東條英機

出典: Wikipedio


Template:告知 Template:日本の内閣総理大臣 東條 英機(とうじょう ひでき、新字体で東条 英機<ref>学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書における歴史人物名としての表記は「東条英機」、存命中の『職員録』など印刷物における表記は「東條英機」、御署名原本における大臣副書は「東條英機」である。</ref>、明治17年(1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 昭和23年(1948年12月23日)は、日本陸軍軍人政治家。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は昭和16年(1941年10月18日 - 同19年(1944年7月18日)。

階級位階勲等功級陸軍大将従二位勲一等功二級永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日巣鴨拘置所死刑執行された。享年65。

目次

生涯

生い立ちと経歴

thumb|160px|若い頃の東條英機 東條英機は明治17年(1884年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた<ref>誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている</ref>。

東條家は江戸時代宝生流ワキ方能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれた<ref>当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたと言われることがある。もっとも八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗という明確な理由があるという。また、陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの首席31名のうち、大将にまで昇進した者は15名に過ぎないことから、首席が大将になれないことは珍しいことではない。ほぼ同世代の一戸兵衛弘前藩)、松川敏胤仙台藩)、柴五郎会津藩)は大将となっており、この世代(1855-60年生まれ)の大将計12名のうち、東北地方出身者3名を除くと、皇族、長野県、静岡県、福井県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、宮崎県それぞれの出身者が1名ずつであり、出身地によって大将への昇進に差別があった事実は認められない。</ref>。

英機は番町小学校四谷小学校学習院初等科(1回落第)、青山小学校東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。

陸軍入隊

Template:基礎情報 軍人 明治38年(1905年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。明治40年(1907年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

明治42年(1909年)、伊藤かつ子と結婚。明治44年(1911年)に長男の英隆が誕生。大正3年(1914年)には二男の輝雄が誕生。大正4年(1915年)に陸軍大学校を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。大正7年(1918年)には長女が誕生、翌・大正8年(1919年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。大正9年(1920年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、大正10年(1921年)7月にはドイツに駐在。

大正11年(1922年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。大正12年(1923年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。大正13年(1924年)に陸軍歩兵中佐に昇任。大正14年(1925年)に三男・敏夫が誕生。大正15年(1926年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。昭和3年(1928年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。昭和4年(1929年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。昭和6年(1931年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。

昭和8年(1933年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。昭和9年(1934年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。昭和10年(1935年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。昭和11年(1936年)12月1日に陸軍中将に昇進。

関東軍参謀長

昭和12年(1937年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。関東軍参謀長であった東條は、北支事変日中戦争)の勃発後、内蒙古の徳王を指導し、綏遠省(内蒙古自治区中南部)侵入を支援した(綏遠事件)。結果、中華民国側は綏遠省主席の傅作義の指揮で徳王は一週間で撃退された。これ以降中華民国側は、東條を日本の満州権益拡大を主導する人物として警戒するようになった。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという<ref>秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁</ref>。

陸軍次官

昭和13年(1938年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる<ref>額田坦回想録23頁</ref>。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣大臣の下、多田参謀次長、中島総務部長、飯沼人事局長と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた<ref>額田坦回想録79頁</ref>。

陸軍大臣

昭和15年(1940年)7月22日から第2次近衛内閣第3次近衛内閣陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。 昭和16年(1941年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。

ただし日中戦争を泥沼化させたのは「近衛声明」を宣言した第一次近衛内閣の近衛自身であり、日本の対米対応の指針は、閣僚と陸海軍統帥部の合意によってとり決めた「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を御前会議で正式に確定しているため(1941年7月)、その後、近衛が東條に閣議で妥協案を相談したとする「近衛日記」での近衛の主張は、やや矛盾と自己弁護のきらいがある。(陸海軍は国策要綱に従って既に動き出しており、御前会議で確定した国策要綱は東條一人を納得させて変更できるような問題ではないため)

首相就任

[[ファイル:Cabinet of Hideki Tojo 2.jpg|thumb|1941年10月18日東京府東京市総理大臣官邸にて初閣議を終えた東條英機と東條内閣国務大臣ら]]

木戸幸一内大臣らは、政権を投げ出した近衛文麿首相の後任として、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により日米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。

天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。

木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている<ref>『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。</ref>。 ただし木戸は勝田龍夫『重臣たちの昭和史』において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。 東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。 また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もあるが、田中隆吉の手記によれば第3次近衛内閣が総辞職する3日前に加藤泊治郎憲兵司令部総務部長が木戸幸一内大臣を尋ね「東條を首相とせねば陸軍を統制することを得ない」と脅して木戸に東條を推薦させたとしている。

日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、昭和16年(1941年)10月18日に、第40代内閣総理大臣内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する<ref>当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。海軍大臣嶋田繁太郎海軍大将であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。</ref>。第2次近衛内閣第3次近衛内閣と日米開戦に近づく政策を実行した政権指導者であった近衛文麿<ref>近衛文麿自身は後日近衛上奏文において操られて満州事変から戦争拡大の道を進んだという見方を持ったことを書き残している。</ref>を引継いだが、日米開戦を回避させるため、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻した。 この年『戦陣訓』を作成し布達している。

現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。昭和16年(1941年)12月23日に封切られた日本ニュース第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。

太平洋戦争(大東亜戦争)

[[ファイル:Cabinet of Hideki Tojo.jpg|thumb|東條内閣国務大臣らと東條英機]] [[ファイル:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ張景恵汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパンホセ・ラウレルスバス・チャンドラ・ボース]]

開戦

昭和16年(1941年)12月8日、日本はイギリスアメリカ宣戦布告太平洋戦争大東亜戦争)に突入した。その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋アメリカ本土オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。

開戦の経緯と謎

一般的には米国側が提出したハルノートが最後通牒だったために開戦に至ったとされているが、疑問視する意見がある。 ハルノート原文では欄外に「暫定無拘束」(Tentative and without commitment)と、わざわざ最後通牒ではない事が記載されていたにも関わらず、外務省はこの部分を削除して東郷外相は最後通達だと政府に伝えたのである。意図的な改竄ならば、日米交渉に期待をかけていた天皇や東條は外務省に騙された事になる。<ref>中央公論新社『吉田茂という逆説』保阪正康</ref>

東條首相罵倒事件

オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等のため、ガダルカナルの飛行場を是が非でも奪還したい海軍はこの付近に大兵力を投入し、さらに陸軍にも応援を要請した。過去3度にわたるガ島奪還作戦はいずれも失敗し陸軍の輸送船団は殆どが撃沈されたが、参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画した<ref>『小説太平洋戦争』</ref>。 参謀本部は輸送船の増船を政府に要求するが東條はそれを拒否する(元々東條はこの方面の作戦には反対で、過去に投入した船団は全滅状態であり、また参謀本部の要求を通すと国内生産が維持できないため)。 このため参謀本部の田中新一作戦部長は首相官邸に直談判に行き、討論の末、政務側の東條らに「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねばならぬ。」と穏やかに諭した。 これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりに予算を政府側に認めさせた。しかし奪還作戦は中止されガ島撤退が確定する。その後もニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが殆どが撃沈されている(ダンピールの悲劇など)。なお、この方面の海軍側の司令官は井上成美であったが途中で更迭されている。<ref>児島襄『太平洋戦争 上』中公新書 (84) 312頁 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ79頁</ref>。

大東亜会議主催

東條は昭和17年(1942年)に外務大臣(~9月17日)、同18年(1943年)には文部大臣(~4月23日)・商工大臣軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。同年には大東亜会議を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。

東條は「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。

しかし、昭和17年(1942年)9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。

三職の兼任

統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、戦況が悪化してもその情報を政府になかなか報告せず、また民需を圧迫する徴用船舶増強など無理な要求を出しては東條を悩ませた。昭和19年(1944年)2月17日、18日のトラック島の壊滅を知り、東條はついに参謀総長兼任を決意し<ref>『東條秘書官機密日誌』128-133頁</ref>、2月19日に、木戸内大臣に対し、「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、参謀総長を自分が兼任する」と言い上奏。天皇が「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。<ref>歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』83頁 中央新書クラレ</ref>2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山総長の勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部~第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした<ref>額田坦回想録148頁</ref><ref>『杉山メモ(下)』資料解説27頁</ref>。海軍軍令部の永野総長も抵抗したが、海軍の長老格伏見宮の意向もあって嶋田海相が総長を兼任することになった<ref>『杉山メモ(下)』資料解説32頁</ref>。

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判した<ref>額田坦回想録149頁</ref>。首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。これに関連して、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話<ref>『佐藤賢了回想録』</ref>がある。ただし、特に独ソ不可侵条約締結の頃には東條に限らず「あの伍長上がりに振り回され…」等と、ヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている。

但し東條が三職(総理大臣、陸軍大臣、参謀総長)を兼任したとて、その権限は戦後の新憲法下の総理大臣の権限に比べれば遥かに小さい。例えば当時の総理大臣は他の大臣を罷免する権限も任命する権限も無く、一人でも閣僚が内閣の政策に反対すれば総理は政策を実行できない状態となる。また参謀総長は天皇を除けば陸軍の事実上のトップとされたが、実際にある権限は天皇に対してアドバイスする権限のみで、参謀総長が軍の司令官に対して命令を出したり罷免するような権限は一切無い(軍の司令官は天皇の直属の部下であり、参謀総長の指揮下の部下ではないため)。陸軍は陸軍、海軍は海軍で勝手に戦争をやっているような状態であり、東条は戦争の状況を(特に太平洋での海軍の戦況)、勝算があるのか無いのかすら殆ど把握できていない状態だったと見られる。

1944年4月12日の「細川日記」によれば近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという<ref>細川日記180頁</ref><ref>吉田裕『昭和天皇の終戦史』34頁</ref>。

退陣

戦況の悪化に伴い連合国軍により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の守備を増強したが、1944年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した(但しこれらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権がありサイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。グアムテニアンも次々に陥落する。内閣改造の意向を示した東條に対して、木戸内大臣は、1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、2.嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、3.重臣の入閣を要求。木戸の要求を受け入れて東條は、内閣改造に着手しようとしたが、岸が造反し、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかったのである)。東條の内意を受けた四方諒二憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。

東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた<ref>赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』</ref>。 東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあった為、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。Template:要検証範囲<ref name="nukata">『額田坦回想録』</ref><ref name="sugamo">『巣鴨日記』</ref>。赤松秘書官は回想録で、周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまったとしている<ref>『東條秘書官機密日誌』160-161頁</ref>。

広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。

しかし政変によって反東條派に占められた内閣と統帥部は、より無謀(特攻)な作戦と国民総動員体制を強くばかりで、なんら良い方向への策は示せず、マスコミも一億玉砕・本土決戦を本格的に主張するようになり、東條政権下より遥かに悪い結果を招くこととなった。

東條英機暗殺計画

戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。1944年9月2日には陸軍の津野田少佐が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、その実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった<ref>『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本 17)新人物往来社</ref>。

但しこれら反東条派が終戦を目指していたかどうか疑問である。海軍を中心としたこれら反東條派は、海軍予算を増やして海軍航空兵力を増強し、米軍に大勝した上で終戦に持ち込もうという現実性に乏しい考えであった。

重臣

辞任後の東條は重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。 鈴木貫太郎内閣が誕生した昭和20年(1945年)4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥陸軍大将を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしめなる(鈴木貫太郎岡田啓介は、共に2.26事件で標的にされた海軍大将の盟友同士)。

終戦工作への態度

昭和20年2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫550頁</ref>。「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた<ref>『加瀬俊一回想録』</ref>。だが、御前会議の天皇の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條に決起を期待して尋ねてくると、東條の答えは「陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正大尉に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫562~569頁</ref>

戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており<ref>来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P168 </ref>、終戦について早い段階から視野に入れていたことも判明している。

敗戦と自殺未遂

[[ファイル:Tojo beinjg treated by American doctors.psd.jpg|thumb|自殺未遂後GHQのアメリカ軍病院で手当を受ける東條]] right|thumb|回復後の健康診断を受ける東條

詳細は東條英機の自殺未遂を参照

昭和20年(1945年8月15日終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。 東條は自らが戦犯として逮捕は免れないと覚悟していたが、その逮捕がいつになるか具体的には知らされていなかった。昭和20年(1945年9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗している。

GHQによる救命措置

銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。

未遂に終わったことについて

これまでにも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東条批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。

拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日読売毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった<ref>1946年9月16日朝日新聞等</ref>。

なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説<ref>『日本の100人 東条英機』</ref>や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説<ref name="Butow14"/>もある。

東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。

米軍MPによる銃撃説

なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている<ref name="nukata"/>。 歴史家ロバート・ビュート保阪正康も銃撃説を明確に否定している<ref name="Butow14"/><ref>『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁</ref>。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。

戦陣訓

下村陸相は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた<ref name="nukata"/>。

重光葵は「敵」である米軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した<ref>牛村圭『「戦争責任」論の真実』66頁</ref>。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていたという<ref name="sugamo"/>。

ただし戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」の部分は一般に信じられている「捕虜となるよりは、自殺すべし」という意味ではないと言う解釈がある。戦陣訓を参照。

東京裁判

東京裁判は、戦勝国が検事と裁判官をかねて敗戦国の「開戦責任」と「経過責任」を断罪する「勝者の裁き」であった<ref>『「戦争責任」論の真実』50頁</ref>。

スケープゴートを引き受けた東條

GHQのマッカーサーは、日本の占領統治は天皇を利用するために、天皇の戦争責任を問わない方針を定めたが、連合国の中には天皇の戦争責任を問うべきだとする国もあった。 1946年3月6日マッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内光政海軍大臣をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えて東條に天皇を守るためにスケープゴートとなるよう要請し、東条はそれを受け入れたとされている<ref>『資料日本現代史2』栗屋健太郎</ref><ref>『人物探訪:昭和天皇を護った二人のキリスト者(下)』伊勢雅臣</ref>。 東條は東京裁判をとおして「自己弁護」は行わず、この戦争は「侵略戦争」ではなく「自衛戦争」であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言した<ref>『「戦争責任」論の真実』52頁、74-75頁</ref>。また東條は、責任は自分にあって天皇にはないと主張し、この点では天皇の免責を目指すキーナン首席検事と同じであった。東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した<ref>『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫 614ページ)</ref>。

不問に付された海軍

米内がGHQの裁判方針に協力したためか、日中戦争では陸軍以上に強行に重慶爆撃などにあたった海軍幹部の及川古志郎(支那方面艦隊司令長官)、長谷川清(第3艦隊司令長官)、豊田副武(第4艦隊司令長官)、井上成美(支那方面艦隊参謀長)など米内当人(当時も海軍大臣、次官は山本五十六)を初め米内に近い海軍幹部は裁判でだれも責任を問われることはなかった<ref>石原広一郎は、支那事変の責任者である米内が基礎を免れたことを不思議としている。『石原廣一郎関係文書 上巻 回想録』柏書房 1996年 306頁</ref>。逆に海軍の真珠湾奇襲攻撃の責任を、その指揮権がない東條が問われることになる。

海軍の大物では唯一戦犯として実刑となった嶋田繁太郎海軍大臣(終身刑、後に釈放)は、当時海軍の実権を握っていた伏見宮博恭王軍令部総長から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と指示されたため開戦を決意する他なかったと語っている。

判決と処刑

thumb|極東裁判にて、被告台に立つ東條。 thumb|戦後のものか、珍しいネクタイ姿の東條

東條は昭和23年(1948年11月12日極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑判決を受け、12月23日巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。

東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎有末精三石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった<ref>秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』『昭和史の謎を追う・下』</ref>。

辞世の句は、

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき
散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは
今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ

仏教への帰依

晩年は浄土真宗信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師花山信勝の影響で浄土真宗帰依した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎木村兵太郎土肥原賢二広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。

浄土真宗に帰依してからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、それまで信じていた国家神道をも否定、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。

また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。

さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。

処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。

さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき
明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む
日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく

尚、戦時中の戦争協力は仏教界も例外ではなく、特に大谷光照率いる浄土真宗本願寺派は「戦時教学」によって戦争協力に多大に寄与した教団である。このため仏教界が自らの反省をせず漠然と国家神道や靖国神社を批判してきた戦後の仏教界の姿勢には批判がある。<ref>『戦時教学と浄土真宗―ファシズム下の仏教思想』</ref>

遺骨と神道での祭祀

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

小磯國昭弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市興亜観音に運ばれ隠された。昭和33年(1958年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、同35年(1960年)8月には愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

東條英機は陸軍に対して、靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している<ref>「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの</ref>。 刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、昭和41年(1966年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、同45年(1970年)の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は昭和53年(1978年)にこれらを合祀している。

なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。

主に批判的な評価

政治姿勢に対する批判

自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)<ref name="kanji">『秘録・石原莞爾』</ref>。


カミソリ東條の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされる一方、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという<ref name="kanji"/>。


軍官僚としての実力

渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただしゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団について、戦闘に参加しているか否かを取り調べもせずに処刑することに対しては、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない。Template:要検証範囲

昭和20年2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。<ref>『現代史の争点』229頁 秦郁彦 文春文庫</ref>


民政に対する態度

「モラルの低下」が戦争指導に及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に来た係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている<ref>井上寿一『日中戦争化の日本』 P171-172</ref>。

ゴミ箱あさり

また、Template:要出典範囲、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという<ref>『東條秘書官機密日誌』34-35ページ</ref><ref>『黎明の世紀』28頁</ref>。これに関連して昭和18年(1943年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした<ref>『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 満州事件・支那事変期』312-313頁中央新書ラクレ</ref>。

敵対者・批判者への対応

また、敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條特有の方法で、竹槍事件<ref>毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい海軍側の証言『証言 私の昭和史』学芸書林、陸軍側の証言『現代史の争点』文藝春秋 </ref>では昭和19年(1944年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と自分に批判的な記事を書いた新名丈夫記者、37歳を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとした。

逓信省工務局長松前重義は技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したために、勅任官待遇だったにもかかわらず42歳にして二等兵として召集され、南方に送られた。高松宮は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている<ref>『高松宮日記 第7巻』522頁 昭和19年7月補記欄 中央公論社</ref>。また、細川護貞は『細川日記』昭和19年10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省は取り消しを要請したが富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった<ref>秦郁彦『現代史の争点』文春文庫243頁</ref>。松前は10月12日、無事にマニラに着いたが、40代の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ<ref name="nukata"/>。(以後の松前の経歴は当該項を参照のこと)<ref>『二等兵記』東海大学出版</ref>。

旧加賀藩主前田本家当主で陸軍軍人であった前田利為侯爵は、東條を「頭が悪く先の見えない男」として批評していた<ref>『ある華族の昭和史』146頁</ref>が、東條が台頭することで予備役に編入された。昭和17年4月に召集された前田は、9月5日ボルネオ守備軍司令としてクチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から遺品と遺骨の一部が収集された。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で戦死とした。11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條は馬奈木ボルネオ守備軍参謀長に対して「今回は戦死と認定することはできない」とし、東條の命を受けた富永人事局長によって「戦死」ではなく「戦地ニ於ケル公務死」とされた。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた<ref>『陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』中公新書クラレ 249-252頁</ref>。但し、その後同じく飛行機で消息を絶った古賀峯一大将は戦地での公務死であるにも関わらず戦死とはならなかった。

尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは昭和17年(1942年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。

政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一有馬英治浜田尚友に対して、東條が懲罰召集したとする主張がある<ref name="纐纈">纐纈厚『憲兵政治』p.97, 新日本出版社、2008年、ISBN 9784406051170</ref><ref name="summer">吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』</ref>。

東條の不興をかって前線送りになった将校は東條に戦局に関する直言し、即日サイパン送りとなった陸軍省整備課の塚本清彦少佐ら多々おり、塚本は昭和19年6月13日、第31軍の守備参謀として送り出され、1ヵ月後グアムで玉砕している。<ref>歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ85頁</ref>

石原莞爾とは陸軍士官学校の同期で親しく、やはり東條と馬が合わなかったといわれる、第17師団の師団長だった平林盛人中将は、太平洋戦争初期のころ、進駐していた徐州で将校らを集めて、米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行い、東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。彼もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。<ref>中日新聞2009年12月7日 朝刊「陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説」</ref>

特高、憲兵の利用

Template:要出典範囲昭和18年10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79頁</ref><ref>この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元旦の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある</ref><ref>但しこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎。</ref>。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している<ref>『日本憲兵正史』p.716下</ref><ref>本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである。保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79-80頁</ref>。また秦郁彦は、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音夫検事に対して、その報復として召集令状が届いたとしている。<ref>秦郁彦『現代史の争点』210頁文藝春秋</ref>

その他、国内での批判など

秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。

司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。

元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている<ref>阿川弘之『軍艦長門の生涯』</ref>。

長短を踏まえた評価

昭和天皇からの信任

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。

昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に尽力したこと、ドーリットル空襲の際、米兵を捕虜にした時に参謀本部の反対を押し切って、正当な軍事裁判を行ったこと、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに反対した点などをあげている<ref>『昭和天皇独白録』 文藝春秋社 --参考文献</ref>。

東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、本来は話せばよくわかる人物であったと述べている<ref>前出『昭和天皇独白録』P103-104</ref>。

国内における一定の評価

重光葵の評

Template:要出典範囲

徳富蘇峰の評ー日露戦争指導層との対比ー

徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物欠乏」を挙げて「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている<ref>徳富蘇峰『終戦後日記IV』25-27頁</ref>。

井上寿一の評

井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。 国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している<ref>井上寿一『日中戦争化の日本』 P172 ,P186</ref>。

来栖三郎の評ー大東亜主義に対する姿勢ー

来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている<ref>来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P174</ref>。

山田風太郎の評

山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている<ref>『戦中派不戦日記』9月17日</ref>。 自決未遂直後は痛烈に批判した山田風太郎だが、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。

  • 東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
  • GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
  • 敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
小汀利得の評ー言論統制に関してー

中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度がうかがえたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している<ref>『私の履歴書 反骨の言論人』2007年10月1日 P277</ref>。

外国からの一定の評価

バー・モウの評

ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。

レーリンクの評

東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。

トケイヤーの評

ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、昭和12年(1937年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている<ref>なお、帝国陸軍内においてドイツとイタリアとの三国同盟締結を推進したのは当時陸軍次官の東條であった。</ref>。 Template:Main

批判的な評価に対する反対意見

作られた虚像

Template:要検証範囲

反東條派の人物に対する疑念

高松宮宣仁親王細川護貞ら反東條派の宮中グループに近かった松前重義は、「細川日記」等によると東条の私恨によって懲罰召集されたとされている。自身もその時の苦労を自伝で語っているが、保阪正康は「それを裏付ける正確な資料はない」とし「松前自身はこのエピソードを巧みに使って戦後のアリバイにした。そのために、真偽とりまぜて不必要に語りすぎている面もある。」と疑問視ししている。戦時中の政治姿勢や主張も「何やらその辺のいい回しは、少々自分に都合のいいようにできすぎている。」「黒幕といわれ、ときにフィクサーとも怪物ともいわれるのだが、実際にはどのような人物なのか」と松前の人物像に対してやや疑念を抱いている。<ref>『忘却された視点』</ref> この件は松前が設立した東海大学のサイトでも紹介されており、内閣にとって都合の悪い主張をしたため松前は東条内閣によって懲罰召集されたと、長男の松前達郎氏(東海大学学長)の言葉として紹介されている。

高松宮宣仁親王はこの松前の召集に対して手記で「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と批判した<ref>『高松宮日記』中央公論社</ref>。しかし昭和天皇は高松宮のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒している<ref>『昭和天皇独白録』 文藝春秋社 --参考文献</ref>。

細川護貞は東条の自決失敗を聞いて9月12日の日記に「傷つきたる後の談話といひ、今日に至りたる態度といひ、人間の出来損なひなること明瞭なり。かる馬鹿者に指導されたる日本は不幸というほかなし。」と罵倒した。一方、自分が仕えた同じ戦犯容疑者で、日中戦争を拡大させて政権を途中で投げ出した近衛の自殺に対しては、悲嘆にくれながらも「公は死すべき時に死なれた。余は更めて公の聡明と勇断に、最上の敬意を表する。」と12月17日の日記で褒め称えている。 高松宮宣仁親王細川護貞に「誰か東條を殺す者はいないのか?」と問い、細川は「では私が東條を殺します」と答えた。高松宮は、さすがにそれはまずいと止めたという。<ref>『大人の見識』阿川弘之</ref>


木戸幸一は裁判用に作成した「木戸日記」では「日米衝突を回避するために陸軍を抑える力のある東條を首相に推した」と書いてるが、 戦後には「どうせ誰を持ってきても戦争は避けられないから(そして敗戦は必至だから)皇族内閣など作ったら皇室に累が及ぶ、だからどうせなら平民、軍人の方がいいじゃないかというので東條英機を推薦した」と言い放っている<ref>『重臣たちの昭和史』(</ref>。 裁判中の移動のバスの中で武藤章らに「木戸日記」のデタラメな内容を問い詰められ罵倒されたが、木戸は顔を真っ赤にして何も反論できずに顔を隠したと言う<ref>『巣鴨日記』笹川良一</ref>。 裁判では陸軍への責任転嫁に終始した木戸だが、それとは対照的に自己弁護、責任転嫁を一切しなかった広田弘毅の姿勢を「立派だとは思うが・・・つまらんことだと思うんだ」と評したという。<ref>「重臣たちの昭和史」勝田龍夫</ref>


東久邇宮稔彦王は、東條に組閣の大命が下った際「私は東條陸相に大命が降下したと開いて、意外に感じた。東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、天皇陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない」と不安を語っている<ref>東久邇宮著『東久邇宮日記』</ref>。さる1941年9月24日より、東久邇宮は日米関係を好転をさせるため、日米間の懸案となっていた日中問題(日中戦争)の解決を図ろうと頭山満に依頼<ref>頭山君、どうか重慶まで行って、蒋介石と会い、この泥沼化しようとしている日支関係を和平に持ち込んで貰えないだろうか</ref>し、蒋介石との和平工作を試みさせた。蒋介石から「頭山となら会ってもよい」との返事を取り付けることに成功し、東條英機首相に対し和平工作の経緯を説明、飛行機の手配など協力を依頼したところ「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶、これによって日中間による和平会談はチャンスは幻に終わった<ref>東久邇宮著『私の記録』</ref>。続く1941年11月26日、東久邇宮は米国からハル・ノートが交付されると東條英機首相に面会し「アメリカは第一次大戦後日米戦争の準備をしている。外交上日本は短気を起して大変なことになると聞いた」と留学中にジョルジュ・クレマンソー元仏首相から聞いた忠告を交え、日米開戦に踏み切らないように説得を行った。東條は「それはよくわかっています。しかし、米・英・支那・オランダの包囲網ができて、日本はじりじり首をしめられている。このままゆけば自滅するほかはない」と答えた。これに対して「それがアメリカの外交の手ではないか、それにだまされずに、ここで隠忍自重して、向こうの手に乗らないようにすべきだ」と東久邇宮は力説したが、東條は「坐して亡国となるより、日本が出てゆけば、戦争は勝つか負けるか二つに一つである。少なくとも勝利の公算は二分の一である。このまま引き下がることは断じてできない。総理大臣として、陸軍大臣としてこのまま見逃すことは断じてできない。戦うほかに方法はない。見解の相違である」と開戦の決意を述べた<ref>日米開戦、東久邇宮稔彦,東条英機,クレマンソー,ウィキペディアの信憑性</ref>。 戦争も終盤になり日本の敗色が濃くなると反東条派の動きが高まった。東久邇宮は、終戦工作を実行するために東條内閣の打倒策と次期首相の選任について話し合った会合の場で、近衛に「東條も今度は弱ったようだ。最近になつて自分は自信を失つてきたので、誰か適当な人があれば辞めたいと言って来たので私は『今絶対に辞めてはいかん。内閣を改造してでも続けよ』と言ってやった。私は東條に最後まで責任をとらせるが良いと思う。悪くなったのは東條が皆悪いのだ。すべての責任を東條におっかぶせるが良い。内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりし、最後は皇室に責任が来るおそれがある。だからあくまで東條にやらせるがよい」と述べ、終戦後の戦争処理のことも考え責任の所在を曖昧にすることはなるべく避けるべきとの立場から東條内閣による和平工作を支持した<ref>近衛日記</ref>。

陸軍悪玉論に対する疑問

Template:Main 東京裁判においても戦後の論調においても東條ら陸軍の責任ばかりを問う戦後の論調が多い中、海軍側にも戦争に至った大きな責任があったのではないかとする見解が少なからずある。日中戦争を泥沼化させ対米英との衝突の原因を作り、太平洋戦争でも収拾をつかなくさせたのはむしろ海軍ではないかとする、以下がその主な要点である。

  • 上海事変の際、陸軍派遣を渋る不拡大方針の陸軍参謀本部に対して、閣議で海軍側が陸軍の派遣を強く要請したこと。<ref>『 米内光政と山本五十六は愚将だった』三村 文男</ref>
  • 陸軍の上海派遣軍による南京攻略を、海軍の米内海相が閣議で強く希望したこと。<ref>『海軍の選択』相澤淳</ref>
  • 支那事変を早く終結させたい陸軍中央のトラウトマン工作(和平交渉)推進に対し、米内海相や末次内相など海軍関係者が強く反対し潰したこと。<ref>『現代史資料』陸軍4</ref>
  • 上海への渡洋爆撃から重慶爆撃へと、中国人の抗日感情を決定づけ国際的にも警戒感を与えた大規模な航空機爆撃(後期は無差別爆撃)は井上成美ら海軍が主導して実施したこと。<ref>『連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪』中川八洋</ref>
  • 対米英戦争の直接的な原因となった南部仏印進駐(侵攻)は海軍主導だったこと(南進論)。<ref>『太平洋戦争 日本海軍戦場の教訓』半藤一利・秦郁彦・横山恵一</ref>
  • 伏見宮博恭王軍令部総長は嶋田繁太郎の海軍大臣就任時に「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と指示しており、東條の首相就任時にはすでに海軍は開戦を決めていたこと。
  • 米国民感情の全てを敵に回すような海軍の真珠湾奇襲の作戦さえ無ければ、米国は総力で戦争を継続することは難しいので早期終戦の可能性があったとする意見。
  • 大本営・海軍作戦部がミッドウェー海戦の大敗を陸軍や東條総理兼陸相に対してさえ隠蔽したこと<ref>『幻の大戦果 大本営発表の真実』30-35頁</ref>。
  • 補給を無視して大きな犠牲を出した太平洋南方への無謀な作戦(ガダルカナル、ニューギニア)も海軍の作戦だったこと。(海軍が陸軍に応援を要請する。東条は反対し身を挺して予算権で抵抗。東條首相罵倒事件)<ref>『米内光政と山本五十六は愚将だった』三村 文男</ref>
  • 海軍は特攻兵器を多用したこと。最後まで大量の自爆攻撃をやっていた。(陸軍には形式上、正式な特攻兵器、自爆作戦は無い)<ref>『8月15日の特攻隊員』</ref>
  • 東条政権の前後の政権方が、より無策な政権だったこと。米内海相は小磯首相の和平工作を潰し、海軍軍令部で豊田、大西の海軍主戦派人事を断行するなど迷走し終戦をより困難にするなど、東條退陣後の方が政府も軍もより愚かになったこと。<ref>『帝国海軍が日本を破滅させた』佐藤晃</ref>
  • 海軍の航空機は零戦一式陸攻など防弾装備が全く無く、銃撃を受けると簡単に炎上するためワンショットライターと揶揄された。このためレイテ戦以降、海軍航空機は米軍機に対抗できず特攻攻撃による作戦を強いた。それに対して陸軍の航空機は、爆撃機の九七式重爆撃機では防弾鋼板、防漏式燃料タンク、防弾ガラスが装備され、戦闘機でも一式戦闘機(隼)では防弾鋼鈑、防漏式燃料タンクが、三式戦闘機(飛燕)以降ではさらに防弾ガラスが装備されるなど年々防弾装備が強化されている。これらはパイロットの生還を重視する現地部隊からの強い要望で強化されたものであり、米軍もB29による日本本土空襲において陸軍機は大変な脅威となり、戦後は日本の陸軍機を高く評価している。
  • 海軍には桜花回天震洋伏竜など多数の特攻兵器があり、実際に多くが実戦で使用されたが、陸軍には特攻兵器として開発された兵器は存在しない。(陸軍の四式肉薄攻撃艇は特攻兵器として開発されたものではない)

などである。

その他参考文献<ref>『帝国海軍 軍令部総長の失敗―天皇に背いた伏見宮元帥』生出 寿『誰が太平洋戦争を始めたのか』別宮暖朗 『誰も言わなかった海軍の失敗』是本信義 『連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像』中川八洋</ref>

腹心の部下とされる人物

  • 鈴木貞一
    陸軍中将。
  • 加藤泊治郎
    陸軍中将。憲兵司令部本部長など。
  • 四方諒二
    陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。中野正剛が自刃した当時の東京憲兵隊長。
  • 木村兵太郎
    陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。
  • 佐藤賢了
    陸軍中将。陸軍省軍務局長など。
  • 真田穣一郎
    陸軍少将。参謀本部第一部長など。
  • 赤松貞雄
    陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東条秘書官機密日誌』を残している。
評価

東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある<ref>『現代史の争点』</ref>。

  • 三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
  • 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄

田中隆吉富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた<ref>昭和天皇独白録103頁</ref>。 田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い<ref>ただし田中は昭和40年の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている。田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」(40.8)『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』文藝春秋 1988年</ref>。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で他の二人の将官が予備役編入される中、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど評判最悪の男で、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている男である<ref>『昭和陸軍の研究 下』438~439頁 保阪正康 朝日文庫</ref>。

パーソナリティ、エピソード

  • 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。幼年学校当時は喧嘩に明け暮れており、成績がビリに近いことから渾名が「ズベ」であった。しかし上級生20名を相手の喧嘩で負けた悔しさから、発心し勉強に専心するようになった<ref>Template:要出典範囲</ref>。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに明治41年に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、45年に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫62~63頁</ref>。
  • 家庭人としての東條は、息子達にはきびしい面を見せていたが、娘たちには甘すぎるほど優しかった。娘達とうれしそうに会話しながら晩酌を楽しんだり、コーヒーシュークリームをほおばるなど、ごく普通の父親だった。戦後、開戦時の参謀総長だった杉山元が夫婦そろって自決したこと、娘婿の古賀秀正少佐が終戦直前に近衛師団長を暗殺し、宮城事件を起こしたが失敗して自決したこと、本人の自決も未遂に終わり、東條家は白眼視されることになる<ref name="nukata"/>。Template:要出典範囲
  • 国民に倹約を強要したが、一方で昭和18年(1943年)当時極めて入手困難であった、飴をつくるための大きな砂糖の固まりを所持していたところを目撃された(一般人なら逮捕、没収された)などとも報道されている。これらの東條批判は戦時中は検閲等が酷くメディアも翼賛体制を取っており、一切報道されなかったが、戦後GHQの占領政策が始まると一斉にマスメディアによって報道された<ref>『文藝春秋』昭和20年10月号より。余談だが、この号は戦況の悪化に伴い、一時休刊していた同誌の復刊号でもあった。</ref>。
  • 女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという<ref>児島襄「素顔のリーダー」保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫499頁</ref>。
  • 昭和16年(1941年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた<ref>平岩米吉『猫の歴史と奇話』</ref>。
  • 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた<ref>秘書官赤松貞雄の回想『東條秘書官機密日誌』39頁</ref>。

遺言

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東條の遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは昭和20年(1945年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。

家族に宛てたもの

日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の昭和20年9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。

処刑を前にした時のもの

処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた昭和23年(1948年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている<ref>『世紀の遺書』巣鴨の章</ref>。

逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)

昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、昭和27年(1952年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。<ref>『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁</ref>。

子孫

長男の東條英隆は、弱視の為兵役免除を受け、鴨緑江発電職員であった。

次男の東條輝雄は、ゼロ戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11航空自衛隊C-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。

三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。

他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。

爆笑問題田中裕二声優ならはしみきは遠戚。

1985年に、A級戦犯合祀が問題になった際、当時の中曽根首相が、自身もA級戦犯板垣征四郎の息子である参議院議員板垣正を使って白菊遺族会<ref>処刑された戦犯者遺族の会。</ref>会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)ら遺族に分祀を迫ったが、東條次男の東條輝雄は、「遺族が発音すべき筋合いの話ではないでしょう」と板垣に言い、結果、話は立ち消えとなった。東條輝夫は2005年にも「「合祀にしろ、分祀にしろ、遺族が希望を申し出るような話ではなくて、靖国神社自身が判断されることだと思っています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、連族は『それはいけない』と言う立場にはないと考えています」と語っている<ref>週刊朝日2005年7月20「東條英機(次男)輝雄氏が語る靖国」</ref>。

現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)だが東條家の人ではない。

ひ孫に当たる東條英利は、自身が代表を勤める株式会社カルチャージで神社人というサイトを運営する傍ら、神社ライターとしても活動している。

栄典

東條英機を描いた作品

東条は独特の風貌(剥げ頭とちょび)とロイド眼鏡、甲高い声音を持ち、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せばたとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることが出来た。

小説

映画

ドキュメンタリードラマ

関連項目

参考文献

一次資料及び当事者の証言、回想録

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  • 小田俊与 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
  • 花山信勝 『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』朝日新聞社 1949年 ISBNコード無し
  • 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年
  • 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力)
  • 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117
  • 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040
  • バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月 (1995年再版)ISBN 9784884691141
  • 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月
  • 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月
  • 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年
  • 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月
  • 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019
  • 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027
  • 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664
  • 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。 ISBN 4-06-207113-4
  • 伊藤隆・広橋眞光・片島紀男 編『東條内閣総理大臣機密記録・東条英機大将言行録』東京大学出版社 1990年 ISBN4-13-030071-7 c3031
  • 重光葵 『巣鴨日記』(文藝春秋昭和27年8月号掲載)

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その他

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  • 平泉澄『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
  • 平泉澄『悲劇縦走』 皇學館大学出版部 1980年9月
  • 東條由布子『祖父東條英機「一切語るなかれ」』増補改定版(『文春文庫』)、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
  • 東條由布子編『大東亜戦争の真実』、ワック、2005年8月、 ISBN 4898310834 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されているが、GHQの検閲は1945年の占領直後から始まっているため、花田紀凱が宣伝用に話を作ったと思われる)
  • 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
  • 伊藤俊一郎 『至誠・鉄の人 東条英機伝』(天佑書房、1942年)
  • 山中峯太郎編 『一億の陣頭に立ちて 東条首相声明録』(誠文堂新光社、1942年)
  • 『大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集』(改造社、1942年)
  • 『必勝の大道 東条総理大臣議会演説答弁集』(同盟通信社、1943年)
  • 牛村圭『「戦争責任」論の真実』PHP研究所 2006年
  • 深田祐介『黎明の世紀ー大東亜会議とその主役たち』文藝春秋 1991年

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脚注

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外部リンク

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