岡本太郎

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Template:Infobox 人物 岡本 太郎(おかもと たろう、1911年明治44年)2月26日 - 1996年平成8年)1月7日)は、日本芸術家

抽象絵画シュルレアリスムとも関わり、縄文沖縄の魅力に再注目した人物でもある。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。後年はTVなどメディアへの露出も多かった<ref>それらの映像は今日もビデオアーカイブなどで見ることができる。</ref>。

目次

来歴

少年時代

岡本太郎(以下太郎)は神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家岡本一平歌人作家かの子との間に長男として生まれる。

父一平は太郎誕生後、夏目漱石の勧めで朝日新聞社に入社し、漫画散文という独自のスタイルを築く。そして世間から「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほどの人気を博す漫画家となるが、江戸っ子気質で、付き合いのために収入のほとんどを飲んでしまうほどの放蕩ぶりに、時には家の電気を止められてしまうこともあった。

一方母かの子は、二子の大地主・大貫家の長女として乳母日傘で育ち、若い時分より創作に没頭。 お嬢さん育ちで世間知らずの芸術家であり、一般的な家政子育てが全く出来ない人だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯箪笥にくくりつけたというエピソードが残っており、後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っている。また不倫を繰り返し、彼女の敬慕者で愛人でもある早大生、堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせた。

そんな家庭環境の中、 持って生まれた資質に加え、 一般的な家庭のを全く受けることがなかったが、1917年4月、東京青山にある青南小学校に入学するも、環境に全くなじめず、追い出される形で一学期で退学。その後も私塾・日新学校、十思小学校へ転校を繰り返した。

その後かの子の希望もあり、慶應義塾幼稚舎に入学し、寄宿舎生活に入るが、そこでようやく太郎の理解者であった教師、位上清に出会う。また周囲の人気者であったが、当時の成績は52人中の52番であった。ちなみに一つ上の51番は、後に国民栄誉賞を受賞することになる歌手の藤山一郎である。

父が漫画家だった事もあり、幼少より絵を好んで描き続けたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれ、悩み続けた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事を躊躇いながらも、東京美術学校へ進学した。

滞仏生活とピカソ発見

父一平がロンドンで開催される軍縮会議朝日新聞から特派されることになり、美術学校に入学したばかりの太郎も「絵の修業ならパリで」ということで、親子三人に青年二人を加え渡欧。一家は1929年神戸港を出港し、上海中東イタリアフランスなどを歴訪。1930年1月にパリに到着し、以後約10年間滞在する。

フランス語を勉強するためにパリ郊外の中学の宿舎で生活。語学の習得は早く、半年後にはパリ大学ソルボンヌ校で学ぶようになる。太郎は以前から感じていた「何のために絵を描くのか」といった美や芸術、自己に対する根本的な問いや、既成芸術への疑念を追求すべく、マルセル・モースのもとで、哲学社会学精神病理学民俗学など、インスピレーションを得るべく絵とは直截関わりのない学問を学んだ。

1932年、両親が帰国。パリで両親を見送るが、かの子は太郎の帰国を待たずに1939年に逝去。このパリでの告別が太郎とかの子との今生の別れとなる。

芸術への迷いが続いていたある日、偶然立ち寄った画廊に展示してあったピカソの抽象絵画<ref>作品タイトルは「水差しと果物鉢」(Pichet et coupe de fruits)。カンヴァスに油彩で1931年に制作。現在はソロモン・R・グッゲンハイム美術館に収蔵。</ref>を見た太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」事を決意し、以後抽象芸術に道を求め、創作に打ち込む。

兵役と戦後

1940年、太郎はドイツ軍のパリ侵攻と同時に日本へ帰国する。帰国後、滞欧作「痛ましき腕」などを二科展に出品、二科賞を受賞し、個展も開く。

1942年、出征。中国戦線へ派遣されるが、32歳という年齢に加え、酷暑地での厳しい訓練、また西欧帰りで、アジアの小さな島国が大国と戦争など無謀であり、負けるに決まっていると信じていた太郎にとって、この4年に及ぶ兵役生活はまさに絶望的であった。

そして敗戦を迎えた。太郎は1年間の捕虜生活を経て日本に帰国したが、戦争で青山の自宅にあったすべての作品が焼失したことを知る。その後世田谷の上野毛にアトリエを構え、制作に没頭。1947年、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる。」と発表。旧態依然としていた当時の日本美術界との闘いを宣言した。

1948年花田清輝と発起人になり、文学と美術の前衛芸術を研究する「夜の会」を結成。会名は太郎の油彩画「夜」から取られ、埴谷雄高安部公房らが参加している。またこの頃、平野敏子(後の岡本敏子)と出会う。彼女は後に秘書・養女となり、彼の創作活動を陰日向に支え続けた。

1951年、偶然立ち寄った東京国立博物館に展示されていた火焔型縄文土器の芸術性の高さに衝撃を受ける。この衝撃を翌年「縄文土器論」として発表。これをきっかけに縄文文化と同じく、今まで注目される事が少なかった沖縄東北等の文化・伝統に、純粋な日本の姿を見いだし、再評価に努めた。

1954年には、青山に友人の建築家、坂倉準三の設計による自宅兼アトリエを建て、ここを生活と制作の拠点とし「燃える人」等の作品を生み出した。同年、当時の光文社社長、神吉晴夫から、中学1年生にも理解できる芸術啓蒙書の執筆を依頼され、「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」を刊行。既成芸術への痛烈な批判と、芸術は手先の問題ではなく、生活が土台にあると宣言し、(当時としては)衝撃的な著書は若い読者たちの心をつかみ、ベストセラーになる。

「太陽の塔」

1970年に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者はシンボル・タワーの製作担当の人選に迷った末に太郎に依頼することにした。太郎は依頼を承諾し、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。紆余曲折を経て出来あがった前衛的で巨大なシンボル・タワー「太陽の塔」は、当時の一部の知識人などから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。

しかし太郎がこの前衛的な塔に込めたのは、文明の発達や進歩の中で、人々の生活も豊かになるのに反比例し、心がどんどん不自由になり貧しくなっていく現代社会への、彼なりのアンチテーゼであった。また、「国の金を使って、あまりにも岡本太郎的なものを造った。」という批判に対しては、太郎は「個性的なものの方が普遍性がある」と語っている。

また、主催者側が「人類の進歩と調和」というテーマに基づき、塔の地下に人類の発展に寄与した偉人の写真を並べるつもりだったのに対し、「世界を支えているのは、無名の人たち」と、世界中の人々の写真や民具を並べるように進言した。

こうして日本万国博覧会は、大きな成功を収めた後に閉幕。1975年に永久保存が決まり、この前衛的な塔も大阪のシンボルとして人々に愛され続けることとなる。

お茶の間の人気者として

70年代以降は、芸術や民俗学のみならず、テレビなどにも進出。日本テレビバラエティー番組、「鶴太郎のテレもんじゃ」にレギュラー出演し、冒頭でリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトストラはかく語りき』の鳴り響きドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博し、流行語にもなった。番組内で出演した子供たちの絵を批評し、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年にはテレビドラマにも出演。NHKばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演。バラエティー番組とはひと味違った、自然な演技が好評を得た。

没後

老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。

1996年1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により死去。享年84。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には彼の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。

彼の死後、敏子が中心となって、数多くの著作や講演など積極的に活動を展開し、岡本太郎の啓蒙と再評価に尽力した。

1998年に、太郎が住んでいた青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館し、1999年には、かねてから計画のあった川崎市岡本太郎美術館が開館。人々は彼が残した数多くの作品を間近に触れる事が出来るようになった。

2005年に敏子が79歳で急逝してからは、2003年にメキシコで発見された「明日の神話」を愛媛県東温市で修復し、汐留日テレプラザにて初公開。岡本太郎ブームが再燃する。

人物

芸術観

芸術一家に生まれ、一般的な躾を全く受けずに育った太郎は、少年期より既存概念にとらわれる事がなく、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざし、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。

著書「今日の芸術」の中で、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。

また「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事で有名である。<ref>最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。</ref>

ただ人々にとって岡本太郎とは、お笑いタレントに仕草を真似されたことも影響してか、「目玉ぎょろりの爆発おじさん」という印象が強く、人物としてなかなか正当な評価を受けられずにいた(本人はそれを喜んでいた)のだが、太郎の死後、岡本敏子らによる著作を中心とした啓蒙活動により再評価され、芸術を志す者のみならず、広く一般にも共感と影響を与えることになる。

自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、ある時自らの絵画作品「コントルポアン」を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒し、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」とまで言ってのけたという。渋谷駅の駅ビル的扱いの渋谷マークシティという渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなどとても設置場所としては不向きなところに展示される「明日の神話」も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。

恋愛観

プレイボーイとしても名を馳せ、日本的な封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌った太郎は、徹底したフェミニスト・ロマンティストである。女性を卑下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した。

また太郎は、生涯独身を通した。秘書であった岡本敏子を養女にし、太郎は多くの女性との恋愛を志向し、敏子もそれを認めていた。これらは母かの子の影響や、自由な恋愛が許されるフランスでの生活が長かった事に起因するものと思われる。

スポーツ

じっとしている事が嫌いな太郎は、野球が好きで巨人の千葉茂中西太らとよく野球を楽しんだ。

スキー愛好家としても知られ、親交があった三浦雄一郎から賞賛される程の腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い昇ってみると、実際目もくらむ程の高さであった。しかし後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、彼自身その経験をこう語っている。

「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、ぼくの目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた。」

また、太郎は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。

ピアノ

太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。太郎がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年にはドキュメンタリー番組「もうひとつの旅」の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、太郎が作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。

その他

  • 俳優の池部良は父方の従兄弟である。
  • それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファローの監督に就任した際、岡本に球団マークの制作を依頼。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
  • 1964年に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした <ref>岡本敏子の談話による。</ref>。そして参加メダルの表側を手がける<ref>なお裏側のデザインは田中一光である。</ref>。
  • 1967年沖縄県に残る風葬について、棺を開けて中を撮影した写真を公表。この事件以降、現地では風葬の習慣は絶たれている。この行動については批判が強いが、全く意に介することはなかった。
  • 1970年に開かれた大阪の万国博覧会のシンボルで、代表作といわれる太陽の塔は、ピカソの絵に似ているという指摘がある<ref>ヴァロリスの平和の殿堂のための戦争 1952年</ref>。
  • 絵の具に、一般には用いられないカシュー胡粉を用いていたことが修復時の調査により判明している。
  • 作家の司馬遼太郎は、大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
  • ドイツ出身のフランス写真家ゲルダ・タロー(Gerda Taro)は、太郎の名の東洋的な響きに惹かれてタローをにした。
  • 写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に岡本を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年に「アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅」を上梓。2006年より、岡本の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
  • 鳥取県米子市の元市長野坂寛治と親交があった。安田光昭(元米子市教育長)は著書『「あの人この人」私の交友録』に「さて岡本の太郎さんだが、昭和何年ごろか記憶がシャンとしないけど、出雲の国に旅をした帰りだといってヒョッコリ米子へやって来て、野坂のおじさんとしばらくぶりに語りたいという。“ヤッちゃんお前も付き合わさいやい”と皆生のひさご家で晩めしということになった。岡本太郎という人は、独身主義だと聞いていたが、チョッとした婦人が一人付き添って、離れようとはしないので“ありゃ何でしょう”と市長に言うと“詮索無用”と一喝され、あれなら私も独身通せば良かったと思った。太郎さんは市長を市長さんとも野坂さんとも言わず“小父さん、小父さん”と呼びながら、おやじさんの追憶談に花を咲かせていたが、御母堂かの子さんの話となると、まゆに八の字寄せたようになる。“失礼ながら太郎さんよ、かの子夫人はお父さんも、ずいぶん持て余されたように見受けたな。あれが正に悪妻というものであろう”ひどい事をじいさん言うと思ったところ、令息岡本太郎さんが“子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました”そういう述懐を聞くにおよび、巷間いささかその性格が、尋常ではないなどといわれる岡本画伯の生い立ちを、チラリとのぞき得たような感がした。」と書いている。

年譜

死後

主な作品

平面作品

現存する太郎の最古の作品。
戦災により焼失し、1954年に再制作された。
戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • 傷ましき腕 (油彩、1936年
戦災により焼失し、1949年に再制作された。
戦災により焼失し、1949年に再制作された。

立体作品

全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
  • 日の壁・月の壁 (陶、1956年
東京都庁陶板レリーフ<ref>これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、岡本も了承したが、瀬木慎一らが反対し、最終的に岡本が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)</ref>
  • 坐る事を拒否する椅子 (FRP1963年
  • 梵鐘・歓喜 (ブロンズ、1965年
  • 若い時計台 (コンクリート、アルミニウム、1966年
銀座数寄屋橋公園内に設置。
  • 午後の日 (ブロンズ、1967年
東京都立多磨霊園にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
  • マミ会館 (鉄筋コンクリート建築、1968年
フラワーデザイナー、マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存せず。
愛知県犬山市日本モンキーパーク内に現存する。
大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。
山陽新幹線岡山駅内の陶板壁画。
広島県福山市松永町日本はきもの博物館中庭に造成。
こどもの城のシンボルモニュメント
  • 平和を呼ぶ像 (1988年
10月に船橋市の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
  • 未来を拓く塔 (1988年)
ぎふ中部未来博のシンボルとして建立。跡地の岐阜メモリアルセンター内に現存する。
  • 母の塔(原作)
  • 歓び
川崎市内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたことも。
  • 河神 (アルミ合金、1995年
青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。岡本太郎最後の立体作品。
  • 花炎 (陶、1995年)
1996年7月、有田町「世界炎の展覧会」出品作品。会期終了後、同地の「歴史と文化の森公園」に設置。岡本太郎最後の立体作品。

インダストリアル・デザイン

宇宙人のデザインを担当。
当時は鉄道関連のマークに著名画家を採用する例は極めて少なかった。
近鉄物流のマークとしても使われた。
  • 映画タイトルロゴ 「母」 (1963年
  • 映画タイトルロゴ 「鬼婆」 (1964年
2作とも新藤兼人監督作品。東宝配給。
京都じゅらくより発売。
  • ウィスキー・グラス 「顔」 (1976年
キリンシーグラムよりノベルティとして3月と9月に2種類頒布。
  • ピッチャー 「水差し男爵」 (ガラス、1977年)
キリンシーグラムのノベルティ。
  • ティーセット 「夢の鳥」 (磁器、1977年)
三郷陶器より発売。
  • トランプ (1977年)
講談社より発売。
  • 第23回 国際眼科学会シンボルマーク (1978年
同学会の記念切手のデザインも手がける。
  • アイスペール 「まつげ」 (ガラス、1978年)
キリンシーグラムのノヴェルティ。付属のトングのデザインも手がける。
慶應義塾大学の第121回卒業記念品(非売)。製造は株式会社青芳製作所。
  • お好み手皿 (ガラス、1979年)
キリンシーグラムのノベルティ。
  • TARO鯉 (鯉のぼり、1981年
東レ」と、こいのぼりの老舗「太郎鯉」との共同企画。現在も太郎鯉より発売中。
「菱屋」から発売。
  • 人間ボトル (陶、1985年
キリンシーグラムブランデー『シャトラン』と、モルトウィスキー『エンブレム』の2種類の洋酒ボトル・デザイン。つくば万博記念発売。
  • レコードジャケット・デザイン (1985年)
8月6日の広島平和コンサート開催記念頒布盤(非売)<ref>収録曲目は、レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。</ref>
  • 腕時計デザイン (EXCEED、1986年
シチズンホールディングスの製品。岡本は同社のCMにも出演。
  • JR発足記念メダル 「出発」 (1987年
銀製、銅製の2種類。
  • 映画タイトルロゴ 「神々の履歴書」 (1988年
前田憲二監督作品。「神々の履歴書製作委員会」配給。

ギャラリー

書籍

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作品集

  • OKAMOTO (G.L.M社、1937年) - 初の画集。フランスにて出版。
  • 画文集 アヴァンギャルド(月曜書房、1948年)
  • T.OKAMOTO (美術出版社、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。
  • 画文集 黒い太陽 (美術出版社、1959年)
  • 岡本太郎 (美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。
  • 絶対的、そして無目的に (セリグラフィー、版画集、1974年)
  • デリシュール (版画集、1976年)
  • TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男 (画集、1976年) - フランスにて出版。
  • 画文集 挑む (講談社文庫、1977年)
  • 岡本太郎 (平凡社、網羅的作品集、1979年)
  • 遊ぶ字 (日本芸術出版社、墨蹟集、1981年)
  • 朝日美術館 日本編2 岡本太郎 (朝日新聞社、絵画・立体作品集、1995年)
  • 歓喜 (二玄社、網羅的画文集、1997年)
  • TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 (二玄社、網羅的作品集、2005年)
  • ドキドキしちゃう (小学館、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。

評論・エッセイ等

  • 母の手紙
  • 今日の芸術 時代を創造するものは誰か
    • 光文社版(1954年
    • 光文社カッパブックス版(1963年10月)
    • 講談社文庫版(ASIN B000J93GS0、1973年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第1巻(1979年)
    • 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334727895、1999年)
  • 芸術と青春
  • 日本再発見 芸術風土記
    • 新潮社版(1958年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第4巻(1979年)
  • 今日をひらく 太陽との対話
    • 講談社版(1967年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第3巻、第4巻、第7巻、第8巻(1979年、1980年)
  • 日本列島文化論 - 泉靖一との対談。
    • 大光社版(1970年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • ミュゼ版「日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論」(ISBN 978-4944163175、2000年)
  • 美の呪力
    • 新潮社版(1971年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • 新潮文庫版 (ISBN 978-4101346229、2004年)
  • にらめっこ
    • 番町書房版(1975年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第7巻、第8巻(1980年)
    • イースト・プレス版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4872577969、2007年)
    • イースト・プレス文庫版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4781670027、2009年)
  • 岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び
    • 講談社(ASIN B000J8SPZU、1977年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)
  • にらめっこ問答 人生相談
  • 人生は夢 にらめっこ問答 人生相談
    • 集英社版(1981年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け! 岡本太郎流熱血人生相談」(ISBN 978-4883790807、2001年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け! 岡本太郎流激突人生相談」(ISBN 978-4883790814、2001年)
  • 美の世界旅行(新潮社、1982年)
  • 一平かの子 心に生きる凄い父母(チクマ秀版社、ISBN 978-4805002698、1995年) - 太郎の生前最後の著作
  1. 呪術誕生(ISBN 978-4622042563、1999年)
  2. 日本の伝統(ISBN 978-4622042570、1999年)
  3. 神秘日本(ISBN 978-4622042587、1999年)
  4. わが世界美術史 美の呪力(ISBN 978-4622042594、1999年)
  5. 宇宙を翔ぶ眼(ISBN 978-4622042600、2000年)
  • リリカルな自画像(みすず書房、2001年)
  • 疾走する自画像(みすず書房、2001年)

編集著書

  • 世界の仮面と神像(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編

監修著書

  • 福田和彦編 日本名品聚芳 全3巻(芳賀書店)
  1. 秘巻浮世絵(1973年) 小林和作埴谷雄高との共同監修
  2. 秘巻浮世絵大錦(1973年) 同上
  3. 秘巻肉筆浮世絵(1973年) 同上
  • 福田和彦編 草紙本浮世絵名品選 全4巻(芳賀書店)
  1. 秘版 英泉(1974年) 小林和作、埴谷雄高との共同監修
  2. 秘版 国貞(1975年) 埴谷雄高との共同監修
  3. 秘版 国芳(1975年) 同上
  4. 秘版 北斎(1975年) 同上

評伝

  • 岡本太郎の全貌(編集・山本太郎アトリエ社、1959年)
  • 別冊太陽 岡本家の人々(平凡社、1996年)
  • 芸術新潮 さよなら岡本太郎(新潮社、1996年)
  • 岡本太郎と横尾忠則(倉林靖白水社、1996年)
  • 岡本太郎に乾杯(岡本敏子、新潮社、1997年)
  • 芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録(岡本敏子、小学館文庫、1999年)
  • 岡本太郎の絵本 あいしてる(舟崎克彦・文、小学館、1999年)
  • アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅(荒木経惟 光文社、1999年)
  • ユリイカ 特集・岡本太郎(青土社、1999年)
  • 太郎神話(岡本敏子編、二玄社、1999年)
  • 岡本太郎が、いる(岡本敏子、新潮社、1999年)
  • 太陽の人・岡本太郎(JTB、1999年)
  • 岡本太郎の世界(岡本敏子、斎藤慎爾編、小学館、1999年)
  • 岡本太郎と太陽の塔(平野暁臣、小学館、2008年)
  • この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎(ポプラ社、2009年)
  • 岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い(平野暁臣、PHP研究所、2009年)

映像出演

映画

原作:伊藤整、監督:中平康日活配給。東郷青児とともに画家役で出演。
  • 岡本太郎 マルセル・モースの肖像 (1975年)
パリ大学民俗学教授、ジャン・ルージュが手がけたドキュメンタリー映画。イタリアのアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。
  • 山形は白い国 岡本太郎のスキー (1983年)
山形県の観光映画。

テレビ番組

後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。

最年長出演第6位
出演した際、何故か自己紹介を拒否し、名を名乗らなかった為、その事を聞いたタモリに「空を飛ぶ鳥に名前がありますか?。だから僕は名乗らない」と答えている。
  • 鶴太郎のテレもんじゃ(日本テレビ、レギュラー出演)
「なんだ、これは!」が流行語に。
死後の特集番組

テレビドラマ

CF

ノベルティグッズ「顔のグラス」製作
流行語大賞の語録賞を受賞
「名前なんかにこだわるな」の発言が話題になる。
  • ダスキン フリーデザインマット (1988年)
アメリカの第29回国際放送広告賞受賞

関連施設・団体・褒賞等

関連項目

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脚注

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外部リンク

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