森祇晶
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プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項 Template:統合文字 Template:Infobox baseball player 森 祇晶(もり まさあき、1937年1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(捕手)・指導者・監督、野球解説者。旧名「森 昌彦」(もり まさひこ)。現在はハワイ在住。
読売ジャイアンツ(巨人)V9時代の正捕手。「V9の頭脳」の異名を取った。引退後はヤクルト、西武、横浜のコーチ、監督を歴任した。西武監督時代は在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた。
兄は阪急に所属したプロ野球選手の森和彦。
目次 |
来歴・人物
現役時代
岐阜県立岐阜高等学校から1955年に読売ジャイアンツに入団。1959年藤尾茂からレギュラーを奪い(藤尾はセンターにコンバート)、以後引退するまで正捕手の座を守り続けた。川上哲治監督は、森の頭脳を評価しつつも森を安住させないために大橋勲、槌田誠、吉田孝司などのアマチュア球界の有力捕手を獲得し、森にぶつけ続けた。森は巨人がアマチュアの有力捕手を獲得するたびに「自分には信頼がないのか」と悩んだというが、現役引退までレギュラーの座を死守し続け、8年連続ベストナインに輝くなどV9時代を支えた。
洞察力が鋭く、頭脳明晰、研究熱心で、当時絶対的な強さを誇っていた阪急の話を聞くために、当時の南海正捕手の野村克也の自宅に出向いたという話は有名であり、それ以来この2人は盟友関係とも言えるほど仲がよい。なお、野村の自宅に行くと、「このスーツいいですね」と言い、必ず野村の背広を何着か持って帰っていったという。他の名捕手の例に漏れず、森も現役時代は「ささやき戦術」の名人であった。
藤田元司によれば、望むコースに投げさせるために全身を使って狙いやすくする工夫をするなど、投手のコントロールを引き出す技術はずば抜けて優れていたという。一方、投手が打たれたときに絶対に自分の責任にしなかったため、投手陣の受けは悪かったのではないかと川上や元チームメートの瀧安治は語っている。ただし、川上は森のそのような面を認めつつも「彼の非情な報告は勝負を預かる上でとても貴重だった」と評価している。
左打者だったため、王・長嶋の後ろで5番も打つこともあり(1964年に1試合だけ4番を打ったこともある)、低打率ながら勝負強さを発揮した。1967年には日本シリーズMVPを受賞している。
1972年からはバッテリーコーチを兼任し、1973年10月22日、阪神甲子園球場での対阪神最終戦で、巨人が勝利してV9を達成した直後、乱入してきた阪神ファンに追われて、ベンチ裏に逃げようとしたら逃げ遅れ、負傷は免れたものの、マスクを取られてしまった。
V10を逃した1974年限りで現役引退。同年に引退した長島のようなセレモニー等はなく、静かに引退していった。
解説者・コーチ・監督時代
引退後は、1975年から1977年は日本テレビの野球解説者を務めた後、1978年から1979年に現役時代から親交のあった広岡達朗監督のもとでヤクルトスワローズのヘッド兼バッテリーコーチに就任。1980年から1981年にはTBS専属野球解説者を務め、1982年から1984年には、やはり広岡監督のもと西武ライオンズのヘッド兼バッテリーコーチを務めた。ヤクルト、西武コーチ時代は広岡監督の下、厳しく選手の私生活にまで管理を行ったため、選手たちに「森CIA」「森KGB」など様々な陰口をたたかれるほどの嫌われ役となった。後にチャーリー・マニエルは週刊朝日の野村克也との対談の中で広岡はいい監督だったがコーチの森は嫌な奴だったと述べている。森は勝利のために広岡の考えを忠実に実行していたが、グラウンド上で厳しく接することは問題なくても、グラウンドから離れたところまで厳しく管理することは納得いかず、つらい仕事であったと語っている。最終的には広岡と対立しコーチを辞任した。
西武コーチ辞任後の1985年は文化放送の野球解説者を務め、1986年に広岡の後任として西武ライオンズ監督に就任。合わせて名前を「祇晶」に改名。1985年にも優勝したチームを引き継いだだけに、広岡前監督からは「勝って当たり前のメンバー(選手)が揃っている」と言われ、常勝が義務付けられていた。「当たり前のことを当たり前にやる野球」を掲げ、チームプレーと確率を重んじ、ディフェンスを主体として走塁やバントを多用するなど、基礎を積み重ねた緻密な野球を展開し、9年間で8度のリーグ優勝(優勝を逃したのは1989年のみ)6度の日本一に輝くなど第2期西武黄金時代を築いた。西武監督時代は、厳しい一方で選手を前面に押し出し、のびのびと野球をやらせる一面もあったようで、監督時代を経験した選手たちには慕われていた。有名なのが、優勝時にチャンピオンフラッグを持って球場を一周するとき、大抵は監督はフラッグを持って先頭を歩くものだが、森は石毛宏典・辻発彦などの主力選手にフラッグを持たせて、常に列の一番後ろで歩いていた。これは「選手が主役、監督は脇役」のポリシーをずっと持っていたことを示している。しかし、観客動員数は伸び悩み、1989年に僅差でリーグ優勝を逃した際に当時の堤義明オーナーから「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」という言葉を投げつけられていることなどから、球団首脳からの評価は低かったといわれている。
1994年限りで勇退。1994年の日本シリーズ対巨人第6戦(東京ドーム・試合開始予定時刻午後1時)開始前の正午頃、巨人の親会社である読売新聞社に「西武・森監督辞任」という一報が報じられる(共同通信社による配信)。森は同年限りで辞任することが内々で決定していたが、日本シリーズ終了前に辞任報道が流れるという憂き目にあった<ref>西武監督辞任報道に関しては、堤オーナーの指示により西武球団側が情報を意図的に流したとする見方もあった。</ref>。森の辞任後、当時のレギュラー選手は後継と目されていた石毛を含め、多くが他球団に流出した。
その後は1995年から2000年にはNHK解説者、日刊スポーツ評論家。1995年にはグリコ協同乳業「Bigヨーグルト健康」のCMに父親役として出演。庭で素振りをしたり、バッティングセンターで飛んでくるボールを捕球したりと、現役時代を髣髴とさせるシーンがあった。息子役は岡田義徳(森と同じく岐阜県出身)、娘役は広末涼子(本作でデビュー)だった。1998年には巨人軍フロントの一部が長嶋の後継に推そうとするが、反森派のOBによる反対や読売新聞グループ内の思惑が影響したために実現しなかったと一部週刊誌に報道されている<ref>『週刊宝石』1998年10月1日号他</ref>。
2001年横浜ベイスターズ監督に就任。横浜は近藤昭仁が退任した1995年オフと大矢明彦が退任した1997年オフにも、森に監督就任要請を行っており、このことからも、横浜が森に相当期待していたことがわかる。横浜では1年目こそ3位だったが、2年目は最下位に転落し、シーズン途中の2002年9月25日途中休養を余儀なくされ、解任された。横浜時代の監督としての評価は高くない<ref>過去に鳴り物入りで就任した古葉竹識が就任3年目に最下位に転落し契約を1年残しての辞任に追い込まれたという類似ケースがあったことや、森の前任監督が1998年日本一を達成した権藤博だったことも、横浜ファンからの森の評価を余計に下げる要因となった。</ref><ref>1998年に日本一を達成した頃にはチームカラーも定着してきており、円熟期を迎えつつあったところへそれまでのチームカラーを否定して無理やり自身のやり方を持ち込もうとしたことも低迷の一因であった。このため、まだチームカラーがはっきりしていなかったとされる、近藤昭仁や大矢明彦の辞任直後に就任していれば結果はもっと違った、との意見もある。</ref>が、一方で小川博文、種田仁を獲得した他に斎藤隆の抑えへの転向、木塚敦志の中継ぎ転向、相川亮二の正捕手への起用など、後の横浜の基礎となる選手の育成・チームの再編成も見られた。森は退任後に戦力差を埋めようと補強に動いていたが実現しなかったことを明かしており、のちに阪神優勝特集の書籍にて、西武では自由にやらせてくれたと称える一方、横浜では選手の起用法で介入されたと、フロント批判を展開している。
アメリカ合衆国の永住権を取得したため、2003年からハワイに移住しており、現地の日本語ラジオ局に出演するなどもしている。現在は海外の野球についての評論が主である。
2005年に野球殿堂入り。殿堂入りのセレモニーには、清原和博がシーズン中にもかかわらず駆けつけるなどした。
徹底して現役時代はお金に細かかったことから「グチ森」「ケチ森」「岐阜の貯金箱」の異名を持っていた<ref>森はV9時代にキャンプのミーティングにて自身が「ケチ森」「岐阜の貯金箱」と呼ばれていることについて「苦労して稼いだ金を大事にすることのどこがいけないのか。自分に言わせれば金を大事にしない他の選手たちの方がおかしい」と反論している(Sports Graphic Number編『巧守巧走列伝』p.148-149)。</ref>。父親が多額の借金を抱えており、それ故に大学に行けるだけの頭脳を持ちながら高卒で野球選手になった。森の細かさ、吝嗇を語るエピソードとして、現役時代、後楽園球場で試合が終わってしばらくすると、家にいる夫人に電話をし、「入れろ」と一言だけ話して切ることを日課としていた。これは「炊飯器のスイッチを入れろ」ということで、これによって帰る頃にご飯が炊けて、光熱費の節約になったという。ただし、こういう地道な節約が実を結び、後年緒方竹虎の邸宅だった家を手に入れている。
好きな言葉は「忍」。1989年に優勝を逃した後、空いた時間に、妻の希望もあって中国を旅した。洛陽で、ある高僧に「あなたはどういう言葉が好きですか」と尋ねられ、森は「忍」と答えた。高僧は膝を打って言った、「大変ですね。大変な言葉ですね」。森、「どうして、でしょうか」。高僧、「忍という字は、心臓の上に刃をのせている。つまり、心の上に刃をのせている。これは苦しいことですよ」。さらに、「忍の字が好きだということは、あなたはそれができる、ということです。きっと、いい仕事ができますよ」。森はこの言葉を聞いて、全身に力がみなぎるのを感じたという。著書の『覇道―心に刃をのせて』のタイトルは、このエピソードによる。この著書は『週刊ベースボール』連載を元にしているが、連載時のタイトルはそのまま『心に刃をのせて』だった。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | チ | ム | 試 合 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 長 打 率 | 出 塁 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 巨人 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1956 | 13 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | .077 | .077 | .132 | .220 | |
1957 | 42 | 97 | 5 | 21 | 3 | 0 | 1 | 27 | 12 | 1 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 20 | 1 | .216 | .278 | .269 | .547 | |
1958 | 30 | 64 | 6 | 19 | 6 | 1 | 1 | 30 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 17 | 2 | .297 | .469 | .318 | .787 | |
1959 | 105 | 329 | 17 | 75 | 7 | 1 | 3 | 93 | 26 | 5 | 0 | 3 | 2 | 28 | 1 | 52 | 8 | .228 | .283 | .291 | .574 | |
1960 | 115 | 355 | 18 | 70 | 14 | 0 | 2 | 90 | 18 | 5 | 2 | 6 | 3 | 20 | 0 | 46 | 11 | .197 | .254 | .240 | .494 | |
1961 | 113 | 323 | 17 | 72 | 15 | 1 | 4 | 101 | 29 | 0 | 4 | 1 | 1 | 17 | 2 | 24 | 6 | .223 | .313 | .266 | .579 | |
1962 | 134 | 469 | 43 | 116 | 24 | 1 | 6 | 160 | 44 | 4 | 6 | 3 | 2 | 32 | 2 | 35 | 15 | .247 | .341 | .298 | .639 | |
1963 | 132 | 419 | 26 | 83 | 10 | 2 | 4 | 109 | 38 | 3 | 0 | 2 | 4 | 27 | 0 | 30 | 11 | .198 | .260 | .247 | .507 | |
1964 | 123 | 426 | 35 | 115 | 17 | 1 | 12 | 170 | 65 | 1 | 1 | 3 | 2 | 27 | 1 | 22 | 8 | .270 | .399 | .315 | .714 | |
1965 | 135 | 484 | 47 | 134 | 19 | 2 | 5 | 172 | 58 | 2 | 0 | 3 | 3 | 19 | 2 | 25 | 18 | .277 | .355 | .307 | .662 | |
1966 | 125 | 425 | 25 | 103 | 13 | 2 | 5 | 135 | 62 | 1 | 1 | 3 | 4 | 21 | 1 | 19 | 12 | .242 | .318 | .280 | .598 | |
1967 | 109 | 331 | 28 | 92 | 10 | 0 | 6 | 120 | 31 | 3 | 0 | 1 | 3 | 22 | 3 | 22 | 11 | .278 | .363 | .329 | .692 | |
1968 | 127 | 439 | 35 | 100 | 10 | 1 | 11 | 145 | 46 | 2 | 2 | 3 | 2 | 21 | 3 | 31 | 15 | .228 | .330 | .268 | .598 | |
1969 | 115 | 340 | 22 | 87 | 13 | 0 | 8 | 124 | 39 | 0 | 1 | 1 | 2 | 26 | 3 | 29 | 11 | .256 | .365 | .314 | .679 | |
1970 | 97 | 243 | 11 | 51 | 10 | 0 | 0 | 61 | 15 | 0 | 3 | 1 | 4 | 23 | 1 | 21 | 8 | .210 | .251 | .281 | .532 | |
1971 | 95 | 256 | 19 | 55 | 8 | 2 | 4 | 79 | 22 | 1 | 1 | 1 | 2 | 26 | 0 | 28 | 8 | .215 | .309 | .287 | .596 | |
1972 | 120 | 338 | 20 | 71 | 10 | 0 | 4 | 93 | 33 | 0 | 0 | 0 | 3 | 26 | 5 | 27 | 13 | .210 | .275 | .276 | .551 | |
1973 | 97 | 223 | 11 | 49 | 5 | 0 | 3 | 63 | 19 | 1 | 0 | 2 | 1 | 14 | 1 | 10 | 7 | .220 | .283 | .269 | .552 | |
1974 | 56 | 111 | 7 | 27 | 2 | 0 | 2 | 35 | 19 | 0 | 1 | 0 | 2 | 5 | 0 | 5 | 6 | .243 | .315 | .276 | .591 | |
通算:20年 | 1884 | 5686 | 392 | 1341 | 196 | 14 | 81 | 1808 | 582 | 29 | 23 | 34 | 40 | 363 | 26 | 469 | 171 | .236 | .318 | .285 | .603 |
背番号
- 27 (1955年 - 1974年)
- 72 (1978年 - 1979年)
- 81 (1982年 - 1984年、1986年 - 1994年、2001年 - 2002年)
タイトル・表彰・記録
- ベストナイン:8回(1961年 - 1968年)
- 日本シリーズ最高殊勲選手:1回(1967年)
- 正力松太郎賞:2回(1986年、1990年)
- 野球殿堂入り(2005年)
- オールスターゲーム選出:11回(1960年 - 1970年)
- 通算1000試合出場:1966年6月30日(109人目)
監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | 昭和61年 | 西武 | 1位 | 130 | 68 | 49 | 13 | .581 | ― | 185 | .281 | 3.69 | 49歳 |
1987年 | 昭和62年 | 1位 | 130 | 71 | 45 | 14 | .612 | ― | 153 | .249 | 2.96 | 50歳 | |
1988年 | 昭和63年 | 1位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | ― | 176 | .270 | 3.61 | 51歳 | |
1989年 | 平成元年 | 3位 | 130 | 69 | 53 | 8 | .566 | 0.5 | 150 | .271 | 3.86 | 52歳 | |
1990年 | 平成2年 | 1位 | 130 | 81 | 45 | 4 | .643 | ― | 162 | .263 | 3.48 | 53歳 | |
1991年 | 平成3年 | 1位 | 130 | 81 | 43 | 6 | .653 | ― | 155 | .265 | 3.22 | 54歳 | |
1992年 | 平成4年 | 1位 | 130 | 80 | 47 | 3 | .630 | ― | 159 | .278 | 3.52 | 55歳 | |
1993年 | 平成5年 | 1位 | 130 | 74 | 53 | 3 | .583 | ― | 114 | .260 | 2.96 | 56歳 | |
1994年 | 平成6年 | 1位 | 130 | 76 | 52 | 2 | .594 | ― | 122 | .279 | 3.81 | 57歳 | |
2001年 | 平成13年 | 横浜 | 3位 | 140 | 69 | 67 | 4 | .507 | 8 | 94 | .267 | 3.75 | 64歳 |
2002年 | 平成14年 | 6位 | 140 | 49 | 86 | 5 | .363 | 35.5 | 97 | .240 | 4.09 | 65歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1986年から1996年までは130試合制
- ※3 2001年から2004年までは140試合制
監督通算成績
- 1436試合 785勝583敗68分 勝率.574
- リーグ優勝8回、日本一6回
- Aクラス10回、Bクラス1回
日本シリーズ20連勝
森は日本シリーズには現役時代に13回(巨人)、コーチ時代に3回(ヤクルトで1回、西武で2回)、監督時代に8回(全て西武)の計24回出場しているが、3回目の出場の1961年から、22回目の出場の1992年まで20回連続優勝(日本一)を経験している。
- 現役時代 11連勝 1961年・1963年・1965年~1973年(V9)
- コーチ時代 3連勝 1978年(ヤクルト)・1982年・1983年(以上西武)
- 監督時代 6連勝 1986年〜1988年・1990年〜1992年
- シリーズ敗退 4回 1957年・1959年(以上現役時代)・1993年・1994年(以上西武監督時代)
1958年の日本シリーズで、巨人は西鉄に3連勝から4連敗を喫しているが、森はこのシリーズには出場しなかったため、1958年は出場回数には数えない。
西武は、1985年の日本シリーズで阪神に敗れているが、森は前述の通り、前年(1984年)にコーチを辞任しており、監督就任でチームに復帰したのは翌年(1986年)であったので、自身のシリーズ連勝記録が止まらずにすんだ。
V9後の巨人は1976年の日本シリーズで阪急に敗れ、1959年以来17年ぶりにシリーズ敗者となった。一方、森は20連勝の後、1993年の日本シリーズでヤクルトに敗れ、34年ぶりにシリーズ敗者となった。
解説者として出演していた番組
- 元気を日本に 日本プロ野球 - 出演していた日本テレビのプロ野球中継の現行タイトル。
- ザ・プロ野球 - 出演していたTBSテレビのプロ野球中継の現行タイトル。
- TBSラジオエキサイトナイター
- 文化放送ライオンズナイター
- 文化放送ホームランナイター
- NHKプロ野球
脚注
<references />
著書・参考文献
- 『勝つための参謀学―球界きっての知将が明かすリーダーと参謀の条件』講談社文庫
- 『人間怒り方しだい』青春出版社
- 『「勝ち続ける」ために何をすべきか』講談社
- 『男は不器用でいいじゃないか』講談社
- 『覇道―心に刃をのせて』ベースボール・マガジン社
- 『森祇晶の知のリーダー学』ごま書房
- 『責任者の条件』青春出版社
- 『「一流になる」ために何をすべきか』講談社
- 『監督―悪ガキこそ戦力だ』光文社
- 『悪役の正論―我思う。ゆえに我あり』ザ・マサダ
- 『捕手的人間の時代』ザ・マサダ
- 『情の野球 知の野球―プロ野球がもっと面白くなる考え方』PHP研究所、2001年3月、ISBN 4-569-61243-1
- 『不敗の監督学(インサイドワーク)―西武ライオンズ森祇晶 常勝の秘密』松下茂典著、オーエス出版、1991年8月、ISBN 4871902986
- 『野球力再生 名将の「ベースボール」思考術』ベースボール・マガジン社、2009年3月、ISBN 9784583101613
関連項目
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