水戸ホーリーホック

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Template:サッカークラブ 水戸ホーリーホック(みとホーリーホック、英文表記:Mito HollyHock)は、日本茨城県水戸市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

クラブの概要

1990年土浦市で精肉業・プリマハム土浦工場の実業団チーム「プリマアセノFC」として発足。後に「プリマハムFC土浦」と改められる。1996年度の地域リーグ決勝大会で準優勝し1997年シーズンから旧JFLに参加。しかしプリマハムがサッカー部の支援を打ち切ったため、水戸市で1994年結成された「フットボールクラブ(FC)水戸」に吸収合併されることになり<ref>[1]</ref>、それに合わせて本拠地を移転、現在のチーム名となる(なおチームの系譜としてはプリマハムサッカー部が結成された1990年を創設年とみなしているため、実質上、FC水戸が吸収された形となっている)。

ホームタウン茨城県水戸市となっているが、水戸市内にある水戸市立競技場は、メインスタンドに長いす式のベンチシートが設置されているのみで、それ以外は芝生席の5,000人収容の小さな古い陸上競技場であり、また照明設備も無いためナイトゲーム開催も不可能であった。その為、同競技場での開催は毎年1、2回にとどまり、長年水戸市近郊のひたちなか市那珂市東海村にまたがる県立笠松運動公園陸上競技場をホームスタジアムとしていた。

Jリーグではホームタウンの中にあるスタジアムをホームスタジアムにすることが原則であり、モンテディオ山形ザスパ草津のように、本来の活動区域(前者は山形市、後者は草津町)にホームスタジアムとしてJリーグを開催できるスタジアムが無く、この問題をホームタウンを県内全域に広げたことで解消した例はあるが、水戸のようにホームタウンを広げることなくホームタウンの外にあるスタジアムをホームスタジアムにする例は特殊である<ref>他の例として、Jリーグクラブ以外のクラブである岡山県三菱水島FC(ホームタウン・倉敷市、ホームスタジアム・笠岡陸上競技場)、滋賀県MIOびわこ草津(ホームタウン・草津市、ホームスタジアム・湖南市民グラウンド陸上競技場)などの例がある</ref>。

しかしながら、ホームタウンにこそ含まれていないもののひたちなか市総合運動公園陸上競技場も準ホームスタジアムとなっているほか、上記4市村の他、笠間市大洗町茨城町城里町を含めた8市町村で「ホームタウン推進協議会」を設立しているなど、ホームタウンは茨城県央部といっても過言ではない活動を展開している。

そんな中、水戸市立競技場の改修計画が発表され、2007年秋から工事を開始し、2009年11月に「ケーズデンキスタジアム水戸」としてグランドオープン。Jリーグ公式戦は同8日のベガルタ仙台戦からとなった。この改修により収容人数は5,000人から12,000人に、メインスタンドに屋根を設置し、同時に独立シート化、照明も設置し、またバックスタンドも座席となり、アウェイゴール裏にはパナソニック製のアストロビジョンが設置された。

練習はチーム専用グラウンドであるホーリーピッチの他、水戸市のツインフィールドなど水戸市近郊のグランドを利用している。

チーム名の「ホーリーホック(Hollyhock)」は英語で「タチアオイ)」を意味し、水戸藩徳川御三家のひとつ)の家紋の葵(ただしこれはフタバアオイのことで葵科ではない)から取られた。なお、名古屋グランパスのチーム名候補の中にも「ハリホック」があり、語源は同じである。

主本拠地

クラブの歴史

旧JFL

1997年

水戸ホーリーホックとしての公式戦初戦は1997年4月20日、旧JFL開幕戦のコンサドーレ札幌戦(於笠松運動公園陸上競技場)である。結果は0-2での敗戦であった。ここから水戸は14連敗を続け(うち延長戦でのVゴール負けが2試合)、初勝利は7月19日、第15節の川崎フロンターレ戦(1-0)となった。なお、Jリーグ準会員だった川崎は、このシーズンの最終成績で勝ち点1及ばずにJリーグ昇格を逃している。水戸は後半戦に3勝を挙げたが、16チームのリーグ戦で最下位に沈んだ。しかし、コンサドーレ札幌の昇格と福島FCの消滅により、地域リーグ決勝大会2位チームとの入替戦は行われず、水戸はJFLへの自動残留に成功した。

1998年

新監督に三浦俊也を迎え、巻き返しを図ったが、年間予算が1億円強と言われ(JFL参加クラブは最低でも約3億円、Jリーグ準会員では20億円前後とされる)、プロ契約選手でもガソリンスタンドや水産加工所でのアルバイトをしないと生活出来ない状況では成績の劇的な向上は難しく、最下位脱出が精一杯だった。この年、翌1999年からスタートするJリーグ ディビジョン2(J2)への加盟を申請するも、経営基盤の不安定さ、スタジアム改修に対する地元自治体の動きの鈍さ(岡田広水戸市長が代表例とされる)という理由から加盟は見送られ、新JFLへの参加となった。

JFL

1999年

監督が二宮浩に交代し、J2昇格へ背水の陣を敷いた水戸だったが、9チームによる3回戦総当たり制(ステージ制)となった新JFLでも苦戦し、第1ステージでは6位に終わった。しかし南光太などの活躍で第2ステージはこの年に優勝した横浜FCにこそ敗れたものの、7勝1敗の首位となり、通算では3位でシーズンを終えた。Jリーグへの昇格条件は「JFLで2位以内」だったが、優勝が特例参加による準会員資格の横浜FCだったため、JFL正会員の中では2位という点が考慮され、翌2000年からのJリーグ(J2)加盟が認められた(Jリーグの2部制導入後最初のJリーグ参入チームとなった)。

J2

2000年

チーム初の外国人監督としてユーゴスラビアからバビチ・ブランコを招いた水戸は、J2昇格後の公式戦初戦を2000年3月11日の浦和レッドダイヤモンズ戦(於駒場スタジアム)で迎え、結果は0-2で敗戦であった。資金・戦力の欠乏を理由に専門誌などでは先行きを危ぶまれたが、第2節の大分トリニータ戦でJ初勝利をあげると、全試合出場を果たしたGK本間幸司を中心とした粘り強い守備や(失点数はリーグ7位タイ)、シーズン途中加入で36歳の高齢ながら元ブラジル代表の技を披露したFWジョン・パウロなどの活躍により、昇格初年度の最終順位は9位、しかも6位のサガン鳥栖までは勝ち点5差という善戦を見せた。

2001年

シーズン前にアルビレックス新潟から木澤正徳(現コーチ)、川崎フロンターレから池田伸康など、ベテラン勢を獲得するも、シーズン前半はたった1勝しか挙げられなかった。その後、補強した韓国人選手の活躍や、メインスタジアムの笠松運動公園陸上競技場のグランドオープン効果などがあり、最終的には最下位を脱出し11位で終わった。監督は川崎フロンターレで指揮を執っていた小林寛を招いたが、7月にはゼネラルマネージャーへ転身し、コーチの菅野将晃が監督に昇格して後を継いだ。シーズン後、経営難からチーム存続問題が浮上し、FC水戸代表としてのプリマハムFC誘致からクラブ経営を続けた石山徹社長が辞任し、小林が石山の所有株と社長職を引き継いで、チームのJリーグ加盟が暫定承認される事になった。なお、この年のチーム得点王(10得点)は東海大から加入して2年目の須藤大輔で、翌年に湘南ベルマーレへと移籍したが、その際の移籍金は常に苦しい水戸の財政を少なからず助けたとも言われている。

2002年

小林新社長が経営安定化とチーム成績向上を迫られた一年となった。菅野体制2年目のチームではFW小野隆儀が14ゴールを挙げ、守備でもシーズン失点数もリーグ最下位ながら前年比20点減の73失点に抑えて、最終順位は1つ上がった10位となった。一方、J2リーグ戦1試合の平均観客数は前年の1559人から2739人に増え、2002年W杯のために来日していたコスタリカ代表との国際親善試合も実現した。これらの実績により、水戸はJリーグから加盟継続が正式に承認された。しかし、増えたとは言っても水戸の観客動員数はJ2リーグ最低で、平均値の約4割にとどまっていたため、更なる努力が求められた。

2003年

クラブの存続問題が一息ついたこの年、1980年代に日本代表の主将として活躍した前田秀樹を監督に迎え、守備重視からのカウンター戦術をベースにしたチーム強化に乗り出した。最も活躍したのは、同年シーズンにJ2へ降格していたサンフレッチェ広島からレンタル移籍で獲得した、現在は日本代表のセンターバックを務めるDFトゥーリオだった。トゥーリオはセンターバックとして水戸の守備を固めると共に、機を見てどんどん攻め上がり、チーム得点王の10ゴールを記録した。トゥーリオは同年10月、日本への帰化が認められ、登録名を現在の「田中マルクス闘莉王」に変更した。これらの活躍もあって、水戸は4回戦制のJ2で開幕ダッシュに成功し、一時は首位、11節終了時の第1クールでも2位という好成績を挙げた。その後は徐々に順位を低下させたが、最終順位でもチーム史上最高の7位にまで躍進した。10月からは過去の経営危機への反省から、運営資金を広く集め、地域社会での認知度を高めるために「水戸ホーリーホック支援持株会」が拠出金募集を開始した。

2004年

昨年大活躍した闘莉王のレンタル移籍が延長されず浦和へ完全移籍し、それまで長らくチームを支えたFWの小野、北川、ディフェンスラインを支えた冨田大介が抜け、その代わりに川崎フロンターレから小林康剛を、大宮アルディージャから磯山和司など地元茨城出身の選手を獲得したことで話題を集め、開幕戦の湘南ベルマーレ戦では9155人の観衆を集めた(ホーム開幕戦では2008年現在最高記録。リーグ戦のホームゲームでは2位)。この年の1試合平均観客数は3773人で、現在までの史上最高値となっている。しかし、前年と比較して主力が多数入れ替わった影響か、なかなか勝ち星が奪えずホームでは5月5日の大宮戦から10月16日のヴァンフォーレ甲府戦まで13戦勝利なしという事態が続いた。この間、7月24日の川崎戦では、アウェー戦会場の等々力陸上競技場に集まった水戸サポーター有志による第1回納涼漢祭りが開催され、他チームのサポーターの間でも反響を呼んだ。更には、下記の様なJ1昇格お見送りに関しての珍事も作ってしまった。結局、チームはJ2史上自己最少の6勝しかできなかったが、44試合中19試合(42%)の引き分け(勝ち試合6試合分)で積み上げた勝ち点が効いて、2年連続一ケタ順位の9位となった。

また、第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、4回戦で鹿島アントラーズとの「茨城ダービーマッチ」が公式戦で初めて実現した。しかも、偶然にも「茨城県民の日」である11月13日の対戦になったが、笠松運動公園陸上競技場で行われたこの試合は0-1で惜敗した。なお、天皇杯とJリーグヤマザキナビスコカップ(ナビスコ杯)を合わせ、水戸は未だにJ1リーグ所属のクラブに勝利した事がない。

2005年

この年は、開幕前に2つの変化があった。この年から1月のチーム始動後の1次キャンプを福島県いわき市スパリゾートハワイアンズで行い、同所でキャンプ最終日にファンクラブ会員イベントを行うようになった。続いて2月には「いばらきサッカーフェスティバル」として鹿島とのプレシーズンマッチが行われ、以後年1回の頻度で定例化した。鹿島は茨城県を代表するJリーグの強豪として知られ、水戸市内でも公式ショップや小学生・幼稚園児(4種)向けのサッカースクール(旧内原町)などを開設しているため、後発の水戸とは競合関係にもあったが、この試合は両者の関係改善を示した。また、この年に新JFLからザスパ草津が昇格し、水戸は草津との対戦を「北関東ダービー」と称して共同参加キャンペーンを実施した。10月には日立市出身のシンガーソングライターecoによる公式応援歌「走れ☆ホーリーホック!」が発売された。

一方、チームは強化策として前年の決定力不足解消の為、パラグアイ人FWのデルリスを獲得し、彼にボールを集中させるため基本システムをそれまでの4-4-2から4-5-1へと変更した。序盤は連敗をしたものの、システム変更策は功を奏し、デルリスは前半戦のみでチームトップの8得点を決めた。しかし、その得点力に注目した札幌がレンタル元のチームに好条件を出したため、デルリスがシーズン中盤に移籍してしまった事で再び決定力不足が心配され。順位も10位へと一歩後退したが、シーズン後半はDF陣の相次ぐ攻撃参加や、若手のファビオの加入などで2年ぶりの2桁勝利となった。

2006年

この年は、水戸にとって初経験が多いシーズンとなった。 まず、2月にはチームの応援を盛り上げるための女子チアリーディングチーム、「Mito Holy's」(水戸ホーリーズ)を発足させ、続いて4月2日からはJR水戸駅ビル「EXCEL」の屋上に新規設置された人工芝のミニサッカー場「FUTPARQUE MITO」(フットパルケ水戸)の運営を請け負う事になった。

チームは5月6日の第14節の札幌戦(笠松)で、レンタル移籍で加入したブラジル人FWアンデルソンハットトリックを達成。これは水戸の選手がJ2リーグ273試合目で記録した初のハットトリックだった。続く第15節の東京ヴェルディ1969(東京V)戦ではクラブ史上初めて東京・国立霞ヶ丘競技場で試合を行い、アンデルソンの2試合連続ゴールで1-0と勝利した。

更には6月2日の横浜FC戦では横浜FCの連続無失点記録を770分で止めたり、6月24日の柏レイソル戦では、敗戦が目前となった後半ロスタイムで土壇場で同点に追いつくなど、J2上位クラブを大いに苦しめた。8月13日には那珂川河川敷の水戸市市有地に3面整備された「水府町グラウンド」が開場し、クラブの悲願だった専用練習場「ホーリーピッチ」として水戸に利用権が与えられた。

シーズン後半から前田監督は将来の上位進出に備えるため、カウンター重視の守備的戦術からボールを保持し、ショートパスの連続から能動的にゴールへ迫る攻撃的な戦術への転換を開始した。これは「サッカーの質を上げるために必要な措置」と評価された反面、対戦相手の監督から「あまりにも消極的」と非難されても守り続けるのをやめた事で、逆に「内容は良いが勝てない」という試合が増えた。その結果、水戸の勝ち点は伸び悩み、昨年と同じ10位でのシーズン終了となった。1試合平均観客数も3,017人まで落ち込み、再び経営の脆弱さが問題となった。

2007年

この年、水戸は大きな試練を迎えた。 前年17ゴールのアンデルソンが鳥栖へ移籍し、更にキャプテン吉本岳史が故障で離脱。その結果チームは出遅れ、前田監督の攻撃的戦術は解説者などから評価されたものの、シーズン初勝利は第13節の東京V戦まで待たねばならず、2勝目も第21節の山形戦となるなど、前半戦(第26節)終了時点でわずか3勝にとどまった。観客動員も更に冷え込み、第11節の湘南戦では6シーズンぶりに3ケタ台の958人となった他、前半戦主催12試合中6試合で観客数が2000人以下となった。チームの勝敗のみならず、ローコストでのクラブ経営、少人数体制での顧客サービスの低下、クラブスタッフの相次ぐ退職などからサポーターへのアプローチやスポンサーへの営業力が低下しクラブ経営を問われる声が上がった。この状況に対し、クラブ株主の過半数から小林社長の経営責任を問う声が上がり4月23日付で宮田裕司取締役が社長に就任する人事が行われた。

チームは旧JFL以来10年ぶりのリーグ戦最下位を回避するため、Jリーグで9シーズン目となるベテランのブラジル人MFビジュを獲得するなど、チーム戦力の再整備を行っている。同時に、経営危機を再燃させないための新たな手法が求められている。シーズン後半は昨年後半から続けてきたアクションサッカーの戦術が浸透してきたことにより前半より失点数が減った。最終成績は12位で8勝しか挙げられなかったが、そのうちの3勝は東京V、札幌、C大阪など、J2上位クラブから挙げた勝利で、J2上位クラブ相手に十分戦える戦力まで成長した。

一方、明るい話題として1月にはMF小椋祥平がU-22(22歳以下)日本選抜に選ばれ、次いで2008年の北京オリンピック出場権を争う「アジア男子サッカー2008」の2次予選でもU-22日本代表に選出、6月6日のマレーシア戦に出場した。 小椋は修徳高等学校から2004年に入団、1年目からトップチームで出場し、他のプロチームを経由せずに水戸入りした「生え抜き」選手では最も高い年代の世代別代表入りとなった。しかし、去就が噂されていた前田監督は、多くのサポーターから慰留の声はあがったものの2007年シーズン限りで解任。さらに、キャプテン吉本が横浜FCへ、小椋は横浜F・マリノスにそれぞれ移籍となった。なお、シーズン3勝目となった6月17日の第22節愛媛FC戦が行われた水戸市立競技場は、この試合を最後に大規模な改装工事に入った。2009年秋の改装後は、収容人数1万人のスタジアムとなり、ようやく水戸市内にJ2規格を満たす競技場を得る事になる。

また、チーム通算310得点(通称水戸GOAL)を、当時キャプテンだった吉本岳史がPKで決めている。

2008年

2008年は前田監督に代わって、かつて水戸で選手としてプレーしたことのある木山隆之が新たに監督に就任した。オフでの補強は他のJクラブ出身選手の目立った獲得はせず、大学サッカーでそれなりの実績を挙げた選手の獲得に重点を置いた。また、浦和レッズから赤星貴文東京ヴェルディから弦巻健人らをレンタルで獲得した。

シーズン開幕から5試合は、ここ2年間のJ1在籍経験チーム(うち3~5節は2007年J1在籍クラブ)との対戦となった。結果として5節終了時点で1勝2敗2分と健闘するが(うち昨年J1在籍クラブ全てから勝ち点を取った)、3月31日に社長の宮田裕司が、昨年8月のクラブスタッフとの親睦会で飲酒運転をしていたことが発覚し、辞任する騒動が起こった(後任として沼田邦郎が就任)。さらに、4月には取締役強化部長の鬼塚忠久が前述の宮田氏辞任に関連した理由で退任、また水戸ホーリーホック初代社長であり、チームのJリーグ参戦に貢献した竹村徹(旧姓・石山)が逝去と、次々激震が走った。そんな中、5月に韓国五輪代表候補である朴柱昊が加入、5月末、7月に3連勝するなど、チーム成績は上昇機運に乗り、このシーズン加入した荒田智之が新人ながら多くのゴールを上げ、遠藤敬佑もU-19日本代表に選ばれ、近年にない充実ぶりを見せていた。また、9月7日にKKWINGにて行われたロアッソ熊本戦において、Jリーグ昇格後100勝目となる勝利をあげた。更に、2008年9月28日のベガルタ仙台戦では荒田の2ゴールなどでベガルタ仙台から初勝利を上げ、勢いも増したと思われたが、リーグ終盤はロングボール主体の戦いになってしまうなどゲーム内容が悪くなり失速、15チーム中11位でシーズンを終えた。勝ち点も、目標としていた50にはあとわずか届かなかった。

またこの年、マスコットであるホーリーくんの入院及び手術(ホーリーくんの着ぐるみのリニューアル)をするための費用として、11月下旬から12月上旬にかけてサポーター有志からの募金とホーム最終戦で行われたチャリティーオークションで100万円以上の入院・手術費用が集まった。ホーリーくんの着ぐるみは2008年シーズン開始当初から頭が割れたり、しっぽがちぎれそうになったりとしており、怪我(破損)した部分を包帯で巻き、なんとか試合会場やイベント会場に来ていた。また、試合やイベント会場でも、痛々しい姿を指摘する子どもたちの声もあった。着ぐるみの耐用年数は約2年と言われており、Jリーグの多くのチームは数体予備を用意しているが、水戸ホーリーホックは予備が無く、チームの台所事情も厳しい為、今回の募金活動が行われた。

2009年

2009年は、主将のDF平松大志FC東京への移籍や、チームの柱だったMF赤星の浦和への復帰、またMFパク・チュホの鹿島アントラーズへの移籍など、戦力ダウンが少なからずあったものの、赤星の代わりとして浦和からFW高崎寛之、またFC東京から森村昂太、パクの代わりとして愛媛FCからMF金泰橪をそれぞれレンタルで獲得。またJFLのFC琉球から、かつて名古屋グランパスでJ1でのプレー経験があるMF中島俊一を獲得するなど、新卒新人に加え、MFの獲得を中心に行った。さらに、2月18日にはチーム発足以来初めて、A代表歴を持つ吉原宏太が加入した。

開幕戦は負けたが、それ以来勝ち続け、9年ぶりの4連勝を飾った。その後。4月26日のファジアーノ岡山戦では、荒田智之がチーム2人目のハットトリックを達成し、更に7月8日のアビスパ福岡戦では、今シーズンサイドハーフで起用されることが多くなったFW遠藤敬佑が、チーム3人目のハットトリックを達成し、更に更に8月30日のファジアーノ岡山戦では、高崎寛之が、チーム4人目のハットトリックを達成した。

その後5月に入ると、荒田、菊岡などの攻撃陣が相次いで負傷するなどし、その後に控えた上位相手に大量失点する事が目立った。そのため、5月20日には湘南ベルマーレからFW山本孝平が、その翌週にはFC東京からMF下田光平が共に期限付きで加入した。6月以降は再び調子を上げ、第2クールでは上位4チームに負けただけで、順位も5位で折り返した。

第24節セレッソ大阪戦では、チーム通算400ゴールが達成された。このとき、チームでは誰が400ゴールを挙げるかをファン・サポーターから募集しており、当たった人の中から抽選で1名400ゴールを挙げた選手のサイン入り試合球をもらえることになっていた。しかし、当の400ゴールは、セレッソ大阪のDF前田和哉によるオウンゴールだったため、サインはこの試合にスタメン出場した選手全員のものが入ることとなり、当選対象者も応募者全員の中から抽選で1名となった(オウンゴールの的中者がいなかったため)。

「昇格しか見えない」というゲーフラが登場するほど好調だった水戸だが、第3クールでは5試合連続完封負けを含む8連敗を記録して失速。第45節終了時点で、J1昇格の可能性は消滅した。11月3日には待望のケーズデンキスタジアム水戸(Ksスタ)が竣工。第48節の11月8日に水戸としての杮落とし戦ベガルタ仙台戦が行われたが、0-4で敗戦し、Ksスタでの初戦を飾ることは出来なかった。改修後の同スタジアムでは2戦目となる第49節の愛媛FC戦では中村英之のゴールで1-0と勝利し、新本拠地での初勝利を挙げたが、3試合目の第51節(最終節、12月5日)湘南ベルマーレ戦では2-0からの逆転負けを喫し、仙台に続いて湘南にもこのスタジアムでのJ1昇格決定<ref>仙台の場合はJリーグ理事会での承認前だったため、正確にはJ2の3位以内確定による「J1昇格内定」。</ref>を許す事になった。

2009年の最終成績は21勝20敗10分の勝ち点73で、18チーム中8位となった。J2リーグ参加10年目で初めて勝ち越すとともに、前述の通り1シーズンで3人のFW(荒田智之遠藤敬佑高崎寛之)がハットトリックを達成するなど、総得点でも70点台に到達するなどの記録づくしのシーズンとなった。

2010年

2010年は、木山監督は留任したが、2年間でリーグ通算31ゴールを決めたFW荒田智之ジュビロ磐田へ完全移籍、荒田と共に得点を量産したFW高崎寛之も浦和へ復帰。また、鈴木和裕村松潤金澤大将など、水戸で100試合以上出場した選手との契約が終了し退団となった。

その補強として、浦和から高崎の代わりに昨年ザスパ草津にレンタル移籍していた小池純輝を完全移籍で獲得。さらに、去年KリーグでプレーしていたMF大橋正博が9年ぶりに水戸に復帰。またFC岐阜からかつて大学、JFLで得点王を経験したFW片山真人が完全移籍で、セレッソ大阪から若いFW白谷建人をレンタル移籍でそれぞれ獲得。下田光平森村昂太のレンタル移籍期間も延長、そしてさらに新卒選手を7名獲得した。

対戦チームとの相性

  • コンサドーレ札幌との笠松での成績は水戸のほうが勝ち越している。
  • ベガルタ仙台とは、相性が非常に悪く、J2昇格後リーグ戦で30試合戦っているが、2008年、27試合目にしてJ2昇格後初めて勝ち星を奪った(JFL時代にはJFLのリーグ戦、天皇杯でそれぞれ1度ずつ勝利している)。しかし、2009年は2度のホームでの試合でともに大量失点するなど3連敗に終わり、現在までのJ2での通算対戦成績は1勝7分け22敗と水戸サポーターにとっては目を背けたくなるような成績である。
  • 川崎フロンターレ、京都サンガFCにも大きく負け越している。
  • JFLからの新規参入チームとの初戦での相性は良くなく、2008年までで初戦で勝利したのはザスパ草津だけであったが、2009年はカターレ富山、ファジアーノ岡山、栃木SCとすべての初戦で勝ち星を奪った。しかし2010年の新規参入チーム、ギラヴァンツ北九州との初戦では決め手を欠きドロー。未だジンクスを吹き飛ばせないでいる。
  • 現時点で勝ち越しをしているのは、徳島ヴォルティス、ロアッソ熊本、カターレ富山、ファジアーノ岡山、栃木SC。特に徳島とは相性が良い。

その他

  • 2004年の11月20日の大宮戦、11月23日の山形戦にて、2戦連続で、ロスタイムでのオウンゴールによる得点という、Jリーグでも珍しい記録を作った。
  • 2006年、ベガルタ仙台の連続試合無失点記録(6で止めた)、横浜FCの連続無敗記録を打ち破る。2007年はコンサドーレ札幌の前半15分以内の無失点記録をストップさせた。
  • J2参入以来の最高順位は2003年の7位で、またシーズン勝ち越しは2009年のみと、常に順位は低迷しているが、最下位になったことだけは一度もない。2007年は第1節から1年間ずっと最下位の13位で過ごしながら、最後の2節で順位を上げ、12位で終わっている(明確に言えば51節のセレッソ大阪戦で勝利し、この時点で最下位を脱出する。最終節で敗北を喫したものの、前節最下位の徳島ヴォルティスも敗北したため、最下位を逃れた)。
  • 浦和レッズとの間で、選手の移籍が増えている。本間幸司田中マルクス闘莉王赤星貴文高崎寛之小池純輝などが代表例である。

チーム成績・歴代監督

年度所属順位勝点試合勝利引分敗戦観客動員天皇杯監督
1994年関東3位22181026--
1995年優勝45181431--
1996年2位40181242-1回戦
1997年旧JFL16位10304-26-2回戦中野雄二
1998年14位23308-22-3回戦三浦俊也
1999年JFL3位45241608-3回戦二宮浩
2000年J29位4340154212,021人3回戦バビチ・ブランコ
2001年11位254484321,559人3回戦小林寛菅野将晃
2002年10位4044117262,739人3回戦菅野将晃
2003年7位56441511183,085人3回戦前田秀樹
2004年9位3744619193,773人4回戦
2005年10位52441313183,334人4回戦
2006年10位5148149253,017人3回戦
2007年12位3448810302,415人4回戦
2008年11位474213 8213,044人4回戦木山隆之
2009年8位73512110202,673人2回戦
2010年36

チーム別対戦成績

J2昇格以降の対戦成績(2009年終了時)

対戦チーム 勝ち 引分 負け 得点 失点
コンサドーレ札幌96122538
ベガルタ仙台17222669
モンテディオ山形105202750
栃木SC20165
ザスパ草津4861621
柏レイソル01326
ジェフユナイテッド市原・千葉00000
浦和レッドダイヤモンズ00438
大宮アルディージャ43131837
東京ヴェルディ(←東京ヴェルディ1969)4161412
川崎フロンターレ11141136
横浜FC712113143
湘南ベルマーレ124223652
アルビレックス新潟5471317
ヴァンフォーレ甲府134133435
カターレ富山21064
FC岐阜123814
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ)05111025
セレッソ大阪31101532
ヴィッセル神戸004211
徳島ヴォルティス11431911
愛媛FC6441210
ファジアーノ岡山30095
サンフレッチェ広島034513
ギラヴァンツ北九州00000
アビスパ福岡55162849
サガン鳥栖1312133744
大分トリニータ3181122
ロアッソ熊本411115
123 95 241 435 674

獲得タイトル

ユニフォーム

Template:ユニフォームの色

チームカラー

  • チームカラーは青色

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ケーズホールディングスケーズデンキ2001年〜1999年〜2000年は背中
背中なし
なし
パンツなし

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1999年~2005年 プーマ
  • 2006年~ mitre(マイター)
    (現在、水戸がJクラブで唯一の使用チーム)

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1999年Netz TOYOTA茨城銀行K'sケーズデンキPUMA
2000年Netz TOYOTAトモエ乳業K'sケーズデンキPUMA
2001年K'sケーズデンキトモエ乳業PUMA
2002年K'sケーズデンキトモエ乳業PUMA
2003年K'sケーズデンキトモエ乳業PUMA
2004年K'sケーズデンキトモエ乳業PUMA
2005年K'sケーズデンキ–/CMC–/imx–/思学舎モアPUMA
2006年K'sケーズデンキCMCimx思学舎モアmitre
2007年K'sケーズデンキimx/–mitre
2008年K'sケーズデンキ茨城空港水戸証券mitre
2009年K'sケーズデンキ茨城空港水戸証券mitre
2010年K'sケーズデンキmitre

エピソード

J2参加

水戸のJ2参加が実現した理由の一つは、2002年の全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のメイン会場としてJ1規格を満たすように改修される笠松運動公園陸上競技場のホームスタジアム使用が水戸市立競技場の代替として特例認可されたためであったが、その改修工事のために2000年は笠松での試合開催ができず、ひたちなか市総合運動公園陸上競技場と日立市民運動公園陸上競技場日立市)の2会場を中心に主催試合を行った。そのうち、より規模の小さい日立では9試合が行われたが、その中に浦和戦のホームゲーム2試合が含まれ、公称収容人数8,464人のスタンドは浦和サポーターを中心に超満員(観衆約6,000人)となったが、ピッチ状態の悪さなどに批判が集まった。その後、日立での水戸戦開催は2007年の1試合(ベガルタ仙台戦)まで行われなかった(Jリーグ事務局から使用禁止通達を受けたという説もある)。また、警備費用の負担という名目で水戸は浦和戦のみ各席種のチケット販売価格に通常から200円上乗せしたが、対戦相手によってチケット価格を変えるのは当時のJリーグでは珍しかった。<ref>他にFC東京ヴィッセル神戸も2段階料金制度を採っているほか、大宮が2007年シーズンに2段階料金制度を採用していた。</ref>

水戸ナチオ

2003年に水戸の監督に就任した前田秀樹は、資金面、戦力面で他クラブに劣る水戸で対等な勝負をするために、徹底した専守防衛によるリアクションサッカーを導入した。DFやサイドどころか中盤、前線に至るまでほぼ全員が自陣深くに引き、攻撃はカウンター一筋で決して自分たちからは攻めあがらず、何点のビハインドを背負おうと決して前の人数を増やさずに守り続けるという、極端なまでの守備戦術である。

この戦術は、ポゼッション(ボール保持)を半ば放棄しているため、相手の波状攻撃に耐え切れずに大量失点を食らうこともあったが、その分カウンターがうまくはまったときは快勝することも多く、特に攻撃的な戦術を組む上位クラブに対しては「守り切られてカウンターだけで負けかねない、侮れないチーム」という意識を植え付けることになった。また、上位だけでなく水戸以降にJリーグに加入した下位クラブにも徹底して引いたため、「横浜FC相手にリトリートするチームがあるとは思わなかった」(足達勇輔横浜FC監督)、「先制して、水戸が前に出てきたら仕掛けようと思ったら、出てこなかった」(望月一仁愛媛FC監督)など、しばしば相手の選手や監督を驚かせた。

こうした水戸の「超守備戦術」は、いつしかイタリアの「カテナチオ」になぞらえ、サポーターから「水戸ナチオ」と呼ばれるようになった。元はインターネットのサッカーコミュニティから生まれたスラングだったが、徐々に一般サポーターに浸透し、現在はマスコミでも水戸を説明する言葉としてしばしば用いられる。前田監督の最終年である2007年以降、水戸はポゼッションを高める攻撃的サッカーに方針を転換したが、今なお「水戸ナチオ」は水戸を象徴する代名詞となっている。

様々なイベント

水戸サポーターは、ホームゲームの勝利後に、一部選手、社長、チアリーダーを交えて、選手がマイクロフォンで応援歌を歌ったり、全員で万歳三唱をしたり、アウェーゲームのゴール裏で屋台やゲームなどの夏祭りを開催する「納涼漢祭り」、前田秀樹監督を盛大に称える「前田祭り」、モンテディオ山形とのゲームで必ず行われる「コール合戦」など、独特のイベントを多数開催している。これらは基本的にクラブはノータッチ、完全にサポーター主導で行われており、特に漢祭りは「Jリーグの奇祭」として、他クラブサポーターも多数参加する。また、水戸サポーターが撮影した動画もこれらの祭りを撮影したものや、初音ミクが主にアニソン替え歌で、水戸ホーリーホックを応援する動画など、ユニークである。各イベントの詳細は納涼漢祭りを参照。

新日本プロレスとのコラボレーション

2008年から新日本プロレスとのコラボ企画を行っている。2月14日にひたちなか市松戸体育館で行われた新日本プロレスひたちなか大会において、ホーリー君や、チアリーダーが登場するなどし、盛り上げた。6月13日のサガン鳥栖戦には、6月15日の水戸市民体育館で行われる新日本プロレス水戸大会の宣伝も兼ねて、蝶野正洋の始球式参加や「I am Chono!!」シートを限定販売を行った。

「見送り試合」の多さ

目前で相手クラブにJ1昇格を決められることが多く、特に2004年、2009年シーズンは自動昇格の2チーム双方を「お見送りする」という珍事を達成してしまった(2チームにJ1昇格を決められたのはほかに2008年愛媛FCが該当)。お見送りになってしまった試合は以下である。一方で回避例もあり、2003年に対新潟戦で新潟のJ1昇格がかかっていたが、この試合では水戸が勝利したため新潟の昇格は次節以降に持ち越しとなった。

2004年
  • 9月26日 第36節(笠松) 水戸 1-2 川崎
  • 11月20日 第42節(大宮) 大宮 3-1 水戸
2005年
  • 10月22日 第37節(西京極) 京都 3-1 水戸
2007年
  • 12月1日第52節(札幌ドーム) 札幌 2-1 水戸
2009年<ref>この2試合は新装成ったKsスタでの開催(仙台戦はJとしての杮落とし戦)だったが、いきなりベガルタ、ベルマーレのJ1昇格を見送ることになってしまった。</ref>
  • 11月8日第48節(Ksスタ) 水戸 0-4 仙台
  • 12月5日第51節(Ksスタ) 水戸 2-3 湘南

スタジアムグルメ

水戸のスタジアムグルメは他のスタジアムに比べて非常に充実している。パエリアパフェペロペロキャンディ風にしたウィンナーなど種類が豊富である。しかし、2009年には、食中毒事件を起こし、営業停止命令が出され、食中毒の主な原因となったピラフを販売した店舗は当面出店禁止となった。

観客動員

観客動員は少なく、2000年と2004年を除いて観客動員数はJ2最下位、2000年と2004年も下から2番目と(ちなみに2000年、2004年の最下位はそれぞれヴァンフォーレ甲府サガン鳥栖で、双方とも当時クラブの存続危機に立たされていた)、毎年最下位かブービーのどちらかである。これは、使用する笠松運動公園陸上競技場の自家用車以外でのアクセスがあまり良くないこともさることながら、同じ茨城県にJ1の人気クラブで常に優勝争いを繰り広げる鹿島アントラーズがあることも、理由の一つとされている。しかし2009年終盤(正式には2010年シーズンから)にホームをケーズデンキスタジアム水戸に移転し、仙台戦で8,000人を集めたことで改善への希望の光が見え始めた。<ref>ただし大半は仙台サポーターで占めていた。</ref>

スタジアムDJ

水戸ホーリーホックのスタジアムDJは、寺田忍が担当している。寺田はホームゲームの進行役は勿論、アウェーゲームの試合にも度々訪れ、サポーター席で試合開始前にはホームゲーム同様に選手紹介を行っている。9月7日のアウェーのロアッソ熊本戦にはオーロラビジョンでロアッソ熊本のスタジアムDJの星野竜馬とトークバトルを繰り広げた。勿論、水戸サポーター席で選手紹介を行った。この様子はYoutubeなどにもアップされている。

関連項目

外部リンク

脚注

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