水戸藩
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水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)。藩主は水戸徳川家(1609年 - )。徳川御三家の一つで、石高は35万石。
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藩史
常陸は戦国大名佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年出羽秋田(久保田藩21万石)に減転封された。佐竹氏の後、水戸には佐倉より徳川家康の五男武田信吉が入ったが(15万石)、翌年1603年に信吉が急死し、続いて家康の十男徳川頼宣が入る。1609年、頼宣の領地が家康のお膝元駿府に移され駿府藩が成立すると、頼宣のあとに同母弟の家康十一男徳川頼房が25万石で入った。頼房は28万石に加増を受け、のち元禄時代に検地を行って石高を35万石に改めたがこの改訂はかなり無理があったようである。
水戸藩主は御三家の中でも唯一江戸常勤を定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていた。そのため、水戸藩主は常時二重生活を強いられたうえ、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は、表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により三男光圀に水戸藩を譲ったため、長男松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた。光圀は学問を好み、大日本史の編纂を行い、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。
九代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志したが、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で、新規召し抱えをおこなったため、藩財政は窮乏を極めた。なお15代将軍徳川慶喜は斉昭の子であるが、御三卿の一つである一橋家を継いでから将軍になったものである。
幕末には藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争を招いた。
水戸藩領は廃藩置県により水戸県を経て、茨城県に編入された。
歴代藩主
武田(徳川)家
親藩 - 15万石
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
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1 | 信吉 | のぶよし | 慶長7年 - 慶長8年 1602年 - 1603年 | 徳川家康の五男 |
徳川(紀州)家
親藩 - 20万石→25万石
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
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1 | 頼宣 | よりのぶ | 従四位下 常陸介 | 慶長8年 - 慶長14年 1603年 - 1609年 | 徳川家康の十男 |
徳川(水戸)家
親藩 - 35万石 ※1636年(寛永13年)7月以前は松平姓
代 | 名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
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1 | 頼房 | よりふさ | 正三位 権中納言 | 慶長14年 - 寛文元年 1609年 - 1661年 | 徳川家康の十一男 |
2 | 光圀 | みつくに | 正三位 権中納言 贈正一位 | 寛文元年 - 元禄3年 1661年 - 1690年 | 先代の三男 |
3 | 綱條 | つなえだ | 正三位 権中納言 贈従二位 | 元禄3年 - 享保3年 1690年 - 1718年 | 先代の甥 松平頼重(高松藩主)の次男 |
4 | 宗堯 | むねたか | 従三位 参議 | 享保3年 - 享保15年 1718年 - 1730年 | 先代の姪孫 松平頼豊(高松藩主)の長男 |
5 | 宗翰 | むねもと | 従三位 参議 | 享保15年 - 明和3年 1730年 - 1766年 | 先代の次男 |
6 | 治保 | はるもり | 従三位 権中納言 贈正二位 | 明和3年 - 文化2年 1766年 - 1805年 | 先代の長男 |
7 | 治紀 | はるとし | 従三位 参議 | 文化2年 - 文化13年 1805年 - 1816年 | 先代の長男 |
8 | 斉脩 | なりのぶ | 従三位 権中納言 | 文化13年 - 文政12年 1816年 - 1829年 | 先代の長男 |
9 | 斉昭 | なりあき | 従三位 権中納言 贈正一位 贈権大納言 | 文政12年 - 天保15年 1829年 - 1844年 | 先々代(治紀)の三男 |
10 | 慶篤 | よしあつ | 従三位 権中納言 | 天保15年 - 慶応4年 1844年 - 1868年 | 先代の長男 |
11 | 昭武 | あきたけ | 従一位 (藩主辞任後) | 慶応4年 - 明治2年 1868年 - 1869年 | 先々代(斉昭)の十八男 |
支藩
水戸藩には、徳川頼房の子を藩祖とする支藩が四家ある。
- 讃岐高松藩 - 松平讃岐守頼重(徳川光圀の兄)を祖とする。香川県高松市の高松城に居城を置く。溜間詰。
- 陸奥守山藩 - 松平刑部大輔頼元を祖とする。1661年(寛文元年)に2万石を与えられ、常陸額田に陣屋を置いたのに始まる。1700年(元禄13年)に二代大学頭頼貞が陸奥守山(福島県郡山市)転封となり、以降明治維新まで続く。代々の当主は、連枝大名として大広間に詰めた。また、江戸定府として参勤交代は行わなかった。極官は従四位下侍従であり、代々の当主は嫡子の内に従四位下に任官し家督後侍従に昇進している。
- 常陸府中藩 - 松平播磨守頼隆を祖とする。1661年(寛文元年)に2万石を与えられ、常陸保内に陣屋を置いたのに始まる。1700年(元禄13年)に同国府内(茨城県石岡市)に陣屋を移す。守山藩と同様、大広間詰め連枝大名、江戸定府であった。官位の格も守山家と同じ。
- 常陸宍戸藩 - 松平大炊頭頼雄を祖とする。1682年(天和2年)に1万石を与えられ、常陸宍戸(茨城県西茨城郡)に陣屋を置いたのに始まる。連枝大名であるが、1711年(正徳元年)に二代筑後守頼道が譜代に列せられ帝鑑間詰となってより、幕府からは譜代大名として遇せられる。官位は従五位下。
家老
- 附家老
山野辺義忠(最上義光の四男)- 義堅=義清-義達-義胤=義風=義質-義観-義正=義芸-義禮-義智-義卿-嘉久-義達
- 松平氏(水戸藩内3000石・藩主一門)※ 家老格、維新後士族
松平頼泰(藩主・頼房の八男)-頼福-頼匡-(略)-頼脩=保福(徳川宗翰の八男)-(略)-頼善=頼位(宍戸藩主・松平頼救の四男)=頼譲
- 鈴木(雑賀)氏(藩主一門) 称:雑賀姓
鈴木重朝-重次=重義(藩主・頼房の十一男)=雑賀重春-雑賀重護-重教-重堅-重明-重孚
藩校
備考
- 佐竹氏は、秋田に左遷されるにあたって、藩主家の墓地と、水戸の美人を根刮ぎ、転封先に持っていったと云われている。これが、秋田美人のルーツの起こりだとされる。このため秋田は美人の産地となり、水戸には美人がいなくなった<ref>遺伝学的には、美人の遺伝子を女児しか受け継がないなどということは考えられず、美人の母を持つ水戸の男性が美人の遺伝子を後世に伝えたはずなので、「水戸に美人がいない」という部分は事実ではない、あるいは仮に事実であったとしても佐竹氏転封とは関係がないことになる。</ref>とも云われている。
<references/>
参考文献
- 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫、1991年) ISBN 4-00-331624-X
- 瀬谷義彦・鈴木暎一『流星の如く 幕末維新・水戸藩の栄光と苦境』(日本放送出版協会、1998年) ISBN 4-14-080347-9
- 高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 尊王攘夷運動と世直し』(青史出版、2006年) ISBN 4-921145-30-X
- 乾宏巳『水戸藩天保改革と豪農』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0618-8
- 長山靖生『天下の副将軍 水戸藩から見た江戸三百年』(新潮選書、2008年) ISBN 978-4-10-603606-4
関連項目
水戸藩に関連する武術流派