死刑存廃問題

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Template:複数の問題 死刑存廃問題(しけいそんぱいもんだい)とは、死刑制度の是非に関する刑事政策上の問題である。

目次

死刑存廃問題の概要

死刑制度の是非をめぐっては、死刑制度の存続に賛成する存置論 (存続論)、死刑制度の廃止を主張する廃止論(反対論)があるとされる。死刑制度は宗教、哲学および社会感情が複雑に絡むテーマであり、存置派と廃止派とは、古代から現在に至るまで、様々な論点をめぐって対立してきた。この論争を、死刑制度に対する存廃問題と呼称する。なお、この項目では双方の立場からの記述を行っているが、いずれかの主張が絶対的に正しいか否かを判断するものではない点に留意すること。

死刑制度に対する国際問題

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死刑制度を維持している国では長年に渡って刑罰の一つとして死刑を存続させる死刑存置論と死刑制度を廃止させるほうが適切であるとする死刑廃止論との議論が繰り返されてきた。前者の場合は、現状維持派とみなされる場合もあるが、死刑の適用は裁量的なものであり、適用が厳罰化で拡張される場合も、また寛容化で縮小される場合もありえるため、必ずしもそうとは言い切れない。

なお死刑制度が廃止されている国の場合には死刑復活問題となり、現在では、凶悪犯罪に対する抑止力が、復活する理由として主張される。実際にアメリカ合衆国のいくつかの州では死刑を廃止または執行の停止をした後に復活しているし、イギリスやフランスでは否決されたものの議会で検討された事もある。20世紀後半以降一度死刑が廃止された後に復活した国は少なく、また復活させた場合でも国際世論の動向を警戒し実際に執行された国はさらに少ない。

近代社会において、死刑の適用が除外されたものに政治犯に対する刑罰がある。古代より政権を握ったものが反対者を反乱者として処刑する事は珍しくなかった。革命クーデターといった政変による、例えば外国の軍隊を日本に侵攻させる外患誘致罪は死刑しか規定されていない。また、現在でもイスラエルによるパレスチナ人などへの暗殺のように、名目上死刑廃止国であっても、裁判という形を取らずに人を殺す国家もある。またミャンマーのように死刑が停止されていても人権侵害による犠牲者を出している国もある。

1989年12月、国連で採択された「国際人権規約」の「市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」には、随意項目として死刑廃止が存在する。これを加えて廃止を選択する国は、国際条約に基づき『戦時中に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決によって、戦時に適用することを規定』(第2条1項)されている戦時犯罪を除き平時全ての死刑を廃止することになる。なお、戦争犯罪も裁くことがある国際刑事裁判所は、大虐殺を指導した国家元首であっても死刑は適用されず、言い渡せる刑は終身刑(服役して25年以上経過後に仮釈放の可能性がある)と有期30年以下(刑期の三分の二以上経過後に仮釈放の可能性がある)の禁固刑である。

1990年ごろまでは、死刑維持国が大多数を占めたが、一党独裁ないし軍事独裁政権であった国家が民主化した直後に東欧や南米の諸国が死刑を廃止し、死刑廃止国の数が増加した。一方で、アジア・アフリカ・中東においては、民主化の後も死刑を維持する国が多数存在する。

1990年代以降、国際社会では死刑制度の廃止に踏み切る国家が増加している。特に死刑の廃止を主張する欧州連合加盟国の強いヨーロッパでは、死刑存置国も死刑の執行停止をせざるを得なくなっており、唯一死刑の執行を続けていたベラルーシが「人権抑圧国」として糾弾されている<ref>ただし実際に政治体制も政府批判を許さない強権的なものであるとの指摘もある</ref>。また国際連合も死刑廃止条約を推進することなどから、外交の一環として死刑制度に対する国際的圧力は増大しているという考え方も存在する。なお一部の死刑存置派は一連の動きに対し、国内状況が死刑制度の廃止ができない状態であれば死刑は維持すべきものであるとしている。

2007年12月18日、欧州連合などの提案で、国連総会で初めて死刑モラトリアム決議が可決したが、これに対し日本の神余隆博大使は「国民の大半が死刑を支持しており制度廃止に踏み出すことは困難<ref>産経新聞 2007年12月17日</ref>」と述べ、また「決議に賛成すると憲法違反になる」と表明<ref>毎日新聞 2007年12月20日朝刊</ref>しており、「日本の内政問題であるから世界の大勢に従うべきでない」としている。

この動きに対し、欧州連合は死刑制度維持をしている国への対応として、国際連合の人権委員会で「日本の人権問題」として「死刑制度の廃止もしくは停止」を求める勧告を出させている。2008年も欧州連合は同様の決議を提出する予定で、10月28日、日本で同日行われた2名の死刑執行に議長国フランスは「深く憂慮している」と表明した。

国連の死刑廃止条約や、EUの死刑廃止ガイドラインは、通常犯罪に対しては死刑を禁止しているが、戦時の死刑については国家の権利として認めている。死刑廃止論の祖であるチェーザレ・ベッカリーアを始め、過去の死刑廃止論者・団体は、平時の通常犯罪に限定して死刑廃止を主張しており、戦時下など国家の危機における死刑については対象としないことが多かったが、近年では戦時も含めてあらゆる死刑に反対する考え方が広まっていると思われる。

死刑制度に対する国際社会の現状

thumb|right|300px|死刑制度の世界地図
この図は世界各国の死刑制度の状況を表した地図である。

世界198ヶ国の色分けは次の通り。(2009年現在)

  • Template:Bgcolor:あらゆる犯罪に対する死刑を廃止(94ヶ国)
  • Template:Bgcolor:戦時の逃走、反逆罪などの犯罪は死刑あり。それ以外は死刑を廃止(10ヶ国)
  • Template:Bgcolor:法律上は死刑制度を維持。ただし、死刑を過去10年以上実施していない死刑執行モラトリアム国。もしくは、死刑を執行しないという公約をしている国。(35ヶ国)
  • Template:Bgcolor:過去10年の間に死刑の執行を行ったことのある国(58ヶ国)

となっている。

アムネスティ・インターナショナルの調べによると、2006年に死刑を執行した国は、日本を含む25カ国。人数は1,591人が確認されているが<ref>死刑に関する事実と数字</ref>、この数値には秘密裏に処刑されたものが含まれていないので、実際はこれよりも多いと考えられる。全世界の死刑執行数の約9割以上が中国、続いてイランとなり、国別にみるとイスラム圏に属する国が多いTemplate:要出典。また人口に占める死刑執行の割合が多いのはサウジアラビアであり、1980年から2002年に1409人が処刑されたが、人口比では208,772人に一人に相当<ref>『ギネス世界記録2006』123頁</ref>するという。

死刑存廃問題の歴史

死刑制度の詳細については、死刑を参照のこと。

死刑は、受刑者の生命を何らかの方法によって奪う刑罰で、その受刑者の社会的存在を抹殺する刑罰であり、人類刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる<ref>斎藤静敬『刑事政策』創成社 79頁</ref>。また生命刑とも云われ、かつては刑罰の主役であった。

みせしめの手段として死刑を残酷に演出するために、車裂き鋸挽き釜茹火刑溺死刑石打ちなど、その執行方法は多種に及んだ。また、犯罪行為に対するものにかぎらず社会規範を破った事に対する制裁<ref>たとえば、中世ヨーロッパでは姦通を犯した既婚者女性は原則的には溺死刑に処せられていた。</ref>として死刑が行われていた時代もあった<ref>ただし、現在でもイスラム法を重要視している国では不倫や婚前前性交渉を理由に死刑になる場合も存在する</ref>。

上記のような執行方法はあまりにも残虐に過ぎ、近代以降、あまり受け入れられなくなりつつある。時代がすすむにつれ、残虐性のある執行方法を用いる国は減少していくが、これは人道上許容できないという理由によるものが多いと思われる<ref>例えば斬首刑の執行具の一つであるギロチンは、斧や刀による斬首では受刑者に必要以上の苦痛を与えるとして導入されたものであった。</ref>。

中世社会までの死刑に対する社会の見方

完全な形で残っている、世界で2番目に古い法典であるハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」があるため、応報刑が採用されていたようである。ただし加害者の身分が被害者より下であれば厳罰に処せられており、応報刑が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。また場合によっては罰金の納付も認められていた。そのため、基本的に「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」といった現代の罪刑法定主義が採用されていたものであり、復讐を認める野蛮な規定の典型ではなく「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」ものであった。

しかし、ユダヤ人キリスト教徒はこれらを宗教的教義に反する政治思想・司法制度として批判し続けたため、近代に至るまで罪刑法定主義的な処罰が行われることは無かった。そのため、近世になるまで現在から見ると釣り合いが取れないほど軽い罪や反道徳的な行為が死刑になる犯罪行為とされていた。このような不文律による処罰を罪刑壇断主義という。

ユダヤ教とキリスト教の聖典であるモーゼの十戒には、「汝殺すなかれ」と不殺の戒が定められている。その反面「僅かの酸は麹の全体を膨らます」(コリント前書5章16節)の文言を根拠に、ユダヤ圏・キリスト圏に属する国においては、ある人が犯罪によって社会全体に危険を撒き散らし、しかも伝染的なものであるなら、公共の福祉を守る為にこれを殺すことは有益で賞賛に値するとされていたと思われ、死刑は凶悪な人間を排除する手段、つまり社会秩序の防衛の為であるとして肯定されていた。

一方で、死刑は「人を殺す」ことにほかならず、理性的人間の原初的な強い忌避感情に関わるものであり、古くから議論がなされてきた。キリスト教では、ローマ国教になる以前にもその正当性は議論されていたが、中世欧州社会で死刑制度を肯定する思想として、スコラ哲学者でもあった神学者のトマス・アクィナスは、刑罰に応報的な性格があることを認め、刑罰によって犯罪により失われた利益が回復するとして、死刑の正当性を主張した。また宗教改革の指導者であるマルティン・ルターは、死刑を執行する剣は神に対する奉仕を意味し人間の手でなく神の手が殺戮するのだ、として肯定すると共に、国家の為政者が凶悪な人間を死刑にするのは正当な行為であり罪でない、と主張していた。

キリスト教国は、報復論を否定する一方で予防論によって死刑の正当性を位置づけたことで、教義上の結論を見たが、見せしめのために前述のような残虐な処刑方法が行われ、教会自体、宗教裁判などによって異端者・魔女であるとした者を大量に処刑した<ref>たとえばドイツの17世紀初頭のカロリナ法時代にライプツィヒの刑法学者であったカルプツォフ(Benedict Carpzov)は裁判官として40年間の在職期間中に中世の刑法を推奨し8万人に死刑を言い渡し2万人から3万人が死刑執行されたが、その多くは魔女裁判であった。</ref>その根拠とされたのは、旧約聖書の『出エジプト記』22章18節律法「呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない」という記述であるが、本来は意味不明であったものが、中世欧州社会では「魔術を行うもの」次に「キリスト教的教養の持たない者」を社会秩序維持のために排除すべきとなり、集団ヒステリーの産物としての魔女の極刑が横行した、と言われている。

政治的権力者ないし宗教指導者への反逆は悲惨な死に至る、というような「威嚇」を狙った目的もあり、歴史的には(異論もあるが)ローマ帝国およびユダヤ教に対する反逆者とされ死刑が執行されたイエス・キリスト磔刑魔女狩りなど宗教異端者に対する過酷な処刑、イングランドウィリアム・ウォレス映画ブレイブハートのモデル)に対する四つ裂きの刑などが有名である。これらの処刑はいずれも公開で行われており、死刑執行を公開することで犯罪を予防しようとする目的<ref name="keiji80">斎藤静敬『刑事政策』創成社 80頁</ref>から、生きながら焼き殺す、蒸し殺す、受刑者の身体を公共の場で切り刻んだり引きちぎったりする、などといった極めて凄惨な公開処刑が行われた。しかし中世フランスなどにおける公開処刑の実情を見ても、それが必ずしも威嚇となっていたのかは疑問の残るところである<ref>当時のフランス国民は公開処刑を興奮のための娯楽としてしか見ていなかったと言われ、死刑執行を家の中で見ながらセックスを行っていたという例も存在する。</ref>なお公開処刑は、現在も一部の国では行われている。

死刑廃止論の起こり

人類社会で古くから脈々と続けられてきた死刑制度であるが、日本では死刑が事実上廃止されていた時代があり<ref>嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布して死刑執行が停止された。</ref>、前近代社会では極めてまれな事例である<ref>ただし朝廷への反逆者は例外的に斬首されていた</ref>。

近代になり人権の保障として「法無くば罪無く、法無くば罰無し」という罪刑法定主義の原則が取り入れられるようになったが、犯罪者に対し国家が科すべき刑罰に関して、旧派刑法学(客観主義刑法理論)と新派刑法主義(主観主義刑法理論)の新旧刑法学派の対立が生じた。このような、刑罰の本質に対する論争のひとつとして、死刑制度の位置づけによって制度の存否をめぐる議論が生まれた。これにおいて、死刑が適用される犯罪を戦争犯罪のみに限定もしくは完全に撤廃しようとする主張が死刑廃止論であり、それに対して死刑制度を存続すべきという主張が死刑存置論である。

死刑適用の制限と廃止

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欧州連合基本権憲章のうち、死刑の禁止を明記した箇所

フランスで1789年に勃発したフランス革命を契機として、死刑執行方法はギロチンによる斬首刑に単一化されるようになり<ref name="keiji80" />、文化の変化に伴って死刑の意義がなくなっていったため、適用範囲が次第に制限されるようになった。フランス革命ではロベスピエール恐怖政治によって大量の政治犯が処刑されたことから、死刑制度が廃止するかに思われたが、最終的にナポレオン・ボナパルトによって退けられた。

欧米の政治革命の結果として死刑が適用される範囲が次第に制限されるようになった。たとえば建国間もないアメリカ合衆国ではトマス・ジェファーソンが死刑執行の範囲を制限すべきと主張していた。州レベルではペンシルベニア州1794年に死刑を適用できるのは第一級殺人罪のみと限定した。また1846年ミシガン州が殺人犯に対する死刑を禁止し、事実上死刑制度を廃止した。これは国家が国民の生命与奪権まで与える事に疑問が提示された結果ともいえる。特に権力者に対する政治的反逆を行った政治犯に対する死刑は、一部の国を除き忌避されるようになった。

20世紀末から欧州諸国が死刑制度を廃止し、国連も死刑廃止条約を打ち出したため、21世紀初頭の国際社会は死刑制度が廃止された国が半数となっている。一方で死刑制度を護持する国も依然として残っているが、死刑制度を存置する国においても、死刑が適用される犯罪はおおむね「他人の生命を奪った犯罪」に制限されるようになっていった。ただし、前述のように厳罰主義ないし宗教観による差異のために、「人の生命が奪われていない犯罪」<ref>中華人民共和国汚職・経済犯罪や、シンガポール麻薬犯罪、一部中東諸国のイスラーム法に基づく宗教的道徳観違反など。</ref>でも死刑が適用されている国家がある。

日本で死刑が適用される犯罪は法律上17種類あるが、起訴された事例が無い罪種が大部分であり、実際には殺人または強盗殺人など「人を殺害した犯罪」である<ref>他にも、内乱罪外患誘致罪のように、たとえ人命が奪われていなくても、「祖国に対する裏切り行為」は死刑が適用(後者は死刑のみ)されるが、刑法制定以来適用例が存在しないため除外する</ref>。そのため、人を殺害した犯罪者のうち、特に悪質な場合において、犯罪者の生命をもって償わせるべきと裁判官に判断された者に死刑が適用されている。

先進国と呼称される国の多くは死刑制度を廃止、または執行の停止をしているが、日本は現在でも死刑制度を維持している。凶悪犯罪者に対する社会的制裁や犯罪抑止、犯罪被害者遺族の応報感情などを理由に死刑を維持すべきという国内世論も根強い。例えば、死刑存置論者である刑法学者が死刑廃止運動に対する批判<ref>中嶋博之「罪と罰、だが償いはどこに?」新潮社 189頁</ref>として「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」と発言している。このように、論理と感情の入り混じった激しい価値観の対立が背後に存在すると考えられる。

現在先進国のうち、実質的な死刑存置国はアメリカ合衆国・日本・シンガポールの3か国であるが、アメリカ合衆国では15州が死刑を廃止・2州と軍は執行を停止という状況で、死刑制度が有る35州と連邦も毎年執行している地域はテキサス州のみである。欧州議会の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に死刑執行を継続している日本とアメリカ合衆国に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議<ref>この決議では、死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が非難されている。</ref>を可決している。また、国連総会も死刑執行のモラトリアム決議(2007年12月18日)を可決している。さらに、国連のB規約人権委員会は日本を名指しして死刑制度廃止を勧告している<ref>Template:Cite news</ref>。2008年10月30日<ref>国連人権委:死刑廃止へ 日本政府に「最終見解」 毎日新聞2008年10月30日 2008年11月30日閲覧Template:リンク切れ</ref>には、日本の捜査機関の手続きの改善<ref>代用監獄の廃止、虚偽の自白を防ぐための取り調べ録画</ref>や、死刑制度についても「死刑執行数が増加しており、また本人への告知が執行当日であること」などが問題であり、死刑囚本人とその家族が死刑執行に向けて心の準備ができるよう「適切な時間的余裕を持って執行日時を事前通知すべきだ」と批判している。

死刑に対する思想の歴史

死刑存置論の系譜

死刑存置論の系譜は、自然権と社会契約説を唱えたトマス・ホッブズジョン・ロックイマヌエル・カントなどの啓蒙主義時代の思想家が、世俗的理論のもとに社会秩序の維持および自然権(生命権)の侵害に対する報復などによって、死刑の必要性を再定義したことから始まる。そのほか、モンテスキュールソーヘーゲルといった文化人も死刑存置論を主張<ref>立石二六『刑法概論』成文社 2004年 346頁</ref>した。

ルソーの『社会契約論』の第五章「生と死の権利について」のなか<ref>三原『死刑存廃論の系譜』19~20頁より引用</ref>で「社会契約は、契約当事者の生命の保存を目的とする。目的を達成しようとする者は、手段をも真剣に望む(中略)他人を犠牲にしてみずからの生命を保存しようとする者は、必要であれば、同様に他人のためにみずからの生命をあたえなければならない」としたうえで、市民の生命は国家から条件付で与えられたものであると主張している。そのうえでルソーは「犯罪者に科せられる死刑は、暗殺者の犠牲にならないために、われわれは、もし自分が暗殺者になった場合には死刑になることを承諾するのである」としたうえで、国家の一員である以上は、契約に違反したものは追放もしくは公共の敵として死刑になることで国家から切断されなければならないと主張した。その一方で「刑罰が頻繁に行われるのは、つねに政府が弱体化怠慢の兆候である。どんな悪人でも、何かの役に立つようにしむけるものができるものだ。生かしておくと危険だというもの以外には、たとえみせしめのためであっても、殺す権利はだれにもない」と主張しており、死刑の濫用を戒めている。このことから、ルソーは死刑を肯定しているが、これは死刑で犯罪を抑制し、相互の人命を尊重させる社会防衛上の思想であるといえる。

ホッブズは「哲学者と法学徒との対話」の中の(5 死刑に相当する重要な犯罪)で死刑を肯定している。またモンテスキューも同様に肯定しており、社会契約説は死刑を合理的なものとして肯定できうるとしている。また後世になっても、社会契約説を死刑存置の根拠する系譜は存在する。

ドイツ・プロイセン王国出身の思想家でドイツ観念論哲学の祖であるイマヌエル・カントは「人倫の形而上学の基礎づけ」の中で、すべての人間に尊厳があるために、死刑が適切である罪に対して死刑を行うことを避けることは犯罪者の人間の尊厳を否定し不平等であるとしている。またカントは死刑廃止論を「詭弁であり枉法」であると批判し「人を殺したものは死ぬべきである。これはまさに正義の要求だ」というように主張した。カントのこの刑罰論は絶対的応報刑論というものである。これは、刑罰とは悪に対する悪反動であり、動と反動とは均衡させなければならず、悪反動の内容は害悪でなければならないという考えである。そのため、殺人行為に対しては死刑という刑罰をもって犯罪を相殺しなければならないという考えで死刑を理論的に正当化したのである。

20世紀初頭、ドイツ・ベルリン大学のヴィルヘルム・カール教授は法曹会議のなかで『死刑は刑罰体系の重要な要素であり』として人を殺したる者はその生命を奪われるというのは『多数国民の法的核心である』と主張した。またアメリカ合衆国のケンダルは、ルソーの社会契約説によって死刑制度は肯定できるとしていた。このように政治犯などに対する死刑と、人を殺めた凶悪犯罪者に対して行われる死刑は、社会契約説から全く別であり、肯定できるとした。

死刑制度の存続賛成派は、その目的として犯罪を予定する者への威嚇効果、つまり(殺人などの凶悪事件)犯罪抑止ないし犯罪抑止力。または人権を剥奪された被害者ないしその遺族の救済(つまるところ報復の代行)などを根拠に死刑を維持<ref>廃止されている場合には復活。明確な意味で復活したのはイタリアなど少数である</ref>すべきとする。また、死刑制度の廃止派はたとえ人命を奪った凶悪な犯罪者であっても人権はあり、死刑そのもの自体が永久にこの世から存在を抹殺する残虐な刑であり、国家による殺人を合法的に行うことであり是認できない、刑事裁判の誤判による冤罪による処刑を完全に防ぎきれない、などを根拠に廃止すべきと主張する。

現在に至るまで、死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては、激しく対立しているが、どちらの主張が正しいかを客観的に判断することは誰にもできない問題である。また論理的でない感情論も場合によっては入るため、現実として問題の解決はありえないかもしれない。そのため、死刑制度を存続するにしても廃止するにしても、法学のみならず、死刑制度の存在をどのように見るかで大きく変わるものであり、そのため法学のみならず思想的かつ宗教的な問題や哲学など様々な主義主張が交錯しており、犯罪被害者ないし犯罪者双方の人間の生命についてどう考えるかという根本的な課題<ref>菊田幸一『Q&A 死刑問題の基礎知識』明石書店126頁より引用</ref>であるといえる。

日本における死刑存置論

以下の項目は、日本における死刑制度存置派による存置論である。

  • 社会契約説からの存置
前述のように、啓蒙思想家のルソーやカントは社会契約説から死刑を肯定したとして、刑法学者の竹田直平は「人間は本来利己的恣意的な行動を為す傾向を有するので、他人からの不侵害の約束と、その約束の遵守を有効に担保する方法とが提供されない限り、何人も自己の生命や自由、幸福の安全を確保することができない」として社会契約の必要を説いた上で、生命を侵害しないという相互不可侵の約束を有効かつ正義にかなった方法で担保するには、違約者すなわち殺人者の生命を提供させる約束をさせることが有効であると主張し、死刑の存置を肯定した。なお前述の「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」という意見は、竹田が主張したものである。
  • 民族的法律観念からの存置論
最高検察庁検察官検事を勤めた安平政吉は「社会秩序を維持する為には、悪質な殺人等を犯した犯罪者に対しては死刑しかなく他の刑罰は考えられず、それにより国民的道徳観も満足される」と主張した。
  • 国家的秩序・人倫的維持論からの存置論
刑法学者で弁護士小野清一郎は「死刑が正当なものであるかどうか、抽象的に論じがたい」として、抽象的に死刑を否定するのは浅見な人道主義的または個人主義的啓蒙思想に基づく主観的な見解であり、日本の政治思想は仁慈を旨としており国家的秩序と人倫的文化を維持するために絶対に必要な場合には死刑を廃止すべきであるとした上で、制度として維持する場合には適用を極度に慎重にしなければならないとし、死刑制度の存置を条件付で容認したものであるといえる<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』成文堂 44頁</ref>。
  • 犯罪抑止論
死刑存置論者である植松正は、死刑の威嚇力が社会秩序維持のために必要であると主張した。
  • 特別予防論からの存置論
目的刑論とは、「刑罰は犯罪を抑止する目的で設置される性格を持つ」とする理論であり、刑罰の威嚇効果によって犯罪抑止を図る一般予防論と、犯罪者に刑罰を科すことによって再犯を防止しようとする特別予防論に分かれる。後者の特別予防論によれば死刑制度は「大抵の犯罪者は教育・矯正をすることで再犯をある程度抑止することができる。しかし死刑が適用されるような凶悪犯は、矯正不可能であり社会秩序維持のために淘汰する必要がある。そのため社会から永久に隔絶することで再犯可能性を完全に根絶する手段として死刑は有用である」となる。そのため、再犯させない究極の手段として死刑は容認されるというものである。 なお日本の死刑制度を合憲とした最高裁判例(最大判昭23・3・12)は、この特別予防論を死刑制度の根拠としているが、永山事件判決は一般予防の見地からも罪刑均衡の見地からも止むを得ない場合に限り死刑適用が許されるとしており、以降の裁判例や検察官の論告でもこの表現が引用されることが多い。
  • 被害者感情に応じる為に必要とする存置論
日本において、凶悪犯罪に対する世論の厳罰化傾向が強まった背景には、従来なおざりにされてきた犯罪被害者への関心が高まったことが一因とされ、遺族の応報感情を満たすことを目的として死刑存置論が主張されることがある。また死刑が執行されないと私刑<ref>19世紀から20世紀のアメリカ合衆国では裁判で死刑にならなかったり、裁判を受ける前の殺人犯を連れ出して群衆がリンチ殺人をおこなう事例があったといわれている</ref>が増加する危険性があるとした上で、被害者の遺族を納得させるためには必要悪であるという主張がある。また存置論者は廃止論者に対して自身が犯罪被害者になることを想定しているのかと指摘することがある(1997年の山一証券顧問弁護士夫人殺人事件では廃止論に携わっていた弁護士が妻を殺害されて以降は妻を殺害した犯人の死刑を望むようになって死刑存置論者になった例がある。一方で、1956年の銀座弁護士妻子殺人事件では廃止論者の弁護士が妻子を殺害されてもなお死刑廃止の立場を変えなかった例がある)。

死刑廃止論の系譜

死刑廃止論の系譜は、トマス・モアの著作『ユートピア』(1516年)から始まり、ルソーの影響を受けたイタリアの啓蒙思想家かつ近代刑法学の祖とも称されるイタリアのチェーザレ・ベッカリーアは、生命に対する権利までを主権者に預託してはいけないという主張をしはじめ、当時の専制的かつ教典に基づいた刑罰制度を激しく非難していた。1764年に発表した著作『犯罪と刑罰』は、啓蒙時代の刑事法学を論じたものであったが、その第16章で、刑罰制度を社会契約説に求めた結果「死刑のごときは、そもそも社会契約の本来的趣旨に反する」と主張<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』成文堂 85頁</ref>した。このなかで「生命は、あらゆる人間の利益の中で最大のものであり、国民があらかじめ放棄することは、あり得ない」として、少なくとも国家が正常な状態(すなわち平時)においては死刑を廃止すべきであると主張した。

ベッカリーアは刑罰の威嚇力は重さよりも、その長さによって発揮するとして、死刑は終身の自由刑に劣り、また死刑は残酷な行為の手本となるもので社会的に有害であると論じて<ref>立石二六『刑法概論』成文社 2004年 345-346頁</ref>、死刑廃止論の先駆的な役割を果たした『犯罪と刑罰』は、翻訳され瞬く間にヨーロッパ中に広まり、多大な影響を与えた。

ベッカリーアの思想を最初に実現したのは、トスカーナ地方の専制君主レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)である<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』成文堂 88頁</ref>。彼はベッカリーアの著作が発表された翌年の1765年に即位したと同時に死刑の執行を停止し、1786年には完全には死刑を廃止した。このことを記念するイベントが、現在では毎年11月30日シティズ・フォー・ライフの日)に、世界約573都市で開かれている。

ベッカリーアの他にも、この時代にはディドロー『自然の法典』(1755年)、ゾンネンフェルス(1764年、論文において)、トマソ・ナタレ『刑罰の効果及び必要に関する政策的研究』(1759年執筆、1772年公刊)等が死刑の廃止を主張している。

このような動きは、応報刑では犯罪を抑止することができないという考えから、ドイツではフランツ・フォン・リストとその弟子達が、目的刑という新しい刑法の体系を生み出し、それが近代学派(新派)となった。応報刑の旧派と目的刑の新派の対立は現代まで続いているが、目的刑を取る刑法学者は通常は死刑廃止を主張している。

キリスト教的な立場からは、19世紀初頭にフリードリヒ・シュライアマハー(シュライアーマッハー)が、20世紀にはカール・バルトといった神学者たちが国家の役割を限定するという立場から死刑廃止を主張した。

日本における死刑廃止論

以下の項目は、日本における死刑制度廃止派による主な廃止論である。

  • 人権の更なる尊重を推奨すべきという観点からの廃止論
死刑制度は最高裁判決を鑑みても日本国内において最も人権を尊重していない刑罰であると言えるとし、近代社会において人権が、現状を超えて尊重されることは、その直接的な影響によって他者の人権が侵害される場合を除いては肯定・推奨されるとした上で、死刑の廃止が直接的な原因である具体的な人権侵害の危険性が確認できない以上、日本においては死刑廃止は推奨されるべきものである、という意見がある。
  • 誤判可能性からの廃止論
現代の司法制度においては裁判官も人間であるという考え方である以上、常に誤判の可能性が存在し、生命を剥奪するという性質を持つ死刑においては、他の刑と比べ特に取り返しがつかないため、廃止すべきであるという意見がある。元最高裁判所判事の団藤重光は、自身が判決を下した死刑事件の事実認定において「一抹の不安(誤判可能性」が拭い去ることができないという経験から、死刑の廃止を訴えている<ref>団藤重光『死刑廃止論』 有斐閣 2000年 </ref>。また、実際に誤判の可能性が示されたのが、後述の1980年代における四大死刑冤罪事件(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)である。
  • 国際情勢からの廃止論
EU諸国や国連などは、死刑廃止を推奨・推進しており、死刑執行を継続している日本に対して非難決議も出されている以上、国家政策上不利益であるという点から廃止すべきであるという意見がある。
  • 国家による死刑乱用の可能性からの廃止論
時の権力者の恣意により死刑が乱用され、国民の生命が脅かされる危険性がある。

死刑存廃問題の議論

死刑存廃問題の論争の背後には、犯罪者に対する処遇を扱う刑事政策問題の範疇におさまらず、刑罰論や生命論といった法哲学の広く深い対立の溝があり、合意には至っていないのが現状である。こうした状況のため、死刑存廃の議論は、しばしば「不毛の論議」となる。く<ref>中嶋博之「罪と罰、だが償いはどこに?」新潮社 189頁</ref>

下記に論点を列挙する。


存廃論論争相関図

Template:出典の明記 下記の表は双方の立場から提示された様々な論争の論点の一部を書物<ref> 正木亮の『刑事政策汎論』と、斉藤静敬の『新版死刑再考論』、藤本哲也の『刑事政策概論』など</ref>から、列挙したものである。この図でも判るように双方とも鋭く対立している。Template:Main2なお前述のとおりこれらの論争は無数にある死刑存廃論議のほんの一部であり、このような二項対立的な議論が常になされているわけでもない。また双方の主張者がすべて同一であるわけではない。

論点 死刑廃止論側の主張 死刑存置論側の主張
法哲学 法学者であり啓蒙思想家のベッカリーアは、人が社会契約を結ぶ際、その生命に対する権利まで主権者に預託してはいけないとする。生命はあらゆる人間の利益の中で最大のものであり、国民が自らの生命をあらかじめ放棄することはあり得ないとして、少なくとも国家の正常な状態においては死刑は廃止されなければならない。 社会契約説を元々に展開したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家は、三大人権である生命権・自由権・財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に対する懲罰として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は社会契約説の合理的な帰結である。(上記の「死刑存置論の系譜」参照)
人権 近代社会において人権を尊重することは、その対象が犯罪者が入るとしても、悪ではない。すなわち死刑による人権の制限が他刑によるそれに勝るとされるのであれば、それを是正することは社会的に否定されるべきことではないのであり、それが社会に与える影響(凶悪犯罪の増加可能性や費用の問題など)は別途考慮されるべきだが、それ自体は社会に責任が帰せられるものであり国家による人権の更なる尊重を否定するものではない。 人権を守るために法の下に行われる懲罰行為は法治国家に必要なのであり、国連の人権宣言でも法の下に行われる懲罰を否定してはいない。
誤判の可能性
後述の冤罪もしくは誤判も参照
死刑がその「取り返しの付かなさ」を一つの理由として極刑とされるのであれば寿命という人間の限界を無視した死刑による誤判可能性は無視できない。また冤罪の責任は、原則的に(つまり寿命という限界を除いて)その被冤罪者本人に対して負われるべきであるが、死刑はその性質上本来的にその責任を負うということを放棄しているのではないかという問題がある。 誤判が生じるのは、なにも死刑について限ったことではなく司法制度全体の問題点である<ref>朝日新聞 2007年12月20日</ref>。冤罪で刑務所で生涯を絶望のもとに終えるのは死刑よりもむごいと論じることもできる。長期間の懲役であっても、冤罪により失った人生は取り返しがつかない点で同じである。冤罪の可能性による廃止論を死刑だけに適用する論に整合性はない。
犯罪被害者 加害者の死刑を望まない被害者、被害者遺族の精神的負担が大きい。それに贖罪のために犯人を国家によって殺すことが、犯罪被害者及びその遺族にとって問題解決となるか、と問われれば疑問であると言わざるを得ない。そもそも刑事裁判というものは被害者のために行われているものではないのだから、結果として救済・感情回復効果を期待するだけならともかく、目的として死刑による救済を求めるのは刑事裁判の原則に反する。 加害者の死刑を望む被害者、被害者遺族の精神的負担が大きい。凶悪犯罪の犠牲となった被害者の遺族からすれば、加害者が死をもって贖罪したことに満足するものである。被害者の遺族を納得させるためには死刑は必要な制度である。
犯罪抑止力
存廃論を論じる際抑止力を考慮すべきか、という議論もある。
まず現状における死刑の犯罪抑止力肯定論は科学的な論拠に基づいたものであるとは到底言えないものである。例えば、1988年に国連犯罪防止・犯罪統制委員会のために行なわれ2002年に改訂された、死刑と殺人発生率の関係についての最新の調査結果報告書は「死刑のもたらす脅威やその適用が、より軽いと思われる終身刑のもたらす脅威やその適用よりもわずかでも殺人に対する抑止力が大きいという仮説を受け入れるのは妥当ではない」と結論付けているし、ニュー・ジャージー州では「死刑に抑止力があるという見解が説得的とは言えない」という見地から死刑廃止の一つの根拠としている。対して抑止力肯定論が科学者側から提出された場合もあるという意見もある。それ自体はその通りであるのだが、そのような主張が国際科学学会等で認められたという事例はいまだ存在しないのである。犯罪抑止力なるものが死刑とその代替刑(終身刑や無期懲役の運用による長期化など)との間にその抑止力の優位性の差異があるという意見があるが、現状において死刑廃止国と存置国の犯罪率の推移に死刑廃止を契機とした明らかな違いが全体として特に見られない以上説得的ではない。 終身刑や無期懲役にしても、統計的には明確な抑止効果は証明されていない。死刑の抑止力の存在を肯定する研究者も存在する。終身刑や無期懲役が死刑と同等の抑止効果を持つことが証明されない限り、死刑を廃止すべきではない。
世界の趨勢(すうせい) 死刑は全世界で廃止の方向に向かっており、同時に死刑存置国への国際世論の風当たりは強まっている。内政干渉を無批判に受け入れるのは確かに思考停止ではあるが、その有用性を鑑みもせずに拒否することもまた思考停止にすぎない。外交戦略上死刑廃止するという選択肢もあるという想定は必要である。 死刑制度は各国の法制度であるために、死刑制度を存続するも廃止するも国内の問題であるから、国際世論の動向を理由に存置や廃止を実行するのは「内政干渉」を無批判に受け入れることである。
行刑設備の負担 死刑囚を収容する独房の看守や死刑を執行する職員の精神的負担が大きい。また、死刑は終身刑に比べ経費が安く済むという主張は一概には言えない<ref>米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため 国際ニュース : AFPBB News (2009年4月2日閲覧) 一例として</ref>。 死刑は終身刑に比べ経費が安くすむTemplate:要出典

 

存廃論の論点に対する議論

この項目では、各論における死刑制度の存置論および廃止論双方の論点について検証している。

誤判の可能性

日本も含む世界各国において死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤判の可能性、冤罪による死刑執行が指摘される。実際に過去に日本だけでなく世界で処刑後に証拠不十分であるとして有罪が取り消しになったり明確に無実が証明されたという事実がある。

日本においては、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後も、冤罪または冤罪の可能性が高い死刑確定判決と死刑囚が存在した。死刑判決が確定し死刑囚になったが、冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに再審で無罪になった(免田事件松山事件島田事件財田川事件)、死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに天寿を全うした帝銀事件三鷹事件牟礼事件波崎事件三崎事件、死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されていない名張毒ぶどう酒事件袴田事件川端町事件の事例がある。また藤本事件では死刑執行から40年以上経過した2005年になって国の検証会議が「到底、憲法の要求を満たした裁判であったとはいえまい」として不正裁判による誤判であったと指摘している<ref>ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書・「藤本事件の真相」(PDF)</ref>。

存置派も廃止派も冤罪によって無実の人間が国家に処刑される可能性の存在を認めているが、この事実が死刑の廃止に繋がるかで見解が分かれる。存置派は、死刑の代替と主張されている終身刑も刑の帰結である獄中での死亡によって被害賠償が不能になることを指摘する。また冤罪で数十年の人生を失ったことにたいする賠償金はあくまでも謝罪金にあたり実際に台無しにされた人生を回復しているものではない。財産権でもこれはあくまでも金銭的損失を回復できるというだけであり、先祖代々の遺産などが破棄あるいは第三者に売却された場合は回復不能となる。誤審は法の執行上避けられないものでありこれで死刑が廃止されるなら死刑の代替として廃止派が主張する終身刑および長期の懲役や個人的な所有物の没収なども廃止されるべきとなる。よって誤判の可能性を死刑だけに限定的に結びつける廃止論に整合性はない、と主張する。廃止派は、冤罪で刑を執行された場合、財産刑による被害は回復可能であるが、生命刑である死刑も、身体刑である身体の損壊も、自由刑である懲役や禁固も、生命や損壊された身体や自由を剥奪され収監された時間や経済的損失は変わりない。しかし、冤罪で身体刑や自由刑を執行された場合は、冤罪の被害を受けた人が存命中に代替手段による被害賠償や名誉回復をすることである程度まで回復可能である。だから死刑は廃止されるべきである、と主張する。

2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている<ref name="Moj-ExecutionStop">読売新聞 2008年10月10日版>死刑>第1部>執行の現実 法務省幹部(匿名)の発言として、「再審や恩赦の請求は法的には死刑執行を停止する理由にはならないが、法務省が冤罪を疑っている死刑囚の再審請求の場合は、冤罪で死刑を執行することはあってはならないという観点から、死刑執行の検討対象から除外してきた。その結果として死刑確定後の拘置が20年~30年以上の期間になり、高齢による身体の病気や老衰、拘置による精神の病気や知能の衰退などにより、死刑囚が天寿を全うすることを待つ処遇をしている事例もある」と表明した。 2009年8月31日閲覧</ref>。 1940年代後半から1960年代にかけて静岡県内では、再審で死刑判決が破棄された島田事件のほか、上級審で死刑破棄・無罪になった幸浦事件小島事件二俣事件といった冤罪事件が多発した。ほかにも現在も冤罪の可能性が指摘されている袴田事件もすべて静岡県であり、全国的に見ても冤罪が多発している。この背景には静岡県警紅林麻雄警部(1908年-1963年、本人は発覚直後に病死したため県警本部長表彰はされたが、刑事責任には問われていない)が拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成によって「事件解決」を図ったためであり、また「自白」に沿った証拠品の捏造まで行ったことが明らかになっている。この手法が同県警内部でこのような捜査手法がもてはやされ、他の警察署でも行われたのが冤罪多発の一因だといわれている。なお、現在ではこのような捜査手法は判例違法収集証拠排除法則が確立しており、たとえ真相を把握できたとしても違法な捜査手法で獲得したならば証拠能力を認めないとされているが、思い込みによる捜査ミスによる冤罪の発生は完全には否定できないといわれている。

実際に21世紀に入っても死刑求刑にたいし証拠不十分で無罪になった北方事件や、死刑適用事件ではないが、被告人が抗弁をあきらめて有罪になりかかった宇和島事件や、捜査や裁判当時の科学鑑定の精度の低さにより真犯人と誤認され有罪判決を受けたが、服役中に科学鑑定の精度が向上し冤罪が判明した足利事件や、服役後に真犯人が判明した富山連続婦女暴行冤罪事件が発生しており、科学的捜査手法が発達した現在も人が犯罪捜査を行う以上、このような冤罪事件は散発的に発生しており、冤罪による死刑執行あるいは獄中死の危険性は完全に否定できないといえる。ただし、関係者に面識がない場合の強姦殺人事件においてDNAの照合などは証拠として決定的であり、これによって無実が証明され釈放された例があるだけでなく、この証拠によって有罪が確定した場合の冤罪の可能性は極めて低い。ただし飯塚事件では、公判中に第三者によるミトコンドリアDNAが一致しなかったという鑑定結果が無視され、科捜研のDNA鑑定が採用され、死刑が確定した上に早期に死刑が執行されたが、前述の足利事件と同じDNA鑑定法であったため、DNA鑑定に過ちがあったとする主張がある。

また冤罪ではないにしても裁判の事実認定に誤りがあったために、主犯が処刑を免れ従犯を処刑にした誤判は実際に存在する。1946年奈良県内で発生した強盗殺人事件では「主犯」とされた者が処刑されたが、懲役刑で服役した「従犯」が1958年に実業家として成功していた本当の主犯を恐喝して逮捕されたために、ただの見張りを主犯にでっち上げていた真相が発覚した実例<ref>村野薫「戦後死刑囚列伝」宝島社刊、103頁</ref>などがあるという。古谷惣吉連続殺人事件では、最初の2件の強盗殺人では共犯を「主犯」と誤判して死刑が執行され、「従犯」と誤認した古谷が出所後に8人も殺害した事件があった。古谷がこの事件で逮捕起訴<ref>これは古谷が偽名で他の刑務所に服役していたためである。なお、どのように抗弁したかは不明であるが、死人に口なしの幸いが自己の責任を軽くしたため、死刑相当の犯行であるにもかかわらず比較的軽微な刑事処分となっている。</ref>されたのは「主犯」処刑後であり、懲役10年の刑期出所後の一ヶ月で8人も殺害していた。そのため「主犯」と誤判された者の死刑が執行されずに本当の事実関係が明らかになっていれば、後の8人が殺害されることも防げたはずだと批判された。また1946年に発生した福岡事件では殺害された中国人被害者の関係者による傍聴人の存在が事実認定に影響を与え、犯行現場にいなかった第三者を主犯として処刑にしたとの批判も現在も根強くある。 現実問題として、前述の藤本事件で司法当局が死刑執行をしたことに対し、当時の中垣國男法務大臣が中曽根康弘ら国会議員による助命運動や再審請願を完全に無視して処刑したこと<ref>刑事訴訟法は再審請願中に死刑にしても違法ではないとしているが、慣習的に避けられるべきとされている。</ref>に対し国会で責任を追及され弁明しなければならなかったこともあり、冤罪(傷害致死だとして事実誤認を理由にする場合もある)の疑いがあるとして再審請求している死刑囚の死刑執行<ref>明らかに死刑執行の引き伸ばしを図っている場合には、再審棄却直後ないし申請中に死刑執行が行われる場合も少なくはない。</ref>が避けられる傾向<ref name="Moj-ExecutionStop" />にある。

刑事訴訟法の475条は「確定から6カ月以内に法務大臣が死刑の執行を命令し」とあるため、死刑執行は死刑判決確定後6ヶ月以内に執り行わなければならないのに現実は違うとの批判もあるが、実際には法務当局が死刑執行命令の検討を慎重に行っている為であるとされる。また同法475条2項但し書に「上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。」とあり、再審請求中もしくは恩赦出願中または共犯が逃亡中の死刑囚は、死刑執行までの半年間に算入しないとの規定があるため、執行が猶予される傾向にある。

2000年ごろまで原則的には死刑確定順に死刑が執行されていたが、組織犯罪では共犯者が逃亡中や未確定である事例(連合赤軍事件三菱重工爆破事件)や冤罪を訴えて再審請求中の者、もしくは闘病中の者は除外され、事実関係に争いがなく死刑判決を受け入れ支援者もなく外部との連絡もない「模範死刑囚」が先に執行が行われているという指摘がある<ref>別冊宝島「死刑囚最後の1時間」8頁</ref>。東京拘置所の収監されていた死刑囚(2008年獄死)の著書<ref>澤地和夫 『東京拘置所 死刑囚物語―獄中20年と死刑囚の仲間たち』 彩流社、2006年 </ref>によれば、1983年に練馬一家5人殺害事件で1996年11月に死刑が確定した死刑囚は、拘置所側から「自身のため」と説得され、支援者への面会を一切拒否するようになり、看守に対して丁寧かつ謙虚な態度で接していたという。早期の死刑執行を望んだためか、はたまた死刑回避を望んだためかは今となってはわからないが、確定5年後の2001年12月に死刑執行が行われた。なお、この著者は仲間と一緒に1984年に3人を残虐な手口で殺害した元警察官であり、1993年に上告を取り下げて死刑が確定したが、前述の練馬の元死刑囚よりも早く死刑が確定していながら、死刑執行されることなく<ref>別冊宝島によれば、上告を取り下げて死刑を確定させたほうが結果的に死刑が先送りになるという法則を実践している向きがあるとしているほか、共犯も死刑判決を受けているため、2人同時の処刑が必要であるためとの指摘もある。</ref>、何冊かの著作物を出版しているほどである。そのため、法務省の次の死刑執行対象者の選定基準に公開されていない基準があるといわれている<ref name="Moj-ExecutionStop" />。死刑執行が行われない場合には事実上の仮釈放のない終身刑となり、服役中に獄死した死刑囚も多数存在する<ref name="MoJ-Muki-Statistics2008">法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について 平成21年9月 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="MoJ-Muki-Statistics2007">法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者の仮釈放に係る勉強会報告書 2009年9月18日閲覧</ref>。

なお、死刑執行後に冤罪が明らかになった場合、刑事補償法第3条第3項は被執行者遺族に対して3,000万円以内の補償を行うと規定しており、さらに本人の死亡で財産上の損失が生じた場合と認められる場合には「損失額+3,000万円」以内の額とされているが、この金額は犯罪被害者遺族に支払われる金額と同じである。

被害者遺族に対するケアとして

マスコミ報道の中にも、特に凶悪殺人犯には死刑判決を出すのが正義だとする応報的論調の主張もあり、検察側が死刑を求刑した事に対し、裁判所統合失調症の影響による心神耗弱を事実認定し無期懲役に減刑した滋賀県長浜市園児殺害事件の報道では、被告人が死刑にならなかった事に対し被害者遺族が無念であると報道した新聞社<ref>産経新聞 2007年10月17日朝刊</ref>もあった。これには、精神分析の精度が現在の技術では十分に信頼できない、との一部の見方も影響している。ただし、実際に精神鑑定を量刑言い渡しにどのように反映させるかは、裁判官の裁量のうちであり、実際に精神鑑定に関わらず厳罰<ref>新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件では、精神鑑定で心神耗弱であったことが認定されながら懲役15年(求刑20年)が一審で言い渡されている</ref>にしたり、その反対の結果もある。

一方、死刑廃止論者は、殺人事件で起訴された被告人のうち、死刑判決が確定する被告人が実際には少ない(日本国内では1990年代以後は毎年600~700人前後が殺害され、殺人犯の90%以上が検挙されているが、年によって上下するが十数人程度しか死刑が確定しない)ことから、現制度では殺人被害者の遺族のうち、死刑存置論者が主張する死刑による感情回復ができないのはおろか、加害者の贖罪すら受けることの出来る者が少ないと批判している。また死刑囚に対して被害者の遺族が死刑を執行しないよう法務省に求めた場合<ref>実際に1980年代に起きた名古屋保険金殺人事件では従犯も死刑になったが、遺族が従犯については死刑を執行しないようにと運動した例があり、結局主犯とともに死刑が執行された</ref>でも死刑は執行されており、これは被害者遺族の感情を回復するどころか傷つけているのではないか、という批判がある。殺人の被害者の遺族の中に加害者に生きて反省・謝罪・贖罪・更生することを望む者もおり、被害者の全ての遺族が加害者に対し死刑を望んでいるわけではない。

他方被害者遺族は、犯罪被害者の被害として、家族を殺害されたという直接的被害にとどまらず、報道機関や司法関係者などから心無い干渉を受けたり、逆に国や社会から見離され孤立化することで二次的被害を受けることが多い事から、被害感情を一層つのらせることになり、加害者である犯人に対し極刑を求める感情が生じているとも云われる。そこで、犯罪者を死刑にすれば犯罪被害者遺族の問題が全て解決するわけではないとして、死刑存置だけでなく犯罪被害者遺族に対する司法的対策を充実すべきであり、そのことが被害者遺族の報復感情と復讐心を緩和させるとの主張<ref>日本弁護士連合会『死刑執行停止を求める』日本評論社、45頁</ref>もある。

犯罪被害者救済のために犯罪者に対する附帯私訴の復活を主張する作家で弁護士の中嶋博行は、著書<ref>『罪と罰、だが償いはどこに?』、新潮社、2004年9月。ISBN 978-4-10-470301-2 190~191頁</ref>のなかで、国が被害者遺族に給付金を与える制度があるが、これらの予算は税金であるので犯罪者に償いをさせるべきであり、死刑相当の凶悪犯は死ぬまで働かせて損害賠償をさせるべきだと主張している。

被害者遺族の応報感情のために死刑制度は必要だと主張する藤井誠二は、『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の闘い』のなかで「被害者遺族が死刑を望む理由はそれによって応報感情を埋め、新しい人生を生きるための「区切り」にするためである。「加害者がこの世にいないと思うだけで、前向きに生きる力がわいてくる」という遺族の言葉を私は聞いたことがある。被害者遺族にとっての「償い」が加害者の「死」であると言い換えることだってできるのだ。私(藤井)はそう考えている」「加害者の死は被害者遺族にとっては償いである」と主張している。ただし、この藤井の事件被害者への一方的な肯定論に立った言論に対する批判も少なくない。また、被害者と加害者の家族が一緒の家庭内の殺人(かつて特に尊属殺は厳罰<ref>旧刑法200条の尊属殺重罰規定(1997年廃止)</ref>になった)の場合については対応できていないといえる。

アメリカ合衆国連邦最高裁は「被害者感情は客観的に証明できるものではない、よって死刑の理由にするのは憲法違反」との判決を出している。アメリカ合衆国やその他の先進国では、殺人被害者家族による死刑制度賛成団体もあるが、殺人被害者家族と加害者が対話して、加害者が家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思ちを表すことによりすることにより、家族の被害感情を少しでも緩和と加害者との和解や赦しを提案する運動があり<ref>Murder Victims' Families for Reconcliation 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Restorative Justice Online, Centre for Justice and Reconciliation 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Restorative Justice - Offers additional information about restorative justice and relationships 2009年9月18日閲覧</ref><ref>The Capital Restorative Justice Project 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Restorative Justice in Canada - Mennonite Central Committee Canada 2009年9月18日閲覧</ref><ref>The Restorative Justice Initiative at Marquette University Law School 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Video about Restorative Justice in Derbyshire 2009年9月18日閲覧</ref><ref>University of Minnesota, School of Social Work, Center for Restorative Justice and Peacemaking 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Restorative Justice in the United Kingdom - annotated list of UK-based resources 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Australian National University, Centre for Restorative Justice 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Georgia Council for Restorative Justice 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Bridges to Life - A path to restorative justice 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Barron County Restorative Justice Programs 2009年9月18日閲覧</ref><ref>Victim-Offender Reconciliation Program 2009年9月18日閲覧</ref>、英語ではRestorative Justice、日本語では修復的司法と表現する。被害者と加害者の対話と謝罪・贖罪・賠償・更生の意思の表現による赦しと和解の提案は殺人だけではなく他の暴力犯罪や非暴力犯罪でも提案され実施され、対話の結果として、被害者や被害者の家族が加害者に許しの感情と和解を表明する事例もあり、ある程度の成果になっている。ただし、被害者と加害者の対話の提案は、刑事裁判と刑事司法制度や、少年審判と少年保護処分のように公権力が強制的に行う制度ではなく、被害者または被害者の家族と加害者の両者に提案して両者の合意により成り立つ任意の試みである。犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、加害者に対する被害者や被害者の家族の怒り・恨み・憎しみ・嫌悪・拒絶の感情や処罰感情は大きく強くなる傾向が著しいので、犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、被害者側の拒否により実現される可能性が低いという現実がある。加害者においても、全ての加害者が被害者や被害者に家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思を持つのではなく、謝罪・贖罪・賠償・更生の意思が無く被害者や被害者の家族との対話を拒否する加害者も存在するので、加害者の意思により実現される可能性が低いという現実もある。

死刑制度の犯罪抑止効果

一部の死刑廃止論者は、死刑は懲役と比較して有効な予防手段ではないとしている。

また、他の一部の死刑廃止論者は、死刑の抑止効果が仮に存在するとしても、他の刑との抑止効果の差はさらに小さい、ないしは均等であるとする。また、そもそも、抑止力などというものは将来にわたって確認・検出不能であると考えられるとして、明確な抑止効果、ないしはその差異が証明されない以上、重大な権利制限を行う生命刑が、現代的な憲法判断により承認されることはないとしている。実際に死刑を廃止したフランスでは死刑制度が存置されていた時代よりも統計的には凶悪犯罪が減少していることなどもあり、犯罪抑止効果などという概念自体科学的に疑わしいといわざるを得ず、また死刑に相当する犯罪行為の目撃者を死刑逃れのため「口封じ」することさえあるとして、犯罪抑止効果に対する懐疑性の理由としている。

それに対し、一部の死刑存置論者は、終身刑や有期刑にしても統計的には明確な抑止効果は証明されておらず、終身刑や有期刑が死刑と同等の抑止効果を持つことが証明されない限り、死刑を廃止すべきではないとする。また、個別の事件を見ると、闇の職業安定所で知り合った3人が女性一人を殺害した後にも犯行を続行しようとしたが、犯人のうち一人が死刑になることの恐怖から自首したという例もあり、死刑制度の存在が犯罪抑止に効果があるとの主張も根強くある。

テキサス州知事時代に数多くの死刑執行命令書に署名したジョージ・W・ブッシュは、2000年に行われた大統領選挙公開討論会において「抑止効果こそが死刑の唯一の存在理由だ」と語った<ref>スコット・トゥロー 『極刑』岩波書店 2005年 ISBN4000225456 71頁</ref>。このような認識は少なからざる人々の間で語られるが、数的根拠はない。死刑制度存続を必要とする理論的理由は後述のように犯罪被害者遺族のために必要とするなど複数存在している。また、死刑制度の代替と主張される終身刑(無期懲役)などの刑罰が、死刑と比べ相対的な犯罪抑止効果があるかを示す統計も出ていないのも事実である。すなわち、死刑と長期の懲役のうちどちらが犯罪を抑止する効果が優れているかどうかは誰も検証できていない。これに対してはそもそも「抑止力」という概念をあてはめること自体不適当ではないかという問題もあるとされる。

死刑の犯罪抑止効果について、統計的に抑止効果があると主張する論文は、アメリカ合衆国でいくつか発表されているが、その分析と称されるそれに対しては多くに批判が存在しており、全米科学アカデミーの審査によると「どの論文も死刑の犯罪抑止力の有効性を証明できる基準には遠く及ばない」ものであるとしている。<ref>Roger Hood“The death penalty, a worldwide perspective”3rd.ed Oxford university press, 2002p.209-231</ref>。たとえばニューヨーク州では急速に殺人発生率が低下していたが、1995年に保守派により議会の働きかけで刑死刑制度が復活(2004年に州最高裁判所が州憲法違反判決を出したため事実上廃止)したが、死刑復活後も低い状態が続けていたため、見方によっては死刑の抑止効果が働いたともいえるが、実際に効果があったかは実証できないとされる<ref>スコット・トゥロー 『極刑』岩波書店 2005年 ISBN4000225456 73頁</ref>。なお、ニューヨークでは2007年に過去半世紀で最も少ない殺人発生件数を記録<ref>朝日新聞 2007年12月27日 それでも件数がけっして少なくない500件をきったという内容であった。</ref>したという。

アメリカ合衆国で1976年の連邦最高裁の死刑合憲判決の解釈変更により1977年に死刑執行が再開されて以後では全米で最も死刑執行数の多いテキサス州は、殺人発生率が全米平均をはるかに上回っていて、社会学者の中には死刑制度の存在が実は殺人を鼓舞している現われとする残忍化(brutalization)効果と呼んで悪影響をテキサス州社会に与えているとの指摘<ref>スコット・トゥロー 『極刑』岩波書店 2005年 ISBN4000225456 72頁</ref>があるが、司法省の統計によると、1977~2008年の全米とテキサスの人口10万人中の殺人発生率を比較すると、最も差が大きい1982年は全米平均が9.1人でテキサスは7.0人多い16.1人で全米平均の1.8倍、最も差が小さい1997年は全米平均もテキサスも6.8人で全米平均の1.0倍、1977年~1994年はテキサスは全米平均と比較して1.2倍(2.0人)~1.8倍(7.0人)多く、1995~2008年はテキサスは全米平均と比較して1.0倍(0.0人)~1.1倍(0.8人)多い<ref name="FBI-CrimeStatistics-usa-1960-2008">United States Crime Rates 1960 - 2008 2009年8月31日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics-texas-1960-2008">Texas Crime Rates 1960 - 2008 2009年8月31日閲覧</ref>ので、テキサスの殺人率が全米平均をはるかに上回るとの表現は過剰に誇張した表現である。1977~2008年の全年度において、全米で最も殺人率が高い地域はワシントンDC<ref name="FBI-CrimeStatistics-washingtondc-1960-2008">District of Columbia Crime Rates 1960 - 2008 2009年8月31日閲覧</ref>、全米で二番目に殺人率が高い地域はプエルトリコである<ref name="FBI-CrimeStatistics2008">FBI>UCR Crime Statistics>2008>Violent Crime>Table 4 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics2006">FBI>UCR Crime Statistics>2006>Violent Crime>Table 4 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics2004">FBI>UCR Crime Statistics>2004>Section II Offenses Reported>Table 4(PDFの68~76ページ、文書の76~84ページ) 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics2002">FBI>UCR Crime Statistics>2002>Section II Crime Index>Table 4(PDFの62~70ページ、文書の68~76ページ) 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics2001">FBI>UCR Crime Statistics>2001>Table 4 Index of Crime by Region, Geographic Division, and State, 2000 -2001(PDFの66~74ページ、文書の66~74ページ) 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics1999">FBI>UCR Crime Statistics>1999>Section II Crime Index Offenses Reported>Table 4(PDFの66~72ページ、文書の66~72ページ) 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics1997">FBI>UCR Crime Statistics>1997>Section II Crime Index Offenses Reported>Table 4 Index of Crime: Region, Geographic Division, and State, 1996 - 1997(PDFの61~67ページ、文書の68~74ページ) 2009年9月18日閲覧</ref><ref name="FBI-CrimeStatistics1995">FBI>UCR Crime Statistics>1995>Section II Crime Index Offenses Reported>Table 4. Index of Crime: Region, Geographic Division, and State, 1994 - 1995(PDFの56~62ページ、文書の60~66ページ) 2009年9月18日閲覧</ref>。全米50州のうち死刑制度が無い15州と死刑制度が有る35州の殺人率の平均値を比較すると、死刑制度が無い15州は死刑制度が有る35州より統計上有意に低いが、死刑制度が無いワシントンDCとプエルトリコを母集団に加えると死刑制度が無い地域と死刑制度が有る地域の殺人率の平均値は近似値であり統計上有意な差は無い<ref name="FBI-CrimeStatistics-usa-1960-2008" /><ref name="FBI-CrimeStatistics-texas-1960-2008" /><ref name="FBI-CrimeStatistics-washingtondc-1960-2008" /><ref name="FBI-CrimeStatistics2008" /><ref name="FBI-CrimeStatistics2006" /><ref name="FBI-CrimeStatistics2004" /><ref name="FBI-CrimeStatistics2002" /><ref name="FBI-CrimeStatistics2001" /><ref name="FBI-CrimeStatistics1999" /><ref name="FBI-CrimeStatistics1997" /><ref name="FBI-CrimeStatistics1995" />。ただし、これも前述の抑止効果があるか否かとの同様に実証されたものではない。

廃止派団体であるアムネスティ・インターナショナルはカナダなどにおける犯罪統計において死刑廃止後も殺人発生率が増加していないことを挙げ「死刑廃止国における最近の犯罪件数は、死刑廃止が悪影響を持つということを示していない<ref>死刑に関する事実と数字</ref>」と主張している。これに対し「アムネスティの数値解釈は指標の選択や前後比較の期間設定が恣意的であり、公正にデータを読めばむしろ死刑廃止後に殺人発生率が増加したことが読み取れる」という反論<ref>APHROS 死刑廃止と死刑存置の考察 世界各国の死刑存廃状況 カナダ</ref>がなされている。このような主張の正否はともかくとして、いずれの議論においても、死刑制度および無期懲役と凶悪犯罪発生率の間の因果関係の有無が立証されていない点では共通しているといえる。

死刑および終身刑に相当する凶悪犯罪が近代国家では少なくないため、統計で犯罪抑止力にいずれの刑罰が有効であるか否かの因果関係を明示することができないことから、統計的に結論が出るのは難しいのが現状である。特に日本では「犯罪が増加した」との指摘もあったが、それでもなお他の先進諸国と比較しても低い。たとえば犯罪白書によれば、2000年に発生した殺人の発生率及び検挙率の表<ref>平成18年度犯罪白書38頁</ref>では、は日仏独英米の5カ国では発生率は一番低く(1.2)、検挙率もドイツについて2番目によい(94.3%)。この数値を見れば死刑制度の存在が有効に働いているとの主張も可能であるかのようにいえる。しかし、もう一つの死刑存置国であるアメリカ合衆国の数値は、発生率が5.5で最悪、検挙率も63.1%と最低である。そのため死刑制度の存置が犯罪抑止に全く効果がないとの主張も可能である。アメリカが日本と違い殺人の手段として容易に用いることが可能な銃社会であるなど、社会条件に相違点があるとしても、このように統計のみでは死刑の犯罪抑止効果を見出すことができないといえる。

死刑廃止国では凶悪犯が警察官に射殺されることが多いという指摘がある<ref name="fujii"></ref><ref>『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 292頁。</ref>。ドキュメンタリー監督の森達也は、銃を所持する国民の多い国では確かに警察の発砲が多いかもしれないが、例えば、イギリスのスコットランドヤードは伝統的に銃を携帯しておらず、一概にはいえないのではないかと指摘している<ref>『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』 294頁。</ref><ref>スコットランドヤードには銃器犯罪に対応した武装部隊が存在する。</ref>。また、フランスは死刑廃止と同時に刑法を全面改正して懲役を長くしたという指摘もある<ref name="fujii"/>。

死刑制度存廃が与える社会への影響

死刑制度の存在が、国民の一部の残虐的性質を有するものに対し、殺人を鼓舞する残忍化効果を与えているとの指摘や、自暴自棄になった者が死刑制度を悪用する拡大自殺(extended suicide)に走るとの指摘もある。このような拡大自殺に走る者は少ないといわれるが、実際に2001年に発生した附属池田小事件の処刑された宅間守の最大の犯行動機が自殺願望であり、1974年に発生したピアノ騒音殺人事件(近隣騒音殺人事件)では、犯人が自殺もしくは処刑による死を望んだ事があきらかになっている<ref>この死刑囚はノイローゼのため精神異常が亢進しているといわれ、死刑確定から30年以上経過した2008年現在、処刑されていない。</ref>。現在においてはこのような犯罪者は極少数であるが、確実な死刑を望むため大量殺人を意図する者もいる。また前述の2人の死刑囚のように、最高裁まで争わず、弁護人がした控訴を自身の意思で取り下げ、1審の死刑判決を確定させる者も少なくない。

たとえ凶悪犯罪者といえども死刑を強く求める言論が、生命を軽視する風潮を巻き起こす事になり、よって逆に殺伐とした世情を煽る側面もあるのではないかとする懐疑的な主張がある一方、凶悪殺人に対する厳格な対処は人命の尊重につながるとの主張もある。

逆に、死刑制度を廃止する事によって、人を殺しても死刑制度が無いために死刑にならないならば、敵討風習が復活するのではないか、という懸念も存在する。ちなみに、この種の懸念は死刑制度の存廃論議と平行する形で古くから存在しているものであり、1960年代に星新一は、自身が連載していたエッセイ『進化した猿たち』の中で、ある法学者に「なぜ死刑はなくならないのか?」と尋ねた際に敵討復活の懸念というものを挙げられた、と記している。なお、江戸時代の敵討ち、すなわち仇討ちであるが、認められるのは武士階級のみで、対象は尊属を殺害されたものに限定され、子息の殺害に対して適用されず、また「決闘」であったため、返り討ちされる危険性もあった。

日本における死刑制度の将来

2009年現在の日本では「仮釈放の可能性が無い終身刑はなく、無期刑は10年を経過すれば仮釈放を許可することが可能」であり、1990年代後半以後の無期受刑者の処遇について法務省が公開している資料を検証しない人々の中には「無期受刑者は服役して10年経過すれば仮釈放になる事例が多いので死刑との差が著しい」という、1990年代後半以後の無期受刑者に対する処遇についての事実に反する認識もしている人も多数存在する。

現実には、1999~2008年に、新規に服役を開始した無期受刑者は894人、再仮釈放も含めて仮釈放された無期受刑者は91人、新規仮釈放者は68人、受刑中に死亡した無期受刑者は121人、新規仮釈放者の平均収監期間が最も短かった2000年は21年2か月、新規仮釈放者の平均収監期間が最も長かった2007年は31年10か月、新規仮釈放者の平均収監期間は長期化する傾向であり、1998年は20年10か月だったが、2008年は28年10か月だった<ref name="MoJ-Muki-Statistics2008" /><ref name="MoJ-Muki-Statistics2007" />。1990年代後半以後は、無期刑が確定して無期受刑者になる人数と比較して仮釈放を許可される無期受刑者は著しく少数で、収監中の無期受刑者は1998年末時点の968人から2008年末時点は1711人に増加している<ref name="MoJ-Muki-Statistics2008" /><ref name="MoJ-Muki-Statistics2007" />。2008年末の時点の無期懲役受刑者のうち、収監期間が50年以上が6人、40年以上50年未満は18人、30年以上40年未満は58人、20年以上30年未満は319人、10年以上20年未満は347人、10年未満は965人である<ref name="MoJ-Muki-Statistics2008" />。

法務省は2009年4月1日から、全ての無期刑受刑者に対して、服役開始から30年経過した時点で仮釈放を許可するかしないか必ず審理し、30年経過の時点で仮釈放を許可されなかった場合も、その後10年経過するごと(服役開始から40年・50年・60年経過した時点)に仮釈放を許可するかしないか必ず審理するように、無期受刑者の仮釈放の審理の運用を根本的に改変した。改変する理由は、無期刑受刑者の仮釈放の厳格化(収監期間の長期化)でも緩和化(収監期間の短期化)でもなく、国民が刑事裁判に参加し量刑を判断する裁判員制度が始まるので、社会の構成員に分かりやすい運用を実現するためである。更生保護法では、全国8か所にある地方更生保護委員会は、独自の判断で個々の受刑者の仮釈放を審理できるが、2009年3月31日以前では受刑者の仮釈放の審理の運用は、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請により審理の対象にしていたのが現実であり、仮釈放の審理の運用の基準が不明確・不透明との批判もあったので、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請と併用して、服役開始から30年経過時とその後10年経過時ごとに全ての無期受刑者に必ず仮釈放の審理をする運用に改変した<ref>法務省>保護局>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者に係る仮釈放審理に関する事務の運用について(通達) 2009年9月18日閲覧</ref>。2009年4月1日時点で服役開始から30年以上経過している受刑者はその時点で仮釈放の審理の対象になる。

仮釈放が刑自体の満了とはならない(原則として終生保護観察下に置かれる)ため、他国の終身刑と比べて日本では比較的重い運用が行われているとする認識もある。そのため無期懲役が事実上は仮釈放の可能性が無い終身刑に近い制度になっている現状がある。また死刑存置派が主張する「死刑が廃止されると凶悪犯罪者を放置することになり」との主張もあるが、死刑を免れ無期懲役になった犯罪者も再犯の危険度があれば収監されているといえるため、個々の犯罪者の処遇について充分考慮すればよいといえる。また裁判員制度の導入を契機に日本でも仮釈放を認めない終身刑の導入を、死刑制度の存置、廃止の双方の立場の国会議員が検討している。

終身刑には、仮釈放の可能性がある「相対的終身刑」と仮釈放の可能性がない「絶対的終身刑」が存在し、弁護士・裁判官・検察官の法曹三者や、刑事政策・刑事司法制度・刑法の専門家は終身刑と無期刑は別名の同義語であり、刑期の無期・有期の質と、刑の執行の減免処遇の一つである仮釈放の有無は別の独立した要素であることを認識しているが、日本では新聞・テレビ放送・雑誌・書籍などが、終身刑は仮釈放の可能性が無く、無期刑は仮釈放の可能性が有り、終身刑と無期刑は異なる刑であると誤った解釈を流布しているので、新聞・テレビ放送・出版業界人や、一般市民の中の新聞・テレビ放送・雑誌・書籍などが流布する情報の真偽やバランスを検証しない人々は、前記の間違った解釈により、仮釈放の可能性が無い終身刑だけを終身刑と認識し、誤った解釈が標準になっている。そのため、諸外国における終身刑の多くが仮釈放の可能性がある相対的終身刑(日本の無期懲役に相当)であるにもかかわらず、それらを絶対的終身刑と誤解している<ref>世界の終身刑</ref>。なお、日本の死刑廃止を主張する国会議員は死刑を一挙に廃止するのは現状では難しいとして「日本版終身刑」である絶対的終身刑の導入を主張<ref>亀井静香『死刑廃止論』 花伝社 28頁</ref>している。ただし、法務当局は絶対的終身刑は「生きる」希望のない収監者を生み出すだけであるとして、そのような「厳罰化」は受け入れないとの姿勢を示している。<ref>中国新聞 2008年2月2日朝刊</ref>。しかしながら、法務省としては1993年の後藤田正晴法務大臣による死刑執行再開以来、死刑執行が無い年を作らない方針を固持している。法務省としては死刑の執行を国家行政機関における最高の職務権限として位置付けており、この権限の行使を不能とする終身刑の導入には否定的である。

関連項目

死刑存置を主張している人物

死刑存置を主張している団体

死刑廃止を主張している人物

死刑廃止を主張している団体

死刑関連の書籍

死刑廃止関連の映画

死刑存置関連の作品

  • 藤井誠二 『殺された側の論理―犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』 ISBN 4062138611
  • 本村洋・本村弥生『天国からのラブレター』 新潮社
  • 平松伸二マーダーライセンス牙スーパージャンプ掲載
  • 重松一義『死刑制度必要論』(信山社)
  • 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」法律のひろば43巻8号〔1990年〕
  • 竹内靖雄『法と正義の経済学』(新潮社)

参考文献

脚注

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外部リンク

fr:Peine de mort#Débat contemporain sur la peine de mort ru:Аргументы «за» и «против» смертной казни zh:死刑存廢問題

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