東京ヴェルディ1969
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東京ヴェルディ1969(とうきょうヴェルディ1969、Tokyo Verdy 1969)は、日本の東京都にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」が運営するトップチーム。呼称は「東京ヴェルディ」。
- チーム名(正式名称)は、Jリーグ加盟から1999年1月31日までは「読売日本サッカークラブ」、同年2月1日より2009年10月20日までは「FCニッポン」<ref>東京ヴェルディ 法人名・チーム名変更について Jリーグ・ニュースリリース2009年10月20日</ref>、2009年10月21日以降は現名称の「東京ヴェルディ1969」となっている。
- チーム呼称は、2001年より前は「ヴェルディ川崎」、2001年-2007年は「東京ヴェルディ1969」、2008年より現呼称の「東京ヴェルディ」となっている。
- 運営会社商号(会社名)は、1998年までは「株式会社読売日本サッカークラブ」、1998年から2009年10月20日までは「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、2009年10月21日以降は現商号の「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」となっている。
Jリーグ創設時からの加盟チーム(オリジナル10)のひとつ。1991年にJリーグ加盟。ホームタウンは東京都(2000年までは神奈川県川崎市)。ホームスタジアムは味の素スタジアム。
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クラブの概要
Template:基礎情報 会社 1969年、「読売サッカークラブ」の名で、日本初の本格的なスポーツクラブとして創立。1991年に、Jリーグ加盟、社名を読売日本サッカークラブに改称。ホームスタジアムは、2000年までは川崎市中原区にある川崎市営等々力陸上競技場、2001年から東京都調布市にある味の素スタジアムを使用。呼称のヴェルディは、ポルトガル語の「verde(ヴェルデ):緑」からの造語で、結果的にイタリア語の複数形と発音が同じである。
ホームタウンを東京都に移転した際に、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に改称。この1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことに由来する。なお、2008年より、チーム呼称から「1969」が外され、「東京ヴェルディ」に変更。
新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは、1998年までは単に「川崎」と現していたが、1999年から川崎フロンターレがJ2に参加したことから、これとの区別のため、「V川崎」(ナビスコ杯には、フロンターレも準加盟枠で参加したため、1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からは、FC東京と区別するため、「東京V」としている。一部新聞等では、「東京ヴ」と表記していることもある。
クラブハウス・練習場は、読売クラブ、V川崎時代から一貫して、東京都と神奈川県川崎市に跨って位置するよみうりランド内の練習施設を、男子トップチーム以外の下部組織と一緒に使用している。クラブハウス及びグラウンドの位置は川崎市内だが、京王よみうりランド駅前のよみうりランド本社ビル内に日本テレビフットボールクラブ本社が設置されているため、登記上の住所は東京都稲城市となっている。ユースなどの下部組織チームは、V川崎時代においても東京都サッカー協会の所属のままだった。
男子チームの他に、女子チーム日テレ・ベレーザとその下部組織である日テレ・メニーナを所有している。トップチームであるベレーザは、L・リーグ(なでしこリーグ)で常に優勝争いを繰り広げている日本女子サッカーにおける強豪の一つである。日本女子代表(なでしこジャパン)のエース澤穂希も、ベレーザに所属である。
サッカー以外では、2001年の東京移転にあわせて、バレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ、東京ヴェルディバレーボールチームを発足した。現在、V・チャレンジリーグに所属する。この他に、トライアスロンのチームもある。これらは、Jリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。
下部組織
男子トップチームの下部組織として小学生段階からスクールを全国各地に展開している。ユース年代で継続して良い成績を残し続け、ユースからトップへの昇格も多いことからヴェルディの下部組織には定評がある。2005年にはヴェルディユースが日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会の2冠を達成した。クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのがヴェルディの育成組織の一つの特徴である。
- 下部組織
- ヴェルディユース
- ヴェルディジュニアユース
- ヴェルディジュニア
- 全国支部
- ヴェルディレスチ
- ヴェルディ調布
- ヴェルディ小山
- ヴェルディ岩手花巻
- ヴェルディ相模原
- 女子サッカー
- 日テレ・ベレーザ
- 日テレ・メニーナ
- 準支部
- 習志野
- 三島
- 武蔵丘
クラブの歴史
前身
当時、日本のサッカーが、アマチュアスポーツの域に甘んじていた1969年に読売サッカークラブ創部。東京都リーグBに加盟。このチームが、日本のスポーツクラブの先駆けとなった。 当時学校体育あるいは部活動の一環としてのサッカーに飽きたらなかった若者を取り込んで学校のサッカー部を倒せるまでに成長した。 1972年にJSL2部、1978年に同1部に昇格。選手達の高いプロ意識と洗練されたテクニックに裏打ちされた攻撃的なスタイルは、当時の日本サッカーに衝撃を与え、とどまることのない快進撃と共に日本のサッカースタイルを変えたとも言われている。現在のJリーグが謳う下部組織の充実と地域に根ざした活動をいち早く実践したのもこの読売サッカークラブである。JSL優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回と輝かしい戦績を残した。
川崎時代
1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社、よみうりランド(練習場所在地)、日本テレビ放送網の3社出資による運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ(よみうりにほん-)」が設立されたが、東京都に同リーグの規格に合ったスタジアムがなかったため、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とすることになる。等々力陸上競技場は収容人員がJリーグの規格外だったため問題となったこともあったが、1995年までに段階を追って増築を敢行。25000人収容となった。
Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた。これには、既に長年、クラブチームとして「読売」の呼び名でファンに親しまれていたという理由に加え、プロ野球と同じようにJリーグも企業重視の姿勢が必要であること、「川崎」は鉄鋼メーカー・川崎製鉄(現・JFEスチール)と重機械メーカー・川崎重工業の商標であるため商標権侵害の恐れがある、東京への移転問題などといった理由が挙げられた。Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系のマスメディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。
Jリーグ発足当初は人気・実力を兼ね揃えた最強チームとして君臨し、ラモス瑠偉、三浦知良、ビスマルク、北澤豪、武田修宏、菊池新吉などを擁して1993年シーズンの初代Jリーグ年間チャンピオンとなった。なお、5月15日のJリーグ開幕戦では横浜マリノスと対戦し、オランダ人FWのヘニー・マイヤーがJリーグの第1号ゴールを決めたが、1-2で逆転負けしている。1994年も年間チャンピオンになったものの、当時、マリノスにだけは全く勝てず、1994年の天皇杯でも当時JFLで優勝したセレッソ大阪に敗れている。1996年には天皇杯優勝を果たしたが、その後はチーム力が低下し、スタジアムの拡張に逆行する形で観客動員数も減少した。
なお、1993年から1995年のJリーグチャンピオンシップも国立で行われたが、本来1994年の第2レグの試合は等々力で開催されることが一度決まっていた。しかし、等々力は芝生の状態が思わしくなかったということや、改修工事の第2期を行うことが決まっていたこともあり、等々力での開催を返上。国立での開催を決めたが、当初予定の11月30日は明くる12月1日にトヨタカップが行われるためにその前日練習を行った関係で使えず、12月2日に延期する羽目になった。
1998年のシーズン後に読売新聞社(2006年からオフィシャルスポンサーとして看板広告を掲出)とよみうりランドが経営から撤退し、日本テレビが全額出資となる。それに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。
東京移転後
2001年にホームタウンを川崎市から東京都に移転し、呼称も東京ヴェルディ1969となり、ホームスタジアムを調布市の味の素スタジアム(当時は東京スタジアム)にした。また、ホームタウンである稲城市の他周辺の多摩市、日野市や清水建設、京王電鉄系列の広告代理店である京王エージェンシーなど地元企業も出資したため、日テレ自らの資本は約79%となった。なお、2008年に立川市も出資している。
J2降格の危機に追い込まれたが、シーズン終盤に入団した元ブラジル代表FWのエジムンドの活躍で残留に成功。2003年からはカメルーン代表FWパトリック・エムボマが加入し、同年途中からオズワルド・アルディレス監督が指揮を執っていた。
2004年度の天皇杯全日本サッカー選手権大会を制し8年ぶり、東京移転後初のタイトルを獲得。同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝の快挙を達成。
2005年シーズンには2004年ブラジル代表経験者でありブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得した。FIFAコンフェデレーションズカップ中断明けの7月2日のガンバ大阪戦、7月6日の浦和レッズ戦、7月17日のジュビロ磐田戦での大量失点が響き、アルディレスが解任され、バドンが新監督に就任したが、思うように試合が動かず、11月26日の柏レイソル戦で1-5の大敗を喫し、J2降格が決まった(奇しくも柏レイソルには、後の監督であるラモス瑠偉がコーチを務めていた)。これを受けてバドンは退任した。天皇杯優勝によって獲得した2006年度AFCチャンピオンズリーグの出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。
過去にJリーグのタイトルを獲得したチームのJ2降格は、1994年サントリーシリーズ1位で2002年度のJ1年間15位でJ2降格したサンフレッチェ広島以来のケースで、年間チャンピオンを獲得したチームが降格するのはJリーグ初のことだった。J2降格は、読売クラブ・V川崎時代からのオールドなサッカー・Jリーグマニアに衝撃が走った。
2006年からは、前年の柏レイソルのコーチであり、ヴェルディOBのラモス瑠偉が監督に就任。新体制の下で1年でのJ1復帰が目標になった。そのためにはJ1最多失点を喫した守備陣の立て直し、チーム総得点40のうち22点を叩き出したワシントンの浦和への完全移籍放出に伴う攻撃陣の強化、J2リーグ(48試合)とAFCチャンピオンズリーグ(最低でも予選6試合はこなさなくてはならなかったが、インドネシア・タイからの代表クラブが失格となったため、予選は蔚山現代ホランイとの2試合になった)を含め年間50試合以上の公式戦をこなさなくてはいけないため、選手のモチベーションの維持といった課題を克服する必要があった。だが林健太郎、米山篤志の戦力外通告に端を発した主力の大量流出により、チームは土台からの作り直しを余儀なくされた。 4月18日の日本テレビサッカークラブ株主総会で、サイバーエージェント社が株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となる事が、藤田晋サイバーエージェント社長の同クラブ取締役就任と合わせて承認された。
シーズン開幕後、課題とされた失点の多さは解消されなかった。チーム構成もデジマール、ヒキ、アナイウソン、バジーリオの外国籍選手4人をシーズン途中に解雇するなどシーズン中としては異例の頻繁な入れ替えが行われ、スタメンがほぼ毎試合ごとに入れ替わったこと、若手中心だったのでベースを作ることができなかったことなどが致命傷となり、安定感を欠いた戦いが続いた。10月28日、水戸ホーリーホックに1-4で敗れ、J1復帰の可能性はなくなった。最終順位は7位で終了した。
2007年も引き続きラモス監督が指揮を執ることが決定。選手会長だった柳沢将之を含めて選手を大量に放出。新たに元日本代表の服部年宏、名波浩を始め土屋征夫、佐藤悠介などのベテラン選手を獲得。外国籍選手では既に契約を更新していたマルクスを横浜F・マリノスに引き抜かれたが、フッキ、ディエゴとJ2で実績を挙げた選手を獲得、積極的な補強を行なった。新人選手も大量7人が加入、結果的に約半数のメンバーが入れ替わりチーム構成が劇的に変化、J2レベルでは突出した戦力を揃えた。萩原敏雄代表は「内容が悪ければ早期での解任もありえる」と発言し、J1復帰はもちろん、J2優勝を義務付けられたシーズンとなった。 開幕5試合は4勝1分と順調にスタートしたものの、第7節(アビスパ福岡戦)から第13節(水戸ホーリーホック戦)までクラブワーストタイの7連敗を喫し9位にまで転落。ラモスの解任騒動にまで発展した。だが続く京都サンガF.C.戦に4-1で快勝するとその後は1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ねていった。第4クールに入ってからは8連勝を記録するなど驚異的な追い上げを見せ、第51節終了時点では得失点差でコンサドーレ札幌をかわし首位に立った。結局最終節で抜き返され優勝は逃したものの、2位でシーズンを終了、J1復帰を果たした。シーズン終了後にラモスの勇退とエグゼクティブディレクターとしてのフロント入り、柱谷哲二トップコーチの監督就任が発表された。なおこの年限りで、東京Vの第三者割当増資によって、発行済み株式の48.1%を取得していたサイバーエージェント社が思うように利益を得ることが出来なかったことを理由に大株主を撤退し同時にサイバーエージェント社長の藤田晋副社長の退任も決まった。サイバーエージェントはその後、2008年は胸スポンサーのみとなり、2009年からは完全にスポンサーから撤退した。(但し、ヴェルディ関連のブログは今もアメーバブログである。)これにより再び日本テレビが単独大株主となった。
2008年より呼称から1969が取り除かれ、東京ヴェルディとしてJ1での再スタートを切った。守備的な選手を中心に補強を行い、FC東京を戦力外となった元日本代表MF福西崇史やGK土肥洋一、横浜F・マリノスからDF那須大亮、清水エスパルスからDF和田拓三を獲得。また、新外国人としてサンパウロFCからFWレアンドロを獲得した。 さらに開幕後には、川崎フロンターレからわずか2試合で退団が決まっていた昨年のエースストライカー・フッキを、6月には大黒将志を獲得。しかし、7月にフッキがFCポルトに電撃移籍した。 初勝利は第5節のヴィッセル神戸戦と遅れ、その後も、下位争いから抜け出すことは出来なかった。9月には4戦全敗を喫し、さらに終盤には、チームの核であるディエゴを累積警告と天皇杯での退場による4試合出場停止で欠き、深刻な得点力不足に陥った。第33節終了時点で16位だったが、最終節で川崎フロンターレに0-2で敗れ、17位のジェフユナイテッド市原・千葉が勝ったため17位に転落、1年でのJ2降格が決まった。柱谷監督はシーズン終了後に退任。 また、親会社の日本テレビが37年ぶりに赤字に転落。その影響を受け2009年の費用は大幅に削減されることとなり、土肥、服部、福西など多くの主力選手と来期の契約を結ばないことが発表された。 こういったネガティブな状況や不明瞭な強化方針に対し、一部サポーターから不満が噴出。最終節終了後の7時間半に及ぶ座り込み、2009年度シーズンチケット不買運動、ラウンドテーブル(フロント、サポーターによるミーティング)開催にあたっての公開質問状提出など、一連の抗議行動へと発展した。 さらに、日本テレビがほぼ100%保有している株式の譲渡を検討していることが一部マスコミに報じられるなど、クラブに次々と激震が走った。
2009年からは前年コーチを務めた高木琢也が新監督に就任。横浜FC監督時代にコーチとして高木を支えた中村有や、ヴェルディの下部組織で指導していた柴田峡、津越智雄が新たにスタッフとして加わった。そして、前年の戦力外選手に加え、那須大亮、ディエゴがそれぞれJ1のクラブへと移籍。和田拓三もレンタル元の清水へ戻った後ジェフ千葉へと移籍。2008年はJ2のクラブへのレンタル移籍であった戸川健太と一柳夢吾も、レンタル先へと完全移籍した。新たに、横浜FCで高木と共にJ1昇格を経験した滝澤邦彦と岩倉一弥、ジュビロ磐田のベテランMF河村崇大、ジュニアユース時代にヴェルディに所属していた永里源気を獲得した。また、過去2年レンタル移籍していた弦巻健人とレオナルドが復帰し、移籍が濃厚だった大黒も残留した。そして、一度は戦力外と発表された土肥洋一、服部年宏、船越優蔵と再契約を結んだ。だが、クラブ経営は日に日に厳しさを増すばかりで胸スポンサーのサイバーエージェントが撤退後、後釜のスポンサーを最後まで見つけることが出来ず、初めて1シーズン通して胸スポンサーが入らなかった。また後述する読売グループの撤退もあり動揺するクラブは思うように勝ち点を伸ばすことが出来ず、高木監督はシーズン途中で解任。1度も昇格争いに関ることなく7位でシーズンを終えた。
2010年からは川勝良一が川崎時代から含めて3度目の監督に就任。ただし、過去2回はいずれも前任者の解任による短期的なものであり、開幕時からの就任は初めてである。服部年宏、高木義成らと契約を更新せず、資金難により2009年の大卒新人3人を全員放出。レアンドロ、大黒と攻撃陣の核となっていた選手も放出され、16人がクラブを去った。新たに加わった選手は川勝監督の法政大学時代の教え子である吉田正樹や菊岡拓朗、ヴェルディ下部組織出身の佐伯直哉、清水康也など12人である。ユースからは前年Jリーグデビューを果たした高木俊幸が昇格した。
また、この年から日本のサッカー界では初となる投資ファンド、ヴェルディドリームスをスタートさせた。
読売グループの撤退
Template:経営問題 2009年9月16日、都内で行われた日本テレビの会見で「東京ヴェルディ(とベレーザ)のチーム運営から事実上撤退する」という発表があった。この公式発表によると、日本テレビフットボールクラブ株式のうち日テレ保有分すべてを、元読売サッカークラブの下部組織に当時所属していた者らによって同年7月に設立した特定目的会社「東京ヴェルディホールディングス」に、2009年9月30日付で株式譲渡するという会見内容である。これに伴い、読売グループはプロサッカークラブ運営から完全に手を引くことになる。
2009年9月17日、同月15日に行われたJリーグ理事会において、上記の株式譲渡が承認されたことが発表される<ref>Template:Cite news</ref>。そこでは、
- 2009年度の東京ヴェルディの運営費用は、日本テレビ放送網株式会社が負担する。
- 東京ヴェルディHDは、2009年11月16日までにスポンサー料収入として、5億4千万円分の契約を確定し計画の金額を満たさなければならない。
- スポンサー契約が事業計画の金額に満たない場合は、2009年シーズンをもってJリーグを退会する。
等の条件が課された。
2009年9月30日に、日本テレビが所有する全株式約98.8%を、クラブOBらにより発足した持株会社・東京ヴェルディホールディングス株式会社(東京VHD)へ譲渡し、創設40年目にして読売グループがクラブ経営から完全撤退する<ref>Template:Cite news</ref>。株主の変更は財政基盤の確保などを条件にJリーグに承認された<ref>Template:Cite news</ref><ref>Template:Cite news</ref>。2009年10月21日には、運営会社の商号(社名)も株式会社日本テレビフットボールクラブから東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社に変更となり、名称からも読売グループ色が消滅する。これにより「1969」の愛称が正式名称で復活したこととなる。
読売グループは経営から撤退したものの、日本テレビの事実上傘下にあるAMラジオ局のアール・エフ・ラジオ日本は2010年現在もスポンサーとして名を連ねている。 また、2010年3月19日には情報通信大手「ネクシィーズ」が東京ヴェルディの過半数の株式取得を検討していることが報道された。<ref>Template:Cite news</ref>
Jリーグ主導の経営へ
Template:経営問題 2009年11月16日までにスポンサー料の5億4千万円が集まったかについて、崔暢亮会長は「非常に順調」<ref>Template:Cite news</ref>、「数字的にはクリアされた」と自信を見せており<ref>Template:Cite news</ref>、懸念された2009年シーズンでのJリーグ退会処分は下されなかった。しかし、2010年1月29日のJリーグ臨時理事会<ref>Template:Cite news</ref>、2月16日の同理事会にて経営状況についての審議が行われた際には、実際の収入額が大きく下回っていたことが判明し、Jリーグより厳重注意処分を受けるとともに、誓約書の提出を言い渡された<ref>Template:Cite news</ref>。
Jリーグが2010年5月に行った業務監査では、スポンサー収入5億4000万円のうち、実際に入金されたのは半分程度で、人件費の穴埋めなどを入れると4億円程度の資金投入が必要とされたため、このままの状態では2010年6月にも資金が底を尽く可能性が濃厚となった。そこでJリーグは同年5月の臨時理事会で2010年度のチーム継続を前提としてヴェルディの経営陣を退陣させた上で同年7月以後リーグ主導で経営再建に乗り出す方針を固めた。 <ref>Template:Cite news</ref> <ref>Template:Cite news</ref>
ホームタウンの移転
川崎から東京への移転
もともと読売クラブは練習場が都県境のよみうりランドにある事から、JSLのホームゲームは駒沢や等々力を利用していた。JSLではホームタウンの概念があいまいだったため、問題にはならなかった。下部組織の選手達も東京都と神奈川県にまたがる地域から集まっていた。
Jリーグ創立にあたりホームタウンの明確化が必要になると、ヴェルディは東京を本拠地と希望した。しかし、5万人を超える収容人数を誇る国立競技場は全クラブに開放される中立地とされ、もう一つの有力候補で2万人収容の駒沢では隣接する国立東京第二病院のためにナイトゲーム開催ができないという制約が付けられたため、1万5千人という当時のJリーグ参加規定を満たすホームスタジアムが都内では見つからなかった。そのため、同様に東京を希望していた三菱自動車(現在の浦和レッドダイヤモンズ)とともに都外でのホームタウンを探す事になり、等々力をホームスタジアム、川崎市をホームタウンとした。
当時圧倒的な人気と巨大メディアグループのバックアップを持っていたヴェルディが首都である東京をホームにすることによりリーグの均衡が崩れることを恐れたJリーグがヴェルディの東京ホーム化を認めなかったとする見解もある。2000年にJ1昇格を果たしたFC東京の場合は、翌年の東京スタジアム開場までの1年限定として、名目上は駒沢、実質的には国立をホームスタジアムとする事を認められた。
Jリーグ発足後もヴェルディは東京都内への移転を模索した。1993年には東京都調布市にある米軍基地の跡地利用として「武蔵野の森スタジアム」(当時の仮称。後に東京スタジアムと命名され、現在は味の素スタジアム)構想が発表されたのに合わせ、ここへの移転構想を発表し、調布市も積極的に誘致に乗り出した。数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。読売系のメディアでは「読売ヴェルディ」と表記された上、等々力の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が猛反発し、移転には同意しないと通告した。この結果、この移転計画はほどなく白紙撤回に追い込まれた。
その後は川崎市でのホームタウン活動を開始し、優勝時の川崎市役所パレードなども行ったが、Jリーグチャンピオンシップのホームゲームなど、集客の見込める試合の多くは国立開催を積極的に行い続けた事で川崎市民からの信頼は得られず、2万5000人へのスタンド増築が終わった1995年以降の等々力では次第に空席が目立つようになった。クラブ経営の悪化、成績の低迷、主力選手の放出などと一連の悪循環を形成した。
危機を打開するため、ヴェルディは1999年に再度東京移転構想を発表した。既に武蔵野の森スタジアムが「東京スタジアム」として2001年に開業される事が確実になっており、東京都内では既にFC東京がこのスタジアムの将来利用を前提としてJ2での活動を開始していた。前回はJリーグクラブの流出に抵抗した川崎市も、1997年発足の川崎フロンターレへの支援を強化していた事もあり、ヴェルディの東京移転を容認した。ただし、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了する事になった。この冷却した関係はその後も続き、 これらの結果、フロンターレとの「川崎ダービー」がJ1とナビスコ杯で実現した2000年シーズンをもってヴェルディは等々力を離れ、2001年からは東京スタジアムをホームスタジアムとした。
東京移転後の状況
東京移転後、観客動員数は回復していた。2000年には1試合平均動員数が7609人まで落ち、等々力では3000人台の試合も珍しくなかったのが、2001年には1万9396人まで急増し、その後も1万5000人前後を維持していた。ただ25000人収容の等々力と、50000人収容の味スタの収容能力やスタジアム使用料の違いもあり、実際のスタジアムの集客率とクラブの収支はあまり変わらなかった。そして同じスタジアムを使用しているFC東京との「東京ダービーマッチ」でのサポーターの数という点では、FC東京の方が圧倒的に多かった。
2008年は同じJ1所属でありながらFC東京に観客数で大きく差をつけられており、観客動員数の増加が課題の1つとなっている。なお、東京ヴェルディ主催試合で、味スタ使用の場合はJ2では全試合、J1でもFC東京との東京ダービーや浦和レッズとの試合など一部の試合を除いて経費削減の為スタジアムの上層部は閉鎖となる。ただし、試合当日に雨が降った場合、下層部の大半の席が雨に濡れてしまうということもあり、上層部の一部を開放することもある。
2010年以降は、更なる経費削減の為、上記に加えてバックスタンドの閉鎖も発表されている。国立でも同様の理由でバックスタンドの上半分を閉鎖していたが、これも2010年からは、バックスタンドを完全に閉鎖する。開放はメイン・ゴール裏席のみとする。西が丘など他球場で開催する場合の扱いは未定<ref>ヴェルディホームページ・グリーンパスの説明参照</ref>
東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。特にクラブ所在地の稲城市、他に立川市や渋谷区などで積極的にイベント活動を展開している。他に多摩市、日野市、八王子市など京王電鉄沿線都市でのPR活動が盛んである。ヴェルディは東京都内(稲城市、調布市、葛飾区)の他に、神奈川県相模原市(京王電鉄沿線)、栃木県小山市、千葉県習志野市、静岡県、岩手県にも下部組織を編成して運営している。
また、環境活動(ヴェルディECOプロジェクト)も行っており、2007年にはアルピニストの野口健が環境活動アドバイザーに就任した。
開催スタジアム問題
川崎時代は、通常の試合を等々力、集客の見込める試合を国立という使い分けを基本とし、地方都市での開催も比較的多かった。1997年からは等々力がフロンターレとの共有状態になったが、Jリーグ所属のヴェルディの方が優位だった事と(2000年は両チームともJ1)、基本的にはJリーグは土曜、旧JFLは日曜開催で分散されていた事などから、開催スタジアムで困る事はなかった。東京移転発表後の2000年の天皇杯では、ホーム扱いの3回戦を平塚で開催している。
2001-2005年は、味の素スタジアム(東京スタジアム)をFC東京と共用する事になった。ともにJ1ということで、両者のホームゲーム節が重複しないように調整が可能だった。その中で、年に数試合は国立でのホーム開催を行った。
2006-2007年はホームゲームがFC東京と同じ日(または節)で重複することがあっても、J1チームであるFC東京に味の素スタジアムの優先使用権があるため、J2のチームでは初めて国立を使用することとなった。ACLのグループリーグ主催試合(3試合の予定だったのが1試合のみとなる)も国立開催となった。その他同じ都区内にある駒沢や、西が丘でも主催試合を実施する事になった。2008年からJ1に復帰したが、西が丘はキャパシティの、駒沢は施設の都合で使用せず、味スタと国立でのみ行われる。2009年は味スタ、国立のほか、平日の試合を西が丘で開催する試合もある。
スタイル
クラブチームとしての長い伝統のためか、選手が変わり監督が替わってもそのサッカースタイルが大きく変貌することは少なく、Jリーグの中でも個性が際立ったクラブの一つである。近年では攻撃偏重のプレイスタイルが仇になることが多く、守備を固められてカウンターで失点というパターンがしばしば見られる。
Jリーグ年度別成績
年度 | リーグ | リーグ | 順位 | 成績 |
---|---|---|---|---|
1993年 | サントリー | J | 2位 | 12勝6敗 |
ニコス | J | 1位 | 16勝2敗 | |
1994年 | サントリー | J | 4位 | 14勝8敗 |
ニコス | J | 1位 | 17勝5敗 | |
1995年 | サントリー | J | 2位 | 16勝10敗 |
ニコス | J | 1位 | 19勝7敗 | |
1996年 | 年間 | J | 7位 | 19勝11敗 |
1997年 | 1st | J | 16位 | 4勝12敗 |
2nd | J | 12位 | 6勝10敗 | |
1998年 | 1st | J | 6位 | 10勝7敗 |
2nd | J | 17位 | 3勝14敗 | |
1999年 | 1st | J1 | 2位 | 11勝3敗1分 |
2nd | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 | |
2000年 | 1st | J1 | 9位 | 7勝7敗1分 |
2nd | J1 | 10位 | 5勝7敗3分 | |
2001年 | 1st | J1 | 16位 | 4勝11敗0分 |
2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 | |
2002年 | 1st | J1 | 12位 | 5勝9敗1分 |
2nd | J1 | 4位 | 8勝5敗2分 | |
2003年 | 1st | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 |
2nd | J1 | 9位 | 5勝4敗6分 | |
2004年 | 1st | J1 | 9位 | 5勝6敗4分 |
2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 | |
2005年 | 年間 | J1 | 17位 | 6勝16敗12分 |
2006年 | 年間 | J2 | 7位 | 21勝19敗8分 |
2007年 | 年間 | J2 | 2位 | 26勝11敗11分 |
2008年 | 年間 | J1 | 17位 | 10勝17敗7分 |
2009年 | 年間 | J2 | 7位 | 21勝19敗11分 |
合計 | - | J/J1 | - | 226勝207敗43分 |
合計 | - | J2 | - | 68勝49敗30分 |
公式戦対戦通算成績
対戦通算成績と得失点
2010年第7節終了時点
勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ベガルタ仙台 | 1 | 2 | 1 | 6 | 5 | 4 | 4 | 3 | 17 | 17 | 5 | 6 | 4 | 23 | 22 | |||||
モンテディオ山形 | - | - | - | - | - | 5 | 2 | 1 | 10 | 5 | 5 | 2 | 1 | 10 | 5 | |||||
鹿島アントラーズ | 14 | 1 | 19 | 50 | 52 | - | - | - | - | - | 14 | 1 | 19 | 50 | 52 | |||||
浦和レッドダイヤモンズ | 13 | 3 | 16 | 50 | 59 | - | - | - | - | - | 13 | 3 | 16 | 50 | 59 | |||||
大宮アルディージャ | 2 | 1 | 1 | 5 | 5 | - | - | - | - | - | 2 | 1 | 1 | 5 | 5 | |||||
FC東京 | 6 | 2 | 6 | 20 | 18 | - | - | - | - | - | 6 | 2 | 6 | 20 | 18 | |||||
川崎フロンターレ | 1 | 2 | 3 | 4 | 6 | - | - | - | - | - | 1 | 2 | 3 | 4 | 6 | |||||
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) | 11 | 4 | 19 | 48 | 68 | - | - | - | - | - | 11 | 4 | 19 | 48 | 68 | |||||
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚) | 11 | 0 | 5 | 32 | 19 | 5 | 2 | 4 | 14 | 15 | 16 | 2 | 9 | 46 | 34 | |||||
アルビレックス新潟 | 3 | 3 | 0 | 10 | 3 | - | - | - | - | - | 3 | 3 | 0 | 10 | 3 | |||||
清水エスパルス | 19 | 1 | 14 | 61 | 39 | - | - | - | - | - | 19 | 1 | 14 | 61 | 39 | |||||
ジュビロ磐田 | 9 | 2 | 19 | 37 | 63 | - | - | - | - | - | 9 | 2 | 19 | 37 | 63 | |||||
名古屋グランパス | 17 | 2 | 13 | 62 | 55 | - | - | - | - | - | 17 | 2 | 13 | 62 | 55 | |||||
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) | 6 | 2 | 8 | 24 | 24 | 2 | 1 | 1 | 8 | 6 | 8 | 3 | 9 | 32 | 30 | |||||
ガンバ大阪 | 19 | 2 | 13 | 58 | 54 | - | - | - | - | - | 19 | 2 | 13 | 58 | 54 | |||||
セレッソ大阪 | 11 | 3 | 8 | 41 | 33 | 3 | 2 | 2 | 15 | 10 | 14 | 5 | 10 | 56 | 43 | |||||
ヴィッセル神戸 | 10 | 2 | 5 | 34 | 25 | 1 | 0 | 3 | 7 | 9 | 11 | 5 | 8 | 41 | 34 | |||||
サンフレッチェ広島 | 13 | 2 | 15 | 49 | 45 | - | - | - | - | - | 13 | 2 | 15 | 49 | 45 | |||||
コンサドーレ札幌 | 4 | 1 | 3 | 13 | 11 | 2 | 3 | 6 | 17 | 21 | 6 | 4 | 9 | 30 | 32 | |||||
水戸ホーリーホック | - | - | - | - | - | 6 | 1 | 4 | 12 | 14 | 6 | 1 | 4 | 12 | 14 | |||||
栃木SC | - | - | - | - | - | 3 | 0 | 0 | 7 | 2 | 3 | 0 | 0 | 7 | 2 | |||||
ザスパ草津 | - | - | - | - | - | 6 | 4 | 1 | 23 | 11 | 6 | 4 | 1 | 23 | 11 | |||||
ジェフユナイテッド千葉(←ジェフユナイテッド市原) | 19 | 1 | 14 | 59 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 1 | 14 | 59 | 45 | |||||
柏レイソル | 13 | 1 | 17 | 44 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | 17 | 44 | 53 | |||||
横浜FC | - | - | - | - | - | 2 | 2 | 3 | 6 | 10 | 2 | 2 | 3 | 6 | 10 | |||||
ヴァンフォーレ甲府 | - | - | - | - | - | 0 | 0 | 3 | 2 | 5 | 0 | 0 | 3 | 2 | 5 | |||||
カターレ富山 | - | - | - | - | - | 2 | 0 | 1 | 4 | 1 | 2 | 0 | 1 | 4 | 1 | |||||
FC岐阜 | - | - | - | - | - | 2 | 2 | 0 | 5 | 1 | 2 | 2 | 0 | 5 | 1 | |||||
ファジアーノ岡山 | - | - | - | - | - | 2 | 0 | 1 | 7 | 3 | 2 | 0 | 1 | 7 | 3 | |||||
徳島ヴォルティス | - | - | - | - | - | 7 | 2 | 2 | 20 | 10 | 7 | 2 | 2 | 20 | 10 | |||||
愛媛FC | - | - | - | - | - | 6 | 2 | 4 | 14 | 13 | 6 | 2 | 4 | 14 | 13 | |||||
アビスパ福岡 | 7 | 1 | 4 | 20 | 12 | 4 | 2 | 2 | 12 | 8 | 11 | 3 | 6 | 32 | 20 | |||||
ギラヴァンツ北九州 | - | - | - | - | - | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | |||||
サガン鳥栖 | - | - | - | - | - | 5 | 2 | 4 | 17 | 16 | 5 | 2 | 4 | 17 | 16 | |||||
ロアッソ熊本 | - | - | - | - | - | 1 | 0 | 3 | 5 | 8 | 1 | 0 | 3 | 5 | 8 | |||||
大分トリニータ | 5 | 0 | 3 | 14 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 3 | 14 | 12 | |||||
(Jリーグクラブ)計 | 214 | 38 | 185 | 741 | 706 | 66 | 31 | 49 | 222 | 186 | 280 | 69 | 244 | 963 | 892 |
「特徴」
- 引き分けが非常に少ない。
- 2010年中に鹿島に次いでJリーグ通算1000得点が達成される模様。
- Jリーグ開幕以前から日産自動車を母体とする横浜F・マリノスとは長年にわたるライバル関係であることは夙に有名だが、実際のところ対戦成績は悪く、1993年Jリーグ開幕節や1995年Jリーグチャンピオンシップなど大一番で敗れている。
- ジュビロ磐田も相性が悪い。1試合の平均失点が最も多く、敵地ヤマハスタジアムでほとんど勝てていない。
- 浦和レッズはJリーグ草創期はかなり相性がよく、クラブの同一カード最多連勝の記録も作っていたが、2部制移行後、J1リーグ戦において3年連続(6試合連続)でホーム・アウェーともに大敗、逆に同一カード最多連敗記録を作っている。また、草創期当時最弱チームの一角であった浦和にJリーグ初勝利を献上したのは、ヴェルディ川崎であった。
- それ以外に負け越している鹿島アントラーズ、柏レイソル、サンフレッチェ広島は90年代後半~2000年以降に成績が逆転されている。特に柏は2005年のJ2降格が決定したときの相手だった。
- 反対にモンテディオ山形、ザスパ草津、ジェフユナイテッド千葉、アルビレックス新潟、清水エスパルス、ガンバ大阪、徳島ヴォルティスに相性がよく、1部2部ともお得意様を確保している。
- 当初の本拠地であった等々力陸上競技場での成績は100戦62勝と抜群に優れており、Jリーグ開幕直後の圧倒的な戦力差が伺える。
- その上、東京都内のサッカー場すべてで勝ち越している。ただし現本拠地味の素スタジアムだけは引き分けを足すと勝率5割を割る。
- 反面、アウェイでの対戦成績は芳しいものではない。得意としている敵地がNDソフトスタジアム山形、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場しかなく、内弁慶の傾向がある。
観客動員記録
Template:Color box J1 Template:Color box J2
年度 | 試合 | 総数 | 1試合 平均 | 平均入場者/総入場者 | |
---|---|---|---|---|---|
川 崎 | 1993 | 18 | 454,237 | 25,235 | |
1994 | 22 | 548,378 | 24,926 | ||
1995 | 26 | 541,682 | 20,834 | ||
1996 | 15 | 264,791 | 17,653 | ||
1997 | 16 | 174,928 | 10,933 | ||
1998 | 17 | 226,748 | 13,338 | ||
1999 | 15 | 140,684 | 9,379 | ||
2000 | 15 | 114,141 | 7,609 | ||
東 京 | 2001 | 15 | 290,946 | 19,396 | |
2002 | 15 | 226,926 | 15,128 | ||
2003 | 15 | 263,438 | 17,563 | ||
2004 | 15 | 225,878 | 15,059 | ||
2005 | 17 | 250,177 | 14,716 | ||
2006 | 24 | 136,926 | 5,705 | ||
2007 | 24 | 175,850 | 7,327 | ||
2008 | 17 | 252,231 | 14,837 | ||
2009 | 26 | 143,539 | 5,521 | ||
2010 |
|
- リーグ戦のみ(関連:日本プロサッカーリーグ#試合観客動員)。
獲得タイトル
国内タイトル
個人別タイトル
- Jリーグ
- 1993年 柱谷哲二、ペレイラ、ラモス瑠偉、三浦知良
- 1994年 菊池新吉、ペレイラ、柱谷哲二、北澤豪、ラモス瑠偉、ビスマルク、武田修宏
- 1995年 菊池新吉、柱谷哲二、ビスマルク、三浦知良
- 1996年 三浦知良
- 1999年 中澤佑二
- フェアプレイ個人賞
個人成績
ハットトリック
- J1
- 3得点
- 武田修宏(1993年11月6日 NICOS第10節 対ガンバ大阪)
- 三浦知良(1993年12月8日 NICOS第17節 対浦和レッドダイヤモンズ)
- ベンチーニョ(1994年8月17日 NICOS第3節 対ジュビロ磐田)
- 三浦知良(1995年9月2日 NICOS第6節 対鹿島アントラーズ)
- 三浦知良(1995年9月13日 NICOS第9節 対横浜フリューゲルス)
- 三浦知良(1996年11月6日 Jリーグ第29節 対ジェフユナイテッド市原)
- 高木琢也(1998年4月29日 1st第9節 対アビスパ福岡)
- 平本一樹(2005年4月28日 J1第8節 対名古屋グランパスエイト)
- ワシントン(2005年10月1日 J1第26節 対ジュビロ磐田)
- J2
- 3得点
歴代監督
- 松木安太郎(第一次)(1993年-1994年)
- ネルシーニョ(1995年-1996年4月)
- 岸野靖之[代行](1996年4月)
- エメルソン・レオン(1996年5月-1997年1月)
- 加藤久(1997年1月-1997年6月)
- エスピノーザ(1997年6月-1997年12月)
- 川勝良一(第一次)(1997年12月)
- ニカノール(1998年-1998年9月)
- 川勝良一(第二次)(1998年9月-1998年12月)
- 李国秀[総監督](1999年-2000年)
- 松永英機(1999年)
- 張外龍(2000年)
- 松木安太郎(第二次)(2001年-2001年7月)
- 小見幸隆(2001年7月-2002年4月)
- ロリ・パウロ・サンドリ(2002年4月-2003年5月)
- レアンドロ[代行](2003年5月)
- オズワルド・アルディレス(2003年6月-2005年7月)
- 石崎信弘[代行](2005年7月)
- バドン(2005年8月-2005年12月)
- ラモス瑠偉(2006年-2007年)
- 柱谷哲二(2008年)
- 高木琢也(2009年-2009年10月)
- 松田岳夫(2009年10月-2009年12月)
- 川勝良一(第三次)(2010年-)
ユニフォーム
チームカラー
- チームカラーは緑色
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | なし | |||
背中 | ミロク情報サービス | MJS | 2009年〜 | 2008年はパンツ |
袖 | 法律事務所オーセンス | 法律事務所オーセンス | 2010年〜 | |
パンツ | なし |
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 プーマ
- 1993年~1996年 リーグ戦、カップ戦共にミズノ
- 1997年~2006年 リーグ戦、カップ戦共にナイキ(1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
- 2007年~ カッパ
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1992年 | CocaCola | マクドナルド | CocaCola | - | PUMA |
1993年 | CocaCola | マクドナルド | CocaCola | - | mizuno |
1994年 | CocaCola | マクドナルド | CocaCola | - | mizuno |
1995年 | CocaCola | マクドナルド | CocaCola | - | mizuno |
1996年 | MALT'S | KONAMI | SUNTORY | - | mizuno |
1997年 | MALT'S | KONAMI | SUNTORY | - | NIKE (※リーグ戦はクラブ自主製作扱い) |
1998年 | MALT'S | KONAMI | SUNTORY | - | NIKE |
1999年 | KONAMI | KONAMI | KONAMI | - | NIKE |
2000年 | KONAMI | KONAMI | KONAMI | - | NIKE |
2001年 | KONAMI | KONAMI | KONAMI | - | NIKE |
2002年 | 楽天ICHIBA | KONAMI | CORNES | - | NIKE |
2003年 | 楽天ICHIBA | M support | CORNES | FIELDING | NIKE |
2004年 | LEOC | TOMAS | CORNES | FIELDING | NIKE |
2005年 | CyberAgent | TOMAS | サイバーエージェント | FIELDING | NIKE |
2006年 | CyberAgent/日テレ | TOMAS | CyberAgent | SOPH. | NIKE |
2007年 | Ameba by CyberAgent | TOMAS | CyberAgent | vap | Kappa |
2008年 | Ameba | TOMAS | -/日テレ55 | MJS | Kappa |
2009年 | - | TOMAS | MJS | 中央高等学院 | Kappa |
2010年 | - | 法律事務所オーセンス | MJS | - | Kappa |
※:「マクドナルド」はロゴは使用せず、シンボルマークのみを採用。
スポンサー企業に関する余談
- コカ・コーラとユニフォームスポンサーを結んでいた1994年、ヴェルディの選手をモデルに起用したコマーシャルが放映され、ヴェルディの主力選手が多数出演した。しかし、エース・三浦知良は、ソフトドリンク業界ライバルでJリーグのスポンサーでもあるサントリーとCM契約を結んでおり、デカビタCのCMに出演したため、このCMに出演できなかった。
チーム名の変遷
- 1969年-1991年 読売サッカークラブ
- 1991年-1998年 読売日本サッカークラブ
- 1999年-2009年 FCニッポン
- 2009年-東京ヴェルディ1969
Jリーグ加盟以来、長らくホームタウン名がチーム名に入っていなかったが、2009年10月21日から呼称に近いチーム名が使用されるようになった。
チーム呼称の変遷
- 1969年-1991年 読売サッカークラブ
- 1992年-2000年 ヴェルディ川崎
- 2001年-2007年 東京ヴェルディ1969
- 2008年-東京ヴェルディ
東京ヴェルディに所属するサッカー漫画の登場人物
ヴェルディ川崎および東京ヴェルディ1969所属選手も含む。
- 滝一、弓倉宣之、ミシェル山田(キャプテン翼)
- 藤代誠二(ホイッスル!)
- 柳木一成、岸川悟史、坂井真二、嶋宏明(Jドリーム)
- 伊武剣輔、緑川かおる(俺たちのフィールド)
- 近藤敦(ファンタジスタ (漫画))
関連項目
脚注
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外部リンク
Template:読売新聞グループ本社
Template:東京ヴェルディ1969のメンバー
Template:日本プロサッカーリーグ
Template:Jリーグオリジナル10
Template:Jリーグ優勝チーム
Template:Jリーグカップ優勝チーム
Template:天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チームar:طوكيو فيردي
ca:Tokyo Verdy
de:Tokyo Verdy
en:Tokyo Verdy
es:Tokyo Verdy
fr:Tokyo Verdy
it:Tokyo Verdy
ko:도쿄 베르디 1969
nl:Tokyo Verdy
pl:Tokyo Verdy
pt:Tokyo Verdy
ru:Токио Верди
simple:Tokyo Verdy
sv:Tokyo Verdy