東京ヤクルトスワローズ
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Template:現在進行 Template:野球チーム 東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。
球団の歴史
国鉄・サンケイ時代
1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。
しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会が主体となり、1950年1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現JTB)などの企業により株式会社国鉄球団を設立。球団名を国鉄スワローズとした(#球団名も参照のこと)。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。
しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは通用しない状態であり、エース・金田正一の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位と成績は振るわなかったものの、こと巨人戦では互角の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は関東で最も人気のある対戦だった。
1961年に初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。そして、1963年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。
1964年、主催試合を系列のフジテレビジョンで中継するために、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する。同年オフ、林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
これに伴い1965年5月10日、産経新聞とフジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送が親会社となり、サンケイスワローズに改称。さらに1966年、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、また手塚治虫が当時球団後援会副会長だったという経緯もあり(会長は徳川夢声)鉄腕アトムをペットマークに使用しチーム名をサンケイアトムズに、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加。
1969年には産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと、運営会社名を株式会社アトムズ球団としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。1970年1月7日にはヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち球団名をヤクルトアトムズに、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となった。
ヤクルト時代
- 1970年、92敗と歴史的大敗を喫し、ダントツの最下位。8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗記録は2リーグ分裂後、当時のワースト記録となり、現在もセ・リーグのワースト記録である(パ・リーグでは千葉ロッテマリーンズが1998年に18連敗を喫した)。尚、セ・リーグでは2003年の横浜ベイスターズが94敗を喫すまではシーズン90敗達成球団が出てこなかった。
- 1971年に三原脩を監督に招聘するが3年連続Bクラス。
- 1973年11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。チーム名をヤクルトスワローズに変更。
- 1976年5月13日より荒川博前監督に代わり広岡達朗が監督に就任。1977年には、球団創設以来初の2位に。なお、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しでこれはセ・リーグワースト記録である。日本記録は南海ホークス時代の1978年から福岡ダイエーホークス時代の1993年にかけて記録した16年連続。
- 1978年、打者では若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエル、投手では松岡弘、安田猛、鈴木康二朗らが活躍し球団創設初優勝・日本一を達成した。しかし1979年はチャーリー・マニエルの放出を軸としたオフの補強に失敗し、森昌彦ヘッドコーチを解任したが、これに激怒した広岡監督途中休養(指揮権放棄)もあって、一転して最下位。
- 1980年、武上四郎監督が就任。就任初年にチームは2位へ浮上するも、以後は低迷した。
- 1984年、武上監督がシーズン途中で休養し、中西太代理監督が就任するが、中西監督も休養し、投手コーチだった土橋正幸監督が就任し、5位浮上。1985年・1986年と2年連続最下位に甘んじるが、広沢克己・荒木大輔が台頭。同時に日本一時のバッテリーだった松岡・大矢が1985年のシーズンを最後に引退した。
- 1986年オフ、関根潤三監督を招聘。チームは低迷したが池山隆寛・栗山英樹ら若手が成長。
- 1987年のドラフト会議で、ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男・一茂を大洋との抽選の結果、ヤクルトが交渉権を獲得。
- 1989年オフ、野村克也監督が就任。野村就任と同時に正捕手となった古田敦也の活躍もあって1992年・1993年とリーグ2連覇、1993年は日本一。1995年、1997年にも日本一に輝くなど、優勝争いのできるチームへと成長した。しかし日本一の翌年はことごとく4位に終わるなど強さが長続きしなかったことから真の強豪とはいえないと見る向きもある。1998年開幕直前に日本ハムファイターズとの交換トレードで野口寿浩を放出し後の選手会長城石憲之を獲得。同年高卒新人五十嵐亮太を擁し球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし一軍は4位に低迷し野村監督は同年限りで勇退し若松勉が監督就任。
- 2001年には巨人を振り切りリーグ優勝、日本シリーズでは近鉄を4勝1敗で破り日本一となった。その後も2002年 - 2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である。ただし2003年は前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位だったため開幕権を得られず、2005年の開幕はビジターで行われた。
東京ヤクルト時代
- 2006年シーズンからは、古田敦也が選手兼任監督として指揮を執ることになった。2005年12月19日のプロ野球実行委員会において、古田の悲願だった「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
- 2006年も前年同様、リック・ガトームソンのノーヒットノーラン等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
- 2007年は怪我に泣かされ続けた1年となった。五十嵐、石井弘寿のいわゆるロケットボーイズが2006年オフに行った手術の影響で1年を棒に振ったのを皮切りにディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾など主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。シーズン143試合目で1986年以来、21年ぶりの最下位が確定。
- 8月から東京のUHF、東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)で今年度初のテレビ中継が開始。(ただし、MXテレビの親会社・東京新聞の関係でドラゴンズ戦のみ。)以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。
- 2007年9月、古田監督の現役引退及びヤクルト球団からの退団も併せて発表された。なお伊東昭光ヘッドコーチも辞意を表明しているため、最年長のコーチである八重樫幸雄打撃コーチがヘッドコーチ代理を兼任していた。10月25日に日本ハムのゼネラルマネージャーを退任した高田繁が次期監督に就任し、翌26日には西武ライオンズの投手コーチを退任した荒木が次期一軍投手コーチとしてチームに復帰することが決定した。チームで16勝を挙げたセス・グライシンガーが巨人へ、石井一久がFAで西武へ移籍した。年明けの2008年1月には藤井秀悟などを交換要員する3対3のトレードを日本ハムと行った。藤井を放出したことで、先発投手が駒不足となった。
- 2008年は巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立ったが、石川、館山に続く先発が不在、また福地寿樹や青木、飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、アーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が抜け戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち2試合がサヨナラ)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され5位に終わった。しかし、去年まで完全に崩壊していたリリーフ陣が共に怪我で苦しんでいる中入団した林昌勇と昨年登板が無かった五十嵐の復活と押本健彦の加入、先発で結果が出ない松岡健一が転向して結果を残し完全に整備され、高卒ルーキー由規の登場や、新しくレギュラーとなった若手野手の台頭など来年以降の足がかりを掴んだ一年だった。
- 2009年1月、横浜ベイスターズからFA権を行使していた相川亮二を獲得。FA権が導入されてから初めてのFA補強を行い、長打補強のためジェイミー・デントナを獲得した。
- このシーズンは序盤から2位をキープして前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、更にはチームを支えてきた相川を初め、田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱し、怪我をした宮本が強行出場するなど厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の阪神との直接対決に勝利して3位が確定し、3年ぶりのAクラス入りで初のCS進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて史上初の勝率5割未満のCS出場となった。
- 2位・中日とのCS第1ステージでは石川の好投とデントナの逆転2ランホームランにより第1試合に勝利したが、新型インフルエンザにより選手が離脱したことも響いて中日に2連敗し、敗退した。
主な株主
- 株式会社ヤクルト本社 (80%)
- 株式会社フジ・メディア・ホールディングス (20%) - ニッポン放送、フジテレビジョンの親会社(持株会社)
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回 -(1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年)
- 日本一 5回 -(1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
- Aクラス 16回 -(1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年、2009年)※
- Bクラス 44回 -(1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年)
- 連続Aクラス入り最長記録 4年 -(2001年 - 2004年)
- 連続Bクラス最長記録 12年 -(1962年 - 1973年)
- 最下位回数 13回 -(1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年)
- 最多勝 83勝(1997年)
- 最多敗 94敗(1950年)
- 最多引分 16分(1978年、1981年)
- 最高勝率 .631(1995年)
- 最低勝率 .264(1970年)
- ゲーム最多得点 22(1955年7月13日・対広島)
- ゲーム最多失点 22(1999年7月22日・対横浜)
※2003年は巨人と同率の3位であり、2002年は巨人は優勝・ヤクルトは2位のため、2005年の開幕権を得られず。
チーム個人記録
- 投手
- ノーヒットノーラン最年少記録 18歳1ヶ月 金田正一投手(1951年)
- 交流戦ノーヒットノーラン リック・ガトームソン投手(2006年)
- 野手
- シーズン200本安打達成(史上2人目) 青木宣親外野手(2005年)
- 同(史上3人目) アレックス・ラミレス外野手(2007年)
その他の記録
- 年間最多併殺打 140個(1996年、セ・リーグ記録)
- 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
- 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
- 最高連勝数 12連勝(1991年)
- 最低連敗数 16連敗(1970年)
- 間に引き分けを挟んでいない連敗としてはプロ野球最低記録(引き分けを挟んだ場合の最低記録は1998年ロッテの18連敗)
- 最多本塁打 181本(2004年)
- 最少本塁打 36本(1951年)
- 最高打率 .283(2003年)
- 最低打率 .201(1962年)
- 最高防御率 2.29(1961年)
- 最低防御率 4.76(1984年)
- 連続安打打席数 11(2009年、プロ野球記録&ギネス世界記録)
歴代本拠地
- 1950年:後楽園球場
- 1951年:後楽園球場、武蔵野グリーンパーク野球場
(フランチャイズ制度の実施は1952年から)
チーム特徴
球団名
「スワローズ」の名称は、当時国鉄では唯一の特急列車だった「つばめ」号に由来する。球団旗には列車に使用されていたつばめマークを採用。「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使用している。
- ニックネーム決定の際、国鉄職員を対象とした公募を行った際、「サービス」「ホイッスル」「弁慶」等の名前も挙がったが、最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース」(国鉄の紋章“動輪に桐”に由来。球団設立当初はユニフォームの袖章にも使われた)の2つである。しかし、“動輪に桐”は一般にそれほど知られていたわけではなく、国鉄内部向けの印象が強かった。一方ツバメは古来よりスピードの象徴でありスピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、またツバメは人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、スワローズの方に決定した、といういきさつがある(徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』参照)。
- 元来「燕」は国鉄の象徴的な存在だった。1950年に、国鉄自動車局(国鉄バス)がシンボルマークに「燕」を一般公募で採用しており、現在のJRバス各社がツバメをマスコットキャラクターとして継承しているのもその名残であり、旧丸善石油(現在のコスモ石油。「Oh!モーレツ!!」のテレビコマーシャルで有名。)がツバメのマークを使用していたのも、開業当初鉄道省(国鉄の前身)との繋がりが深かったからである。
- 『国鉄は当初「コンドルズ」にしようとしたが、本業の鉄道が「“混んどる”ず」ではマイナスイメージだから取り止めた』『「“座ろう”ず」にすれば鉄道業としては快適なイメージだから「スワローズ」を採用した』という俗説が有名であるが、これは漫才のジョークが元ネタである(綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』参照)。なお、南海ホークスにも「コンドル」をチーム名候補とした話があるが、こちらは球団史にも記載されており、根拠のないジョークではない(『スポーツに関する都市伝説』の該当項目参照)。
- 「アトムズ」は親会社だったフジテレビでアニメが放映され、また改名後産経新聞の日曜版にも漫画原作が連載されていた、手塚治虫原作の『鉄腕アトム』からとった。なお広島東洋カープが創設された当初、アトムズも球団名の候補に挙がっていたといわれている(広島東洋カープ#チーム特徴を参照。由来は当球団とは異なる)。
マスコット
現在
- つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。尻が重いせいか、じれったいほど動きが鈍い。12球団のメインマスコットで唯一ユニフォームを着ていないため、背番号なし。ただし2008年にヤクルトアトムズの復刻ユニフォームを一時期着用しており、その際の背番号は2896(ツバクロと読める)であった。名前は公募により決定され、ツバメの別名「つばくろ」と9回・9人で行う野球の性質を合わせた名前となっている。「つばぜり合いに強く、苦労しながら接戦をものにする」という意味も込められている。自身のブログでは文を全てひらがなで書いている。2008年7月10日、主催試合での連続出場1000試合を達成した。ヘルメットは着脱可能で、外すと小さいリーゼントヘアーである。
- つばみ - つば九郎の妹。1999年に登場。つば九郎と同様ユニフォームは着用していない(一時期着用したアトムズユニフォームの背番号は283)が、スカートとサンバイザーを着用しているのが兄との違い。当初は眉毛のないつば九郎のような顔をしており、脚は黄色く細長であったが、2007年にイメージチェンジ。顔には短い睫毛が追加され、脚も股引をはいたような状態となり、つば九郎に近づいた。さらにスカートの柄もストライプから無地にかわっている。つば九郎からはバズーカで狙撃されたり、セクハラまがいのイタズラをされる苦労ツバメ。
- 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。燕尾を持たずユニフォームを着込むなど動きがいいように設計されており、スワローズのマスコットでは貴重なアクロバット要員である。ブレイクダンスを得意とし、その身体能力は高い。漫画が好きなようで、2007年マスコットデーで行われた徒競走においてつば九郎は燕太郎に勝つため漫画により気をひく作戦を実施していた。当初の背番号は「102」(登場当時、チームスタッフのつけていた最大番号が「101」だったため)だったが、2008年シーズンより打撃投手となった石堂克利が背番号「102」をつけるようになったため「8960」(ヤクルトのもじり)に背番号が変更となった。最初は裸足であったが、現在は靴を履いている。
- この内、つば九郎、つばみは2001年のフジテレビのイメージCMに出演したことがある。内容はつば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が(兄妹だろ、こいつら)と何故か「兄妹」の立場からツッコミをいれるという内容。
過去
- アトム - 愛称がアトムズだった、1966年から1973年まで使用。漫画「鉄腕アトム」の主人公。
- ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。神宮球場にはボールをモチーフにした絵・キャラクターが多く、かなり神宮を意識したものと思われる。通称「ボール坊や」、正式名称はなし。
- ヤー坊 - 1978年〜1979年頃には登場し<ref>1978年〜1979年に在籍したデイヴ・ヒルトンの本塁打を出迎える写真がベースボール・マガジン社に残っている(参考:「ベースボールマガジン1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!」 - 23ページに写真掲載)。また、1979年12月発行の漫画単行本「がんばれ!!タブチくん!!」第3巻でツバメのマスコットがホームランを打った選手を出迎えるシーンの描かれた作品が掲載されている。</ref>、つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。
- スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。
応援スタイル
応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使用したのは東京オリオンズであるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。
- 近年はチャンステーマにJITTERIN'JINNの「夏祭り」が使用される。
- 球団のイメージカラーは明るい緑色で、これはヤクルトの球団旗とアトムズ当時のユニフォームのアクセント色に由来する。ユニフォームの配色を赤と紺に変更して以降も、メガホンなどのグッズは依然として緑色のものが継続して販売されている。
- 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時の応援団長だった岡田正泰が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
- 傘応援については危ないという意見があり、横浜スタジアムでは一時期傘を使用した応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように露先を柔らかい素材にしているとされている。また、現在発売している応援用の傘は骨の長さが30cm前後とかなり小さなものとなっており(先端部には別売のつば九郎やつばみのマスコットが取り付けられるようになっている。)、通常の雨傘として使用するには不適。
- 他球団ファンは、7回や勝利時にジェット風船を飛ばしているが、神宮球場がジェット風船禁止であることや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから多くのヤクルトファンは「ゴミになるだけ」「神宮外苑の自然環境が悪化する」との理由でジェット風船を使用していない。
- 本拠地とする神宮球場では、ナイトゲームでの太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場でのナイトゲームではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。なお、2009年まではデーゲームでも太鼓の使用は禁止されていた。
- 2006年から選手を紹介する場内アナウンスは2人体制になり、ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ホームについては男性DJが担当している。2009年現在、公式DJとしてパトリック・ユウを起用している。
- 前奏・間奏(1番と2番の間)部分で相手球団とは無関係に一部のファンが「くたばれ読売」と歌詞を付ける(ヤクルトのラッキーセブンではヤクルトの対戦相手のファンの一部(当然巨人ファンは除く)も「くたばれ読売」歌詞をつけて一緒に歌うことがある。特に神宮球場での対阪神戦では阪神の応援団も積極的に参加して場内全員で大合唱する)。これは応援団主導でやっているのでは無く、一般のファンが独自に始めたものが広まった。しかし巨人ファンから「悪質だ」などの苦情が殺到したことから、2010年から「東京ヤクルト」と連呼するようになったとされている。しかし、実際には依然として「くたばれ読売」の連呼は続いている。
近年の戦績
- 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響して、マジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となり優勝決定」が3年続く珍事がおこった。
- 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり1987年から20シーズンにわたり最下位に落ちることがなかった。1991年以降は2006年まで4位以上と安定した成績を保っていた。それに伴って監督在任期間も長くなり平成の21年で監督を務めたのは関根1年、野村9年、若松7年、古田2年、高田2年の計5名である。一時期に常に最下位争いしていた横浜(当時大洋)の10人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
- Bクラスに低迷していた武上四郎、土橋正幸、関根潤三監督時代は、優勝チームの胴上げ試合がヤクルト戦となることが多かった(83年巨人、85年阪神、86年広島、88年中日、90年巨人)。広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また何故か星野仙一監督時代の中日での2度の優勝と阪神でのリーグ優勝は全てヤクルト戦に絡んだ試合である(88年はナゴヤ球場で99年は本拠地神宮球場でそして03年は阪神甲子園球場での対広島戦でこの時のヤクルトとの対戦相手は横浜である)。ちなみに78年のヤクルト初優勝決定試合の対戦は同じく神宮球場での中日戦である。
- ヤクルトは日本シリーズに強く、通算6回出場し5回優勝している。唯一日本一を逃した1992年も、黄金時代の西武ライオンズ相手に3勝4敗だった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家たちからも「ヤクルトは大健闘した」と讃えられた。また日本一になった時は、1993年を除いては、ホームで胴上げを行っている(ただし、1978年のみ後楽園球場)。神宮での最後の敗戦は1995年第4戦で、翌第5戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中日本シリーズで出場経験のない楽天と日本シリーズで敗退経験のない横浜(ちなみにシリーズ出場回数は前身の大洋を含め2回)を除く全10球団で日本シリーズの敗退経験が1回しかないのは現在ではヤクルトだけとなった。日本シリーズ出場回数6回は日本プロ野球史上6位と決して多くはないものの、上記の通りシリーズでの勝率の良さのおかげで日本一5回は巨人、西武に次ぐ歴代3位に位置している。
- 1990年代は、日本一(奇数年)になった次の年(偶数年)に、その反動で成績を落として(94・96・98年4位)、そのまた次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で4度が奇数年で記録されている。1992年の西武を最後に日本シリーズを連覇するチームが出ていないが、このようなヤクルトの戦績が、少なからぬ影響を与えていると言える。
- 2007年に21年ぶりの最下位となり、平成になって最下位が一度もないのは巨人、西武の2球団だけとなった。
- 交流戦が始まった2005年以降、対パ・リーグ球団との相性はオリックス・バファローズが非常に良く、また2009年までは負け越した年がなかったが、2010年は1勝3敗と負け越した。しかし通算では18勝10敗と勝ち越しており(2010年交流戦終了時点)、前身のブレーブス・ブルーウェーブ時代の日本シリーズの対戦成績も含めると通算26勝13敗になる。
その他
- 同じ東京都を本拠地としているだけに、ファンの間では昔から巨人への対抗心は強い。球団も、国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンだった。しかし松園尚巳オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言するなど、後の桑原潤オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園オーナーは球団に愛情を持ってはいたが、いわゆる「出来の悪い子」が好きだったらしく、「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めているので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。1978年のシーズン終盤に当時の広岡監督と面会した際も、「ここまでよく頑張った」と暗に優勝を巨人に譲れと言わんばかりの発言をし、これに監督以下選手たちが反発して初優勝を遂げたという話も伝えられている。
- 1990年代以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどであり、特に松園オーナー時代は一貫して巨人軍の大物OBを監督に据えている。このため、生え抜き監督は国鉄時代の藤田宗一、ヤクルト以降は武上四郎・若松勉・古田敦也の4人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」だった。
- 国鉄時代には金田、サンケイ〜ヤクルトになってからも若松や松岡弘など球史に残る大選手を擁しながらも人気の面では一貫して低迷を続け、本拠地の主催試合でもスタンドの大半は対戦チームのファンで埋まることが常だった。1978年の初優勝の際にも巨人戦ではジャイアンツファンに囲まれる中でのプレーを余儀なくされたが、1980年代に荒木大輔、ボブ・ホーナー、長島一茂などのスター選手を獲得してからは徐々に人気を伸ばし、90年代の飛躍へと繋がっていった。
- 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として秋田県立野球場(こまちスタジアム)、ひたちなか市民球場・いわきグリーンスタジアム、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等がある。以前は日本各地といって良いほど各地で試合を行っていたが、近年は交流戦等の影響もあり他球団同様減少傾向にある。(交流試合が地方球場で行われた試合もある)詳細は東京ヤクルトスワローズ主催試合の地方球場一覧参照の事。
- 巨人をビジター(アウェー)で扱う試合は(他チームも同様であるが)、長年地方球場での開催をすることは無かったが、2009年に福島県のあづま球場で1試合、2010年は愛媛県の坊っちゃんスタジアムで2試合の地方開催が行われている。<ref>本来2009年は秋田・こまちスタジアムでの2連戦開催が計画されたが、こまちスタジアムでは夏の高校野球秋田県大会の開催と日程がかぶるなどの影響で開催できず、その振り替えとして福島で1試合、もう1試合は神宮で開催</ref>
- 千葉マリンスタジアムでも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は実施されていない。
- 帽子マーク"Ys"の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代に遡る(当時は"Ya"マーク)。1994年から変更されている。
- 帽子マークは、左に大きく「Y」・右に小さく「S」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「S」としていることが多い。週刊ベースボールの2軍戦日程表では一時球団略称をYsとし、湘南シーレックス(横浜ベイスターズ2軍)をSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。
ファンクラブ
- 年会費
- プレミアム会員15,000円(1500名限定)
- 大人会員5,000円
- 子供会員3,500円(中学3年まで)
- 特典
- プレミアム会員(2000名限定)
- 2007年度
- 自分で背ネームと背番号(当初後ろのみだったが、現在は前と後ろの両方)が決められるホーム用ユニフォーム(通常のレプリカには付いてこないユニデンのマーク付き)
- 2008年度
- 限定ナイキ製プロ選手仕様ジャンパー(プロコレクションでは今後販売しない)
- 2007年度
- 球場特典
- 全会員共通
- 球場で期間中にバッジプレゼント
- 神宮球場開催のオープン戦が会員証提示で無料
- プレミアム会員、大人会員共通
- 5試合の外野自由席無料券(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
- 子供会員(中学3年まで)
- 全試合外野自由席が無料で試合観戦(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
- その他特典
- 戸田球場は元々無料である為、誰でも試合観戦は無料である、その他、大田スタジアム、スワローズ主催の地方球場、東京ドーム(ビジター)、神宮球場の東京ヤクルトの2軍戦が無料で試合観戦が可能。
- 東京ドームにある野球博物館が割引価格で入場可能
- スワローズオンラインショップ及びグッズカタログ通販で購入時に10%割引特典
- オフシーズン、マスターズリーグの試合観戦が当初提示すれば指定席以外内外野自由席が無料で見られたが、観戦割引が適用。
ファンクラブの歴史
- 2007年度のファンクラブ会員にプレミアム会員が誕生
- 2008年度のファンクラブ会員では子供会員以外長年続けていたファンクラブ用の帽子が打ち切りとなった。
ユニフォームの変遷
- 1950年 - 1954年 帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着・パンツは白のものとグレーのものが存在(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。
- 1955年 - 1960年 レターから白の縁取りが消える。袖・パンツにラインが入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。
- 1961年 - 1965年5月 縁取りに赤を使用されストッキングのラインが廃止。1963年から「Tokyo」の書体を変更。1965年のみラインがWラインとなる。同時に国鉄最後のユニフォームとなった。5月10日より、国鉄から産経新聞社へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。
- 1965年6月 - 閉幕 先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁にカラー変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。
- 1966年 - 1968年 球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「atoms」が登場。チームカラーが赤とブルーに変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「sankei」となる。(※それまでは「SANKEI」)。帽子はブルー地で飾り紐が付き、マークは赤で「a」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『鉄腕アトム』のキャラクター・ワッペンが付く。斜体文字フォントは亀倉雄策が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「VAN」が作成。
- 1969年 - 1970年 チーム名がニックネームのみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年からヤクルト本社と業務提携。翌1970年、ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・ラインが赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「a」から「Ya」(「Y」は赤、「a」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「Yakult」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
- ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「Yakult」となる(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)。
- シーズン途中からレターが濃紺色に変更。
- 1971年 - 1973年 三原脩監督就任により、読売ジャイアンツと同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「atoms」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。
- ビジター用はグレー地になる。
- 1974年 - 1977年 スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に荒川博監督就任に伴い、ニット素材の丸首ブルオーバー・ベルトレスになり、基本カラーが濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
- ホーム用は、2005年までの31年間に渡り使用された赤のストライプを採用、「Swallows」ロゴは1965年までのものがそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺のライン。
- ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺のライン。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
- 1978年 - 1989年 基本デザインが当時のアトランタ・ブレーブスを意識したものにモデルチェンジされ、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツのラインが赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
- 1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、パンツのライン・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
- ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
- ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せてサッカーのユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
- 1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。
- ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
- ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを踏襲したものになる。
- 1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2001年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用したのが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦だったものの負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様<ref>「プロ野球ユニフォーム物語」(2005年3月、ベースボール・マガジン社発行)より。</ref>。
- ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
- 2006年 - 2008年 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらないが、首周りと袖に赤ラインが入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
- ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。
- ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。
- 2009年 - ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した(デザインは引き続きBEAMSによる)。選手名と背番号の書体が変更されている。スパイクは白から紺に変更。左袖にはつば九郎とは異なるツバメの顔がデザインされている。ホーム用はゼット製、ビジター用はミズノ製。なお、2009年のみ右胸部分に球団設立40周年記念ロゴがはいっている。
- ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太ラインを赤、ロゴマークを白に赤と紺の縁取りに変更。
- ビジター用はライトグレー地を基調にしている。
限定版ユニフォーム
- 2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などにおいて、『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』と題して、アトムズを名乗った1969年のビジターユニフォームを復刻し、一軍全選手が着用して試合に臨むことが発表された。手塚治虫の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所手塚プロダクション協賛で行われる。対象となるのは5月3-5日の読売ジャイアンツ戦、9-11日の広島東洋カープ戦、13-15日の中日ドラゴンズ戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、交流戦開幕シリーズの5月21-22日・埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、西武ドームでの埼玉西武戦では、同じく手塚プロのレオとの共演となる<ref>『ヤクルト、アトムズユニホームを復刻 日刊スポーツ』 2008年3月31日 閲覧。</ref>。
- 帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。
- 2009年 ホーム用交流戦ユニフォームは、国鉄が1951年、本拠地構想があったとも言われている武蔵野グリーンパーク野球場開場当初にだけ使用した燕ロゴのユニフォームが採用されている(背番号上の選手名のローマ字表記はない)。
スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。
過去
現在
歴代監督
- 1950年 - 1953年 : 西垣徳雄
- 1954年 - 1955年 : 藤田宗一
- 1956年 - 1960年 : 宇野光雄
- 1961年 - 1962年 : 砂押邦信(第1次)
- 1963年 : 浜崎真二
- 1964年 - 1965年 : 林義一
- 1965年 : 砂押邦信(第2次)※1
- 1966年 - 1967年 : 飯田徳治 ※2
- 1968年 - 1970年 : 別所毅彦 ※3 ※4
- 1970年 : 小川善治
- 1971年 - 1973年 : 三原脩
- 1974年 - 1976年 : 荒川博 ※5
- 1976年 - 1979年 : 広岡達朗 ※6
- 1980年 - 1984年 : 武上四郎 ※7
- 1984年 - 1986年 : 土橋正幸
- 1987年 - 1989年 : 関根潤三
- 1990年 - 1998年 : 野村克也
- 1999年 - 2005年 : 若松勉
- 2006年 - 2007年 : 古田敦也(選手兼任) ※8
- 2008年 - 2010年 : 高田繁 ※9
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここからサンケイスワローズ
- ※2 ここからサンケイアトムズ
- ※3 ここからアトムズ
- ※4 ここからヤクルトアトムズ
- ※5 ここからヤクルトスワローズ
- ※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は佐藤孝夫が代行
- ※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは中西太が代行
- ※8 ここから東京ヤクルトスワローズ
- ※9 2010年は5月26日まで指揮、残り試合は小川淳司が代行
永久欠番
球団として公認された永久欠番は無い。欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きで、かつ対象者が推薦が必要とされる。
歴代の球団歌・応援歌
- アトムズ〜ヤクルトアトムズ時代
- ヤクルトスワローズ〜東京ヤクルトスワローズ時代
- とびだせヤクルトスワローズ(歌:松岡弘) - 球団公式応援歌。
- 新とびだせヤクルトスワローズ(大洋ホエールズが横浜ベイスターズにチーム名を改めたのに伴い、関連する箇所の歌詞を変更したヴァージョン)
- とびだせ東京ヤクルトスワローズ - 新とびだせヤクルトスワローズの「ヤクルトスワローズ」の部分の歌詞に「東京」を加えた替え歌
- ビクトリーロード(歌:ILYS(アイリス)) - 神宮球場で勝った場合、最後に場内で流す曲。1980年代頃と、2000年前後に流されていた。現在は使用されていない。1978年9月発売。
- ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。
- スワローズ音頭 - 1983年4月発売。坂上二郎はじめ、荒木大輔・松岡弘・梶間健一・尾花高夫・大矢明彦・角富士夫・大杉勝男・若松勉らのスワローズ選手がコーラスを務めている。
- 君こそヒーロー - 「スワローズ・ビクトリー・マーチ」。球場では、ドリマトーンの演奏で使われたが、実際の曲は優勝セレモニーなど特別な場合以外は流されなかった。2006年以降、応援団によって四死球による出塁・盗塁成功時などのテーマとして使用されている。
- 青春のダイヤモンド - スワローズの球団歌。
- ラッキー・セブンの歌 - 1995年9月1日発売。
- We Are The Swallows - 2009年 ヤクルト球団創設40周年を記念し、新しい応援ソングとして制作。作詞・作曲は林田健司。2009年より応援団によって安打による出塁のテーマとして使用されている。
主なキャンプ地
- 沖縄県浦添市民球場
- 神宮球場
- 宮崎県西都原運動公園野球場
キーワード
下山事件とプロ野球参入
1949年にセ・パ2リーグ分立騒動が起こるが、当初国鉄は公共企業体という性質上、プロ野球参入には消極的だった。
一方、1949年7月5日、国鉄総裁・下山定則が失踪し、常磐線綾瀬駅付近の線路上で謎の轢死体で発見された(下山事件)。その後下山の死因をめぐり、2リーグ分立の主役である読売新聞と毎日新聞の報道面での相違(読売と朝日新聞が他殺体と報道しているのに対して、毎日が自殺と報道した)があった。
歴史の項でも触れたように2リーグ分立が具体化されると国鉄野球部員の集団引き抜きも相次ぎ、国鉄職員の団結力の向上を目指し、下山から総裁を引き継いだ加賀山之雄が、1950年1月に国鉄スワローズを結成。どちらのリーグに参加するかで話題となったが、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)もあり、自殺説を報じた毎日主導のパ・リーグへの参加を断固拒否し、他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請を行ったといわれている。
※この項の参考資料『ザ・真相』(2004年10月11日放映・テレビ東京)
フジサンケイグループ
1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が日本テレビ放送網しか与えられていなかったため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。
国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。
これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(旧:大洋球団)の株式を保有し、フジテレビがニッポン放送(ニッポン放送ホールディングス)を吸収した2006年以降、フジテレビが横浜株を34万株(30.77%)保有している。同一企業およびそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。
尚、フジテレビONE(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合(交流戦(日本版インターリーグ)18試合含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった(これまではフジテレビが資本参加するJ SPORTSで放送されていた)。
セ・リーグ最低打率
1962年のセ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)だった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。
試合球到着遅延事件
サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園平和野球場<ref name="東京ヤクルト・キーワード"/>で行われた対中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。
その為公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。
初優勝決定の日
1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。
決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。
更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。
- 読売ジャイアンツ「セ・リーグの繁栄を今日まで築いてくれた伝統の巨人軍ありがとう」
- 阪神タイガース「熱心な浪速気質の声援に大きな刺激を受けました。阪神球団ありがとう」
- 中日ドラゴンズ「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました。中日球団ありがとう」
- 広島東洋カープ「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激になりました。広島球団ありがとう」
- 横浜大洋ホエールズ「新球場(横浜スタジアム)進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました。大洋球団ありがとう」
阪神はその年、球団創設初の最下位だった。この前年までセ・リーグ6球団中、最下位シーズンの経験がなかったのは阪神だけであり、この年で、消滅した西日本パイレーツ以外の全セ・リーグ球団が優勝と最下位を経験したことになる。
背番号17番
背番号17番は、スワローズのエースナンバーとして受け継がれている。現在までの着用者は以下の6名。
開幕129試合連続得点
初優勝した1978年、ヤクルトは開幕戦から完封負けも0-0の引き分けもなしの記録を129試合続け、ついにシーズン最終戦(対広島)を迎えることになった。広島の先発はプロでは完投経験もなかった2年目の大野豊で、シーズン全試合得点の大記録達成は確実と思われた。ところがこの大野をヤクルト打線は打ち崩すことができずプロ入り初完封勝利を献上、あと一歩のところで記録を逃した。前年からの143試合連続得点は当時の日本記録。のちにシーズンを跨ぐ形の記録は更新されたが、1シーズン全試合得点の記録は2009年までまだ達成した球団はない。
なお、大野はその後ヤクルト戦を得意とするようになり、1998年に引退するまで通算31勝10敗(大野自身の現役通算成績は148勝100敗)、1985年から88年までは12連勝を記録した。
1978年の日本シリーズ
本拠地で優勝チームの胴上げ
ヤクルトは1985年と1986年に2年連続で最下位になったが、1985年は阪神の優勝、翌1986年は広島の優勝と2年連続で本拠地の神宮球場で許した。2年以上連続で最下位になったチームがその内2年以上連続で自分たちの本拠地で敵将の胴上げを許しているのはセ・リーグではヤクルトだけである。87年以降神宮球場での他球団胴上げは99年の中日だった。しかし、2008年マジックナンバーを2とした巨人が神宮でヤクルトに勝ち、同日遅れてマジック対象の阪神が敗れたため巨人の優勝が決定。神宮球場で胴上げとなった(日本シリーズでは92年の西武がある)。
日本プロ野球選手会脱退
1985年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得た。だが、当時のオーナー松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。
この際、本社側からは「表向きには“労組脱退は選手の自発的な行動”とするように」などとする緘口令が敷かれたが、脱退を表明する記者会見で当時の選手会長角富士夫が声明文を読み上げる際『表裏一体』を“おもてうらいったい”と誤読してしまうハプニングがあった。
プロ野球選手会には労組格と社団法人格の2組織があるが、ヤクルト選手会は、一方の社団法人格の選手会に関してはオーナー側から継続参加が認められた。当時のプロ野球選手会総会は社団法人格の総会と労組格の総会とを同時に行うことが多かったが、労組格を脱退している間、ヤクルト選手会幹部は労組総会が行われる際には全員退席していた。
しかし1989年、当時の球団社長桑原潤が「労組といっても、政治的な背景があるわけではない」と活動に理解を示したことなどから、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。
プロ野球史上最長試合
1992年9月11日の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。
3対3で迎えた9回裏、阪神八木裕のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、7回からロングリリーフした岡林洋一の力投もあり、延長15回引き分けに終わった。
この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。
なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ(1996年9月8日対横浜戦(下関) 6時間19分)である。
交流戦での最も遅い終了時間としては、これもヤクルトがらみで2006年5月21日のヤクルト対ソフトバンク戦で0時12分という終了時刻を記録した。なお、この時は東京六大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。
幻の「優勝決定プレーオフ」
1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残ったヤクルトと阪神が、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月11日)と日本シリーズ開幕(10月17日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである。当時公式戦に使えるドーム球場は東京ドームだけだった。
甲子園で最後の直接対決2連戦を阪神が連勝すれば、プレーオフが実施されたが、1戦目(10月10日)でヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻に終わった。
高得点の1点差試合の日本記録
1993年5月19日・神宮球場での対広島6回戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に池山隆寛の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった高津臣吾や山田勉を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース佐々岡真司までをも投入するが、午前0時を回った延長14回にレックス・ハドラーのセンター前タイムリーでヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。
試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。 なお、この試合のスコアとおおまかな内容は以下のとおり。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 1 | 4 | 2 | 1 | 1 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 |
ヤクルト | 2 | 0 | 11 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1X | 17 |
登板した投手
ヤクルト:荒木、金沢、石井、内藤、森、高津、山田勉、西村(勝)
ホームラン:ブラウン4・5号、野村7号、江藤9号、小早川毅2号(当時広島)、池山5・6号、山崎2号、荒井6号、ハウエル9号
1995年の開幕3連戦
1993年の日本一から、1994年は一転してBクラス(4位)へ転落。さらに主軸の広沢克己、ジャック・ハウエルの2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は斎藤雅樹に完封され、続く第2戦も桑田真澄に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が飯田哲也に頭部死球を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。
この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト対巨人戦で、ヤクルトの西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となった。
1997年優勝
シーズン開幕前にオマリーが退団して4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人のホージーもキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は清原和博・ヒルマン・石井浩郎を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。
迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す斎藤雅樹。しかしヤクルトは広島から移籍した小早川毅彦の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。野村克也監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の高津臣吾に代わって伊藤智仁がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また、開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもあってペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが、8月頃から横浜が猛追し、最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で石井一久がノーヒットノーランを達成して勢いを取り戻し、最終的には横浜に11ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座を譲らず優勝した。
2001年のリーグ優勝
シーズン開幕前は、川崎憲次郎の退団・伊藤智仁の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を藤井秀悟・入来智・前田浩継の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。
後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に古田敦也が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。9月の2位巨人ホーム・ビジター各3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたうえ、ヤクルトも直後の中日との4連戦(ナゴヤドーム)で4連勝して再び突き放し、10月6日の横浜スタジアムで優勝を決めた。この時、球場での若松監督のインタビューで「ヤクルトファンの皆さま優勝おめでとうございます!」と言ったことは有名である。
そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが『勝ち数優先の順位決定』である。2001年、セ・リーグは勝数で順位を決定、ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。
ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなったといわれている。
このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらなかった。
巨人との相性
近年は巨人との相性の悪さが目立つ成績が続いている(関連:東京ダービー)。
ヤクルトは巨人のエースだった上原浩治(現ボルチモア・オリオールズ)を大の苦手にしており、1点差や2点差の僅差の試合でも完投を許していた。その中には1-0というスコアで完封勝利させてしまう試合まであった。ちなみに、ヤクルトの上原との通算対戦成績は勝利数、三振数、勝率、総得点ともにダントツでリーグワーストである。さらに、上原の自己最高記録の1試合14奪三振を2度も許している。上原に1試合14奪三振を許しているのはヤクルトと楽天だけである。
その他にも桑田真澄をはじめとして苦手投手が多く、これが響いてかヤクルトは優勝した2001年から毎年巨人に負け越し続けている。2001年や2004年、2005年、2006年はセ・リーグ5球団の中で対巨人戦は勝率、敗数共にリーグ最低であり、特に巨人がBクラスに転じた2005年はその上原や桑田が大不振に陥っており、巨人が低迷していたにもかかわらずヤクルトは彼らからなかなか点を取ることができず、セ・リーグ5球団の中で唯一巨人に負け越した。
2007年はチーム自体が低迷している中、7月6日-8日の神宮球場での3連戦で3連勝し、負け越しを阻止するかに見えたが、その後は4連敗を含む連敗を重ね、9月11日に5-6で巨人に敗れ、7年連続負け越しが決定。同年10月2日の東京ドームでの試合で1点リードの9回裏、宮本慎也の悪送球でサヨナラ負けを喫し、1990年以来の17年ぶりに東京ドームでの巨人の胴上げを目の前で見ることとなった。
2008年はチームの主砲だったアレックス・ラミレスと前年の最多勝投手セス・グライシンガーが巨人に移籍し、開幕カードこそ3連勝したものの、その後は一方的に負け続け、9月5日に13敗目を喫し8年連続負け越しが決定。巨人がリーグ優勝マジック2とした10月10日の試合でも敗北し、マジック対象チームである阪神も敗北したため巨人の優勝が決定し、本拠地である神宮球場での胴上げを許すこととなり、巨人が2年連続で対ヤクルト戦で胴上げを行った。
2009年は9月4日の試合で4勝12敗1分(最終的に5勝18敗1分)となり、9年連続で巨人戦の負け越しが決定。球団史上ワーストを更新という不名誉な記録を打ち立ててしまった。この年は、巨人のほとんどの先発投手を苦手としてしまっていて、特に、セス・グライシンガーや高橋尚成、内海哲也、東野峻には、それぞれこの年唯一の完投・完封を許してしまうなど、巨人の先発投手のシーズン完投数11回のうちの半分近く(5回)も完投させてしまった。
前述のラミレス、グライシンガー以前にも1994年オフにはジャック・ハウエルと広澤克実が、2002年オフにはロベルト・ペタジーニとチームの主力選手が相次いで巨人へ移籍するという事態となっている。この移籍はヤクルトファンだけでなく野球ファンからも巨人に対して多くの批判がある。2008年オフにもヤクルトを解雇されたディッキー・ゴンザレスを巨人は獲得している。
近年の対巨人戦の相性が悪い決定的な理由には、巨人が本拠地とする東京ドームに滅法弱いことが挙げられる。2003年こそ成績は5割だったが、2004年以降は毎年負け越していて、勝率も毎年非常に悪い。2005年から2009年までは3連戦のカード3連勝はおろか、勝ち越したことは一度もなく、逆に3連戦3連敗はほぼ毎年喫していた。しかし、2010年の開幕カード3連戦(3月26日〜28日)では2勝1敗とし、2004年8月17日〜19日以来、6年ぶりに3連戦を勝ち越した。2004年から2009年までの東京ドームでの対巨人戦は6年間で60試合行われていたが、その成績は13勝46敗1分けと散々な結果となってしまっている。これは、エースの石川雅規や館山昌平をはじめとするヤクルト投手陣のほとんどが東京ドームを苦手にしていることが影響している。
- ヤクルトの対巨人戦対戦成績(1988年以降)
年度 | 監督 | ヤクルト順位 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 巨人順位 |
---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | 関根 | 5位 | 13 | 12 | 1 | 2位 |
1989年 | 関根 | 4位 | 7 | 19 | 0 | 1位 |
1990年 | 野村 | 5位 | 7 | 19 | 0 | 1位 |
1991年 | 野村 | 3位 | 14 | 12 | 0 | 4位 |
1992年 | 野村 | 1位 | 13 | 13 | 0 | 2位 |
1993年 | 野村 | 1位 | 12 | 14 | 0 | 3位 |
1994年 | 野村 | 4位 | 11 | 15 | 0 | 1位 |
1995年 | 野村 | 1位 | 17 | 9 | 0 | 3位 |
1996年 | 野村 | 4位 | 7 | 19 | 0 | 1位 |
1997年 | 野村 | 1位 | 19 | 8 | 0 | 4位 |
1998年 | 野村 | 4位 | 11 | 16 | 0 | 3位 |
1999年 | 若松 | 4位 | 12 | 15 | 0 | 2位 |
2000年 | 若松 | 4位 | 16 | 11 | 0 | 1位 |
2001年 | 若松 | 1位 | 12 | 16 | 0 | 2位 |
2002年 | 若松 | 2位 | 10 | 18 | 0 | 1位 |
2003年 | 若松 | 3位 | 13 | 14 | 1 | 3位 |
2004年 | 若松 | 2位 | 10 | 17 | 1 | 3位 |
2005年 | 若松 | 4位 | 10 | 12 | 0 | 5位 |
2006年 | 古田 | 3位 | 8 | 14 | 0 | 4位 |
2007年 | 古田 | 6位 | 10 | 14 | 0 | 1位 |
2008年 | 高田 | 5位 | 6 | 18 | 0 | 1位 |
2009年 | 高田 | 3位 | 5 | 18 | 1 | 1位 |
- 監督別・対巨人対戦成績
監督 | 対巨人対戦成績 | 勝率 |
---|---|---|
西垣徳雄 | 18勝60敗1分 | .231 |
藤田宗一 | 21勝31敗0分 | .404 |
宇野光雄 | 56勝71敗3分 | .441 |
砂押邦信 | 20勝30敗3分 | .400 |
浜崎真二 | 16勝12敗0分 | .572 |
林義一 | 19勝37敗0分 | .340 |
飯田徳治 | 14勝38敗2分 | .270 |
別所毅彦 | 24勝54敗2分 | .308 |
三原脩 | 28勝49敗1分 | .364 |
荒川博 | 38勝37敗3分 | .507 |
広岡達朗 | 31勝40敗7分 | .437 |
武上四郎 | 50勝69敗11分 | .421 |
土橋正幸 | 16勝31敗3分 | .341 |
関根潤三 | 27勝47敗4分 | .365 |
野村克也 | 111勝125敗0分 | .471 |
若松勉 | 83勝103敗2分 | .449 |
古田敦也 | 18勝28敗0分 | .392 |
高田繁 |
(監督がシーズン途中で交代した場合も、そのシーズンはその監督の成績としてカウント)
ロケットボーイズ
2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められた。
もともとリリーフエースの高津臣吾へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42セーブポイントを挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。
社会人野球大会出場
2005年、スワローズの2軍は社会人野球の公式戦の一つ「JABA日立市長杯争奪大会」に初出場した。社会人野球の大会にプロの2軍チームが出場するのは広島東洋カープがJABA広島大会に2002年から毎年恒常的に参加しているのと、2003年に福岡ダイエーホークスが1年限りでJABA九州大会に参加したが、それに次ぐ3例目である。チームは同年4月の大会で沖縄電力、明治安田生命、日立製作所と4チームによる総当り方式の予選リーグ戦を行ったが、1勝1敗1分けの成績で予選通過はならなかった。
2006年、スワローズ2軍は再び日立大会に参加。予選リーグではJR東日本東北、東京ガス、住友金属鹿島と同ブロックに振り分けられ、2勝1敗のブロック1位で予選を突破。決勝トーナメントに進出したが、同大会で優勝した富士重工業に1-6で完敗し、またも優勝を逃している。
2008年、2年ぶりに日立大会に参戦。予選リーグ初戦で鷺宮製作所に敗れるも、東海理化、日立製作所に連勝してブロック1位として決勝トーナメントに進出した。準決勝では日本通運と対戦したが、タイブレークが適用される延長戦で敗れて4強に終わっている。
2009年、予選リーグ初戦で住友金属鹿島に完敗したが、その後TDK、三菱重工横浜を零封し、ワイルドカード(予選リーグ2位チームのうち最高成績)で決勝トーナメントに進出した。準決勝では富士重工業に1-5で敗れ、参加した3大会連続で4強に終わった。
2010年、予選リーグでJR東日本東北、三菱自動車岡崎、東京ガスに3連勝し、大会出場5回目にして初めて予選リーグ全勝の成績を残したが、リーグ中雨天で2日順延となったことから、決勝トーナメントとイースタンリーグ公式戦の日程が重複した。スワローズは決勝トーナメント出場権を辞退し、予選リーグ2位の三菱自動車岡崎が決勝トーナメントに進出した。
F-Projectとヤクルトタウン
2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、また2004年の球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。
F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、且つ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。
さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍(読売ジャイアンツ)、東京セネタース、大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区、港区、渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという<ref>ヤクルト“転地”より“人” 新潟がプロ野球の球団誘致 2009.09.10付ZAKZAK</ref>。
このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である東京ドームと比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。
また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。東都リーグが開催されている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。
この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグのFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また同年9月にはbjリーグの東京アパッチとも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・大井競馬場による3者共同キャンペーンも行なっている。
なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終了したが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示している。
主な活動
- 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。
- 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。
主な企画
- 応援メッセージボードデー
- 紙・または布に選手への応援メッセージを書いてもらう(手持ちのみ可。所定サイズあり)。
- 仮装応援デー
- ファンにコスプレをして応援してもらう。その出来栄えを審査し、優勝者に黄金の傘をプレゼント(傘振りコンテストという東京音頭などに乗って傘を持って応援する技術を競うコンテストもあり(優勝者には黄金傘のプレセントあり))。
- メガネデー
- 古田監督がメガネをトレードマークにしていることや、アイメトリックス社とコマーシャルキャラクター契約を結んでいることなどもあって企画されたものである。この日は球団関係者(選手含む)は皆メガネをかけて会場入りする。ファンもメガネ(伊達メガネもOK)をかけ、面白いものを審査して賞品をプレゼントする企画もある。詳細は古田敦也#野球に関する話題も併せて参照。
明治神宮外苑創建80年記念奉納試合
明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に東京六大学選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。
ベンチはクラブハウス位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援だった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に東京ドームで実施されていた日米野球のメンバーに選ばれていた青木宣親が、早稲田大学出身ともあってこの試合に出場し、その後ナイター開催の日米野球にも出場するダブルヘッダーをこなした。
セ・リーグ1試合最多タイホームラン
2007年7月11日の対広島東洋カープ戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)のホームランを放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラホームランでスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響したと、試合出場した宮本慎也等が後に証言している。
11打数連続安打(ギネス世界記録に認定)
ヤクルトは2009年6月14日の対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。
この回、先頭の青木宣親が中前安打したのを皮切りに、田中浩康まで9人連続で単打を放ち、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに青木の四球を挟んで、続くアーロン・ガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で千葉ロッテマリーンズが3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原誉士が二塁打を放って記録を更新した。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。
6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメのギネス打線です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、ギネス・ワールド・レコーズ社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対読売ジャイアンツ10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。因みに当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。
なお、四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打の記録は翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
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ヤクルト | 2 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 14 |
オリックス | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 2 | 10 |
- ヤクルト5回表の攻撃(括弧内は得点)
- 青木宣親 中前安打
- ガイエル 中前安打
- 飯原誉士 左前安打 (1)
- 宮本慎也 投前安打
- デントナ 左前安打 (2)
- 相川亮二 左前安打 (1)
- 川島慶三 左前安打
- 武内晋一 一塁安打 (1)
- 田中浩康 中前安打 (1) ※川島慶三は三本間で走塁死
- 青木宣親 四球
- ガイエル 右越満塁本塁打 (4)
- 飯原誉士 中越二塁打
- 宮本慎也 一邪飛
- デントナ 四球
- 相川亮二 一直
人事の特色
ヤクルトは国鉄、サンケイ時代を通じた過去において、一軍で長年活躍し実績を挙げたチームの功労者を厚遇する一方、不振が続くと実績如何にかかわらず容赦なく人事整理を行ってきた一面がある。
広岡監督辞任
1978年、広岡達朗監督の下で球団史上初の日本一を勝ち取ったヤクルトは、翌1979年は開幕から失速して下位に沈んだ。7月、当時の球団オーナー松園尚巳はヘッドコーチの森昌彦と投手コーチの植村義信を二軍降格するよう広岡に勧告。しかし広岡は現場一任を求め、事態は一旦収束した。ところが翌8月、突如として当時の球団社長が森と植村の無期限休養を一方的に発表した。また、一連の動きが球団幹部からメディアに漏洩していたこともあって広岡は8月17日に電撃辞任し、同日の対巨人戦は広岡、森、植村が不在のまま、打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務める異常事態となった。結局このシーズンは最下位に沈み、その後ヤクルトは14年もの間リーグ優勝から遠ざかった。
広沢克己移籍
1984年のドラフト会議でヤクルトに一位指名されて入団した広沢は、ルーキーイヤーの翌1985年から主軸に定着していた。ところが、自身二度目のセ・リーグ打点王を獲得し主砲としてチームを15年ぶり日本一に導いた9年目・1993年オフ契約更改交渉の席で、既にチームの顔は広沢から急成長を遂げた古田へと移っていると考えていた球団社長は、「君の時代は終わった」と発言し、大幅年俸アップと幹部待遇を目論んでいた広沢の要求を拒んだとされる。後輩古田の方を重んじる球団の姿勢にショックを受けた広沢は、翌1994年オフにフリーエージェント宣言し、巨人に移籍した。
主力選手の相次ぐ放出
2000年代中期から後期にかけては主力選手やベテラン選手を放出し、若手選手への急速な世代交代を進めた。2004年オフには稲葉が日本ハムへ、2006年には岩村がデビルレイズへ、2007年オフには石井一久が西武へ、藤井が日本ハムへ、アレックス・ラミレス、セス・グライシンガーが巨人へ、2009年は五十嵐亮太がメッツへ移籍した。
- 古田選手兼監督退任
Template:Seealso 2007年、選手兼任監督の古田敦也はかねてから傷めていた右肩の回復具合が思わしくなく、出場試合数も8月の段階で僅か3試合にとどまっていた。古田自身はシーズン序盤で現役引退を決意し、シーズン終盤にタイミングを計った上で現役引退を表明する心積もりだった。一方、球団幹部は古田との2年契約が切れることから翌年以降の契約交渉を行うため、8月上旬の段階で「2008年以降は監督専任とし、現役は今季限りで引退」という条件を提示する意向を示していた。ところが、この旨を鈴木正球団社長がメディアを通じて公表したことで、これが事実上の引退勧告となったことから古田は態度を硬化、交渉は暗礁に乗り上げた。結局東京ヤクルトがクライマックスシリーズ進出を逃しBクラスが確定した段階で、古田は「チームの不振の責任を取りたい」として現役引退、さらに監督も退任して退団する旨を表明した。
- 高津臣吾戦力外通告
同年10月10日には高津臣吾が戦力外通告を受けた。また、通告の旨を発表した際、鈴木は報道陣を前に「(“早めに去就を相談し、お別れ出場などの配慮を行うべきだったのでは”という問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければトライアウトを受ければいい」と発言した。この高津の解雇に対して球団には約600件の苦情が寄せられた。これを受け、球団は10月15日に球団Webサイトに鈴木名義で謝罪文を掲載した。高津はその後、シカゴ・カブスとマイナー契約を結んだものの、結果を出せず3月中旬に解雇され、2008年6月に韓国プロ野球・ヒーローズと契約した。
本拠地移転に関するエピソード
後楽園球場から神宮球場移転の経緯
宮城球場移転誘致構想
2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市の宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。またヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、飽く迄も東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名など誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事により、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。
新潟県・市による誘致構想
Template:スポーツ現在進行 2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、今後NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。なお、これまでの一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げているが<ref>2010年1月21日付・朝日新聞新潟版より。同紙上ではヤクルトの他、福岡ソフトバンクホークスも招致候補とされている。</ref>、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年3月現在)。
助っ人外国人選手
ヤクルトは助っ人外国人選手のスカウトの成功が多いチームであり、ヤクルト入団1年目からチームの勝利に貢献、もしくは個人タイトル争いを掻き回すダークホース的存在となる選手が非常に多く、1992年にはジャック・ハウエル、1995年にはトーマス・オマリー、2001年にはロベルト・ペタジーニがMVPに輝いている(但し、オマリーは阪神タイガースから移籍した外国人選手である)。ちなみに、外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他に大阪近鉄バファローズのみ。また、他球団から移籍してきた外国人選手も成功しているケースが多い(例:オマリー、ヘンスリー・ミューレン、グレッグ・ラロッカなど)。そのため、オフシーズンになるとヤクルトの外国人スカウティングに注目しているメディアやファンも非常に多い。この外国人選手の活躍の理由に関しては「駐米スカウトが優秀である」「球団の新外国人獲得の方針が上手い」など諸説ある。しかしながら、年俸の高騰により契約が難航・交渉決裂し最終的に退団・他球団へ移籍してしまうことが多い(例:セス・グライシンガー、リック・ガトームソン、アレックス・ラミレスなど。過去にはボブ・ホーナー、ラリー・パリッシュ、ジャック・ハウエル、ロベルト・ペタジーニなど)。また、入団1年目から活躍する選手が多いものの、2、3年目以降は成績が下降してしまう選手が多いのも事実である(例:デイヴ・ヒルトン、テリー・ブロス、ドゥエイン・ホージー、ケビン・ホッジス、アダム・リグスなど)。
スワローズ戦の放送権事情
地上波ナイター中継での放送事情の歴史
※デーゲーム地上波中継は時々、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京、NHK、ビジターでTBSで放送される為、ここではヤクルト対巨人戦以外での地上波ナイター中継のみ表示する。
- 1953年 日本テレビが巨人主催試合と同じく放送権を保有。
- 1964年 国鉄スワローズからサンケイスワローズに改称し、球場も後楽園球場から神宮球場に変更した為、日本テレビから放送権が外れる。(なお現在日テレはヤクルト球団と無関係の東京六大学野球中継と日米野球等のイベント時のみ神宮球場から中継することがある)。
- 1964年 フジテレビ、テレビ朝日、TBS、NHKでの放送権が拡大された。対巨人戦の全国中継を主体に放送。それまでは後楽園以外の主催ゲームを僅かに放送する程度だった。
- 1967年 東京12ch(現・テレビ東京)で地上波放送を開始。巨人戦以外が中心。当初はフジテレビに制作を委託し、その後自社制作に移行した。
- 1976年 TBSが放送権から外れる。
- 1978年 優勝マジック1になりかかった時に地上波放送が多くなる。
- 1981年 - 2001年 巨人戦以外の中継はテレビ朝日が放送時間延長なしで年数回全国ネットで実施した。時折西武ライオンズ主催ゲームとの二元中継も実施した。フジテレビは巨人戦以外は対戦相手の地元局向けの技術協力と、地方球場での週末のデーゲーム中継が主体となる。
- 1992年 サンテレビで神宮球場での対阪神戦ビジター放送開始。
- 1992年 優勝マジック1になりかかった時に12年ぶりに放送が見直され、フジテレビでは初めて番組を差し替えて放送。
- 1995年 東京MXテレビが開局し放送される事が期待されたが、神宮球場の対中日戦のみ中継が開始されるにとどまる(現在に至るまでヤクルト戦中継は年間数試合ほどしか放送しない)。
- 1997年 優勝マジック1になりかかった時の放送では『ダウンタウンのごっつええ感じ』を差し替えて放送し、スペシャル放送を1週遅れにした事による出演者とスタッフとの対立により、打ち切りに追いやった伝説がある。
- 2001年 東京MXテレビがサンテレビの阪神戦を取り扱う様になり、時々甲子園球場と大阪ドームでの中継で放送される様になる。
- 2001年10月4日 『世にも奇妙な物語』を中断して神宮球場での対阪神戦を緊急野球中継として生放送したが、引き分けに終わる。10月6日にはドラマ再放送枠を打ち切って放送された。
- 2003年 日テレ系列で放送中の広島市民球場での広島対巨人戦が雨でノーゲームとなり、残りの時間は甲子園球場で阪神対ヤクルト戦を放送した。
- 2003年9月11日 当時、放送権を対横浜戦しか取り扱わなくなっていたtvkで神宮球場の対阪神戦(サンテレビ製作)をネットした。
- 2005年 巨人戦の視聴率不振により、ヤクルト戦がCS送りになり、初めてフジテレビ地上波で深夜放送される。なおBSフジは未放送。
- 2006年 巨人戦の視聴率不振により、テレビ朝日でも東京ヤクルト戦の放送分がBS朝日に鞍替え放送が多くなった。
- 2007年 巨人戦の視聴率不振により、その中でも巨人戦中継を増やす考えを持っていたテレビ東京にも放映権が渡された。テレビ東京でヤクルト主催試合放送は久しぶりの事となった。(オープン戦・裏送りは除く)
- 2007年10月7日 古田敦也引退試合の模様を『新報道プレミアAスペシャル』内で放送(ただしアナウンサーとのからみなし)。
BS局での放送事情の歴史
- 2000年12月1日にBSフジが開局し翌年シーズンから開始。しかし横浜戦だけ優先させられ打ち切りとなり2002年〜2007年までの6年間、2006年のオールスター中継以外BSフジでは未放送だった。またBS朝日とBSジャパンも開局したが、BS朝日はテレビ朝日の東京ヤクルト戦が放送できない場合はナイター中継をカバーをするが、BS朝日、BSジャパンは巨人戦以外の東京ヤクルト戦ナイター中継は1度も放送していない(セ・パ交流戦を含む)。
- 2006年当初テレビ朝日で放送予定だったヤクルト対巨人戦を急遽BS朝日で放送するという措置を取った。
- 2008年8月19日BSフジにて2001年の日本シリーズ以来(2006年のオールスター戦を除く)7年ぶりに神宮球場での東京ヤクルト主催の野球中継を放送、なお対巨人戦をBSフジ開局以来初中継を行う、なおCS放送フジテレビONE・フジテレビNEXTと同じ実況・解説陣を起用し、映像もCS放送の映像を19時〜20時55分まで中継(8月20日、9月6日、10月10日、10月11日も中継を行う)。
- 2008年10月10日、BSフジにてレギュラーシーズンの東京ヤクルト主催の野球中継初の延長放送を行う、ちなみに地上波では中継されず、BSフジとフジテレビONEのみによる巨人優勝決定試合を中継し、神宮球場内でパブリックビューイングで流されたTBSニュースバードの横浜対阪神戦の映像を一部流した。
CS局での放送事情の歴史
- 1996年パーフェクTV開局、しかし、放送数が少なかった。
- 1996年ディレクTV開局、パーフェクトチョイスで神宮球場の中継のみ一部テレビ神奈川運営の横浜ベイサイドTVでの放送があるものの、全試合放送カバーされる。ただし地上波とは違って有料放送。
- 1998年ディレクTVとパーフェクTVが合併し、スカパーが開局。ホーム&ビジター含め全試合視聴可能になる。
- 2002年CS日本開局により、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が起る。
- 2004年CS日本がスカパー2と合併し、スカパー!110(後のe2byスカパー!、現スカパー!e2)が誕生。G+がスカパーでも放送開始した為、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が解消される。
- 2005年フジテレビONEが巨人戦を除く主催全試合を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』として全試合放送する。2007年からは対読売ジャイアンツ戦を「プロ野球中継」枠で放送、2008年からはSWALLOWS BASEBALL L!VE枠で放送。また、2008年4月放送分からはフジテレビNEXTでもハイビジョン放送となる(F1が優先されるため、一部試合は従来通りONEのみ放送)
- 2007年9月27日、jsportsの編成が間に合わなかった為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として広島市民球場の対東京ヤクルト戦のビジター中継を無料放送。
- 2007年9月30日、27日と同上、jsportsの編成が間に合わなかった為とjsportsでは1度もダブルヘッダーの中継をした事がない為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として横浜スタジアムの対東京ヤクルト戦のビジター中継のダブルヘッダーを無料放送される予定だったが、9月30日の中継が雨で中止になり、予備日に放送される事となった為、10月8日と9日に分割され、ナイターで放送された。なお10月9日が古田敦也の最後の出場試合となった。
関連項目
脚注
Template:脚注ヘルプ外部リンク
Template:東京ヤクルトスワローズ
Template:日本プロ野球
Template:ヤクルト
Template:日本プロスポーツ大賞de:Tōkyō Yakult Swallows
en:Tokyo Yakult Swallows
es:Tokyo Yakult Swallows
fr:Tokyo Yakult Swallows
ko:도쿄 야쿠르트 스왈로스
pt:Tokyo Yakult Swallows
zh:東京養樂多燕子