフォーム。
10年間の感謝と、これから先も共に歩んでいただきたいという願いを込めて天皇杯で着用される事となった。
デザインは人気のある97-98年のリーグ戦モデルと2009年リーグ戦モデルを融合させた物。
しかし2年連続初戦敗退と言う失態を犯し、わずか1試合でお役御免となってしまった。

チーム名変遷

  • 1968年 藤和不動産サッカー部
  • 1975年 フジタ工業クラブサッカー部
  • 1990年 フジタサッカークラブ
  • 1993年 湘南ベルマーレ
  • 1994年 ベルマーレ平塚
  • 2000年 湘南ベルマーレ

異競技交流

湘南ベルマーレでは2002年からJリーグ百年構想に則り、地域密着型の総合スポーツクラブ文化の確立を目指してNPO特定非営利活動法人)の「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を編成しており、サッカー(ジュニアユース、ジュニア)を株式会社側からNPO法人側に移譲して活動している他、ビーチバレートライアスロンのチームを編成。日本を代表するその競技のスペシャリストが選手として登録している。2005年からはソフトボールチームも編成することになった。

2007年9月よりスタートするフットサル全国リーグに参戦する湘南ベルマーレフットサルクラブもスポーツクラブに編成する事に。このフットサルチームは、神奈川県下の強豪チームP.S.T.C LONDRINAのトップチームをベルマーレが傘下とした物。

詳細は「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を参照。

また、プロ野球・横浜ベイスターズのファーム(2軍)チームである「湘南シーレックス」とも連携している。

関連項目

外部リンク

Template:湘南ベルマーレのメンバー Template:日本プロサッカーリーグ Template:神奈川県のプロサッカーリーグ Template:天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チームar:شونان بلمار ca:Shonan Bellmare de:Shonan Bellmare en:Shonan Bellmare es:Shonan Bellmare fr:Shonan Bellmare it:Shonan Bellmare ko:쇼난 벨마레 nl:Shonan Bellmare pl:Shonan Bellmare pt:Shonan Bellmare ru:Сёнан Беллмаре simple:Shonan Bellmare sv:Shonan Bellmare zh:湘南比馬

個人用ツール