寝台列車

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寝台列車(しんだいれっしゃ)とは、夜行列車のうち編成内に寝台車を連結して運行されるものを指す。

目次

定義について

画像:JNR Sleeping Limited Express.png
寝台特急のシンボルマーク。寝台急行は、白黒が反転する。

一般的な解釈としては編成内の全車両、もしくはほとんどの車両を寝台車で占める夜行列車を指す場合が多い。かつて多くの寝台列車が走っていた時期においては、日本交通公社発行の『時刻表』において、「寝台車を主体にして、全部の車両が指定制の列車」と定義されていた。これについては1963年7月号までは「寝台専用列車」の表記を用いており、8月号から「寝台列車」を使用していた<ref>日本交通公社『時刻表』各号参照。1963年8月号で56頁増の組み換えが行なわれた際に変更。</ref>。

したがって自由席含む座席車が主体で、編成内に少数の寝台車が含まれる「津軽」などは「寝台列車」ではなかった。

また「寝台特急」は、「寝台列車」のうちの特急列車であり、20系客車以降の固定編成客車による「ブルートレイン」や、583系電車285系電車による寝台電車列車がある。

しかし、近年JR各社の夜行列車の削減による希少性から、座席車が主体の列車でも寝台列車に準ずる扱いとする書籍も見られる。変わり種としては、2008年までにいずれも廃止されたが、北海道内の「まりも」、「オホーツク」、「利尻」の各夜行列車で、気動車で編成された列車に1 - 2両の寝台客車が連結されている例があった。

日本

寝台専用列車以前

かつて大量の寝台車が存在し、"all-Pullman"と呼ばれる寝台専用列車が多数存在したアメリカを例外とすれば、世界各国の鉄道において、長距離を運行する夜行列車は、寝台車と一般座席車の混結編成を組むことが普通であった。これは、優等客と大衆乗客のいずれのニーズにも応じることが目的であった。

日本においてもその例に漏れず、1900年山陽鉄道が日本初の寝台車を運行開始して以来、寝台専用列車というものは長らく存在しなかった。たとえ優等客専用の列車であっても、寝台車と座席車の双方が連結されていたのである。

但し、例外的な存在として、太平洋戦争中まで東京~神戸間を運転していた夜行急行列車1往復には、2等座席車1両の他は、1等・2等寝台車と食堂車のみで編成された時期がある。この列車には長期にわたり、17列車・18列車として列車番号を与えられていた。その為、上流貴顕の乗る列車として、名士列車の俗称で知られたこの列車を、日本最初の「寝台列車」とする考え方もあるが、「1・2等の優等客専用の夜行列車」という性格で、3等寝台車を連結した戦後の「寝台列車」とは、やや方向性が異なる。なお、この列車は戦時中の1943年に廃止されている。

寝台専用列車の出現

戦後1950年代以降、日本国内の鉄道においては全体の輸送量が著しく増大した。

一方で、戦時中の1941年に一時廃止されていた3等寝台車(1960年より2等寝台車、1969年よりB寝台車)が1956年に復活、比較的低廉な運賃で寝台利用が可能になったことで、寝台車そのものへの需要も高まった。

東海道本線全線電化に伴う1956年11月ダイヤ改正では、東京 - 博多特急列車あさかぜ」が新設される。こまかな編成はこちらを参照されたいが、10両編成中に寝台車が5両を占め、当時としては寝台車の比率が高かったが、好成績を収めた。

更に1957年10月からは、東京 - 大阪間夜行急行の「彗星」の組成を変更。14両編成(うち1両は荷物車)中、座席車は最後尾の3等座席指定車1両のみで、残り12両はマロネ40形など2等寝台車とナハネ10形などの3等寝台車が半数ずつであった。この列車は、列車番号が戦前の「名士列車」と謳われた17・18列車と同じであったことから「名士列車の再来」と言われた。この「彗星」を、「(本格的な)寝台専用列車の嚆矢」と見る考え方もある。

1958年には日本初の固定編成客車として20系客車が登場、特急「あさかぜ」に投入された。登場時の詳細な編成はこちらを参照されたいが、13両編成中旅客車は座席車が3両のみで、他はすべて寝台車であった。なお、編成には食堂車・電源荷物車各1両が含まれた。

1959年9月には、常磐線経由の上野 - 青森間夜行急行「北斗」が寝台列車化された。12両編成(うち食堂車1両、荷物車2両)中、2等寝台車2両、3等寝台車6両で、座席車はやはり3等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間を雁行する急行「十和田」を全車座席車編成として救済している。

なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車が連結されていたのは、1950年代より1960年代初頭の寝台車に緩急車がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車の寝台列車化措置は、当初は列車全体の居住性改善や保守・点検の合理化などの目的があったとされる。

寝台専用列車の増加

1956年以降、国鉄の優等旅客列車には電車気動車が盛んに用いられるようになった。

当時の電車・気動車には寝台車が存在せず、夜行列車として運転される場合にも全車一般座席列車とならざるを得ない。そこで寝台需要に対しては、ほとんど寝台車のみで構成された客車寝台特急急行を運行し、一般座席需要については昼行急行用の電車・気動車を夜行列車にも共用、これらを別便の急行列車として雁行させるという手法が採られるようになった。こうすれば、無動力の寝台車だけを新規製造することで輸送力増強が実現できたのである。

この傾向は1961年10月の全国白紙ダイヤ大改正から顕著となった。東海道本線の昼行急行列車が153系電車の大量投入で電車化・大増発され、夜行列車に関しても棲み分けが図られた。

この需要の増大に応じ、1961年から1965年に掛けて旧型客車改造の軽量2等寝台車オハネ17形合計302両が国鉄工場で製造、増備された。それでも不足する分は、戦前の旧3等寝台車であり、戦時中に3等車スハ34形に改造されたスハネ30形ほかを数十両、寝台車に復活改造して充当したほどである。

東海道新幹線の開業で東海道本線の夜行急行列車が衰退した後も、山陽本線東北本線北陸本線等では、寝台急行列車と座席夜行急行列車の雁行が行われた。

寝台専用列車の一般化

20系客車のうち、座席車のほとんどは1964年から1972年までに寝台車へと改造され、20系使用の特急列車は完全な寝台専用列車となった。最後まで残存したナロ20形3両は「あさかぜ」1往復に連結されていたが、1975年に運用を離脱、廃車となった。

しかし、1980年代後半以降の客車寝台特急では、高速バスへの対抗を目的として座席車を1両のみ連結するケースがある。純粋な座席車という点では、「あかつき」・「なは」の「レガートシート」があったが、「あかつき」が2008年3月15日付けで廃止になって以降、該当例は無くなった。ただし「あけぼの」には、寝台車を使用しながら毛布や浴衣を備え付けずに座席車扱いとした、「ゴロンとシート」という車両が連結されている。

ちなみに583系寝台電車の場合は、同車の昼夜兼行使用という特殊な性格により、昼行列車との兼ね合いからリクライニングシートグリーン車を1両連結していることが多く、夜行運転時でも必然的に座席車を連結することになった。

寝台専用列車の衰退

1975年以降は、運賃・各種料金の大幅な値上げに加え、新幹線高速道路網、航空路線など高速交通網の整備が進んだ結果、明らかに安い値段で利用できたり、前日の夕夜間に出発しなくても当日の朝に出発すれば同じ位~逆に早く遠方まで到着できるようになったこと、ターミナル駅前に安価なビジネスホテルが建つようになり寝台に乗るより現地で快適に就寝できることなどの結果、寝台列車を含む夜行列車全体の利用客が減少し、最盛期の1960年代に比べ、利用客は大幅に減少してしまった。


日本以外における寝台専用列車

アメリカ合衆国

19世紀の末から20世紀の中頃にかけてのアメリカ合衆国では、旅客の移動における鉄道輸送の占める割合が非常に高かった。

国土の広さゆえ、数日を要する鉄道旅行は当たり前で、経済水準が比較的高かった事から寝台車への需要も高く、鉄道会社はプルマン社などの寝台車保有会社と提携して、寝台車を連結した旅客列車の運行を盛んに行った。

中でも、需要の高かった東海岸の路線や、シカゴロサンゼルスを結ぶ路線などでは、19世紀の終わりごろから、座席車を連結しないプルマン寝台車のみの旅客列車"all-Pullman"を運行する事が常態化していた。

寝台専用列車として有名な列車としては、ニューヨークとシカゴを結んだ「20世紀特急(The 20th Century Limited)」、「ブロードウェイ特急(Broadway Limited)」、ワシントンとシカゴを結んだ「キャピトル特急(Capitol Limited)」、ニューヨークとニューオーリンズを結んだ「クレセント(Crescent Limited)」、シカゴとロサンゼルスを結んだ「カリフォルニア特急(California Limited)」、「スーパー・チーフ(Super Chief)」などが挙げられる。このうち、いくつかの列車については1930年代以降、全車の個室寝台化も行われた。

第2次大戦後の飛行機の普及はアメリカの旅客輸送に大打撃を与えた。旅客列車は激減し、従来寝台専用列車だった列車にも座席車が連結されるようになった。1967年、最後まで"all-Pullman"として残っていたブロードウェイ特急に座席車が連結され、アメリカから寝台専用列車は消滅した。現在のアムトラックの夜行列車は全て寝台、座席併結列車である。

ヨーロッパ諸国

観光列車を別にすれば、寝台専用列車が盛んに運行された地域として注目すべき地域はヨーロッパである。

ベルギー人のジョルジュ・ナエルマーケス(Georges Nagelmackers 1845 - 1905)が1872年に発足させた国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons-Lits、日本での通称ワゴン・リ社)は、個室寝台車を欧州各国の鉄道で運行して成功を収めた。同社の車両による「オリエント急行(L'Orient-Express)」、「トラン・ブルー(Train Bleu)」といった列車は、寝台車を中心に編成され、豪華で利便性の高い列車として世界的な名声を得た。

現在では、オリエント急行は座席車中心の夜行列車に名前だけを残すのみとなってしまっているが、かつてのトラン・ブルーのルートであるパリと南仏のニースとの間には、寝台専用列車が残っている。また、スペインとヨーロッパ各地を結ぶ、「ホテルトレイン」の一部には寝台専用列車が存在する。

中華人民共和国

中国においても、主要都市間においては寝台車が運行されている。 Template:Main

インド

広大な国土を誇るインドにも寝台専用列車が存在する。インドの鉄道においては貧富の差の問題などもありほとんどの列車に座席車が連結されているが、同時に運転時間が長時間に渡るため寝台車の比重が高くなっている。特にラージダーニー急行(実質はブルートレインに近い寝台特急列車)は全車エアコン付き寝台の豪華列車として知られてきたが、最近はインドにおける中産階級の成長により利用者が急増している。

またインドの急行列車は約20両に及ぶ編成のうち、2~3両の座席車を除いては寝台車ばかりで構成されることが多い。

脚注

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関連項目

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