柴田勝家

出典: Wikipedio


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柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代武将大名

目次

生涯

織田信秀時代

大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり)。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。

若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが信長継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。

織田信勝時代

天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。

信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて剃髪し、信長に降伏した(稲生の戦い)。以後信長に心を寄せるようになり、弘治3年(1557年)に信勝が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告したとされており、信勝は自刃に追いやられている(また1558年とも)。信勝が津々木蔵人ら新参の家臣を重用したため、見限ったといわれる(また一度信長に助命されたにも関わらず、再度信長を廃しようとした信勝の器量の小ささに限界を感じたためともいわれる)。信勝の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。

織田信長時代

信勝の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信勝に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や美濃斎藤氏攻めではもちいられなかった。上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の内として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。信長とともに岐阜に引き上げるが、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本國寺の将軍・足利義昭襲撃(本圀寺の変)の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。

元亀元年(1570年)1月、信長は義昭に将軍権限を奪う条書を認めさせ、3月には朝廷より天下静謐権を与えられる。5月、六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保に城付きの4人の武将の内として長光寺城に配属され、下旬には戦闘となったが、佐久間信盛と共に撃退した。

元亀2年(1571年)、最初の長島攻めに参加するが戦局不利で攻撃をあきらめて退却する。勝家は殿を努めるが困難を極め負傷し旗指物を奪われた。このため、氏家直元(卜全)に交代するがその氏家が戦死する(長島一向一揆)。

天正元年(1573年)2月、信長と将軍・義昭が対立して石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。そして4月、信長出陣のもとに信長に反抗的な上京に勝家が総司令官として放火させ焼き払わせた。だがまたもや義昭は槙島城に立てこもるが勝家も加わった7万という総力戦で降伏させた。やがて義昭は追放され室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江摂津など各地を転戦する。

9月の越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり滅ぼした。北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、秀吉が先鋒を務めた。この直後に長島攻めに参加するが、またも退却する。

天正2年(1574年)、3回目の長島攻めに参加する。三手の内右翼を佐久間信盛と共に指揮する。砦を陥落させ城に逃げ込ませて2月、兵糧攻めをしてたまらず和解に応じたところを銃撃し兵で襲撃、残った農民も柵を築いて2万人を焼き殺した。

天正3年(1575年)には高屋城の戦い長篠の戦いにも参加する。

朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣前波吉継越前の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱に一向一揆を誘って前波を殺すが、一揆勢は富田をも殺し越前は一揆持ちの国となっていた。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定。勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。この際、前田利家佐々成政不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。<ref>その代わり、従前の領地近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀永田景弘らは与力から外されている。(『信長軍の司令官-武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 中央公論社より)</ref>

天正5年(1577年)、越後上杉謙信加賀にまで進出してきた。勝家は七尾城の救援に向かうが、間に合わずに七尾城が陥落してしまい、撤退中に手取川で上杉謙信に襲撃されてしまった。<ref>『戦国佐久間一族』楠戸義昭 ISBN 978-4404031556</ref><ref>勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突し、仲違いしたため、秀吉が戦線を離脱した。</ref>。 しかし天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤新五郎が越中中部から上杉軍を逐った。天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆を制圧して、さらに能登越中にも進出を果たした。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。

翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都馬揃えでは配下の前田利家ら越前衆を率いて、上洛し、参加した。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている(伊達治家記録など)。

天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国魚津城松倉城富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかった<ref>さらに取り返した越中で上杉家に隙を突かれ、一部を失った。『信長軍の司令官-武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 中央公論社</REF><REF>『織田信長合戦全録-桶狭間から本能寺まで』谷口克広 中公新書 中央公論社</ref>。

最期

本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内丹波山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった(清洲会議)。なお、この後に羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚している(従来は信孝の仲介とされて来たが、秀吉の仲介の書状により、秀吉による仲介説が有力となっている)。

その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。<ref>没年齢については57歳説、58歳説など異説が複数あるため、そこから逆算した生まれ年を推定するしかないので、現在のところ明確な生まれ年・没年齢は確定していない。</ref>辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。

菩提寺は、福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市幡岳寺。位牌も現存している。

昭和3年(1928年)11月10日、宮内省より贈従三位に叙位された。

人物・逸話

Template:出典の明記 thumb|right|220px|柴田神社境内(北ノ庄城址公園前)にある柴田勝家像

  • 信長に一度反抗した人物にも関わらず、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置いた。また、勝家の信長に対する忠誠心は絶対であったとまで言われている。
  • 一般には秀吉とは性格が合わなかったというイメージが定着しているが、ある合戦で手勢を秀吉に分け与えたとも言われている。しかし清洲会議以降の確執は修復できないものがあった。
  • 生涯を通して合戦での活躍が目立つ勝家だが、政治家としても優秀な人物であり、善政を敷き、領地をよく治めたといわれている。だからこそ、織田家で最も多くの領地を有したと考えられている。
  • 一流と呼べる実績を残した勝家ではあるが、同僚時代の羽柴秀吉や配下である佐久間盛政に軍事命令を無視され独断行動をされたり、従属大名的な存在であった前田利家の秀吉方への寝返りを容認するなど、人の使い方において少し脇が甘い部分もあった。
  • 刀狩を一番初めに行なったのは、秀吉ではなく勝家という説があるTemplate:要出典。勝家は回収した刀を新しい農具や釘などに代えていた。
  • 元来、武骨の性格でその秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、戦場における突進力では柴田勝家が随一という意味でかかれ柴田とも呼ばれた<ref>江戸中期の随筆『翁草』</ref>。
  • 勝家の長光寺城主のときのこと、六角氏が長光寺城に攻め寄せてきた。戦況は一進一退であったが、六角氏方が城に通じる水源を絶ち、水不足に陥って勝家の軍の士気が急速に衰えた。もはやこれまでというときに勝家は水瓶を兵卒に見せ「残りの水はこれだけである、ここで死ぬのならば打って出よう」と叱咤し、残りの水を飲ませた後、水瓶を割って、自ら先頭に立ち斬りこんでいったことから瓶割り柴田と呼ばれるようになったと言われている(これは『武家事記』による創作であるともいわれる)<ref>小学館『新説戦乱の日本史 第17号 賤ヶ岳の戦い』</ref>。
  • ある時、信長が勝家を先陣の大将に任じようとすると勝家は辞した。信長はさらに強いて大将にした。その後安土城下で勝家の隊の行列に信長の旗本が衝突、勝家はこの旗本を無礼と殺した。これに信長は激怒したが勝家は「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」と答え、信長もこの勝家の道理には負けて言葉を返せなかった(『常山紀談』)。
  • 前田利家は「柴田修理(勝家)は信長に仕えてから戦功およそ二十四度ありと誇った」と語ったとされている(『武家事記』)。
  • ルイス・フロイスは著書『日本史』で「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」と記している。
  • 勝家が加賀平定を信長に報告するために上洛したときのこと、茶会の席で信長より織田家伝来の姥口の茶釜を賜ったという。
  • 賤ヶ岳の戦いで敗北後、前田利長の居城府中城で前田利家と対面し、先に撤退した利家を責めなかったばかりか、数年来の骨折りを謝して勝家は利家に対し、「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように」と語ったという<ref>小学館『新説戦乱の日本史 第17号 賤ヶ岳の戦い』</ref>。
  • 北ノ庄城落城のとき天守閣の九段目に登り「修理が腹の切り様見申して後学に仕候へ(勝家の腹の切り様を見て、後学にして欲しい)」と叫び、老女一人を残してお市や侍女たちを一突きにしたあと、80人の家臣とともに切腹して果てた。勝家は自害の直前、お市に城から逃れるように勧めたが、市は「浅井落城で逃げてまたもや」と拒絶したという。このとき、勝家自身は腹を十文字に割いて自害したという<ref>『イエズス会日本年報』、小学館『新説戦乱の日本史 第17号 賤ヶ岳の戦い』</ref>。

家臣・与力

一門衆
  • 柴田勝里<ref>勝家の庶子といわれている。</ref>
  • 柴田勝忠<ref>勝家の末子といわれている。</ref>
  • 吉田次兵衛 - 姉婿
  • 柴田勝全<ref>『近江仲島文書』に名がある柴田勝定と同一人物と考えられている。</ref>

家臣

与力

勝家が登場する作品

テレビドラマ

映画

漫画

ゲーム

脚注

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関連項目

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