横浜ベイスターズ

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Template:野球チーム 横浜ベイスターズ(よこはまベイスターズ、Yokohama BayStars)<ref>中文表記では横浜海湾明星棒球団或いは横濱湾星棒球団とされる。</ref>は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアム専用球場(本拠地)としている。

二軍(イースタン・リーグ所属)の球団名は湘南シーレックス。同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。

横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。

目次

球団の歴史

Template:基礎情報 会社

下関・大阪・京都時代

  • 元は大洋漁業(現・マルハニチロ水産)の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球大会などに出場、1948年国体で優勝して一躍名をあげる。
  • 1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋漁業野球部からは、戸倉勝城河内卓司徳網茂ら主力選手が新球団である毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
  • 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市フランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。この当時は、福岡県に西鉄クリッパーズ西日本パイレーツ1951年合併で西鉄ライオンズに)、山口県に大洋ホエールズ、広島県に広島カープと、3県連続で球団が存在した。
  • 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツからベテランの中島治康平山菊二を、大陽ロビンスから藤井勇林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清長持栄吉片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目の1950年は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
  • 1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。
  • 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め<ref>具体的に「解散」などの処罰内容を決めていたわけではなかったが、下位球団を整理する意図は背景に存在した。</ref>の該当球団となった松竹ロビンス<ref>球団史においては傍系扱いとなり、
    大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:國民新聞社・1936年-1937年)
    →ライオン軍(経営:共同印刷田村駒商店、スポンサー:ライオン歯磨本舗・1937年-1940年)
    →朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年-1945年)
    →パシフィック(1946年)
    →太陽ロビンス(スポンサー:太陽レーヨン・1947年)
    →大陽ロビンス(1948年-1949年)
    →松竹ロビンス(スポンサー:松竹・1950年-1952年)
    の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない。</ref>と対等合併に合意し、大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併により正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。当時の会社名は株式会社大洋松竹球団。

川崎時代

  • 1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域神奈川県へ移転。川崎市川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。成績は松竹との合併前よりもさらに低迷。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、読売ジャイアンツから獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チーム1954年から1959年まで6年連続最下位。
  • 1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。
  • 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦クリート・ボイヤー桑田武松原誠平松政次ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
  • 読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の読売ジャイアンツに打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋ホエールズだった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武やジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に読売ジャイアンツにトレードされていった。
  • 1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
  • 1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。
  • 松原・米田慶三郎といった守備の名手に加え、ボイヤー-シピン-ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下のち高木に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト。」といったプレイを実際に行っていた。

横浜時代(ホエールズ)

  • 1978年、国土計画の主導で横浜市中区<ref>須田泰明『スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜』
    (杉山茂・岡崎満義+スポーツデザイン研究所編 創文企画 2002年 ISBN 4-921164-11-8
    に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。
    また、同著に元・球団社長の大堀隆が語ったとして
    「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期にかながわ・ゆめ国体も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」
    とある。

</ref>に建設した横浜スタジアムに移転<ref>横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営(指定管理者)する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している。
出典:「座談会 横浜公園とスタジアム~開港から現在まで~」有隣堂『有鄰』第398号平成13年1月1日</ref><ref>このほかに第3セクターである(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2,000万円。1993年は、球場収入13億9,200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6,500万円で、経常利益は13億9,600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3,800万円であった。この契約は現在も延長されていると思われる。</ref>、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置<ref>横浜大洋友の会(現・横浜ベイスターズ友の会)。球団営業部主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブとは別組織。</ref>など営業体制の改革を伴ったこの改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送TBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。

  • 1982年長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えた。長嶋の長男一茂をドラフト1位指名するなどの経営方針があったが、長嶋招聘は失敗した。
    • ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産野球部との交渉が破談した。
    • 田尾五打席敬遠(詳細は出来事の項を参照)を行い物議を醸す。
    • 1982年10月18日<ref>上記「田尾五打席敬遠」該当試合</ref> フジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ<ref>ビデオリサーチ調べ</ref><ref>1977年9月26日以降</ref>となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録する。
  • 1983年シーズン途中、タイドウォーター・タイズでプレーしていた若菜嘉晴捕手を獲得。エース遠藤のフォークボールをノーサインで受けるテンポの良い野球が好評だった。
  • 1985年近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
  • 1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、3年間で1度もAクラス入り出来ないなど、成績は振るわず。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。
  • 1990年須藤豊が監督に就任。この年にチームをAクラスへ導くも、1992年開幕早々に辞任し、江尻亮チーフコーチが監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。江尻政権下で盛田幸妃佐々木主浩のダブルストッパーを確立。
  • 1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。<ref>ホエールズ・ベイスターズ選手のCM出演は、1991年に、中山裕章高橋雅裕が大洋漁業の『パッ缶』のCMに出演した。2000年には金城龍彦松坂慶子とともに『東京電話』(東京通信ネットワーク(TTnet):フュージョン・コミュニケーションズ及びKDDIの前身企業)のCMに出演している。</ref>
    • 翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。

横浜ベイスターズ時代(マルハ)

画像:横浜スタジアム2.JPG
本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子
  • 1993年近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊屋鋪要市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。
  • 1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。
  • 1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントにおける近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。
  • 1996年大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。
  • 1997年権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。
  • 1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。10月8日の優勝決定を佐々木は「ベストゲーム」としている<ref>私のベストゲーム</ref>。
  • 相思相愛の松坂大輔を1位指名したが抽選漏れ。
  • 1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
  • 2000年金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
    • ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
  • 2001年森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。

横浜ベイスターズ時代(TBSHD)

  • 2002年、開幕から記録的な低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。
    • 1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社であったフジテレビヤクルトスワローズ球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングス〔TBSHD〕<ref>TBSの略称は、2009年4月の東京放送ホールディングスへの社名変更に伴い、子会社のTBSテレビに引き継がれた。</ref>)への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。
  • 2003年、待望の生え抜き監督山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年ヤクルト以来実に33年ぶりであった。
  • 2004年、4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退しカープと勝率0.00092差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
  • 2005年牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
  • 2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、4・5月に低迷。6月以降は、共に福岡県東福岡高校出身である村田修一吉村裕基若手野手の台頭、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。
  • 2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。FA移籍した門倉健の人的補償として、当時215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。移籍組やベテラン勢の活躍により、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。
    • 最終戦に敗れて勝ち越しは逃したが、村田修一の球団日本人選手桑田武以来31年ぶりの本塁打王及び球団初の2年連続100打点や三浦大輔の35イニング連続無失点、寺原隼人の2試合連続完封など主力選手の活躍が目立った。
    • 1月15日産業能率大学と業務提携し調印することとなる。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
    • 3月30日4月13日、プロ野球新記録となる開幕から黒星と白星が交互に続く「ぬけぬけ」が12試合続いた。
    • 9月17日、横浜ベイスターズとなってからの初代オーナー中部慶次郎(1992-2002。大洋時代も含めれば1990-2002)が逝去。
  • 2008年、阪神キラーの三浦を開幕投手に欠くと、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後も低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わった。この年に飛躍した内川に加えて、村田・吉村の強力クリーンアップをもってしても投手陣が壊滅的で最下位に沈む。内川の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。
  • 2009年WBCでの村田の離脱や、開幕6連敗など成績面で不振が相次ぐ。5月18日、大矢監督の無期限休養を発表(事実上の解任)。同19日からはこれまで二軍監督を務めていた田代富雄が監督代行を務めていたが、落ち切ったチームを浮上させることができず、一軍の監督代行の職が解かれ、今季のシーズン終了後には再び二軍監督に就任した。
  • 2010年3月31日、巨人戦の勝利で順位を3位タイとする。同時に広島が単独最下位となったが、横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)となり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日~2007年3月24日、262試合)を更新してこの日ストップした。

チーム成績・記録(2009年終了時)

画像:Yokohama BayStars Ranking.svg
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 2回
(1960年、1998年)
  • 日本一 2回
(1960年、1998年)
  • Aクラス 15回
(1960年、1962年、1964年、1969年〜1971年、1979年、1983年、1990年、1997年〜2001年、2005年)※1
  • Bクラス 45回
(1950年〜1959年、1961年、1963年、1965年〜1968年、1972年〜1978年、1980年〜1982年、1984年〜1989年、1991年〜1996年、2002年〜2004年、2006年〜)
  • 最多勝 80勝(1964年)
  • 最多敗 99敗(1955年)
  • 最多引分 17分(1979年)
  • 最高勝率 .585(1998年)
  • 最低勝率 .238(1955年)
  • 最多連勝 10 (過去5度記録、直近のは1999年)
  • 最多連敗 14 (1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。
  • 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
  • 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年〜2001年)
  • 連続Bクラス最長記録 10年(1950年〜1959年)
  • 通算4000敗 (2007年4月4日の対広島戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。

その他の記録

  • 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
  • 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
  • 最多本塁打 194本(2004年)
  • 最小本塁打 51本(1955年)
  • 最高打率 .294(1999年)
  • 最低打率 .208(1956年)
  • 最高防御率 2.31(1971年)
  • 最低防御率 4.94(1977年)

チームの特徴

球団名

  • 第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。
  • 以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業のかつての主要業務が捕鯨だったことに由来する。
  • 現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「」とを組み合わせた。日本人が考えた造語で、英語の母語話者には通じないらしく、『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではグリーンベイ、タンパベイなど、湾を意味するベイが入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
  • 改称時、愛称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としている。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、愛称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。

マスコット

2010年開幕時点で現役活動中のマスコット

  • 球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。かつてはホッシーが父親、ホッシーナとホッシーゾがその子供たちであるとの設定が述べられていることもあったが、昨今は3兄弟(ホッシーナ、ホッシーゾは双子)という設定で固められている。2010年シーズン開幕より、湘南のマスコット「レック」と同時に日本プロ野球球団のマスコットキャラクターとしては二番目に公式twitterアカウントの運用を開始した(日本初は1日違いで福岡ソフトバンクホークスハリーホークだった)<ref>横浜ベイスターズ - ニュース - セ・リーグ初!マスコットキャラクターが『ツイッター』に登録☆</ref>。
    • ホッシー (hosshey) - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。ペットマークを含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。
      • 優しげな口調で喋る良い子キャラ。
    • ホッシーナ (hossiena) - ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。
      • 明るい口調で喋る元気な女の子。
    • ホッシーゾ (hossiezo) - ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。
      • 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!!」)を付けた言葉を多様するヒップホップ系キャラ。
      • 2009年秋から横浜ベイスターズの献血支援運動の大使として活動しており、神奈川県内の複数の献血ルームで配られる進呈品のキャラクターにも採用された。以来、献血に対するこだわりは強いらしく度々献血について言及している。血液型は☆(星)型。

以前に存在したマスコット

    • ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとしてその派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が楽天の「非公認」マスコットMr.カラスコの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘(中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、果ては若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦、公式戦では2010年3月30日の本拠地開幕戦(対巨人)、4月18日の阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。
  • 球団のマスコットではないが、横浜スタジアムではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオの番組であるエキサイトベースボールのマスコットである「エキベ〜」が登場する。
    • ニューホッシー - 正式名称は不明。視線が常に本人から見て左側を向いている。2001年から2004年頃にかけて度々登場していた。背番号2001。

応援スタイル

Template:See also

トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を画し応援についての申し合わせを遵守している。

以下は2010年時点のもの

  • 本拠地・横浜スタジアムでは試合前イベントの時間を確保する都合上、スタメン発表時に応援歌演奏(1-9)を並行して行っている(メンバー発表→応援歌演奏→メンバー発表→応援歌演奏…の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行っている。
  • 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。
  • 代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。佐伯貴弘村田修一については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。
  • 投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。過去には斎藤隆野村弘樹パット・マホームズライアン・グリンに対しても固有のテーマが演奏された。
  • 以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていた。近年入団した選手では応援団が作成したテーマや、過去のあまり使用されなかった選手のものを流用するなどしている。
  • チャンステーマ演奏時や太鼓が使用できない神宮球場のナイトゲームでは、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。
  • 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船横浜スタジアムで禁止(ポイ捨て禁止条例抵触等の理由により)されているため、ファンの間で浸透性が少ないこともあり、ビジター・地方球場でも(勝利時も含めて)飛ばすファンは少ない。
  • アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われる。
  • 2007年より試合時、1-9の前にファンファーレが演奏されるようになった(初期のころはビジターのみ、ファンファーレは「勝利の輝き」のサビの部分)。
  • トランペット、及び笛の使用が禁止されている宮城球場では、メロディー部の口喇叭を含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。
  • ヒットでの出塁の際はファンファーレの後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。

戦績

  • 現存するセ・リーグ6球団の中で唯一のシーズン勝率6割未到達球団。最高勝率は優勝した1998年の.585。
  • 現存するセ・リーグ6球団で唯一生え抜き監督によるリーグ優勝が1度も無い。これは生え抜き監督が極端に少ないことによる(後述)。また、これらの生え抜き監督はリーグ優勝どころかAクラスも1度も記録していない
  • 日本シリーズ出場は2回しかないが、その2度とも日本一を達成し勝率100%。現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。
  • 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。セ・リーグ発足時には同じ弱小チームだった広島国鉄・サンケイ・(東京)ヤクルトに対しても、広島には1960年代までは勝ち越していた時期があったが、70年代中盤の広島黄金期樹立により逆転(初のリーグ優勝を達成した1975年から10年連続の負け越しを喫した)し、ヤクルトに対しても1980年代には6シーズンも勝ち越す(1981年、84年、87年はタイで、負け越したのはヤクルトが昭和最後のAクラスシーズンでもあった1980年だけ)など、1979年時点では5つの負け越しから逆転したが、1990年代のヤクルト躍進と21世紀に入ってからの横浜の低迷によって勝敗が再逆転した(特に1993年には4勝22敗と大きく負け越し、90年代全体の負け越しの半分以上を占めた)。<ref>ベースボール・マガジン社刊行「スポーツ20世紀」シリーズVOL.3「プロ野球名勝負伝説」139ページを参照の事。</ref>
  • 現存するセ・リーグ6球団の中でAクラス入り回数が最も少ない(2009年終了時点で15回)。こちらも広島には1980年代初頭には逆転され、2009年にはヤクルトにも逆転された(横浜=6位、ヤクルト=3位)。
  • 2シーズン連続90敗を2度記録している(1954年 - 1955年、2008年 - 2009年)。2シーズン連続90敗は過去に高橋(トンボ)ユニオンズ近鉄パールズ(バファロー)が記録しているが、現存する12球団では唯一の記録である。
  • 現存するセ・リーグ6球団の中で、唯一巨人相手に、ノーヒットノーランを達成した投手が(移籍選手も含めて)いない。また巨人相手に騒動となる乱闘を起こしていない。
  • 伝統的に先発完投型の投手が少なく、平成に入ってからセ・リーグの中で唯一沢村栄治賞受賞者のいない球団である(2009年シーズン終了時点。ちなみに最後の受賞者は1983年の遠藤一彦)。
  • 2005年から始まったセ・パ交流戦では2008年から3年連続最下位(最高は2007年の3位)。さらに2010年6月12日(対オリックス戦)において12球団で最も早く交流戦通算100敗目を喫した。

営業・ファンサービス

  • 以前は巨人戦のみ内野自由席を指定席として販売していたが、2005年以降行われていない。
  • 200?年から、レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売するようになった。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
  • 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの石橋貴明とんねるず)<ref>牛島和彦監督(当時)がテレビ番組で頼み込んでの就任</ref>の意向で、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
  • 試合前・試合中に行われるイベントの種類・回数はかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何らのイベントが行われている。
    以下は2007年時点のもの
    • スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞関連の記者には必ずブーイングが起こる)
    • スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
    • ベイスターズバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に3〜4回程度)
    • ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)
    • 帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)
    • 第二ヒーローインタビュー(試合勝利後に正面レストラン外に設置されたテラスから、影のヒーローなどを中心にインタビューが行われる。球場の外からテラスを見上げる形になり、当日試合を見られなかった人も勝利の余韻に浸ることが出来る。)
    • 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、ならびに(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。

株主構成

2009年4月1日現在
  1. 株式会社東京放送ホールディングス 47万株(51.54%・BS-TBS保有分と合わせTBSグループとして69.23%保有)
  2. 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 34万株(30.77%・旧法人としてのニッポン放送保有株)
  3. 株式会社BS-TBS 23万株(17.69%)

Template:See also 東京放送ホールディングスが筆頭株主でありながら、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビTBSラジオ&コミュニケーションズでの対巨人戦以外の試合の中継はめったに行われない。巨人戦以外は視聴率および聴取率が取れない事にも起因している。テレビ中継は、通常はテレビ神奈川が単独で放送<ref>2000年代後半頃、番組名がYOKOHAMAベイスターズナイターであっても、TBSテレビでの地上波中継の無い主催試合の場合、tvk制作の中継ではなく、BS-TBS・TBSニュースバードのザ・プロ野球を購入し同時放送を行う傾向にある。</ref>し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社またはテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っている。フジテレビも放映権は保有しているが、現在は同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために行使しているのが現状である。ラジオ中継は、TBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系において裏送りも含めて中継している。主に、巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、巨人戦がないときに放送される<ref>他にフジ・メディア・ホールディングスの主要株主であり、ニッポン放送とともにNRN基幹局を務めるラジオ局でもある文化放送文化放送ライオンズナイター文化放送ホームランナイター、同社が技術協力するNACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONSNACK5)、RFラジオ日本ラジオ日本ジャイアンツナイターで主催試合を中継する場合がある。</ref>。

新潟県・市による誘致構想

Template:スポーツ現在進行 2009年9月から、新潟県新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、今後NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。なお、これまでの一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補として横浜の名を挙げているが<ref>2010年1月21日付・朝日新聞新潟版より。同紙上では横浜の他、東京ヤクルトスワローズ福岡ソフトバンクホークスも招致候補とされている。</ref>、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からも横浜球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年3月現在)

その他

  • 監督にチームの生え抜きOBは少なく、在籍経験がないか、あっても短いいわゆる「外様」が多い。株主であるフジサンケイグループの放送局(ニッポン放送・フジテレビ)やTBSグループの放送局(TBSテレビ・TBSラジオ)の解説者より監督を迎える傾向にあったことによる。歴代の生え抜き監督は秋山登土井淳江尻亮近藤昭仁山下大輔の5人(代行を含めても田代富雄を加えて6人)しかいない。これは球団の後方支援の乏しさが浮き彫りとなって露呈している。
    • 現監督の尾花高夫も現役引退直後はフジテレビ・ニッポン放送の解説者だった。
  • 監督の平均在任期間が短い。2006年までの56年間に延べ26人で平均は2.2年。通算5年以上監督を務めたのは三原脩別当薫の2人にすぎない。短命続きが長期的なチーム作りの障害になっているという声もある。
    • 監督が招聘もしくは前政権で残留したコーチ陣の指導力不足や、選手と首脳陣の対立、選手起用によるフロントの現場介入が主な原因となっている。指導力に問題があるコーチでは、近年では阿波野秀幸駒田徳広野村弘樹波留敏夫といった1998年の日本一に貢献したOB、昨年の杉本正高橋雅裕で、そのうち阿波野、駒田、杉本、高橋は1年で解任となっている。現任では野村、波留の他に島田誠杉村繁福澤洋一吉田篤史水谷新太郎が挙げられる。
    • 守備力強化に努めた進藤達哉湘南シーレックス山口俊を指導した川村丈夫らコーチ職を解任。進藤をスカウト(2009年退団)、川村をスコアラーに異動させ、指導力に問題のある野村、波留らを残留させるなど不可解な人事異動も行われている。
    • 古葉竹識森祇晶といった他球団で実績を残した監督を招聘、期待もされていたが、いずれもチームカラーに合わず、成績不振やフロント批判により辞任している。
  • 1998年の優勝前後に複数年契約を連発し失敗したことへの反省から、契約は単年契約を基本としている。
    • しかしながら、首位打者の内川聖一、2年連続本塁打王の村田修一ら、年俸に見合った成績を残していないため、「貰いすぎ」との声も多い。
  • 球団関連会社から『月刊ベイスターズ』というファンマガジンを発売(毎月25日)している。やくみつる山本哲士といった辛口のコラムニスト陣が球団を容赦なく批判した(両者共に2007年より休載)ことで有名。漫画家のみずしな孝之は『月刊ホエールズ』(当時)への投稿がきっかけで漫画家デビューし、1999年に連載復帰、今も続いている。
  • 毎年、他球団に比較して試合消化が遅い。雨天中止などによってヤクルト戦がよく流れ、シーズン終了間際にまとめて組まれる事がある。屋外球場でも瀬戸内側にある阪神甲子園球場マツダスタジアムに比べて関東は雨が降りやすいことや、収入面での影響が大きい巨人戦や阪神戦は多少の雨でも強行することなどが要因として挙げられる。
  • 1970年代から2000年代前半にかけて、牛込惟浩を中心としたスカウト陣によりスチュアートクリート・ボイヤージョン・シピンフェリックス・ミヤーンラムピータースカルロス・ポンセジェームスジム・トレーシージム・パチョレックR.J.レイノルズシーツマイヤーロバート・ローズグレン・ブラッグスタイロン・ウッズら、結果を残した外国人野手を次々と獲得した。
  • 近年、スカウトやフロントに、村上忠則(元日産自動車監督)・山中正竹(元野球日本代表等監督)・荒井信久(元神戸製鋼・明治大学監督)・武居邦生(元国士舘大学監督)等アマチュア野球界の監督・コーチ経験者を招く事が多い。しかし、チーム編成面での失敗が多く、いずれも退団している。
  • 慶應義塾大学理工学部の鈴木秀男准教授は2010年1月下旬、応援するチームのホーム球場で昨季1回以上観戦した人を対象に、インターネットで「プロ野球のサービスの満足度」をアンケート調査し、総合満足度で最下位に終わった。

ユニフォーム

ユニフォームの変遷

大洋時代(第一期)

  • 1950年1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。
  • 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
  • 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎ピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。

洋松時代

  • 1953年 松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。
  • 1954年 球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。

大洋時代(第二期)

  • 1955年 松竹が撤退し、大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
    • 左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた神奈川(かながわ)の4文字がいずれも「あ」を母音とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている。
  • 1955年〜1958年 ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。
  • 1959年1962年 クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から地色が白となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。
  • 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインがオレンジ色から赤に変更される。
  • 1964年1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。その後、ホーム用は選手名のものと併用される。
  • 1973年 白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。
  • 1974年1977年 基本カラーが湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。
    • ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。
    • ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。
      • 1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。

横浜大洋時代

  • 1978年1992年 本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が「横浜大洋ホエールズ」となり、チームカラーが紺一色になる。
    • ホーム用は、白地に胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。帽子は紺色でマークは白で「W」。
    • ビジター用は上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー。
    • Aクラス入りがわずか3回ながら、15年に渡って使用され、スリムなデザインが受け、ビジター用のユニフォームが全国の草野球チームで使用されるほどだった。
    • スパイクはローリングス(日本での発売元はアシックス)を使用、当時は12球団唯一の採用であった。

ベイスターズ時代

  • 1993年〜 チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニフォームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青<ref>ブルーアズール=藍青色</ref>を基調とし、スパイクも青地に白ラインとなる。ユニフォームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったものの、球団史上最も長い16シーズン採用されたデザインとなった。
    • ホーム用は、白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。
    • ビジター用は、上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本ライン(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。
      • 1996年大矢明彦監督就任と同時に、帽子のマークが若干変更になり、星の数が3つから1つになる。
      • 2001年〜 スパイクの色が白地に青ラインになる。
      • 2003年〜 パンツの2本ラインが細くなる。
      • 2004年〜 袖の2本ラインが細くなる。
      • 2006年〜 ビジター用の左胸のβの後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMA β」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。
  • 2009年〜 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年オリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。
    • ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側ラインに入る。背ネームは幅狭。
    • ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジターのみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。
      • 2010年 主催試合の初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。

交流戦限定ユニフォーム

  • 2005年〜2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
  • 2007年〜2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺ベースのユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天の交流戦ユニフォーム(ホーム用)と非常に良く似ている。
  • 2009年~2010年は登場せず。

夏季限定ユニフォーム

2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい)でのホーム用のみ。

  • 2004年〜2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。
  • 2006年〜2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
  • 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニホームが登場する予定。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。

交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。<ref>2008年は夏季オリンピック北京大会開催のため8月主催試合が8カード21試合中13試合と少ないため、夏季限定ユニフォームの着用はない。また2009年は登場せず。</ref>

復刻ユニホーム

2006年のファン感謝デーに大洋・横浜大洋時代の復刻ユニホームが選手着用でお披露目されたが、2010年現在、公式戦では2005年新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスを除き、唯一着用されていない。

ユニフォームスポンサー

いずれもホームゲーム用。太字斜線は現在掲出中のスポンサー。

左胸

袖部分

ズボン

ヘルメット

歴代本拠地

※本来は旧松竹ロビンスの本拠地衣笠球場と旧大洋ホエールズの本拠地下関球場のダブルフランチャイズだったが、実質的には旧松竹の準本拠地とされていた大阪球場の方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 1953年から松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンス
※2 ここから大洋ホエールズ(第2次)
※3 1972年は8月30日まで指揮、残り試合は青田昇宮崎剛が代行
※4 ここから横浜大洋ホエールズ
※5 1981年は9月24日まで指揮、残り試合は山根俊英が代行
※6 ここから横浜ベイスターズ
※7 2002年は9月25日まで指揮、残り試合は黒江透修が代行
※8 2009年は5月17日まで指揮、残り試合は田代富雄が代行

歴代オーナー

永久欠番

球団の永久欠番は次の通り。

  • 100-球団に対して貢献のある著名人(複数)

顕彰

横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。

球団歌・応援歌

  • 熱き星たちよ(球団歌)
  • 勝利の輝き(応援歌)
湘南シーレックス
  • 若き王者たち(公式ソング)
  • Searex Horizon(公式テーマ)

過去に使用された球団歌・応援歌

大洋・横浜大洋時代
  • 行くぞ大洋(球団歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
  • 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
横浜時代

主なキャンプ地

出来事

セ・リーグ最長イニング記録

1952年9月7日に西京極球場で開いた松竹との対戦(ビジター)でセ・リーグの当時の最長イニング記録である延長20回(1-2x敗戦)を戦い抜いた。

38年の空白

横浜ベイスターズのリーグ優勝は史上2度。大洋ホエールズ時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年のこと。この間、実に38年間ものブランクを要した。

ただ、初のリーグ優勝を果たした後、1962年1964年の両シーズンは終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。

特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりのリーグ優勝を果たすところまでたどり着き、阪神と敵地阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。

当時大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も優勝から遠ざかることはなかったと思う」と語っている。

荒川事件

Template:See also 1969年のドラフト会議での早稲田大学野球部荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、プロ野球ドラフト史上最大の事件とされる事件。

荒川は当初入団を拒否、その後の経過の中では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するに至る。後に荒川は形式的に大洋に入団し、ヤクルトに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の被害の後遺症と言われる視力障害により早々に選手生命を絶たれる結果となった。

この事件が原因となって、大洋ホエールズ時代はもとより、横浜ベイスターズとなってからも2008年に松本啓二朗細山田武史を指名するまで早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。

湘南電車カラーのユニフォーム

1974年-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、当時の国鉄湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。

このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は草薙球場でキャンプを行うなど静岡とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で慶大から入団。当時ヘッドコーチだった秋山登が「静岡名産のミカンお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承、その結果橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。

田尾五打席敬遠

1982年、長崎慶一(当時「啓二」)は首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズ田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。

中日にとってはシーズン最終戦となる大洋対中日戦で大洋は田尾に対し5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し田尾は五打席目で抗議の意味を込めた空振りを行った程であった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。<ref>Template:SeeTemplate:See</ref>

この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合であった。この試合が行われる前の時点で中日は全日程を終了していた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいた為、中日が勝てば中日の優勝。大洋が勝てば巨人の優勝とリーグの優勝が掛かった大一番だった。

大洋は先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなどこの試合に大差で敗れ、中日の優勝が決まる事となった。

当然この大洋のチームの勝利よりも個人の記録を優先した行為に納得出来るファンは殆どおらず、試合後「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為<ref>日本プロフェッショナル野球協約第177条参照のこと。</ref>ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。

抗議は一段落した後も世論はこの大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した。」「中日ファンとして素直に喜べない優勝になってしまった」等疑問を投げかけ、宇佐美徹也は著書『プロ野球データブック』で大洋の行為を糾弾した。

当時の監督だった関根潤三は、その後フジテレビ野球解説者として、同局の解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と、敬遠へと至った経緯を説明、「時々あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降関根と田尾との関係が修復された。

1995年のオールスターファン投票

1995年、この年のオールスターゲームが横浜スタジアムで開催される事になり、ゲームを盛り上げるために当時の球団社長らが率先してファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、横浜からは佐々木主浩・駒田徳広・ロバート・ローズ・佐伯貴弘・グレン・ブラッグス畠山準の6人が選出されたのに対して巨人・阪神の両人気球団からは1人も選ばれず、批判の的となった(他の3名はヤクルトの古田敦也と広島の江藤智野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため当人たちも困惑気味だった。

試合では普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球するという珍しい光景が見られた。

プロ野球脱税事件と緊急補強

Template:See also 1997年、プロ野球選手による脱税が発覚し、横浜からは波留敏夫万永貴司川崎義文米正秀の4名が関わっている事が分かった。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで近鉄から中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純ホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤監督によりぶっつけ本番でスタメン復帰する。復帰当初こそ無調整の状態からなかなか結果を残せなかったが、その後調子を取り戻し7月には月間MVPに輝くなど、奮起した。当時のヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞させ、脱税事件の反省をしたのか感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。

史上初3度のサイクルヒット

日本プロ野球でサイクルヒットを複数回達成した選手は藤村富美男松永浩美ロバート・ローズの3人しかいない。藤村、松永は2度達成して現役を退いた。

ローズはこれを3回達成した。1995年5月2日中日戦で単打、2連続二塁打、本塁打、三塁打の順で、1997年4月29日ヤクルト戦で本塁打、二塁打、2連続単打、三塁打の順で達成した。3度目は1999年6月30日広島戦。二塁打、(四球)、単打、三塁打、そして本塁打の順で安打を放ち、日本新記録となる3度目のサイクル安打を決めた。

2001年と2005年の順位

2001年からセ・リーグの順位決定方法が変更された。勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。

その初年度の2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところが、この年は「勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定する」とリーグアグリーメントで決めていた。このため勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式はシーズン中の勝利数が経過試合数が多いという理由で上位とされることがあるため、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率優先」に戻した。

2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。

筆頭株主交代

2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングス〔TBSHD〕)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。

それまでの球団の身売りは球団名からユニフォームまで一新されるケースばかりだったが、横浜のケースは球団名もユニフォームもそのまま残された。<ref>ロッテ・オリオンズ1971年に経営権利を大映毎日新聞社連合からロッテ製菓に譲渡した当時、球団名もユニフォームも1969年(この時、ロッテ製菓は冠スポンサー命名権に相当〕であった)に変更された当初のものをそのまま使っていた。</ref>唯一変わったところは、ユニフォームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニスト綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。

2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入し筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再び浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社「東京放送ホールディングス(TBSHD)」に移行した事から楽天は買収を断念、反対株主の株式買取請求権を行使し、TBSHDに対し保有全株式の買取請求を行ったことにより、この問題は収束した。


幻に終わった「21世紀初」のダブルヘッダー

2007年9月30日の横浜対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)は、NPB公式戦(一軍)では実に9年ぶりとなるダブルヘッダーとして開催されることになった。

このうち1試合分は、同カード<ref>同年の対ヤクルト戦は横浜スタジアムの他に地方開催も編成されており、8月14日8月15日には「山口シリーズ」(14日=山口市スポーツの森西京スタジアム、15日=下関球場)2連戦が組まれていた。なお、この山口シリーズは2試合とも予定通り開催されている。</ref>が悪天候により中止となった場合を想定して、シーズン前の日程編成の段階において試合日時と開催球場を未定としていた開催分で、実際に横浜スタジアムで雨天中止となった同カード1試合と組み合わせる形でダブルヘッダーとして編成された。

だが、当日はあいにくの雨天でダブルヘッダーは2試合とも中止となり、10月8日10月9日の2連戦として組み直された。この2連戦も、仮に8日が悪天候の場合は9日をダブルヘッダーとして開催する予定だったが、両日とも予定通り開催された。蛇足だが、8日はマーク・クルーンの横浜在籍最後の登板試合、9日は古田敦也の現役最後の試合であった。

NPB公式戦でダブルヘッダーが最後に開催されたのは1998年のこと。パ・リーグは同年10月9日西武ライオンズオリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)、セ・リーグは翌10月10日の横浜対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)である。その後ダブルヘッダーはセ・パいずれにおいても開催されておらず、21世紀になってからはまだ一度も無い。従ってNPB公式戦で最後にダブルヘッダーを主催開催したのは前述の通りパが西武、セが横浜ということになる(2009年シーズン終了時点)。

ダブルヘッダー#日本プロ野球も参照

九州で交流戦

2008年5月28日5月29日の横浜主催セ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦は、九州地方2県で開催された。

試合が行われたのは、初日の28日が大分県大分市新大分球場、翌29日が福岡県北九州市北九州市民球場であった。後者の福岡県はソフトバンクの保護地域であり、北九州では1989年の球団移転以来、年間数試合主催公式戦を開催しているが、セ・パ交流戦が相手球団の保護地域で開催されたのはこれが初のケースであった。

北九州でのダグアウトの割り振りは、通常のソフトバンク主催試合同様に横浜が三塁側、ソフトバンクが一塁側を使用した。また横浜は同年シーズンまで、交流戦の際には「交流戦専用ユニフォーム」を着用していたが、この2連戦では通常のユニフォームを着用した。一方、ソフトバンクが北九州でビジター用ユニフォームを着用したのはこの試合が初めてであった<ref>但し前身のダイエー時代には春季オープン戦において、ビジターで読売ジャイアンツ戦と広島東洋カープ戦を行っている。</ref>。

横浜市中心部では同年5月26日〜5月30日までの間、TICAD(アフリカ開発会議)(5月28日〜5月30日)開催のためテロ対策など警備の強化が行われる予定であったことから、日程編成の段階でこれを配慮して地方開催に振り替えたものと見られる(両試合とも横浜球団と地元JNN系列局=28日は大分放送、29日はRKB毎日放送が主催)。観客の大半はホークスファンであったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。

但し、北九州市はベイスターズの前身・大洋ホエールズの発祥地である山口県下関市に隣接しており、関門都市圏は古くからベイスターズファンが多い土地柄という背景もある(下関球場も参照)。また横浜は近年、北九州市民球場で主催の春季オープン戦を年間1試合前後開催している。

沖縄で公式戦

2010年6月29日6月30日に沖縄県で35年ぶりのプロ野球公式戦、対東京ヤクルトスワローズ沖縄セルラースタジアム那覇(那覇市)で開催される予定である。

なお、ホエールズ時代の35年前に広島カープと沖縄で対戦しており横浜球団にとっては初めてではない。

キーワード

明大五人衆

1956年明治大学から秋山登土井淳岩岡保宏黒木弘重沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するケースは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれ注目を集めた。

横浜大洋銀行

横浜大洋ホエールズに対しては1980年代、本拠地・横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や、当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。他球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使用し、特に連敗が込んだ時や、テレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使用された。

1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いが、実際には球団と同行の間には直接的な関係はない。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。蛇足だが、ベイスターズのオフィシャルグッズショップ「ザ・ベイスターズ」のレジでは一時期、横浜銀行が得意先に配布していたノベルティのロゴ入り金銭皿を使用していたことがある。

巨人戦に連敗し続けたあるシーズン、横浜が久々に巨人戦で勝利を挙げた夜には、当時テレビ朝日系『ニュースステーション』で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で、同カードの結果を報じるVTRに「今後の融資はお断りいたします」というオチを付けた程であった。

1990年以降は巨人戦で好成績をマークしたり、とりわけ1998年には38年ぶりのリーグ優勝を飾るなど、過去にはその汚名を返上したシーズンもあったが、2000年代読売ジャイアンツに勝ち越ししたシーズンは2005年の1回のみ。これは2000年のみ勝ち越しのヤクルトと並ぶ。

2006年以降<ref>日本野球機構 2006年度 セントラル・リーグ チーム勝敗表</ref>は巨人を相手に4年連続で負け越しているほか、2008年終盤には巨人と優勝争いを繰り広げた阪神を相手に6連勝するも、対する巨人には7連敗を喫し、これが結果として間接的な「優勝へのアシスト」になってしまった<ref>ただし、阪神も巨人に終盤7連敗している。</ref>ことなどから、一部マスコミからはヤクルトとともに「関東軍」とも呼ばれている<ref>夕刊フジ2008年9月18日号「巨人をウラから援護…最弱球団・横浜流“おもてなし”」</ref>。

スーパーカートリオ

高木豊加藤博一屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、当初は「スポーツカートリオ」と命名された。当時解説者だった長嶋茂雄が「スーパーカートリオ」と言い間違え、それがマスコミでも広まる。球団側も積極的に修正しなかったため、結果としてこの名が定着した。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。

2006年7月16日の横浜-広島戦のイベントで、広島の川口和久-達川光男のバッテリーと打者・田代富雄と共に一回限りの復活がなされた。結果は高木・二盗死、加藤・牽制死、屋鋪・二盗成功。

花の44年組

チーム名がホエールズからベイスターズに変わる1993年頃、昭和44年(1969年)(昭和45年の早生まれの者も含まれるので、正確には昭和44年度)生まれの選手が多数一軍で活躍した事から呼ばれた言葉。具体的には、斎藤隆野村弘樹島田直也五十嵐英樹有働克也盛田幸妃進藤達哉など。彼らは当時24〜5歳の若手であり、数年後の日本一達成時にも、移籍した有働と盛田以外は全員が主力として活躍した。現在、斎藤以外は全員現役を退いたが、野村がコーチとして、有働が打撃投手として、進藤がスカウトとして、盛田が球団職員としてそれぞれ横浜に在籍している。

翌年の昭和45年生まれも谷繁元信石井琢朗波留敏夫佐伯貴弘井上純と当たり年であった。98年の日本一を達成できたのはこの昭和44,45年組の「黄金世代」といえる選手たちの働きが大きかったと言える。

マシンガン打線

Template:Main ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。

横浜ドーム

Template:See

クアトロK

Template:Main 横浜の4人の救援陣(木塚敦志加藤武治川村丈夫マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。

関連項目

人物(架空人物含む)

横浜に所属する(していた)野球漫画の登場人物

  • 左門豊作-巨人の星に登場する大洋の選手。1976年から79年までの続編『新・巨人の星』では最終章で球団が横浜大洋となり、大リーグボール右1号(蜃気楼の魔球)を打った場所も横浜球場。飛雄馬と初めて会った場所も横浜である。
  • 土門剛介-ドカベン
  • 眉村健-MAJOR 横浜(アニメではブルーオーシャンズ)所属の選手。
  • 国見比呂-H2 ドラマ版では横浜を経由してメジャーリーグへと挑戦していった。

記録関連

新聞・放送(マスコミ)関連

本拠地・神奈川県や横浜市関連

脚注

<references/>

外部リンク

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