常陸国

出典: Wikipedio


Template:Pathnav

常陸国(ひたちのくに)は、日本のかつての行政単位だったの一つで、東海道の最遠、関東地方の東北端に位置する。常州(じょうしゅう)と呼ぶこともある。『延喜式』での格は大国、遠国。親王任国

目次

沿革と歴史

7世紀に成立した。成立時期については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。当初の常陸国は現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県から宮城県南部(今の常磐線沿線)にまで至る広大な国であった。後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡までになった。『常陸国風土記』は数少ない現存する風土記の一つである。

養老2年(718年) に菊多郡を新設の石城国に編入した。これ以降は国の形は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡からなる。

平安時代には、上総国上野国とともに親王が国守となる親王任国であった(天長3年(826年)旧暦9月6日後より)。例えば時康親王人康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。

国府・国分寺・国分尼寺・安国寺・利生塔・一宮以下・総社

国府は茨城郡にあった。現在の石岡市にあり、遺跡が発掘されている。その設置時期は、『日本書紀』によれば、大化2年(646)以後であるという。府中城跡(現在の石岡小学校敷地)を国衙後とみて発掘が行われ、国分寺系の古瓦や建物遺構を検出しているが、国府機構の一部との確証は得られていない。また、石岡市内のどこからどこまでが国府域なのかも分かっていない。鎌倉期の古文書に「古国府」という文言が出ているところから「現国府」があったのだろうと考えられる。今まだ確かなことは分かっていない。郡衙後は11郡のうち2不明を除いて大体比定できている<ref>糸賀茂男「分化のあけぼのから兵の世へ」33-36ページ(長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛史編『茨城県の歴史』山川出版社 2003年)</ref>。

国分寺は石岡市府中にあった。石岡市府中の真言宗智山派浄瑠璃山東方院国分寺(本尊:薬師如来)がその法燈を伝承する。安国寺は、笠間市上郷の曹洞宗朝日山安国寺(本尊:南無釈迦牟尼仏)。国分尼寺と利生塔は現存しない。

延喜式神名帳』には大社7座6社・小社21座21社の計28座27社が記載されている。大社は全て名神大社で、以下に示すものである。

一宮は鹿島神宮、二宮は静神社、三宮は吉田神社である。鎌倉時代までにはこの三社で確立していた。総社は石岡市総社の総社神社(常陸総社宮)である。

国司

常陸守

  • 文武四年(700)十月    百済王遠寶
  • 和銅元年(708)三月   阿倍狛秋麻呂
  • 和銅七年(714)十月   石川難波麻呂
  • 養老三年(719)七月   藤原宇合
  • 天平九年(737)正月   坂本宇頭麻佐
  • 天平十八年(746)四月  石上乙麻呂
  • 天平十八年(746)九月  紀飯麻呂
  • 天平勝宝四年(752)六月 百済王敬福
  • 天平宝字二年(758)六月 佐伯毛人
  • 天平宝字七年(763)正月 藤原清河
  • 天平宝字八年(764)十月 石上宅嗣
  • 宝亀八年(777)十月   藤原小黒麻呂
  • 延暦元年(782)六月   紀船守
  • 延暦二十一年(802)正月 大原某を免
  • 延暦二十四年(805)八月 紀直人、卒
  • 延暦二十四年(805)九月 橘安麻呂
  • 大同元年(806)正月   下葛野王
  • 大同元年(806)二月   和入鹿麻呂
  • 弘仁二年(811)正月   菅野真道
  • 弘仁五年(814)七月   藤原福当麻呂
  • 天長元年(824)六月   佐伯清岑
  • 天長三年(826)     甘南備高直

常陸太守

  • 天長七年(830)正月   葛原親王
  • 承和元年(834)正月   葛井親王
  • 承和五年(838)正月   忠良親王
  • 承和七年(840)正月   葛井親王 再任
  • 承和十一年(844)正月  葛原親王 再任
  • 承和十五年(848)正月  時康親王
  • 仁壽三年(853)     仲野親王
  • 斉衡四年(857)     人康親王
  • 貞観二年(860)正月   賀陽親王
  • 貞観六年(864)正月   惟喬親王
  • 貞観十年(868)正月   惟彦親王
  • 貞観十四年(872)二月  惟恒親王
  • 貞観十八年(876)二月  惟彦親王
  • 元慶四年(880)正月   時康親王
  • 元慶八年(884)三月   貞固親王

常陸介

  • 大伴弟麻呂 - 783年(延暦2年)任官。
  • 藤原緒嗣 - 791年(延暦10年)から797年(延暦16年)7月までの間のいずれか。
  • 源満仲 - 912年?(延喜12年)から997年(長徳3年)10月6日(8月27日)までの間のいずれか。
  • 源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。
  • 藤原実宗- 1107年(嘉承2年)前後
  • 平家盛 - 1147年任官
  • 平頼盛 - 1149年(久安2年)任官、1158年(保元3年)中務権大輔兼任として再任。
  • 島津忠景 - 1267年(文永4年)から1295年(永仁3年)までの間のいずれか。
  • 佐竹貞義 - 1287年(弘安10年)から1352年10月18日(正平7年/文和元年9月10日)までの間のいずれか。

守護

鎌倉幕府

室町幕府

人口

  • 1721年(享保6年) - 71万2387人
  • 1750年(寛延3年) - 65万5507人
  • 1756年(宝暦6年) - 64万1580人
  • 1786年(天明6年) - 51万4519人
  • 1792年(寛政4年) - 49万5083人
  • 1798年(寛政10年)- 49万2619人
  • 1804年(文化元年)- 48万5445人
  • 1822年(文政5年) - 49万5575人
  • 1828年(文政11年)- 49万5859人
  • 1834年(天保5年) - 45万7321人
  • 1840年(天保11年)- 49万9761人
  • 1846年(弘化3年) - 52万1777人
  • 1872年(明治5年) - 64万8674人

出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林

江戸時代の藩について

常陸国には明治維新を迎えた藩として水戸藩御蓮枝(分家・支藩)として府中藩宍戸藩、そして付け家老として明治以降独立する松岡藩、その他に土浦藩笠間藩下館藩谷田部藩麻生藩牛久藩下妻藩がある。

明治元年から廃藩置県まで藩となったものに志筑藩松川藩龍ヶ崎藩がある。

脚注

Template:Reflist

関連項目

Template:令制国一覧 Template:常陸国の郡cs:Provincie Hitači de:Provinz Hitachi en:Hitachi Province fr:Province de Hitachi gl:Provincia de Hitachi id:Provinsi Hitachi it:Hitachi (provincia) ko:히타치 국 lt:Hitačio žemė nl:Hitachi (provincie) pt:Província de Hitachi sk:Hitači (provincia) uk:Провінція Хітаті zh:常陸國

個人用ツール