日本国との平和条約

出典: Wikipedio


画像:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg
日本国との平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員<ref>池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)。</ref>

Template:条約 日本国との平和条約(にほんこくとのへいわじょうやく、:Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約

本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約サンフランシスコ平和条約サンフランシスコ講和条約・対日平和条約・対日講和条約などともいう。

目次

解説

thumb|rigtht|250px|講和桜之碑
(東京都大田区下丸子)

この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている<ref>日本語では「及び」と「並びに」の違いが判りにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後にくることになる。</ref>。これは当時国連公用語だった英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語<ref>アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。</ref>のうちソビエト連邦と中華民国がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。

1951年9月8日に全権委員によって署名され、その後、国会による承認、内閣による批准及び天皇による批准書の認証を経て翌年の1952年4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年[1952年]4月28日条約第5号として、天皇により公布された。

この条約によって正式に、連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条(b))。なお、第1条(a)にあるように国際法上ではこの条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされ、ポツダム宣言の受諾を表明した1945年8月14日国民向けラジオ放送を実施した8月15日降伏文書に署名した1945年9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとして扱われている。

内容・解釈等

要旨

  • 日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
  • 日本国民の主権の回復(第1条(b))
  • 日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
    • 英文では“Japan, recognizing the independence of Korea”なので、“独立を承認”ではなく“独立を認識”が妥当と考えられるという少数意見も存在する。しかしその独立はポツダム宣言の受諾日1945年8月9日ではない。詳細はラスク書簡を参照。
  • 日本の台湾澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))
  • 主権を持っていた千島列島南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))
  • 南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(d)(f))
  • 南西諸島小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
  • 賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
  • 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、ニュルンベルク裁判)の判決を受諾(第11条)

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領土

日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとブラウンリーは解釈している。 <ref></ref> 例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している。<ref></ref>

竹島について

竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている。<ref>Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。</ref>
  • 1947年3月19日版以降 日本は済州島巨文島鬱陵島、及び、竹島を放棄すること。
    • 1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問による竹島再考の勧告。「これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。」
  • 1949年12月29日版以降 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。
  • 1951年6月14日版以降 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる)
    • 1951年7月19日、韓国政府、日本が済州島、巨文島、鬱陵島、独島(竹島)、及び、波浪島を放棄することを求める。<ref>独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。

</ref>

    • 1951年8月10日、米政府よりの回答、竹島は韓国の領土として扱われたことは無く、1905年以降日本領である。(ラスク書簡
  • 1951年9月8日版(最終版) 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。

いわゆる外地人の日本国籍喪失

Template:MainTemplate:Main 条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達昭和27年4月19日法務府民事局長通達 民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示され、最高裁判所も同旨の解釈を採用した(最大判昭和36年[1961年]4月5日民集15巻4号657頁)。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である(最大判昭和37年[1962年]12月5日刑集16巻12号1661頁)。これに対し、千島列島・南樺太は法体系上は内地であったため、同地域内に本籍を置いた者については、権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。

著作権保護期間の戦時加算

戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年[1952年8月8日法律第302号)が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている(→戦時加算 (著作権法))。

11条解釈

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講和会議

1951年7月20日、米共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送「中国」に対しては代表政権についての米英の意見(中華民国中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして招請は見送られた(1952年4月28日、中華民国との間に日華平和条約を調印。1952年8月5日発効)。

8月22日フランスの要求を容れインドシナ三国(ベトナムラオスカンボジア)にも招請状を発送。

9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウスWar Memorial Opera House)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。インドネール首相が「彼ら(日本)は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない。それ故に、講和会議には参加しないし講和条約にも調印しない」との意思を表明し招請に応じなかった(1952年に日本とインドは日印平和条約を締結)。また、ビルマユーゴスラビアも招請に応じなかった。

日本の全権団は首席全権の吉田茂首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三国民民主党最高委員長)・星島二郎自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど、妥協の末、委員参加を取りつけた。また、日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、後述の通り、左翼陣営は基本的に「全面講和」を主張していたため不参加となった。

9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。ソ連ポーランドチェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ共産主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。

署名した国

アルゼンチンオーストラリアベルギーボリビアブラジルカンボジアカナダ、セイロン(→スリランカ)、チリコロンビア(※)、コスタリカキューバドミニカ共和国エクアドルエジプトエルサルバドルエチオピアフランスギリシャグアテマラハイチホンジュラスインドネシア(※)、イランイラクラオスレバノンリベリアルクセンブルク(※)、メキシコオランダニュージーランドニカラグアノルウェーパキスタンパナマパラグアイペルーフィリピンサウジアラビアシリアトルコ南アフリカ連邦(→南アフリカ共和国)、イギリスアメリカ合衆国ウルグアイベネズエラベトナム国(→ベトナム共和国ベトナム社会主義共和国)、日本

  • 署名順【日本を除きABCD順に署名している】。
  • ※は、署名はしたが批准していない国。
  • →は署名後、国名が変わった国。

なお講和会議に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地に場所を移して日米安全保障条約を締結した。この2つの条約を以って、日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したと言える。なお、日米安全保障条約には吉田首席全権のみ単独で署名した。吉田は同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する。」と言ったという。

また、朝鮮戦争勃発を講和の好機到来と直感した吉田は、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせた。更に、表向き経済交渉と偽り池田勇人を訪米させ、この講和条約案をアメリカ国務省と国防省の高官に示させ、講和促進を図ったという。この訪米に同行した宮澤喜一が近年証言している。

韓国の署名問題

1949年12月3日、駐韓米大使は中国軍の朝鮮人部隊、韓国臨時政府の存在、韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること等を理由に韓国の参加を米国務省に強く要請した。米大使の進言後の1949年12月29日の条約草案では韓国が締結国のリストに新たに加えられた。日本は当初、韓国と戦争状態になかったこと等を理由に反対したが、追加覚書において在日朝鮮人が連合国人としての地位を獲得しないことを条件に署名反対に固執しないとした。

しかし、日本と戦争をしていなかったことを理由に、1951年5月の米英協議等において英国が韓国の条約署名に反対し、米国内でも韓国臨時政府を承認したことがないことを理由に方針が変更された。1951年7月9日の韓国大使との会談でダレスは「韓国は日本と戦争状態になく、連合国宣言にも署名していない」として署名国となれないことを通知した。この通知後も韓国は署名国としての地位を要求したが、1951月8月22日にダレスは韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。ただし、非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかるとし、公式での参加は認められなかった<ref></ref> <ref></ref>。

日本国内の経緯

会議前

日本国内では主に左翼陣営が、ソビエト連邦などを含む全面講和を主張した。

会議後

1951年
  • 10月26日 衆議院が締結を承認。
  • 11月18日 参議院が締結を承認、内閣が条約を批准。
  • 11月19日 天皇が批准書を認証(奈良において)。
    • 両院とも承認し内閣が批准したのは「日本語正文」であるが、正文が存在するのは英語・フランス語・スペイン語であり厳密には条約を批准していないと見るべきだという意見もある。
  • 11月28日 アメリカ合衆国政府に批准書を寄託。
1952年

この後、日本はこの条約を締結しなかった国々と個別に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現・ロシア)とは未だに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、北方領土問題などを残している。

また、条約の発効を以って、レッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。

署名50周年

2001年9月8日(日本時間では9月9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会 (the Japan Society of Northern California) の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは田中真紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。又、アメリカ同時多発テロ事件の勃発は、奇しくもその3日後(現地時間、日本時間ともに9月11日)であった。

参考文献

  • 入江啓四郎 『日本講和条約の研究』  板垣書店、1951年
  • 西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』
<シリーズ戦後史の証言.7> 中公文庫、1999年 ISBN 4122034663
  • 『日本外交史. 26 終戦から講和まで』 鈴木九萬監修、鹿島平和研究所編、鹿島出版会、1973年
  • 『日本外交史. 27 サンフランシスコ平和条約』 西村熊雄、鹿島平和研究所編、鹿島出版会、1971年
  • 『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約準備対策』 外務省編・刊、2006年
  • 『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約対米交渉』 外務省編・刊、2007年

注釈

<references />

関連項目

外部リンク

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