尾張国

出典: Wikipedio


Template:Pathnav thumb|300px|尾張国位置図 尾張国(おわりのくに)は、日本のかつての地方行政区分であるの一つで、東海道の西部に位置する。現在の愛知県西部に相当する。尾州(びしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、近国。

目次

沿革

7世紀後半以前は、木簡などから、「尾治国」と表記した。また、先代旧事本紀の天孫本紀の尾張氏の系譜にも、「尾治」とある。

国名については、「開墾した土地」という意味の「大治」「小治」(おはり)が転じたという説や大和国の豪族尾張氏が移住したことに因むという説など複数あり、その由来は現在もはっきりしていない。

鎌倉時代は、海道記によると(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、甚目寺町(萱津)辺りから尾張国であったもよう。

室町時代以降では北隣の美濃国とは木曽川を国境とした。この点で現在の愛知県と岐阜県の県境と同じだが、当時の木曽川は今より北を流れていたため、尾張国は愛知県よりは北に広かった。

木曽川は、豊臣政権時代の天正14年 (1586年) に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。 現在の木曽川は岐阜県羽島郡笠松町付近まで西に流れ、そこから南に流れの向きを変えているが、天正14(1586)年6月24日のいわゆる「天正の大洪水」以前はさらに西に流れ、墨俣(現在の大垣市墨俣町)付近で長良川と合流していた。現在の境川が木曽川の旧流とされている。 「天正の大洪水」によって葉栗郡中島郡が新しい木曽川によって分断され、新流路北岸は美濃国に編入された。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。

歴史

易林本の節用集によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた。

日本神話

日本神話での尾張国は、ヤマト王権の領土としての様子が綴られている。尾張国の代表的神社である熱田神宮は、三種の神器の一つ・草薙剣(天叢雲剣)を祭っていることで有名である。倭姫命伊勢神宮に関わるには尾張国が含まれている。文化的にも尾張は畿内や近江伊勢の影響が強い。

古代から平安時代まで

尾張国で最古の古墳は海部郡佐織町(現愛西市)の奥地社古墳(径25メートルの円墳)とされている。墳頂に奥津神社が所在し、神社所蔵の三面の三角縁神獣鏡椿井大塚山古墳出土の銅鏡と同笵鏡関係にあることが分かった。このことから4世紀前期の古墳であると推定できる。また、北部の犬山市の白山平(標高142メートル)の頂上に築造された前方後円墳の東之宮古墳(墳丘長78メートル、国史跡)が所在し、副葬品の中に11面の銅鏡があり、そのうちに三角縁神獣鏡があった。前者は海部郡を支配する首長墓であり、後者は山麓地帯一帯を束ねる地域首長であったと考えられる。

国造が分立した時代には、尾張氏の勢力圏に属していた。「国造本紀」には尾張国造の小止与(おとよ)命と記す。しかし律令制が敷かれると令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。美濃国と木曽川を挟んで接しており、氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。

また「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からも判るように、大和朝廷の勢力圏の「端っこ・東端」と見なされていた。この「尾張」に類する地名には「熊野」があるが、こちらも発音が「隈の」(奥まった所)に通じている。

7世紀中葉には、国と評(こおり)による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡であった。

戦国時代から安土桃山時代まで

特に戦国時代になると尾張国は、織田信長清洲に本拠地あり)と豊臣秀吉名古屋出身)といった大物武将を出し、織田信長や豊臣秀吉の領土に入った。

この外にも、尾張国出身の武将としては、柴田勝家前田利家池田輝政山内一豊加藤清正福島正則蜂須賀正勝堀尾吉晴浅野長政など、多くを輩出している。

江戸時代

江戸幕府が樹立されると、尾張国からは織田・豊臣の勢力が一掃され、新に尾張徳川家が治める尾張藩の領土となった。尾張藩は62万石の石高を持ち、その城下町(地方王国の首府)たる名古屋は、日本で十指に入る都会となった。尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、その名残で、瀬戸は陶磁器の街になっている。

明治から第二次大戦まで

明治維新中央集権国家が形成されると、名古屋は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。また、鉄道敷設などの近代化政策が進められた頃、尾張一宮織物産業の中心地として栄えた。

第二次大戦後

高度経済成長期には、尾張地方は政府の施策で重化学工業の中心地に指定され、中京工業地帯が造成された。

律令制の行政機関

(国府、守護所、総社、一宮、国分寺)

国府は中島郡にあった。地名を手がかりに、2箇所が候補にあがっている。1つは稲沢市松下及び国府宮(この2つは隣接している)の双方に国衙という小字があり(現在は松下n丁目、国府宮n丁目)、近辺が推定されている。数度の発掘調査が行われているが、木簡や銅印などは出土しているものの、遺構は発見されていない。国府は三宅川の自然堤防にあわせて造られ、ほぼ真北の方位をとっている。また、もう1つは稲沢市下津町に東国府、西国府の小字があり、近辺が推定されているが、発掘調査は行われていない。

易林本の節用集では、海部郡に府と記載があるので、守護所の萱津(海部郡甚目寺町)と思われる。

鎌倉時代守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。

延喜式神名帳には大社8座8社・小社113座の計121座が記載されている。大社8社のうち4社は愛智郡の熱田神社(現 熱田神宮)とその摂社3社である。他の大社は以下のもので、熱田神社も含め、全て名神大社に列している。

一宮一宮市真清田の真清田神社である。1165年の史料に、既に真清田神社が一宮として記載されている。一宮市の大神神社という説もあり、大神神社の社伝では真清田神社・大神神社の両社が相殿として一宮とされたとしている。十六夜日記に、一宮といふやしろ、と記載される。

二宮は大県神社で、1143年の史料に記述があり、一宮もこの頃定まったと考えられる。三宮は名古屋市の熱田神宮である。古代からの大社である熱田神宮が一宮にならなかった理由は、当初、伊勢国における伊勢神宮と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説もある。四宮以下はない。惣社尾張大国霊神社である。

尾張の最古とされる寺院は、一宮市千秋町の長福寺廃寺がある。付近に心礎が残り、軒丸瓦の文様は素弁蓮華文で創建年代は7世紀半ばと推定される。7世紀半ばの尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)や東畑廃寺(稲沢市稲島町)と並ぶ初期寺院であり、豪族主導の寺院が築造されていた。一方で、国家仏教の導入により各地方に波及してきた。 国分僧寺は、最初は現在の稲沢市矢合町椎ノ木に置かれた。伝承に基づいて発掘調査を行った所、塔跡と金堂跡が発見された。元慶八(884)年日本紀略に尾張の本金光明寺に火災があり、そのため、愛知郡の定額願興寺(元興寺)<ref>定額寺とは、官寺に準ずる地位を与えられた地方の豪族の建てた寺をいう。</ref>を国分寺としたとある。その定額願興寺の所在地として、名古屋市中区正木4丁目が比定されている。しかし、土壇や礎石が残っておらず、決め手に欠ける。その後衰退して廃寺になっている事から、その後に国分尼寺が僧寺に転用されたという説もある。中世以降の国分僧寺については不詳。国分尼寺は稲沢市法花寺町と推定されている。法花寺町の法華寺がその名残とする説がある。

守護

鎌倉幕府

室町幕府

尾張守

律令制の郡

  • 知多郡…「ちたぐん」と読む。元は「智多郡」と書いた。
  • 愛知郡…「あいちぐん」と読む。元は「愛智郡」と書いた。
  • 春日井郡…「かすがいぐん」と読む。元は「春部郡(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や西春日井郡など。
  • 丹羽郡…「にわぐん」と読む。
  • 葉栗郡…「はぐりぐん」と読む。
  • 中島郡…「なかしまぐん」と読む。
  • 海東郡…「かいとうぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。明治期に海西郡と統合。
  • 海西郡…「かいせいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。明治期に海東郡と統合。
  • 山田郡…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。

古事類苑では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。

  • 中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼
  • 葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗
  • 海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田
  • 丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小日
  • 愛智郡…中村、千電、日部、大毛、物部、厚田、作良、成海、驛家、神戸
  • 春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸
  • 知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比
  • 山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸

現代の尾張地方

尾張地方のデータ
日本
地方 中部地方東海地方
面積 1,686.53km²
総人口 4,994,773
(2006年11月1日現在)
※尾張国(愛知県西部)全域。

呼称

現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。

  • 尾張国と同じ範囲とする場合。
  • 尾張国の範囲から、名古屋市(県庁所在地)を除く場合。
数的規模などの面から、名古屋市を分けて記述したり、組織編成したりする場合に「名古屋・尾張(名古屋を除く)」などと区分する。
  • 尾張国の範囲から、名古屋市と知多半島を除く場合。
地域性や文化などの面から、「名古屋・尾張・知多」と区分する。
この場合に置いて尾張国を細分化した場合、地域区分は必ずしも一定していないが、区分表記に当たっては、尾張の頭に方角を付けるほか、「尾東」「尾西」「尾北」という表記もある。また、知多半島を「南尾張」とする表記も見られるが、「尾南」という表記は見られない。

地形

交通

現在では、名古屋から東海地方、近畿地方(大阪市など)、関東地方(東京都など)や北陸地方(富山市など)への道路や鉄道の路線が分岐している。

鉄道


道路

有料道路
国道

参考

和文通話表で、「」を送る際に「尾張のヲ」という。

関連項目

脚注

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リンク

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