棋士 (将棋)

出典: Wikipedio


Template:Pathnav 棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」・「プロ棋士」ともいい、本将棋職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟の正会員のことを指す。棋士は、各種のプロ棋戦に参加でき、連盟の運営を決定する棋士総会に参加する権利を持つ。女性限定の制度による「女流棋士」やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は正会員(棋士)ではない。

また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。

目次

沿革

新聞棋戦と日本将棋連盟の誕生

前近代の日本において、将棋を生業とする者は「将棋指し」と呼ばれる遊芸師芸人)であった。江戸幕府の崩壊により家元制度が消滅した後は、安定収入のある専業の将棋指しはほとんどいなくなり、賭け将棋で生計を立てる真剣師や他に生業を持つ者などが多かった。彼らはいくつかの将棋団体や将棋専門紙をつくって将棋の復興を試みたがなかなかうまくいかなかった。

1924年大正13年)9月8日、ついに東京の将棋指し三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年昭和2年)には関西の将棋指しも合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになっていき、兼業だった将棋指したちがようやく将棋を専業とすることが可能になった。

「棋士」の誕生

将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに、「将棋指し」に替わって「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の正会員「棋士」がプロの正式名称である。

棋士番号

日本将棋連盟では、正会員の棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(「将棋棋士一覧 」を参照)。

棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。

以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。

なお、棋士番号制度導入後に退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っているが、現在欠番となっているのは139番の1名のみ。

女流棋士と指導棋士

棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士指導棋士もいる(ただし、日本将棋連盟を退会して現役を続けている女流棋士もいる)。

女流棋士の制度は棋士の制度とは異なり、女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため、日本将棋連盟の正会員(棋士)ではない。したがって、棋士総会に参加する権利はない。

指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。段位は、かつては「準棋士○段」のようになっていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。

棋士になるための道

棋士になるための現行の制度について解説する。

通常のコース

詳細は、新進棋士奨励会 を参照。

新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。

奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、入会試験に合格しなければいけない<ref>後に名人となった丸山忠久でも、奨励会の入会試験で2度落ちている。</ref>。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、所定の成績を収めると、四段の棋士(プロ)となる。

6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そういう少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、およそ入会者全体の2割ほどである。

プロ編入制度

制度導入の経緯は、後述のアマチュア選手プロ編入問題 を参照。

瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる新たな道筋が模索される。2006年の棋士総会の決議により、アマチュアからプロへの編入について、以下のように「フリークラス編入試験」が制度化された。

なお、プロ入り後(フリークラス編入後)については、フリークラス を参照。

フリークラス編入試験

受験資格
  • アマチュアまたは女流棋士であって、公式戦でアマチュア枠や女流枠から出場してプロ棋士(正会員)に混じって対局をし、良いところ取りで10勝以上し、その間の勝率が6割5分以上であること(アマチュア選手にとっては朝日杯将棋オープン戦竜王戦銀河戦新人王戦棋王戦がプロとの公式対局になる)。
  • 上記かつ、プロ棋士(正会員)の推薦を受けた者であること。
編入試験
四段の棋士5人(棋士番号の大きい順/過去2年間の奨励会卒業者の場合が多い)と対局が行われる。この対局に3勝以上すればフリークラスの四段として編入されることになる。

その他

直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。

  • 三段編入試験
  • 初段受験制度

詳細は、新進棋士奨励会 を参照。

中学生棋士

中学生で棋士に昇格した者を、俗に「中学生棋士」と呼ぶ。第二次大戦後、次の4名が中学生棋士となっている。

  1. 加藤一二三(1954年)
  2. 谷川浩司(1976年)
  3. 羽生善治(1985年)
  4. 渡辺明(2000年)(正確には、四段昇段を決めたのが中学3年のときで、中学卒業直後の4月から四段)

谷川のみが中学2年でプロデビューしており、他は中学3年である。ただし、最年少デビューは加藤であり、谷川よりも1か月半若くプロになっている(加藤は1月の早生れ、谷川は4月生れであるため)。

タイトル経験者

下記を参照。

史上最強の棋士論議

「史上最強の棋士」については、将棋界囲碁界で議論の絶えないところである。

将棋において最強候補は、最低でも数人はいる。どのような視点で見るかによって見解は異なり、1人に絞ることは不可能である。 例えば以下の棋士達はいずれも史上最強議論の常連である。

  • 」「宗英以前に宗英無く宗英以後にも宗英無し」とまで言われた、九世名人六代大橋宗英
  • 諸々の事情から名人にこそなれなかったが「棋聖」(後にタイトルの名称となった)と呼ばれる幕末の天才棋士、天野宗歩
  • 名人通算8期。戦前戦後に圧倒的な強さを発揮し「常勝将軍」とまで恐れられた十四世名人、木村義雄
  • 通算獲得タイトル7期(名人通算2期)。「新手一生」、独創的な序盤戦術で近代将棋の礎を築いた升田幸三
  • 通算獲得タイトル80期(名人通算18期)。昭和の将棋界に一時代を築き、今なお「巨人」と評される十五世名人大山康晴
  • 通算獲得タイトル64期(名人通算15期)。大山の後継として昭和後期から平成初期の将棋界を席巻した「棋界の太陽」、十六世名人中原誠
  • 通算獲得タイトル27期(名人通算5期・史上最年少名人)。「光速の寄せ」。随一の終盤の寄せの速度を誇る十七世名人資格者谷川浩司
  • 通算獲得タイトル76期(名人通算7期)。史上初かつ現在に到るまで唯一の七冠を達成し六つの永世称号(含資格)の保持者。十九世名人資格者羽生善治

(上記のタイトル数は2010年5月現在)

  • 第34、35回全日本アマチュア名人戦 アマ名人。第6回読売アマ実力日本一 優勝。「新宿の殺し屋」「プロ殺し」の異名を持つ小池重明

宗英・宗歩に関しては現代の棋士に比べて知名度が圧倒的に劣るので議論になることは少ない。また日進月歩の定跡の進化の中で情報戦の様相を呈している現代将棋との棋譜からの比較は困難である。しかし天野宗歩は伝説的な棋士で、棋譜も多数残されている。当時の将棋界では傑出した実力者であったため、現存する棋譜は駒落ちの手合割のものが多いが、その実力は十分に窺うことが出来る。内藤國雄など現代の棋士の多くが宗歩の将棋を絶賛している。一方宗英も、「天野宗歩は強い。しかし一番強いのは宗英だ」と升田幸三がよく言っていたと伝えられるほどの存在である(なお宗英・宗歩と七世名人三代伊藤宗看を加えた三者は、「三英傑」とも呼ばれる)。

木村は名人になってから10年の間、平手で負けたのは一局のみ。当時の強さは驚異的で現在では考えられないほどの国民的ヒーローでもあった。今に残る木村定跡をはじめ将棋界のレベルの向上に大きく貢献し名人の権威を高めた。

升田は史上初の三冠を達成し、主に序盤の戦い方に革命をもたらし「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。健康に問題があったこともあり、実績面では大山に大きく遅れをとってしまったが人気は高く、その現代的な感覚で今でもファンが多い。休場は多いものの1979年に引退するまでA級以上に連続31期とどまった。

実力制名人になった昭和以降で一番長期にわたって強さを発揮したのは疑いもなく大山である。当時は今よりはるかに棋士数も少なくタイトルや対局数が少ない時代であり現在と単純に比較はできないが(初タイトル獲得時は二冠しかなく、全盛期に入った1963年にようやく五冠になった)、通算獲得タイトル数80期、棋戦優勝124回、通算勝数1433勝は現在に至るまで歴代1位。名人(18期)、王将(20期)をはじめすべてのタイトルで満遍なく強さを発揮した。全盛期の強さはまさに圧倒的で全冠(三、四、五冠)をとった期間も長い。59年から71年までのタイトル戦70期のうち8割の56期を獲得している。その後も長くタイトルを争い、最年長防衛(王将戦、59歳)、最年長挑戦(棋王戦、66歳)の記録をもつ。69歳で死去するまで連続45年44期A級に居続けた。羽生も著作『決断力』で「将棋史上最強の棋士が十五世名人の大山康晴先生であることは、誰もが認めるであろう。」と語っている。

中原は大山より24歳ほど年下であるが直接対決では(ピークを過ぎていたとはいえ)大山を圧倒した点は光る(中原107-55大山)。1968年には歴代1位となる年度最高勝率.855を達成し10年連続で勝率7割を超えた。2007年9月には史上2人目となる通算1300勝を達成している。獲得タイトル数64は大山、羽生に次いで歴代3位であるが全冠は達成していない。

現在もタイトル数を増やしており特に熱い期待がもたれているのは羽生である。1996年2月から7月まで史上初となる七冠独占を成し遂げた。現時点までの獲得タイトル数は76期(2010年5月現在)で歴代2位。また同一タイトル18連覇(王座)は比類なき記録である。獲得賞金も12年連続通算16回首位を保持しており(2009年分まで)、今後どこまで記録を伸ばせるか注目されている。

アマチュア選手プロ編入問題

2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦ではA級八段の久保利明らを破るなど勝率7割を超える対プロ戦の戦績をあげていた。

この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。

過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験していないため、奨励会を退会した元会員がプロ編入するとなるのは前例がないことになる。

2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。

6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった(瀬川晶司氏のプロ入りについて)。

アマチュアおよびコンピュータとの棋力差

アマチュアとプロの棋力差

昭和末期までは、アマの強豪に位置する四段・五段ですら、プロ棋士養成機関である奨励会の最底辺である6級と同等とされていた。花村元司小池重明など、プロ級のアマが現れたことはあったものの、ごく稀な例外として扱われていた。

しかし、情報技術の発達により、アマチュアも最新の棋譜や研究などの情報が手に入りやすくなったこと、また奨励会三段リーグ経験者が、退会後アマチュアとして活躍する事例が増えたこと、プロとアマが平手で対局する機会が増えたことなどの影響により、今日ではアマチュアの最強豪が公式棋戦で実力下位のプロに勝つことは珍しくない。

コンピュータとプロの棋力差

コンピュータ将棋は、渡辺明橋本崇載という強豪を相手に敗れはしたものの、接戦を演じており、対局を見た勝又清和の評価ではBonanzaは奨励会三段にまで達しているという。 詳細は、「コンピュータ将棋」を参照。

引退

引退#将棋 も参照。)

自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。

  • フリークラス編入者は、編入後10年以内または満60歳の誕生日を迎えた年度が終了するまでに順位戦C級2組に上がれなければ引退。
  • フリークラス宣言者は、宣言によるフリークラスへの転出後、順位戦在籍可能最短年数(転出の時点から仮に順位戦で全て降級・降級点ばかりを続けた場合のC級2組からの陥落までの年数)に15年を加えた年数が過ぎれば引退。または、満65歳の誕生日を迎えた年度が終了すれば引退。
  • 引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日となる(ただし、テレビ棋戦の場合は対局の放映日)<ref>2010年2月24日改定。改定前は、引退が決まった年度の末日(3月31日)とされていた。この規定改定は、引退間際に翌年度のNHK杯戦の予選を通過した有吉道夫の引退予定変更とともに発表された(「引退規定の変更について」(日本将棋連盟))</ref>。

なお、引退後も自ら退会しなければ、依然として日本将棋連盟の正会員である(引退棋士)。

脚注

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関連項目

外部リンク

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