本能寺の変

出典: Wikipedio


Template:告知 Template:Battlebox 本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の家臣明智光秀謀反を起こし、京都本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。暗殺事件との解釈もなされる。

当時、天下人の地位に最も近かった織田信長を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという日本史上においても最重要事件の一つである。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている(各説については変の要因を参照)。

目次

情勢

天正10年(1582年)までに、織田信長はを中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼした。関東後北条氏東北伊達氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目下の敵は、中国毛利氏四国長宗我部氏北陸上杉氏九州島津氏となった。

信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつあった。また上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた神戸信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田氏が有利な情勢であった。九州は大友氏龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。

安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気で、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた<ref>『信長と天皇』今谷明著</ref>。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。

経緯

明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、長年、武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を5月15日より務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。 また、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど<ref>『真説 本能寺の変』所収 和田 裕弘論文ISBN 4-08-781260-X(ISBN-13 978-4-08-781260-2)</ref>、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている<ref>「本能寺の変」の焼け瓦発見 旧寺跡で 堀や石垣も 京都新聞2007年8月7日付</ref>。

同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった<ref>光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3,000人の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた7時30分より数時間後の9時頃だったとする説もある。</ref>。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れる。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍<ref>光秀はこの時、京都にも入っておらず、本能寺到着は9時。指揮した者が不明の謎の軍団とする説もある。</ref>は本能寺を完全に包囲した。

物音に目覚めた信長は家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告され、光秀が謀反に及んだと知る。信長は「是非に及ばず」<ref>『三河物語』の記述では「城介が別心か」となっており、嫡子・信忠(秋田城介)の謀叛を疑ったということになっている。</ref>と言い、を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次にを取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる<ref>信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による経過。本能寺から避難した女衆に取材したとある。</ref>。信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺にはと土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある<ref name="bouryaku">『信長は謀略で殺されたのか』鈴木眞哉藤本正行ISBN 4-89691-995-5</ref>。

一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭された。実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせていた。しかし信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れ、京の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。そして信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗を見せて三度も明智軍を退却させた。時間の経過とともに、京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した(『信長公記』、『當代記』)。

妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である<ref>本能寺の変に触れるドラマの中では、ヤスケが信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。</ref>。

討死、自害した主な人物

本能寺

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  • 織田信長

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二条御所

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Template:Col-end ※織田長益、前田玄以水野忠重の3名は当時、二条御所に在ったが包囲前に脱出。

変の要因

江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする「怨恨説」が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。

こうした理解は、映画ドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(腐敗した仏教団体への粛清など)への反動(反革命)とする説も多い。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはない。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領・丹波国など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな武将としての姿が伺える<ref name="bouryaku" />。

野望説

戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説<ref>『明智光秀』(人物叢書・吉川弘文館1958年)</ref>。高柳は、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものと看破し、史実とは認められないとした。また、フロイス『日本史』の記述などから、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだと主張した。現在、藤本正行鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている<ref>『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 洋泉社、2006年</ref>。

怨恨説

一般に知られる怨恨とされる事例は以下の様なものである。

  • 悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた(『川角太閤記』)
  • まだ敵地の出雲国伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた(『絵本太閤記』)<ref>このうち「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した神戸信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。しかし簗田広正や滝川一益でも同様の敵地への領地替えが行われて旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある(『検証本能寺の変』)。</ref>
  • 八上城戦で母を信長のために死なせてしまった(『総見記』、『絵本太閤記』)
  • 武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ(『祖父物語』)など
  • まだ斎藤利三が稲葉一鉄の家来だった時に光秀が家臣として召し仕えたので、信長が利三を一鉄の元へ返すよう命じると、光秀はこれを拒否したため信長は光秀の髷を掴み突き飛ばした(『川角太閤記』)

別本『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ために信長を討ったという記述が見られる。また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。

桑田忠親はフロイスの『日本史』に、「変数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。

四国征伐回避説

信長の四国征伐を回避するため乱を起こしたとする説。

四国では、土佐国の長宗我部元親が明智家臣・斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。一方、敗走した阿波国の三好康長は秀吉と結び、旧領の回復を目指した。長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐国・阿波国2郡のみの領有と上洛を命じた。これを、元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国征伐を行うことになった。

まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本隊が大坂より出陣する予定であった。

四国政策変更の問題については高柳、桑田いずれも指摘している。桐野作人は、さらに踏み込んで利三主導説を唱えている<ref>『真説 本能寺』(2001年)、『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(2007年)</ref>。

焦慮説

光秀は織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、家臣団の中で有数の重臣となった。これは光秀が有能であったこともあるが、信長個人の信任があってこそのことが大きい。2年前の天正8年(1580年)には佐久間信盛(折檻状によると発奮も促している)・林秀貞安藤守就丹羽氏勝といった重臣が大量追放されている。

このため信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説がある。また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられる。

信任が揺らいだと考えたとされる理由

  • 対四国政策の失敗<ref name="hayashiya">林屋辰三郎 『日本の歴史 天下一統』</ref>
  • 光秀がかつて足利義昭の家臣であったため、義昭追放後には光秀に対する信長の心証が悪化した<ref name="hayashiya"/>。
  • 羽柴秀吉の中国征伐の援軍が光秀であり、光秀が秀吉の格下になるのを嫌ったという説。ただし、光秀はこれ以前にも播磨国神吉城三田城攻めの援軍を行っている。

そもそも、光秀が信長に仕えるようになった頃から秀吉は既に光秀の先輩格であり、この時点で光秀が秀吉に対する面子にこだわる理由もなく不自然である。

谷口克広当代記にある光秀の年齢が67歳ときわめて高齢であったことを指摘し、反面嫡子明智光慶が十代前半ときわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂いて謀叛を決意したという説を立てている<ref>谷口克広「信長と消えた家臣たち」中公新書(2007年)、ISBN 978-4-12-101907-3</ref>。

黒幕説

信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。

足利義昭説

自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。三重大学教授の藤田達生が中心となって主張している。また、桑田忠親もその可能性を指摘している<ref name="hayashiya"/>。

日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返す。信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・光秀に信長暗殺を持ちかける。信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。

藤田はこの説を裏付ける証拠として、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに景勝より身分の高い人物への協力を促していること。加えて本能寺の変直後、光秀が紀州雑賀衆土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていることを挙げ、光秀の背後に義昭が存在したと主張している。また織田氏嫡流・織田信忠を実際に討ったのも義昭の重臣である伊勢貞興室町幕府政所伊勢氏)であった。

信長に仕える前からの光秀と義昭の繋がりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などが根拠となるが、この説に対しては、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかったことについて説明が付かないとの反駁がある。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずとの考えがこの反駁の根拠となる。

この反駁との関係では、毛利氏が本能寺の変を知っていたかどうかについて異説があり、太閤記や佐久間軍記などでは、和議の時点ですでに毛利氏は本能寺の変の発生を知っていたとして描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。また、紀州の雑賀衆にすぎない土橋重治ですら、光秀に対して信長討伐の協力を申し出ていることから、毛利氏が本能寺の変を知っていたとしても不思議ではないとする考えもある。

また、そもそも光秀が義昭の家臣であったかどうかについて確かな資料は存在しない。

朝廷説

朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。

三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考えたことを根拠の一つとして挙げる。光秀は、信長・信忠を討った後、朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、山崎の戦いの後、神戸信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと、吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直していた、という点も、朝廷黒幕説を支える根拠とされている。

「三職推任問題」は、本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上、信長が即答可能な問題ではないこと、京への立ち寄りの理由の1つは、それへの返答にあったと考えられることは、上記根拠への疑問を投げかける(信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある)。

さらに近衛前久は本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川藤孝の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。信孝捜索も上記の信忠戦で屋根に明智軍を上らせ殲滅させたことを咎めたのではないかという説がある。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなく仮説の域を出ない。特に誠仁親王に関しては、変に際して二条御所で危うく巻き添えになりかけたことが、朝廷説への反論として言及されている。

2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している<ref name="r1">『歴史群像 No.83』07年6月号(学習研究社)</ref>。

朝廷の関与を否定する説も、否定しない説も、信長と正親町天皇の関係については、退位を要求したとする点に着目する説と、反対に、天皇自身の退位希望を信長が受け入れなかった点に着目する説とに分かれるが、前者が天正元年12月8日の『孝親日記』、後者が天正9年4月1日の『兼見卿記』の記述を挙げてることが多く、信長の皇室政策の時期的に相違する部分の一部を捉えて自説の論拠として挙げる傾向が見られる。

暦の問題について、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていたが、武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊の「日々記」の天正十年夏記六月一日によると、信長はこれを死の前日まで公に指摘していた。これも朝廷に対する己の優位を示すためのキャンペーンのひとつであったと捉えるか、信長式の尊王的態度の表れだと捉えるかでも、争いがある。

そのほか、晴豊の「天正十年夏記」には斎藤利三の処刑の日に「六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。」という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)と朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議(談合)を持っていた」と解釈する説もある。<ref>NHK堂々日本史Template:和暦7月14日放送「シリーズ 本能寺の変(1)明智光秀 謀反の陰に朝廷あり」</ref>

また、フロイス「日本史」における信長神格化の記述をもとに、信長神格化が朝廷と相容れなかったとする指摘もある(この点の最近の指摘者として井沢元彦<ref>ただし井沢元彦は『逆説の日本史 戦国覇王編』『新説・戦乱の日本史 本能寺の変』等の著作内で光秀単独説を主張しており、信長神格化問題と本能寺黒幕説とは論点が別である。</ref>)。ただし、フロイスの記述の信憑性から、看過ないし黙殺する説が比較的多い。(→動機と首謀者に関するその他の考察参照)

上記の説はいずれも朝廷財政の最大の負担者となった信長が朝廷の意思決定に介入しうる立場にあり、両者に軋轢があったことを前提としているが、そもそも信長と朝廷の間に確執はなく、むしろ協力関係ないし信長による朝廷再興路線があったとみる説もあり<ref>たとえば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館)53-65頁。</ref>、この見方を取る場合は朝廷黒幕説は成り立たない。

また、変の後に朝廷側が綸旨や太刀の下賜などで、光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、光秀も勅命によるものであるという主張をしていない。光秀がたとえ朝廷側と連絡していたとしても、その恩恵を全く得ていないことになる。

イエズス会説

立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。ここでは「信長政権そのものが南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、結局の所、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。この説に対する反論としては「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」という点に関し、当時の会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金されており、そもそも会を維持運営するのにも事欠く有様であったことなどが挙げられている。この他にも立花の史料の扱い方に関する問題が、江戸時代の信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用する、など谷口克広の2007年の著作に提起されている。

羽柴秀吉説

信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い説<ref>荒巻義雄 『紺碧の艦隊』の読み方〈1〉紺碧要塞の戦理論 ISBN 4-19-154838-7</ref><ref>山田風太郎 『妖説太平記』</ref>。

羽柴秀吉 本能寺の変の黒幕説参照。

徳川家康説

徳川家康説は、状況証拠が多いに留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味ある内容となっている。首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。これも歴史小説ではよく触れられる。また家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺したという説もある

変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となったが、「これらの催しごと(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性格であったので」光秀を折檻し饗応役を解いた、とフロイス「日本史」にある。

ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」といった ような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説が多い。

裏づけとする史書の記述として、フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して 「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を 殺すつもりであろうと考えた。」という部分、また、江村宗具の「老人雑話」の、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。 信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂を見せよとつかわされたのだが、 実のところは隙をみて家康を害する謀であった」とある部分が著名である。

またあわせて主張される点として以下のようなものがある。

  • 正妻の築山殿、嫡男の松平信康の誅殺命令にあるように、織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」という 対等の関係でなく、従属的なものであった。徳川は織田にとって、対今川・対武田の押さえであり、その両者が滅亡した段階(武田家の滅亡は本能寺の変の直前である)において、 東方平定のためにはむしろ邪魔になっており、早々に完全に織田家の家臣化させるか滅ぼされるべき存在であった。
  • 信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、 本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、ないし、 自己の関与を否定するための演出であった。

天海僧正(南光坊)=光秀生存説については次のような事例をあげるとともに、家康の光秀に対する称揚と受け取られる行為に注目する説も多い(光秀の婿養子・明智秀満が天海である説や光秀、秀満の親子で天海を演じていた説もある)。

  • 光秀の首とされたものはすでにかなりの腐敗の進んだ状態で実検された。
  • 天海僧正の前半生は謎。しかし軍議に参加し家康が信任するほどの手腕。あきらかに通常の僧侶でない。
  • 比叡山に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在する。
  • 光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味である。
  • 斎藤利三の娘である春日局は、初対面であるはずの天海に対して最上礼である「平伏」をした上で「お久しゅうございます」と述べた。
  • 東照宮陽明門の武士木像、鐘楼の紋は明智の家紋である「桔梗」である。
  • 家康は、光秀が所有していた熊毛の鑓(やり)を何故か所有しており「これは名将 日向守殿の鑓である、日向守の武功に肖れ。」と付言して従兄弟 水野勝成に与えた。
  • 家光の「光」と、秀忠の「秀」で、合わせると「光秀」。(ただし、秀忠の秀の字は秀康と同じく秀吉からの偏諱である。)

その他の黒幕説

Template:出典の明記

光秀家康共謀説
細川藤孝裏切り(秀吉内通)説
秀吉は、藤孝の家老松井康之を手なずけた。康之は藤孝と謀り、光秀をそそのかした上で、裏切り、秀吉にいち早く謀反情報を流して、秀吉の天下取りにくみした。康之は秀吉から破格の恩賞(石見半国十八万石の知行付与等)を与えられている。
堺の豪商(または千利休)説

信長は本能寺の変の前日に本能寺で茶会を催している。出席者は今井宗久や公家等の名の知れた茶人・文化人たちであった。当時は茶会が政治の舞台となっていたこともあり家臣だった秀吉は合戦の褒美に領地より茶器の名器を欲したというのは有名でありそこまでのステータスがあった。また吉川英治著書の歴史小説(徳川家康)では堺の豪商は当時の日本の裏社会を牛耳っていたとされ信長亡き後の後継者を談合により光秀ではなく秀吉を選んだという記述がある。直接的に手を下していないが亡くなる直前にあった人間を疑えというセオリーより浮上する。少なくとも本能寺の内情や警備状況を光秀に伝えた可能性は高い。

濃姫
日本史サスペンス劇場で黒幕として名が挙がっている(詳細はフィクションにおける本能寺の変を参照)
毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
朝廷と羽柴秀吉の共謀説
長宗我部元親説
井沢元彦は本能寺の変の直前、長宗我部元親征伐が企図されていたことから、長宗我部氏の取次を務めていた光秀が面子をつぶされた怨恨に加え、元親の義兄である家老斎藤利三を介した元親が黒幕となって光秀が本能寺の変を起こしたとする複合説を提唱している<ref>Template:Citation</ref>。
島津氏関与説
信長が毛利氏を滅ぼした後、九州征伐を開始するのは時間の問題である。さらに信長と通じる大友氏や龍造寺氏らの反攻を受けて苦境に立たされていた島津氏が、朝廷の公家らと共謀していたという説。根拠は乏しいのだが、島津義久の側近である上井覚兼の日記として有名な「上井覚兼日記」の記述で、本能寺の変が起こった天正10年6月2日から11月3日までの項が白紙になっている。(ただし、上井覚兼日記は他にも数年の欠落がある)

黒幕否定説

黒幕など最初からいないという説。もしそのような者が存在するのなら、本能寺の変後は混乱する近畿を治める絶好の機会であったのに、何の行動も起こさないのは不自然である(秀吉を除く)。実際、光秀が新たな主君として担ぎ上げて、天下に大々的に号令をかけようとする人物も誰もいなかった。もしくは光秀をそそのかしたり、彼に助言したりした人物はいたかもしれないが、その人物は信長にとって代わろうなどとは思っていなかった。どちらにせよ、あくまでも光秀の主体的意志による単独犯行であるという説。<ref>戦国新説研究会 『超図解戦国を変える新説15』</ref>


動機と首謀者に関するその他の考察

  • 光秀がいつ頃から謀反を決意していたかは不明だが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現白雲寺での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解釈されている(「雨が下る」と詠んだ説もある)<ref>しかし、この解釈は後世における単なるこじ付けではないかとの見方もある</ref>。
  • フロイス『日本史』によると、信長は天正7年5月11日に安土城で自らを神とする儀式を行い、摠見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとしたという。ただし、フロイスがこの「儀式」について初めて記したのは信長の死後であり、フロイス自身が「儀式」が行われたとされる当時に安土周辺にはいなかったこと、日本国内の一級史料ではこの「儀式」についてまったく言及されていないことなどから、谷口克広はフロイスの記述に信憑性はなく、信長が滅んだことを正当化するために記したもの<ref>フロイスは「信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」と、信長が「儀式」の報いにより滅亡したと述べている。</ref>であるとの見解を示している<ref>『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)</ref>。

本能寺の変後の諸将の動向

明智光秀

光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。

期待していた親類の細川幽斎、与力の筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。

羽柴秀吉

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀高山右近池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のためにいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。

織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。

柴田勝家

勝家は佐々成政前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功(魚津城の戦い)したが、その頃信長は既に亡かった。変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。

徳川家康

Template:Main 家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともにに滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎清延に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き知恩院で信長に殉じるとまで言ったが<ref>『徳川実紀』</ref>、家臣に説得され帰国を図る。山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。

これは後に「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら別行動を取った<ref>『三河物語』によると、穴山信君はかなりの金品を持っており、家康従者に強奪されるのではと恐れたために別行動を取ったとされている。</ref>穴山信君の一行は、山城国綴喜郡の木津川河畔の渡し(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に襲撃され全滅している。まさに紙一重の差で家康は逃れた。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、彼らとの連絡には伊賀出身の服部正成が貢献したといわれている。三河到着後、伊賀衆は伊賀組同心として徳川家に抱えられ、服部正成の配下となった。

三河に帰った家康は光秀を討つため出陣し、熱田神宮まで来たが、山崎の戦いの報を聞き、引き返した。この時、先鋒酒井忠次は津島まで進軍していた。その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。また、Template:要出典範囲、堺市内の南宗寺には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の大坂の陣の際に生まれた伝説である。

織田信雄

信長の次男・北畠信雄は、本能寺の変の後光秀を討とうと近江の土山へ進軍するが、山崎の戦いで光秀が秀吉に大敗したことにより撤退。信雄は清洲会議にて織田家の跡継ぎに推されなかった(他家に養子に出ていたこともあるが、度々失態を犯すなど暗愚であったことも大きいと思われる)。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。

滝川一益

一益は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の報せを聞いた、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、滝川軍2万VS北条軍6万という圧倒的な戦力差、信濃や甲斐では一揆が大量に勃発し、信濃の森長可は畿内へ撤退、甲斐の川尻秀隆は一揆に敗れ討ち死に。武田家を滅ぼし、中部の織田領を治めてまだ3ヶ月であったため、軍の編成も不十分であったが、戦うしか道は残っていなかった。一益は北条軍相手に善戦するも、敗れて領国の伊勢長島城へ命からがら帰還した(神流川の戦い)。一益の敗戦により上野、信濃、甲斐の織田勢力は一掃される結果となり、清洲会議にも間に合わなかった。

織田信孝・丹羽長秀

信孝は長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信勝(信行))らとともに大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。

信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。

長宗我部元親

長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていた。だが、信長横死を知るや出兵し、中富川の戦いに勝利し、阿波・讃岐を完全に勢力下に入れた。

フィクションにおける本能寺の変

NHKの大河ドラマで信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることは殆ど無く、むしろ光秀に同情的である。

  • 信長 KING OF ZIPANGU』(1992年) - 当時話題になっていた過労死の問題と光秀の苦悩が重ね合わされ、信長を討ったあと光秀は「これで、眠れる」とつぶやく。明智光秀の謀反に対して信長は「有り得ない事ではないな」と言う。
  • 秀吉』(1996年) - 家康の謀略と、怨恨説が混在して描かれる。家康は信長の光秀に対する冷遇に同情すると見せかけ、謀反に及ぶようそそのかしている。千宗易も信長に疎まれたため、光秀に本能寺の情報を流した描写があるが、信長謀殺を意図していたかは不明。また家康が光秀をそそのかしている現場を目撃していた。宗易は信長との最後の謁見の折秀吉の茶頭になることを許された後、信長に何かを伝えようと引き止めるも、信長は去っていってしまった。
  • 功名が辻』(2006年) - 怨恨説、三職推任問題などに触れながら、光秀の従兄妹で信長の正妻・濃姫との関係にスポットを当てている。
  • 2001年に放送された『時空警察』では光秀=南光坊天海説とし、黒幕を光秀・秀吉・家康の3人が行ったと結論を出した。家康と秀吉は各々が独立し光秀に協力したとある
  • 2007年1月3日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『明智光秀〜神に愛されなかった男〜』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。
  • 日本史サスペンス劇場』では濃姫が黒幕であるとし光秀とはいとこ説や恋仲説を提唱。また濃姫は美濃の斎藤一族が滅んだ後歴史書から抹消されており番組内では嫡子織田信忠を産んだ生駒氏が濃姫に代わり正室にした旨が放送された
  • 漫画へうげもの』では、千宗易(後の利休)が秀吉を煽動し、二人が光秀を謀叛に追い込んで信長を抹殺した、という説をとっている(表面上はすべて史実通りの展開)。作中、光秀はツメが甘く信長を殺せないのでは、と危惧した秀吉が自ら本能寺に潜入して信長を斬殺する、という珍しいシーンがある。
  • 漫画夢幻の如く』では、イスパニアの宣教師カブラルや朝廷の貴族に光秀が扇動され、更に一族が信長の為に大勢殺された事を恨んだ光秀が謀叛を起こした事になっている。一方、秀吉は光秀の叛意に気付いていたものの本当に謀叛を起こすとは思ってもいなかった為、本能寺の変の知らせに仰天している。ただし、この作品では信長は蘭丸と共に(超常現象に巻き込まれた形だが)本能寺を脱出して生き延びており、謀叛は失敗に終わっている。
  • 週刊少年マガジンで連載された『TENKA FUBU信長』では、信長の暴走を止めたいなら謀反を起こせと、信長自身が光秀に諭している。また作中では投降した武田家臣団を光秀の面前ですべて殺害した件がある。

関連項目

脚注

<references />

外部リンク

es:Incidente de Honnō-ji hu:Honnódzsi-összeesküvés id:Insiden Honnoji ko:혼노지의 변 pl:Incydent w świątyni Honnōji vi:Sự kiện Honnōji zh:本能寺之变

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