桂枝雀 (2代目)

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2代目桂 枝雀(かつら しじゃく、本名:前田 達(まえだ とおる)、1939年昭和14年)8月13日 - 1999年平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも人一倍の努力と類稀な天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。出囃子は『昼まま』。実の弟はマジシャンの松旭斎たけし

師匠米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となったが、1999年3月に自殺を図り、意識が回復する事なく4月19日に心不全のため死去した。Template:没年齢

目次

来歴

1939年、神戸市灘区にブリキ工を営む父の長男として前田達は生まれた。小学校時に戦災に遭い、鳥取県に疎開、その後兵庫県伊丹市に移り住んだ。中学卒業後、元来進学を希望していたが、父が亡くなるなどで家族の生計が苦しく、やむを得ず夜間の伊丹市立高等学校の定時制に進学。日中は三菱電機伊丹製作所で養成工として働いたり、兵庫県立伊丹高等学校で給仕の仕事をしたりと家族を支えた。

この頃弟(後述)とラジオ番組「漫才教室」にリスナーとして参加し、好評を得る。「伊丹の前田兄弟」は素人お笑いトーナメント荒らしとして知られ、賞金を得ては生計の足しにしていた(ちなみに同番組の審査員の中には、後の師匠となる桂米朝も含まれていた)。そんな多忙な中でも勉強は怠らず、高校へは首席合格。そのため入学式では入学生代表の挨拶を務めた。特に高校生の頃から英語の学力はかなりのものであり、専門書を読めるほどで、後の英語落語にも繋がる。

1960年(昭和35年)に神戸大学文学部に入学するが、1年間通った後「大学がどんなとこか大体分りました」とあっさりやめた。3代目桂米朝に入門し落語の道を志す。「10代目桂小米」と命名された。内弟子としては米朝の一番弟子である。

小米時代は内容の設定を深く掘り下げ、大阪では珍しい繊細で鋭角的なインテリ的な落語だったという。声が小さい場面もあり、米朝から「後ろの人は聞こえんぞ」とたしなめられることもあった。客層はいつも笑う人といつも笑わない人に分かれたらしい。

間もなく、女性浪曲漫才トリオ『ジョウサンズ』でアコーディオンを弾いていた日吉川良子と出会い、「あんたみたいな天涯孤独な人探してたんや」と結婚を申し込む。(その後、ホール落語時に一門の下座三味線を買って出る)。夫人によれば、落語やこれまで喋っていたときの大らかで陽気な性格とは違い、家ではひどく陰気で、世間話もしない、テレビも見なかったので驚いたという。

最初のうつ病

結婚して間もなく長男が生まれた。また、落語だけに専念したいと言うことから、それまで行っていた他の芸能仕事もやめ、家でひたすらネタ繰りに没頭するようになっていた。1973年のある日、夫人がいつものように小米をタクシーから降りて見送ろうとすると、「演芸場に行くのが怖い」と言って、その場にしゃがみこんでしまったという。夫人は「えらいことが起きました」と米朝に連絡し、病院に連れていったところ、重いうつ病と診断された。

家庭ができて将来に対して過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところがあったという。「死んだら人はどうなるんや」「死ぬのが怖い」「わしは(今流行の)ビニールの病気や」などと、全ての事が悪いほうにいくように思えて仕方なく、食事も取らず、風呂も入らず、顔は青ざめ、家に篭りっきりになってしまった。夫人には「自分は幸せにしてやれないから別れてくれ」と泣いて頼み込むこともあったという。いくつかの病院を回ったが、処方箋を出されるばかりで快方に向かわなかった。最後にいった病院で「今必要なのは休息です。薬はいりません。自分が不安に思っていること全て話してください。そしてまた不安になったらいつでも来てください」と言われ、胸がすーっとなったという。3ヶ月間のブランクを経て、小米は高座に復活した。そして、それまでは私生活で陰気に過ごしていたときも、常に陽気で明るくいることを決意した。「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」という気持ちからだった。

2代目枝雀襲名

1973年(昭和48年)10月に大阪道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名。(笑福亭枝鶴桂福團治とのトリプル襲名であった。)これを機にそれまでの落語を大きく変える。高座では笑顔を絶やさず、時にはオーバーアクションを用い、それまでの落語スタイルの概念を大きく飛躍させ、どんな客も大爆笑させる落語であった。それまでの小米ファンには戸惑うものもいたが、客の受けは非常によく、枝雀の評判はどんどん上がっていき、米朝と時期を分けて独演会を行うようになっていった。1983年(昭和58年)芸術選奨文部大臣新人賞受賞。

1984年(昭和59年)3月28日東京歌舞伎座にて「第一回桂枝雀独演会」を開催。会場では大入り袋が出た。桂雀々 、桂べかこ(後の3代目桂南光)が前座に入り、枝雀は「かぜうどん」を演じた後で中入りとし、前後編に分けることの多い「地獄八景亡者戯」を一気に演じきった。終了後は緞帳が下りても観客の拍手が鳴り止まず、再び緞帳を開き感謝の挨拶を行った。またこの頃、英語落語(後述)を始めるようになり1988年(昭和63年)にはハワイ、ロサンゼルス、バンクーバーにて初の英語による落語公演を行った。

枝雀の出演する寄席はいつも満員で、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と枝雀だけといわれた。また、映画「ドグラ・マグラ」やTVドラマ「ふたりっ子」に役者として出演し、俳優としてもその演技力をみせた。だが、メインは落語であり、それ以外のバラエティやTVの仕事を多くするような事は最後まで無かった。

1994年5月(平成6年)、枝雀一門8人は上方落語協会を脱退した(一部弟子、孫弟子が2008年暮れに復帰)。同年12月27日にはNHKで「山のあなたの空とおく」という枝雀を特集する番組が全国放送された。

うつ病再発

晩年には古典ネタをさらに練り上げ、どこまでも完成度を高めようとしたが本人は納得いかず、また糖尿病高血圧などの持病もあってか、1997年頃にうつ病を再発。高座のマクラで「私、またうつ病になってしまったんです」と話したり、「いろんなことを試みてるうちに、自分の落語が分からなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。客は冗談だと思って笑うと、本人は涙を流しながら否定、それを客のさらなる笑いを誘う、という悪循環に陥った。

1973年以降も、時々うつ病の薬を飲んだりしていたそうだが、この時は以前のうつ病より重いものだったという。同年には何度か高座を行っており、米朝も「最近の枝雀は無駄がなくなって、前よりいいよ」と話していたが、枝雀本人は納得がいかず悩んでいたという。

一旦は回復しかかったものの、1999年3月13日に自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され病院に搬送された。全国のファンはまさかの報道に驚き、枝雀の回復を心から祈ったが、意識が戻ることなく同年4月19日に心不全のため死去した。Template:没年齢。遺書やそれらしい発言は全く無く、真の動機は謎である<ref>ただし、うつ病特有の症状として、回復期に自殺する事例が非常に多いという傾向がある。うつ病はうつ症状が発生している間、死にたくて仕方が無い気分になっても行動を起こす気力そのものがなく、自殺を実行に移すことすらできないという性質があるためである。それと比べて、回復期は何も行動できない低迷期よりも意欲は高まっている中、プレッシャーや孤独を感じる等、ふとしたことがきっかけで「死にたい」という感情に支配されやすい状態のまま行動力だけが復活していることから、自殺の実行へと踏み切りやすくなるためである。このことから、復帰後の大規模な独演会に対する過剰なプレッシャーがうつ症状の回復期と重なり、発作的に自殺を試みるきっかけとなってしまった可能性が、うつ病の症例から類推すれば十分に考えられる。</ref>。枝雀の早すぎる死に対し、師匠の米朝や弟子の南光らが悲しみ、マスコミも大きく取り上げた。

枝雀落語

持論

緊張の緩和(正確には「緊張と緩和」)
「緊張の緩和」が笑いを生むとする独自の落語理論を唱えた。これについて、同病、同業ともいえる作家中島らもは、笑いを理論的に追求しすぎることは精神衛生上好ましくないとし、自殺の可能性も含め憂慮していた。
サゲの4分類
噺の下げ(落ち)には、伝統的に「にわか落ち」「考え落ち」「しぐさ落ち」などの型があるとされるが、何をもって分別するかの視点が定まらないなど問題点もある。そこで枝雀は、笑いがどこで起きるかという点に視点を定め、独自に「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の4つの型に分類した。詳細は落ちの頁を参照。

他にも、物事を「陰」と「陽」や「閉じ」と「開き」で表現するなどの「2極分類」を用いたり、また、彼が好んで演じた「酔っ払い」の演じ方を細かく説明するなどしており、「大いなる自然の意思」を感じながら、万物を分類化して笑いに応用する、というスケールの大きさが非常に特長的に見られた。

さらに、1人を救うために4人の僧侶が死んでしまう「鷺とり」のオチを僧侶を殺さず、主人公が塔の先に戻るという内容への変更や「仔猫」での主人公の評判で「(顔が)化け物」という箇所を削除するなどの研鑽内容には「人間愛を感じる」と評され、「まぁるく、まぁるく」を信条とした彼自身のおおらかな性格とともに、高く評価された。

持ちネタ

いつしか自分の持ちネタを60と決め、これらの研鑽に専念するようになった(途中入替えもあり)。このうち代表的な持ちネタとしては「代書(代書屋)」「宿替え」が挙げられる。「代書」は大師匠にあたる4代目桂米團治の作で、代書屋とは現在の行政書士にあたる。枝雀の「代書」は、サゲがもともと大食いの話になるものであったが、或る時から「私の本職は、ポンで~す」とポン菓子製造の内容に変え更に人気のあるネタとなった。「宿替え」は三遊亭百生から稽古を着けて貰い、これを独自に練り上げた独自の噺に仕上げていた(本人が存命中に述べている)。

代表的な60のネタ

青菜」「あくびの稽古」「愛宕山」「池田の猪買い」「いらちの愛宕詣り」「植木屋娘」「牛の丸薬」「うなぎや」「延陽伯」「親子酒」「親子茶屋」「かぜうどん」「義眼」「口入屋」「くっしゃみ講釈」「首提灯」「くやみ」「蔵丁稚(四段目)」「高津の富(宿屋の富)」「鴻池の犬」「仔猫」「瘤弁慶」「子ほめ」「米揚げ笊」「権兵衛狸」「鷺とり」「佐々木裁き」「皿屋敷」「算段の平兵衛」「蛇含草」「崇徳院」「住吉駕籠」「千両蜜柑」「代書」「ちしゃ医者」「茶漬えん魔」「次の御用日」「壺算」「鉄砲勇助」「天神山」「胴切り」「道具屋」「胴乱の幸助」「時うどん」「夏の医者」「猫の忠信」「寝床」「軒付け」「八五郎坊主」「はてなの茶碗」「花筏」「七度狐」「質屋蔵」「一人酒盛」「ふたなり」「不動坊」「舟弁慶」「まんじゅうこわい」「宿替え」「宿屋仇

ただし、新作落語にも柔軟に取り組み、とりわけ年初の米朝一門会ではその年の干支にちなんだ噺を口演するのが恒例であった(ただし、「代書」を演じた年もある)。小佐田定雄の新作も積極的に口演した。

英語落語

1980年代頃から英会話学校に通い始め、校長山本正昭の協力のもと始めた英語落語で、海外にも進出した。現在は笑福亭鶴笑桂かい枝桂あさ吉らが受け継いでいる。

「当初はきちんと(ネタを)英語に訳さんと、と思っておったんですが、今では落語の雰囲気が判ってもらえればええんや、とある時ふと気が付いたんです」という趣向のため、英語がよくわからなくても楽しめるという内容になっている。 演目としては、古典落語の「時うどん」「愛宕山」などのほか、新作の「動物園」や英語落語書下ろしとなった「ロボットしずかちゃん」がある。

芸の変遷、芸風

枕を長くとる、一部からオーバーアクションと酷評された豪快で陽気な所作を遣う、表情ゆたかに語る、抑揚(めりはり)の利いた発声で噺す、といった華麗な落語の遣い手であったが後年、枕を端折る、所作や表情を抑える、声すら低く渋く落語する、サゲも短縮、というものへ変化した。

体調不良を反映していたものか、常に研究熱心な枝雀のストイックだったのか、もしくは両方が相乗していたのか知れないが、いずれにせよ余人の及ばぬ「枝雀落語」である。

旧式な大阪の町ことばに堪能であり、それを流暢に操るものだから、初めて枝雀の落語をCDのみで鑑賞した関東圏の落語ファンは、何を言っているのかわからない、そのくらい研究熱心であった。ちなみに書籍では関東圏の落語ファンにも愉しめるよう枕の部分は標準語化を施されている。

「池田の猪買い」を噺している途中、登場人物の名前を間違う、てっぽうを拵えるタイミング(枝雀は手拭いと扇子を用いてビジュアルな鉄砲を拵えた)を忘れる、その云訳に「おっかしなぁ、いつもはこんな」と首をかしげたり汗をかいたり、それが更に爆笑を呼び込むシーンがあった。サゲの直後に「すびばせんねぇ」ではなく「すんまへん」を連発して平身低頭していたので、本当にミスをしながら笑いを獲っていた模様である。

発言

  • 「枝雀の顔を見ただけであー、おもろかったと満足していただけるような芸人になりたい。」
  • 「私の中に私を見てる枝雀がいてこれが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。」(1996年(平成8年)末のコメント)

評価

  • 「枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。」(枝雀が亡くなった数日後の米朝のコメント)
  • 「死ぬよりほかなかったのかと今は思う。」(米朝の著書「桂米朝 私の履歴書」(日本経済新聞社)の一章「枝雀追悼」より)
  • 「オーバーアクションといわれるのは(弟子としては)心外。抑えるところは抑えた上で、全部理屈の上でやっているんです。」「僕らはちょっと受けると『それでいい』となるが、師匠は『もっと受けるはずだ』とその先を考えた」(桂南光
  • 「最高にノッている枝雀寄席はなぜかわからないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図ではやっていないだろうけど。」「芸人は寛美さんや枝雀さんのように常に作品を作っていかなければならない。僕はそういう人になりたいと思う。」(松本人志 ラジオ「放送室」より)<ref>2009年3月7日放送</ref>

エピソード

  • 「枝雀」の襲名は6代目笑福亭松鶴の助言で決まった。きれいな名前で芸風が似ていたことで襲名に至った。それまでは「米團治」の襲名を進めていた。枝雀自身「代書」を得意としていた為。
  • 顔がチャーリー・ブラウンに似ているなど愛嬌のある顔立ちからお茶の間にも親しまれた。
  • 自身のうつ病を本人は「死ぬのが怖い病」と呼んでいた。
  • 「すびばせんねぇ(すみませんねぇ)」などの独特の口調でも人気を博した。
  • 「なにわの源蔵事件帳」のリハーサル中、大福を本当に食べるように指示されていたが手真似と表情だけで食べるふりをした。あまりにリアルな仕草のため、その場にいた共演者・スタッフの誰一人として本当は食べていないことに気がつかなかったという。
  • 前述の「ふたりっ子」でも名演技が光ったが、この役作りと熱演が大きな負担になったとの噂もある。
  • 「体が苦しいことをして健康になれるはずがない」という理由で体を動かすこと(特にスポーツ)を嫌っていた。
  • 子供には「家でテレビはあまり見てはいけない」と教育しており、ファミコンも子供にせがまれ渋々購入したが、後に本人も夢中になった。特に「スーパーマリオブラザーズ」に熱中していたという。
  • 上岡龍太郎が20歳頃に米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で枝雀(当時は小米)を見かけ、かなわないと思い弟子入りをあきらめたという。上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続け、自身が司会の『EXテレビ』にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。
  • また、板東英二はタレント業が波に乗る以前、枝雀の弟子になりたいと門を叩いたことがあるが、激怒されたらしい(詳細不明)。そのため、板東は枝雀を恐れていた。
  • 落語の稽古は子供を散歩に連れて行きながらおこなっており、怪しい人物が叫んでいるという事で警察に通報され尾行された事もある。稽古については電車の中でも例外ではなく、熱が入って大きなアクションで叫びまくり、周りの乗客が逃げ惑うほどだった。
  • また、自身の稽古の最中で子供が泣き出した時には「うるさい!」と怒鳴りつけ、見かねた近所の住民が注意するほどであった。
  • 一つ好きなものが見つかったら自身の気が済むまで執着する性格だったようで、ある日グラタンの美味しさに感激した枝雀はその日からグラタンばかりを食べ続け。またある時はてっちり(ふぐ鍋)ばかりを連日食べ続けるなど、毎回これらに付き合わされた弟子は辟易していたという。
  • 自分の落語に対して、夫人の評価を重要視していたという。
  • 自殺の際、遺書は無かったが、枝雀が一枚残していた紙きれには、自身が復帰後に予定していた、60のネタを一日3つずつ、20日連続で行う前代未聞の独演会のためのネタ順が書かれていたと言う。

弟子

枝雀一門に属する弟子は桂音也を含めると9人。桂音也と桂南光を同着の一番弟子とした。 桂音也は枝雀よりも年上でしかも大学の先輩にあたる人物である。 当初は彼らに「一緒に進んでいこう」と師匠と呼ばせずに「兄さん」と言うように指導していた。 現在一門は「雀の学校」と題し勉強会を開催している。

家族

<以下、和暦は省略>

出演

テレビ

ラジオ

映画

他に1996年の舞台「女相撲ハワイ大巡業」のプロデュースなど。

CD

著書

関連書籍

出典

脚注

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関連項目・人物

Template:日本放送演芸大賞en:Shijaku Katsura

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