帝国

出典: Wikipedio


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帝国(ていこく)とは、

  • 皇帝と呼ばれる(または皇帝に相当する)君主が支配する国家のこと。
  • 多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家。この場合、君主が皇帝とは限らず、だったり、政体が共和制であったりすることもある。

目次

語源

  • 漢字の「帝国」の原義は皇帝が支配する一定の領域。もっとも、皇帝天子として「天下」を支配するのであり、その下で諸侯が「」を治めるというのが東アジアにおける伝統的な理念であるため、本来的には「帝国」という言葉は自己矛盾している。ただし、皇帝の統治する領域が限定されていたのは厳然たる事実だった訳で、「帝国」という言葉はそのような現実を如実に表す言葉ともいえよう。
  • 英語フランス語の「Empire」の語源はラテン語の「インペリウム (imperium)」にある。ラテン語の「インペリウム」は、元々、「都市の周りの土地、統治権(territorio)」という意味であり、後に、その支配権の及ぶ範囲をもこの語で表すようになり、「帝国」の意味で用いられるようになった。皇帝の語も「インペリウム」に由来するインペラトルに由来するが、直接の関係はない。
  • ドイツ語の「Reich」は「Empire」とは同じ用法では使われないが、帝国と訳す場合もある。Römisches Reich:ローマ帝国がそうである。しかし、「国」がふさわしい場合もある(例 「Himmelreich:天国、天上世界にある理想の国」、「Königreich:王国」、「Kaiserreich:帝国」)。

概念

一般的には皇帝が支配する国家のことを指す。また、多数の民族を含む巨大な国家を指す場合もあり、この場合はかならずしも皇帝が支配する国を意味しない。

前者の定義の場合はその国家が自ら「帝国」を自称する場合が多いが、後者の場合は後の時代になってからそう呼ぶようになったり、あるいは比喩的に呼んだりする場合が多い。小国家でありながらその君主が皇帝を自称した、第一次・第二次ブルガリア帝国は前者の例であり、君主が「王」である「アレクサンドロスの帝国」は後者の例である。前者の定義を拡大解釈し(王が存在するが王は統治者でない国で、「王国」を名乗る国=ベルギー、スウェーデンなどがあるという事実を踏まえ)、「国家元首が皇帝の国」を帝国であるとすると、2010年現在の世界で「帝国」であるといえるのは日本国だけである。もちろん、「天皇は皇帝であるのか?」、「日本国憲法の下での天皇は国家元首といえるのか?」という問題は残るが、元首はEmperorであるという日本政府の対外姿勢により、国際的には日本は帝国であるとみなされることが多い。

帝国主義」と混同されがちであるが、いわゆる近代「帝国主義」は、産業革命による近代化以降の西欧列強を中心とするものであり、政体としては立憲君主主義、ないし共和制でありながらも、経済的事情や自国の防衛上の観点から他国もしくは他地域に対する領土的野心を持つ「膨張主義」を伴うものである。ただし、その結果として生まれた国家は、「大英帝国」、「フランス植民地帝国」など「多数の民族を含む巨大な国家」として「帝国」と称される場合が多い。

現代においては、「皇帝が支配する国家」という意味においては、共和制との対比、特に、「古代ローマ」が共和制から帝政へと移行した経緯から、『帝国=悪』という概念がしばしば見られる。また「多数の民族を含む巨大な国家」という意味においても、近代以降は他民族を支配する国家の膨張政策(上記の帝国主義)が「侵略」として悪と認識されるようになったため、この意味でも「帝国=悪」という印象が広く流布している。現代の創作物においても、悪の国家を「帝国」と設定する例がしばしばみられる(『スター・ウォーズ』や『ファイナルファンタジーVI』など)。

近代以前の歴史上では、帝国を統治する皇帝は国王より上位の君主号とされ、国際的にも立場が上である場合が多くみられた。それゆえに、小国であっても、あえて背伸びをして「帝国」を自称する場合もあった。『北槎聞略』の「巻の九」雑記によると、大黒屋光太夫ロシア帝国に滞在中、ロシアに滞在している多くの外国人たちは互いに『あなたの国は何という名の国で、それは「帝国」ですか?「王国」ですか?』と尋ね、帝国であると答えると上座を譲られるとある。このことからも、当時は帝国に悪のイメージなどはなく、高貴なイメージしかなかったことがうかがえる。なお、大黒屋光太夫滞在当時(1783年から1792年まで)のロシアで考えられていた世界に存在する帝国は7カ国のみであり、その7帝国とは日本帝国・大清帝国ムガル帝国ペルシア帝国オスマン帝国神聖ローマ帝国およびロシア帝国であった。日本も帝国と考えられていたため、大黒屋光太夫一行はロシアのどこに行っても粗略な扱いを受けることはなかったと『北槎聞略』に記している。

現代においても、韓国では皇帝は国王より上位であると認識され、日本の天皇(皇帝)を、あえて「日王」と呼んでいる。欧州などの国王より日本の天皇を上位とみなすのは不公平であり、対等とみなすのが公平であるというのが韓国側の主張である。これに対し、現代においては独立国の元首は称号に関わらず皆対等というのが通例となっているため、このような主張は的外れであるとの批判もある。

帝国が保有する軍隊帝国軍と呼ばれる。

古代の帝国

古代の帝国は、ある特定の民族を中心にほかの文明宗教を巻き込み、大きな領土を持つである。代表的なものは、アッシリア帝国アケメネス朝ペルシャ帝国アレクサンドロス大王の帝国ローマ帝国であろう。

オリエントの帝国 アッシリア・アケメネス朝など

詳しくはそれぞれの項目を参照。

アッカド帝国

紀元前2300年ごろ、サルゴンがアッカドを創始した。少なくとも最初期の強国であったと考えられるが、ここでいう帝国とは資料から読み取れる領土を指してのことであり、アッカドがどういう国であったかは詳しいことはわかっていない。世界最古の帝国といった場合は、アケメネス朝ペルシア帝国、もしくはアッシリア帝国を指すことが多い。

ウンマルガルザゲシが覇権を握り、下の海から上の海まで(それぞれ紅海地中海)の領土を獲得していた。サルゴンはウル・ザババ王に仕えていたが反乱を起こし、やがてはルガルザゲシを破り覇権を握った。サルゴンは世界の王を称し、後のサルゴンの孫ナラム・シンは遠征を繰り返し、領域を最大に広げ、四方領域の王と名乗ったことが知られている。サルゴン登場後からアッカド語が歴史に登場するようになり、ナラム・シンの遠征の記録が残っていることから、アッカドが強大な国であったことは確実だが、正確な領土の範囲はわかっていない(サルゴンが倒したルガルザゲシ王の領土も議論があり、下の海から上の海までの範囲が本当ならば、サルゴンが仕えたウル・ザババ王は彼の属王ということになる)。後に、グティ人が侵入し、シャル・カリ・シャッリ王を最後に滅亡した。グティ人侵入後は、「誰が王で、誰が王ではなかったか」といわれる暗黒の時代を迎える。だが、近年の研究により、アッカド滅亡の原因は内部崩壊によるもので、グティ人の侵入は事実であるが誇張を含むという説が一般的になりつつある。

バビロニア帝国

アッカド滅亡後のメソポタミアはグティ人の王が支配していたが、ウトゥ・ヘガルが反乱を起こし、グティ人の追い出しに成功する。この後、再び都市国家間の戦争が活発化する。時は流れ、紀元前1800年ごろ、アルム人スムアブルがバビロンで王朝を開く。その後、彼から数えて6代目の王であるハンムラビが全メソポタミア地域を統一する。

アッシリア帝国

歴史的にイスラエル王国と関わりがあったため、『旧約聖書』にも敵として名が登場する(ソロモン王死後に北南に分裂したイスラエル王国は、紀元前721年にアッシリア王サルゴン2世によって北イスラエル王国が滅ぼされている。南はユダ王国)。当時のメソポタミア地域では強国が乱立していたが、やがて、優秀な指導者の下に成長したアッシリアは周辺諸国を侵略し、当時の国家群の中では最大の領域を誇るまでに至った。特に、アッシュールバニパル王は領土拡大とともにニネヴェ図書館(またはアッシュールバニパルの図書館)と呼ばれる巨大図書館を建造し、数万点に及ぶ粘土板を保管した。それらは、当時の神話、歴史、文化などを知る上で絶大な貢献を果たしている。紀元前612年新バビロニアメディアの攻撃をうけて滅亡した。

アケメネス朝ペルシア帝国

アッシリア帝国が滅亡した後のメソポタミア地域は、新バビロニアメディアリディアエジプトなどの強国が乱立することとなった。当時はアケメネス朝アンシャンという小国の一つであったが、アッシリア帝国の時代から存在していた。アケメネス朝ペルシアにおいて最も重要な人物はキュロス2世紀元前600年頃 - 紀元前529年)である。彼はエジプトを除くメソポタミア地域を統一し、2代目のカンビュセス2世がエジプトを征服した。このころは中国も統一国家が現れていない春秋時代のころであり、ローマも大規模な都市を形成する以前の段階であった。まさしく世界最大の国家として君臨した。4代目のダレイオス1世はギリシア遠征を計画し、その後に続くペルシア戦争の火蓋を切るが、近年の研究によって、王朝の創始者である大キュロスの直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことがほぼ明らかになっている。つまり、連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝ダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。この後に登場するアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼすことになる。

アレクサンドロスの帝国

古代マケドニア王国アレクサンドロス大王紀元前336年に20歳で王位に就く。父ピリッポス2世が活用したファランクス戦法を受け継ぎ東方遠征を開始し、エジプトを占領し、イッソスの戦いガウガメラの戦いなどでペルシア最後の王ダレイオス3世と激戦を繰り広げ、いずれも大勝した。特に、アレクサンドロス大王が活用したマケドニア式ファランクス戦法は無敗を誇り、ダレイオス3世がアレクサンドロスに対抗することは困難となった。そして、逃走中にバクトリア総督(サトラップ)のベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡した。メソポタミア全域を征服したアレクサンドロス大王は、紀元前326年、さらに東方を目指し、インド遠征に乗り出した。インダス川を越えてポロス王らと戦うが、その後、兵士の疲労により退却した。帰還したアレクサンドロス大王はさらにアラビア遠征を計画するも、紀元前323年スーサで病に襲われ急死した。

大王の東方遠征は、数々の逸話、伝説として後世に残され、マケドニアギリシャエジプトペルシアインド西域にまたがる大帝国を築いた。大王は異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシアの兵士はマケドニア式の訓練を行なったり、オリエントの女性と結婚した上、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした(ヘレニズム文化)。しかし、大王の早すぎる死後、王位継承権を巡って内戦が起き、ディアドコイ戦争が始まった。ディアドコイ戦争後、分裂した帝国は、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝、マケドニアのアンティゴノス朝にわかれたが、これらは皆、後のローマの拡大に呑み込まれていくこととなる。

ローマ帝国

ローマ帝国は以後のヨーロッパにおける帝国の基礎・規範となった帝国である。ローマの場合、共和政時代後期からギリシア北アフリカシリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。また、英語フランス語などで「帝国」を示す単語の語源となったラテン語の「Imperium(インペリウム)」は、軍事指揮権・支配権を意味するものであり、これを有する軍の司令官を「インペラトル」と呼んだのであり、君主制と必ずしも結びついていた訳ではない。近年では、ローマの支配は「インペラトル」が各地の有力者と保護者 - 庇護者の関係を結ぶことから始まり、発展していったという解釈がされるようになってきている。

しかし、ユリウス・カエサルがインペラートルの称号を終身のものとして用い、さらに、彼の後継者オクタウィアヌスが、「インペラトル」や執政官護民官(の職権)などの共和政の諸官職を兼任し、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」という称号をうけて「市民の第一人者」「元首」となると、体裁としては共和政を保持していたとはいえ、1人のインペラトルに権限が集まる体制となり、「インペラトル」は徐々に「皇帝」となっていった。つまり、まず先にローマ帝国があり、それを治める統括者として「皇帝」が生まれたのである。

ローマ帝国は、支配地域に、ローマ法ラテン語(東方ではギリシャ語併用)などローマ(ラテン)民族の諸文化を優れた建築技術を始めとした先進技術と共に行き渡らせ、複数の民族を同化・統合して強大な勢力を作り上げた。その支配は、本土たるイタリアを始め、北アフリカガリア(現フランス)・ブリタニアイベリア半島バルカン半島アナトリア半島シリアエジプトに及び、「地中海世界」とも称される文明圏を作り出すことに成功した。さらに、その最盛期には広大な領土の隅々に至るまで平和と繁栄をもたらし、俗に、「ローマの平和(パックス・ロマーナ」とも「人類が最も幸福だった時代」とも評される安定を創出した。

212年には、カラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、さまざまな宗教・文化を持つ民族が「ローマ人」として統合されるが、これは結果としてラテン系ローマ人の民族的結束を失わせ、帝国弱体化の遠因となった。3世紀後半になると、ローマ帝国の政治的混乱は頂点に達し、インペラトールを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは、共和政の「元首」の延長であった皇帝を、ササン朝ペルシャ帝国シャーのような完全な専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は専制君主制を強化する一方で、313年キリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。

ここに、東方的な君主制と共和制以来の「インペラトル」、そして、キリスト教の思想が結びつき、「元老院・市民・軍隊の推戴」をうけた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国にも受け継がれ、さらに発展した。この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1453年まで生き続けた。

つまり、この「ローマ帝国」の変遷が「帝国」に2つの意味を持たせることになった訳である。共和政ローマが多数の民族を含む大国家となって「帝国」となり、そして、元首政・帝政に移行した後、小国家になっても「帝国」を自称し続けたのである。

ヨーロッパでは、帝国の支配者を意味する「皇帝」はこのローマ帝国の皇帝に由来している。詳しくは記事「皇帝」の「ローマ帝国」の欄を参照のこと。

中国の古代帝国

中南米の帝国

その他の古代の帝国

中世の帝国

東ローマ帝国

東ローマ帝国は現代では、「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」などのように呼ばれるが、これらはあくまでも古代との相違点を示すための後世に付けられた便宜的な呼称に過ぎない。正式な国号は古代以来の「ローマ帝国」であり、第4回十字軍の攻撃をうけた1204年まで、ギリシャ人を主役としながらも、スラヴ人アルメニア人などの民族を支配し、正教会を国教とする国家であった(800年カール大帝の戴冠までは西欧諸国も名目上ながら宗主権下に置いていた。また、1204年以降、滅亡する1453年まではギリシャ人のみの小国へ転落)。古代ローマ帝国の継承者として、ローマ法や古代末期の体制、そして、古代ギリシャ・ローマ文化を基礎としながらも、東西の文化をギリシャ語正教会ローマ法でまとめあげて融合させ、古代のローマ帝国とは異なる独自の文明を形成した国家であったといえるだろう。

この国家では、皇帝は、「元老院と市民、軍隊の推戴を受ける」ことが正統性の証であるという古代ローマ以来の概念と、皇帝は「神の代理人」、「全世界の主」、「諸王の王」である「アウトクラトール(専制君主)」として統治するという東方的な考え方が融合した体制を取っていた。これは、前述の古代ローマ帝国後期の体制が4世紀から8世紀までの約400年近くにわたって緩やかに変化しながら作られた体制であり、いつまでが古代ローマ帝国で、いつからがいわゆる「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」であると明確に決めることはできない。

この帝国では、民族には関係なく、正教会の信者で、コンスタンティノポリスにいる皇帝の支配をうけ、ギリシャ語を話す者は皆ローマ人(公用語はギリシャ語だった)であり、アルメニア人やノルマン人、改宗したトルコ人など様々な民族が国家の要職に就いていた。イスラム教ユダヤ教にも比較的寛容で、首都・コンスタンティノポリスにはモスクまでつくられるほどであった。詳細は東ローマ帝国を参照。

なお、下記のように、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて建てたラテン帝国および、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権も「帝国」と呼ぶ。

カール大帝の「西ローマ帝国」と神聖ローマ帝国

西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝(上記のように、通常「東ローマ皇帝」「ビザンツ皇帝」などと呼ぶ)の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態をとっていた。しかし、7世紀以降イスラムスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、また、ローマ教皇コンスタンティノポリス総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこで、ローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これがカール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。

これらの帝国は古代ローマ帝国の理念の影響をうけて、「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された(もちろん、これはもともとコンスタンティノポリスの政府が主張していた理念でもある)。このため、西欧では、「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスイングランドなどの国王よりも格上とされていた。しかし、実際に神聖ローマ皇帝が支配していたのは、最大のときでも現在のドイツオーストリアスイスチェコベネルクス三国・北イタリアブルグントブルゴーニュ)などフランス東部・スロベニアポーランド西部の戦前までドイツ人地域であったシレジアプロイセンに限られ、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。

また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人選挙王制の伝統が残っており、また、各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに、三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)に主権が認められたため、帝国の権威が衰退した。このため、フランスの思想家ヴォルテールは、「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。従来の歴史学における評価では中央集権化に失敗しドイツ統一を遅らせたとして否定的にとらえるものが主流であったが、近年は帝国の諸制度への研究が進み、見直しの論が出てきている<ref>Peter H.Wilson(原著)、山本 文彦(翻訳)『神聖ローマ帝国 1495 - 1806』岩波書店 ISBN 4000270974</ref>。

その他のヨーロッパの帝国

中世ブルガリア国家は、隣接する東ローマ帝国の影響をうけて、君主が「皇帝」を称した。

イスラムの帝国

中国の帝国

  • 王朝
  • 王朝(「大唐帝国」)
  • 王朝(「大明帝国」)
  • 王朝(「大清帝国」)

遊牧民の帝国

匈奴・突厥など

モンゴル帝国

その他の地域

近代の帝国

植民地帝国

広大な植民地を持った宗主国と植民地の総体を植民地帝国 (colonial empire) と呼ぶ。

政体は帝政とは限らない。以下のリストでは、ドイツが帝政、イギリスは国王がインド皇帝を兼任しているが、他は王政か共和政である。

大日本帝国時代の名残として、民間企業では社名に「帝国」を含む企業が数多く存在する(帝国ホテル帝国劇場帝国石油)など、現在でも日本の俗称として用いられることはある。

比喩などから帝国と呼ばれる国

脚注

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関連事項

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