幕末

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Template:日本の歴史 幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っている時代(江戸時代)の末期を指す。通常は、黒船来航1853年)から戊辰戦争1869年)までの時代を指す。

目次

概説

幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍サスケハナ号、サラトガ号、ポーハタン号ミシシッピ号による艦隊の来航から、1867年11月9日慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜大政奉還を行って徳川幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年5月3日旧暦4月11日)に江戸城明治政府軍に明け渡されて徳川幕府が崩壊する時までとする見方が、一般的である。大政奉還、旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終わった廃藩置県1871年8月29日)なども終期となりうる。

幕末は、徳川将軍家の当主が征夷大将軍に就き、幕府の主宰者として君臨する幕藩体制が衰えて死に行く過程である。その一方で、鎖国すなわち海禁政策を抛棄して開港し、外国との通商貿易の開始によって日本が世界的な資本主義市場経済植民地主義に組み込まれ、社会自体が劇的に変化していく発端でもある。この幕末の過程は、多くの文学作品に描かれており、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』などが挙げられる。

政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、不平等条約が締結された幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国1854年)から第二次世界大戦敗北1945年)までを「近代」とする見方も存在する。このうち、不平等条約の締結から完全撤廃まで、即ち1854年から1911年までの時期は「幕末・明治」として一括されて呼ばれる事も多い。

幕末の思想の特徴は、幕藩体制の根拠を説明しあるいは批判するもの、またその体制に代わり得るあたらしい国家像を模索することである。更に、天皇や徳川将軍といった権威と権力の源泉についてのあらたな意味づけを模索している点も、大きな特徴の一つである。

幕末時代に最も力と意味を持った思想潮流は、「尊王攘夷」の思想であると言われている。新たな国家像や天皇像もまた、この思想との関わり構築されていった。

政治史

条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年)

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭水戸藩主)らや、松平慶永越前藩主、のち春嶽)・島津斉彬薩摩藩主)ら親藩外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、将軍徳川家慶が死去。子の家定が13代将軍に就任する。

安政元年(1854年正月に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求。全権の林復斎らとの交渉により、日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年、ロシア帝国プチャーチン艦隊との間でも川路聖謨らの交渉により日露和親条約が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。開国以前より継続していた活動は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される。

日米和親条約では、薪水の給与のための下田箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭の反対を承知しながらハリスを下田より上府させ、結果として斉昭は海防参与を辞す。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争におけるの敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を締結する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながら通商条約締結は不可避と判断した。

堀田は孝明天皇勅許を求めるべく、京都において関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。また島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。

安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)

安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼彦根藩主)は条約問題と将軍継嗣問題を強権的に一気に解決をはかった。すなわち、大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を締結させた。領事裁判権を認め、関税自主権を喪失し、かつ片務的最恵国待遇を課した拙速な不平等条約であり、同様な条約がイギリスフランスオランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、この時期についてはロンドン覚書調印により時期をずらすことになる。また将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)。

こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受けることとなった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも井伊の指示を受けて、老中間部詮勝鯖江藩主)らが取り締まりを行った。これにより、橋本左内・梅田雲浜頼三樹三郎らが処刑され、また長州藩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(→戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、万延元年3月3日1860年3月24日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門の外で襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。

公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)

開国・貿易開始以降、内外の金銀比価が違ったために発生した金貨が大量に流出。その対策として発行された万延小判の品位の低さなどにより諸物価が高騰、開国策・不平等条約への批判が噴出し、外国人排斥の攘夷思想が次第に隆盛し、各地で異人斬りが横行する。また、国学思想から来る尊王思想と結びついて「尊王攘夷」運動として幕府批判へつながっていった。

井伊死後、老中の久世広周関宿藩主)・安藤信正磐城平藩主)らが幕政を主導し、失墜した幕府の権力を復活させるため、朝廷との提携(公武合体)を模索する。新将軍家茂と、孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王との婚姻である。和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約がすでにあり、外国人のいる関東へ行かせたくないと難色を示した孝明天皇も、公武合体には基本的に賛成であり、岩倉具視らの進言もあって最終的に家茂への降嫁を認めた。しかし、幕権強化のために朝廷を利用することは尊王派の怒りを買い、文久2年(1862年)正月、老中安藤は江戸城坂下門外で襲撃され、一命は取り留めたが後に失脚した(坂下門外の変)。

いっぽう、長州藩の長井雅楽が主導する「航海遠略策」が幕府の賛同を得て公武一和の具体策として浮上する。長井は老中久世・安藤らから朝廷への周旋を依頼される。しかし、同藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)や久坂玄瑞久留米神官真木和泉ら尊王攘夷派は反対、長井は失脚させられ、以後長州の藩論は尊王攘夷の最過激派へと転換される。

また同じ時期、薩摩藩主の父で前藩主斉彬の弟・島津久光が、亡き兄の遺志を継ぎ、幕政改革を志して兵を率いて上京した。この動きを倒幕への準備と見誤った同藩の尊攘派が久光によって鎮圧される事件が発生したものの(→寺田屋騒動)、久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職松平容保会津藩主)を京都守護職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中、生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。

幕府をさらに追い込むべく三条実美姉小路公知ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を起こす。文久3年(1863年)家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)の上洛をするが、5月10日の攘夷決行を約束させられた。

約束の日である5月10日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし同月末に外国船に反撃され、砲台を占拠されるなど、実際には攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(四国艦隊下関砲撃事件)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊などの諸隊を結成し、後の長州藩の武力となっていく。

また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから7月2日薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟ることとなった。この交渉によりイギリスと薩摩は接近、イギリスは幕府が自由貿易の利益を独占している現状に外様大名は不満がある点を知る。横浜開港により江戸への物資廻走が滞り、経済真混乱や物価の高騰により生糸輸出制限をしていた幕府に対し自由貿易の条約遵守を求めるイギリスは態度を変化させていた。

尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年)

この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。逆に尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)も起き、犯行に関与したとみられた薩摩藩など公武合体派の勢力が一時低下した。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。文久3年8月18日(1863年9月30日)に、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。

いっぽう文久3年12月には徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。幕府を代表する慶喜は神奈川鎖港を主張。この時期に至って条約の破棄はできないとする春嶽・久光は帰国して翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。

この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光吉村寅太郎池内蔵太土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石岡山藩士)、さらには河内大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。

さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎武田耕雲斎天狗党筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。

このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。

薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年)

逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。

一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が慶応元年(1865年)9月、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は関税の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税の改正というイギリスの目的も達成された(改税約書)ことで四国艦隊は兵庫沖から去った。

こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、長州との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。

幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。

大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)

家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受ける。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が践祚した。

翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、6月22日には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから9月7日盟約は解消。結局土佐藩は10月3日単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之正親町三条実愛らによって、慶応3年10月14日1867年11月9日)に討幕の密勅が出されるにいたる。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、同じ10月14日には、天皇に大政奉還を奏請しており(在京各藩士には前日に二条城で宣言していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により、江戸幕府による政権は名目上終了した。

しかし、慶喜は将軍職も辞任せず(24日に辞職)、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。慶応3年12月9日1868年1月3日)に、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は官職(内大臣)辞職および領地返上を要請されたのである。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。

戊辰戦争(1868年 - 1869年)

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年)の正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始した。1月3日鳥羽街道伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩安濃津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。旧幕軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、1868年の干支である戊辰に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日旧暦9月8日)には、元号が慶応から明治に変更された。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道中山道北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東北越南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至った。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。

幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言するが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名知藩事となり、家臣とも分離された。明治4年旧暦7月14日1871年8月29日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。

国際関係

開国の時代」が幕末であるが、この幕末には多くの不平等条約が締結された。従って、徳川幕府や、これを倒した明治政府は、不平等条約の撤廃を目指した。

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出来事

年代順の詳細な経過については「幕末の年表」を参照。

施設

松下村塾長崎海軍伝習所神戸海軍操練所蛮書和解御用

幕末の思想

主権
対外関係

組織

幕末の兵器

幕府・各藩は海防のため、後には倒幕のために、競って西洋の最新兵器を揃えようとした。 しかし長い鎖国の間に西洋の軍事技術との差は開いて自製は困難であったから、ほとんどは外国商人から購入してまかなった。

小銃

大砲

艦船

要塞

参考文献

幕末の日本見聞記

来日した外国人により多くの写真と見聞録が遺されている。原典訳大著『異国叢書』(雄松堂出版)が数十冊ある。また渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)に詳細に紹介されている。写真は小沢健志編『幕末写真の時代』(ちくま学芸文庫、1996年)、横浜開港資料館編『F.ベアト写真集1.幕末日本の風景と人びと』、『同2.外国人カメラマンが撮った幕末日本』(明石書店、2006年)が読み易い。

関連項目

外部リンク

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