斎藤実

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海軍大臣のころ

齋藤 実(さいとう まこと、正字体:齋藤 實、安政5年10月27日1858年12月2日) - 昭和11年(1936年2月26日)は日本海軍軍人政治家。第30代内閣総理大臣(在任1932年 - 1934年)。官位は海軍大将従一位大勲位子爵

ボーイスカウト日本連盟第2代総長。

目次

略歴

※日付は生年のみ旧暦

生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市の齋藤實記念館と、東京都千代田区永田町国立国会図書館に分散して保存されている。

条約派海軍人

齋藤に首相就任の白羽の矢が立ったのは、海軍の条約派に属する軍人で、英語も堪能な国際派であったことが要因である。また、粘り強さ、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されたからであった。

五・一五事件でショックを受けた昭和天皇は、「ファッショに近い者は絶対に不可」との強い気持ちだった。一方、軍部立憲政友会右派の森恪らは、右翼に近い平沼騏一郎を担ごうとしていた。元老・西園寺公望は当初、政友会総裁の鈴木喜三郎を推し、政党内閣を続けるつもりだったという。

しかし、軍内部の状況を知るに及んで、政党内閣ではもたないと判断した。天皇の意向に応え、しかも、軍部も正面切って反対できない候補としては齋藤ぐらいしかいなかったのである。首相退任の後内大臣に就任したが、それ以前にも内大臣候補にあげられたことがあった。

齋藤内閣の瓦解

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高橋蔵相 (左) と齋藤内府
ともに滞米経験があり親英米派だった高橋是清とは個人的に親しい友人でもあった。写真は昭和11年2月20日、二・二六事件の六日前に齋藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。

齋藤内閣は、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げたが、外交問題では軍部の要求通り満州国を承認した。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けたのである。

それでも、軍部は齋藤のリベラル臭を嫌い、嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔した。その犠牲になって辞任する閣僚も出たが、齋藤は後任人事を務め抜き、何とかしのいだ。

しかしながら、帝人事件で大蔵次官らが逮捕されるに及んで、ついに内閣総辞職に追い込まれた。百十数人が収監されながら、公判では全員無罪という奇怪な事件だった。検察の平沼閥、軍、政友会右派らが仕組んだ「空中楼閣」説さえある。

「齋藤」以後

戦前の制度では、前任者が後継首相を選ぶことは至難の業であるが、齋藤は同質・同型の岡田啓介内閣をつくる布石を打ち、成功させた。齋藤のしたたかさを示す一例である。

齋藤内閣は部分的には抵抗しつつも、総体としては日本の軍国主義化の流れを止めることはできなかった。各方面の妥協で生まれた「挙国一致内閣」の限界といえよう。

人物

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齋藤は何もしなくても「そこにいるだけで周囲が落ち着く」存在だった

斎藤は外国人との交友が広く、若い頃に4年間も駐米公使館付武官を勤めていたこともあって、特にアメリカ人との交際が深かった。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーとは親友の間柄である。斎藤の英語力は歴代総理の中でも相当のもので、要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほどだった[1]

青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日ビールを配達させていた。その甲斐あって、齋藤は強靱な体力を得た。明治天皇が危篤のとき、当時の閣僚は1週間宮中に泊り込んで快復を祈ったが、他の閣僚が音をあげる中で、齋藤だけはケロリとしていた。「若い頃は、1週間一睡もしないで平気だった」と豪語したという。強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。

記者会見では、「それはなぁ」とか「ウム」と繰り返すだけで記事にならない。記者の方で齋藤の意向を推し測って作文するしかなかった。だからといっておおまかなわけではない。散歩の途中、道に落ちているガラスの破片や古い針を必ず拾って溝に捨てた。子供たちが怪我をしないようにという配慮からだった。首相になっても、自分のふんどしは必ず自分で洗う細かさもあった。

大正3年(1914年)、千葉県一宮町新地に別荘を所有している。九十九里浜の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。この別荘は明治34年(1901年)10月に竣工のもので、大正3年に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。古洋服に草履をはき、手拭を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。なお、別荘を所有していた関係上、近くの玉前神社には彼が奉納した扁額が掲げられている。

齋藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。揮毫をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。齋藤が整理・保管した書翰類は、大半が国立国会図書館に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている<ref>国立国会図書館専門資料部編 『斎藤実関係文書目録』は、書類の部と書翰の部が各2巻で、1993-99年に出された。</ref> 

二・二六事件の前夜、齋藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった<ref>グルー『滞日十年』(上下、石川欣一訳、毎日新聞社、1948年)に紹介されている。</ref>。

脚注

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関連文献

  • 松田十刻 『斎藤実伝 「二・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社、2008年
  • 村上貞一 『歴代総理大臣伝記叢書21 斎藤実』 復刻・御厨貴監修、ゆまに書房、2006年 
  • 有竹修二 『日本宰相列伝14 斎藤実』 時事通信社、1986年
  • 高橋文彦 『惨殺 提督斎藤実「二・二六」に死す』 光人社、1999年

外部リンク

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