日中国交正常化

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日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、日本中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事である。1972年9月29日中華人民共和国北京で行われた「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄周恩来両首相が署名したことにより成立した。なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

目次

解説

日中国交回復とも言われる。1972年以前に中華人民共和国という国家と日本の間に外交関係はなかったので、「国交回復」という表現は不正確であるとする見解もある。や中華民国と日本の間に国交が存在した時期もあるが、中華人民共和国はこれらの国家の継承国家では無い(中華民国は台湾で存続)ため、個々の政体ではなく中国に存する主たる政体という枠組みで捉えるなら「国交回復」という意見もある。

中国に対する支配権を失った中華民国を中国を代表する国家として国交を結び、中国本土を支配する中華人民共和国との間に国交がないという状況は正常とは言えないとし、より実態に即した外交関係に構築しなおすということで「正常化」という言い方は日本において広く受け入れられた。

しかし「正常化」と表現することに対して、これはあくまで中華人民共和国側から見た主観的表現なので国交を新たに樹立した日本までがそれに拘束される必要は無いとする意見もある(代替案として「日中国交樹立」などが提示されている。対中華民国は「日華」)。また中華人民共和国から見た場合として、現在の日華の非公式的関係の存在が果たして「正常」といえるのかどうかという問題もある。

経緯

民間貿易協定

1949年10月1日に中華人民共和国は成立した。当時、日本は台湾島の中華民国政権を『中国を代表する政府』として承認。中華人民共和国とは細々と民間交流が行われるに過ぎなかった。

1950年10月1日には日中友好協会が設立したものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあり日本政府は反社会主義の色彩を強くし、12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、中華人民共和国を敵視する政策が執られていった。

そんな中、1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ帆足計宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反してソ連から直接北京を訪問。第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。

さらに1953年7月に朝鮮戦争が休戦すると、衆参両院で、「日中貿易促進に関する決議」が採択。池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中し第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。

さらに1955年4月のバンドン会議高碕達之助と対談した周恩来総理が、中国は平和共存五原則の基礎の上に日本との国交正常化推進を希望と表明。同年11月に片山哲元総理が訪中するなど、あいかわらず反対論は根強いものの交渉が進みかけたに見えた。

しかし、1957年2月に総理大臣に就任した岸信介は中華人民共和国政府を敵視し日中民間貿易協定を無視したので、中国サイドは態度を硬化。周恩来が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、事態の収拾を図ろうとしたものの、1958年5月2日に長崎国旗事件(長崎で暴徒が中国国旗を引きずり降ろした事件)が起こると日本政府の対応を強く批判。日中貿易が全面中断され、中国歌舞団日本公演も中止となった。

LT貿易とMT貿易

その後日本社会党の訪中や石橋湛山元総理による「政経不可分の原則」の確認、松村謙三古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、中国から「貿易三原則」を引き出すことに成功すると、1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し「日中総合貿易に関する覚書」を調印。経済交流が再開された(LT貿易・中国側代表廖承志、日本側代表・高碕達之助)。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。

しかし、1965年総理大臣に就任した佐藤栄作は中国を「アジアの脅威」と批判。中国側は態度を硬化し、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立し帰国。さらに中国では文化大革命が開始、日本国内では中国敵視の風潮がどんどん強くなっていった。そのような中でも1968年3月古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。覚書貿易(MT貿易)が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。

日中国交正常化

1968年9月8日、創価学会池田大作会長が学生部総会における演説で日中国交正常化を主張。閉塞感が漂う日中関係への反響は大きく、国内に賛否の議論が巻き起こった。<ref name="syuuon">『周恩来と池田大作』南開大学周恩来研究センター著 朝日ソノラマ、2002年</ref>そうした雰囲気の中、松村謙三は最後の訪中で地馴らしをするなど懸命な努力を払った。

1971年1月25日、第31回世界卓球選手権名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の後藤鉀二が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことは4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周恩来首相との会見につながり米中の緊張緩和を醸成。これがヘンリー・キッシンジャーアメリカ合衆国国務長官の秘密訪中による米中政府間協議、そして1972年2月の電撃的なニクソン大統領の中国訪問につながっていく。 Template:Main

日本側は1971年7月に公明党訪中代表団が訪中し「日中復交五原則」を提案。

1972年7月7日、内閣総理大臣に就任した田中角栄はそれを足がかりに、同年9月に自ら中華人民共和国を訪問した。佐藤派から福田派に移った保利茂は、田中の意を受けて密かに訪中する日本社会党委員長:成田知巳に田中の親書を毛沢東に渡す様に託し、田中の日中国交回復を真剣に願っている事を中国側に伝える。

そして9月29日、日本国外務大臣大平正芳中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名。国交正常化が成立した。さらに1974年12月に訪中した池田大作に周恩来は平和友好条約の早期締結の意志を伝えた<ref name="syuuon"/>。

それから4年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。

研究論文

 倪志敏「田中内閣における日中国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」  『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)  近年、発表された日中国交正常化を扱った研究論文の中で、最も優れた研究業績は、前掲の倪 志敏氏の4本論文である。倪氏は、近年公開された日中双方の外交記録及びその他の第一次資料(『森田一秘書官訪中日記』等)を広く駆使すると同時に、日中双方の当事者及び関係者への貴重なインタビュー資料も多数利用している(国交正常化当時の中国外交部アジア局長の陸維釗、中日備忘録貿易弁事所東京連絡所首席代表の肖向前、日本特派員の王泰平、会談の通訳、中日友好協会副会長の王効賢、日本側では、田川誠一、加藤紘一、森田一〔大平正芳の娘婿、秘書官、元運輸大臣〕、真鍋賢二〔大平正芳代議士の秘書官、元環境庁長官〕、中江要介〔元アジア局長、中国大使〕、橋本恕〔元アジア局長、中国大使〕、佐藤嘉恭〔元大平内閣首相補佐官、中国大使〕、谷野作太郎〔元中国課長、中国大使〕等)。論文は、日中国交正常化のプロセスを丹念に詳しく跡づけ、北京交渉の過程を深い考察を加えている。

関連項目

注釈

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