太宰治

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Template:Infobox 作家 [[ファイル:Shayokan.jpeg|thumb|250px|太宰治記念館 「斜陽館」]]

太宰 治(だざい おさむ、1909年明治42年)6月19日 - 1948年昭和23年)6月13日)は、昭和を代表する日本小説家。本名は津島修治(つしましゅうじ)。

1933年(昭和8年)より小説の発表を始め、1935年(昭和10年)に「逆行」が第1回芥川賞候補となる。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』など。諧謔的、破滅的な作風で、織田作之助坂口安吾石川淳などともに新戯作派、無頼派とも称された。大学時代より自殺未遂、心中未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)玉川上水にて山崎富栄とともに入水した。

目次

経歴

幼年時代

1909年明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧北津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男・津島修治として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(ただし、太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士であった。

津島家の先祖について、1946年(昭和21年)に発表した「苦悩の年鑑」のなかで、「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた 」と書いている。惣助は、売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする伝承もあり、菩提寺南台寺の墓碑でも祖先は対馬姓となっている<ref>金木を歩く 渡部芳紀。この“対馬姓”と刻まれたについて、津島家最後の末裔である津島康一は、「どっからかもってきたんじゃないかな」となにやら意味ありげな“対馬姓”の刻名を信用していない口ぶりで「うちの系図はやばいんですよ」と恥ずかしそうに述べている(鎌田慧著『津軽・斜陽の家 ~太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』81頁)</ref>。

金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。

学生時代

1916年大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。1923年(大正12年)、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学直前の3月、父が死去した。

17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。

1929年昭和4年)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表。 この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。

1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、当時治安維持法にて取り締まれた共産主義活動にのめり込み、授業にはほとんど顔を出さなかった。また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。この頃から太宰は、本名の津島修治に変わって太宰治を名乗るようになる。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍処分を受ける。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中に、カフェ女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。

小説家時代

thumb|250px|甲府市朝日(旧御崎町)の太宰治旧居跡 芥川龍之介を敬愛しつつ1933年(昭和8年)、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年(昭和10年)、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三蒼氓』)。選考委員であった川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。 その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時では、太宰を高く評価していた。第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。第3回では仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っているが、過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定がもうけられ候補にすらならなかった。 1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌1937年(昭和12年)、内縁の妻小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂、一年間筆を絶つ。

1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ3か月逗留。また、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚した。甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表した。戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を継続。1947年(昭和22年)、没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、流行作家となる。

自殺

人間失格』『桜桃』などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)に玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町)で、愛人・山崎富栄(1917-1948)[1]入水自殺を図った(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教ジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。遺書には「小説が書けなくなった」旨が記されていたが、自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もある。既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は、死後に掲載された。杉並区堀ノ内にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。

2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日のことであった。 この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった作家今官一により桜桃忌(おうとうき)と名付けられた。墓のある東京都三鷹市禅林寺には多くの愛好家が訪れる日となっている。

太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事を行っていたが、生地金木には生誕を祝う祭の方がふさわしいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

作家研究

4回の自殺未遂や小説のデカダン的とも言える作風のためか、真に迫った作風を好む作家としてのみ捉える向きもあるが、戦時中は『畜犬談』『お伽草紙』『新釈諸国噺』などユーモアの溢れる作品も残している。深刻な作品のみを挙げて太宰文学を否定した三島由紀夫は、大藪春彦から「それなら君は『お伽草紙』を否定できるか!」と詰め寄られて、一言も言い返せなかったTemplate:要出典。 個人的に太宰と交際があった杉森久英も、永らく太宰文学を好きになれなかったが、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという<ref>杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』</ref>。

長編、短編ともに優れていたが、「満願」等のように僅か原稿用紙数枚で、見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。「女生徒」「きりぎりす」をはじめとして、女性一人称の作品を多く執筆。「なぜ男性なのに、女性の気持ちがここまで判るのか」と、女性作家や女性文芸評論家から賞讃を受けている(ただしこれは、特定の女性の日記が基になっている作品だからであるとの指摘があるTemplate:要出典)。

また坂口安吾織田作之助石川淳と共に「無頼派」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、退廃的な作風を好んだ、と一般に言われている。 しかしながら、太宰自身は退廃的な作品を書きながらも同世代の作家のなかでもっとも「神を求めた人」であった、とする研究・評論も多くあるTemplate:要出典

聖書キリスト教にも強い関心を抱き続けた。そして聖書に関する作品をいくつか残している。その一つが「駈込み訴へ」である。「駈込み訴へ」では、一般的に裏切り者、背反者として認知されるイスカリオテのユダの心の葛藤が描かれている。太宰は、この作品を口述筆記で一気に仕上げた。

1948年(昭和23年)、太宰の死の直前から『太宰治全集』が八雲書店から刊行開始されるが、同社の倒産によって中絶した。その後、創藝社から新しく『太宰治全集』が刊行される。だが、書簡や習作なども完備した本格的な全集は1955年(昭和30年)に筑摩書房から刊行されたものが初めてである。

2009年平成21年)、プランゲ文庫に所蔵された資料から連合国軍占領下に発表した「人魚の海」、「鉄面皮」、「校長三代」、「貨幣」、「黄村先生言行録」、「佳日」、「不審庵」などは連合国軍総司令部検閲によって、削除が指示されていたことが明らかになった<ref>太宰作品にGHQ検閲=「神国」など削除指示-4短編集7作品、米で新資料 時事通信 2009年8月1日</ref>。

略年譜

  • 1909年明治42年)
  • 1916年大正5年)
    • 4月 - 金木第一尋常小学校に入学。
  • 1922年大正11年)
    • 4月 - 金木小学校を卒業し、学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校に一年間通学。
  • 1923年(大正12年)
  • 1925年(大正14年)
    • この頃より作家を志望、級友との同人雑誌等に小説、戯曲、エッセイを発表。
  • 1927年昭和2年)
  • 1928年(昭和3年)
    • 5月 - 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、辻島衆二の筆名で『無間奈落』を発表。
    • 9月 - 四号で廃刊するまでに井伏鱒二舟橋聖一等の寄稿を得る。
  • 1929年昭和4年)
    • 12月 - カルモチン自殺をはかる。
  • 1930年(昭和5年)
    • 3月 - 弘前高等学校を卒業。
    • 4月 - 東京帝国大学仏学科入学。
    • 5月 - 井伏鱒二のもとに出入りするようになる。
    • 11月 - カフェの女給田部シメ子鎌倉小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。
  • 1931年(昭和6年)
  • 1933年(昭和8年)
    • 2月 - 『サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を、「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した。」と、井伏鱒二氏の回想「太宰君」にて記されている。
  • 1934年(昭和9年)
  • 1935年(昭和10年)
    • 3月 - 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。東大を中退。
    • 8月 - 『逆行』が芥川賞候補となったが、次席。佐藤春夫を知り、以後師事する。
  • 1937年(昭和12年)
    • 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを荻窪の碧雲荘の二階炊事場廊下にて小館自身より告白され、初代と心中未遂、離別。
  • 1938年(昭和13年)
  • 1939年(昭和14年)
  • 1941年(昭和16年)
    • 6月 - 長女・園子誕生。
  • 1944年(昭和19年)
    • 8月 - 長男・正樹誕生。
  • 1945年(昭和20年)
    • 4月 - 甲府の石原家に疎開。
    • 7月 - 爆撃のため甲府の石原家も全焼し、妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつく。
  • 1946年(昭和21年)
    • 11月 - 妻子とともに三鷹の自宅に帰る。
  • 1947年(昭和22年)
    • 2月 - 神奈川県下曾我に愛人の太田静子を訪ね、一週間滞在の後、田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に行き、3月上旬までかかって「斜陽」の一、二章を書く。
    • 3月 - 次女・里子(津島佑子)誕生。
    • 6月 - 「斜陽」完成。
    • 11月 - 太田静子との間に女児(太田治子)誕生。
  • 1948年(昭和23年)
  • 1998年平成10年)
  • 1999年(平成11年)
    • 1月1日 - 太宰治の著作権が消滅した<ref>太宰治の著作権が消滅したため、各出版社から太宰治の作品が次々と発行されている</ref>。

作品一覧

  • 晩年(1936年、砂子屋書房)
  • 虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ(1937年、新潮社)
  • 二十世紀旗手(1937年、版画荘)
  • 愛と美について(1939年、竹村書房)
  • 女生徒(1939年、砂子屋書房)
  • 皮膚と心(1940年、竹村書房)
  • 思ひ出(1940年、人文書院)
  • 走れメロス(1940年)
  • 女の決闘(河出書房)
  • 東京八景(1941年、実業之日本社)
  • 新ハムレット(1941年、文藝春秋新社)
  • 千代女(1941年、筑摩書房)
  • 駆込み訴へ(1941年、月曜荘)
  • 風の便り(1942年、利根書房)
  • 老ハイデルベルヒ(1942年、竹村書房)
  • 正義と微笑(1942年、錦城出版社)
  • 女性(1942年、博文館)
  • 富嶽百景(1943年、新潮社)
  • 右大臣実朝(1943年、錦城出版社)
  • 佳日(1944年、肇書房)
  • 津軽(1944年、小山書房)
  • 新釈諸国噺(1945年、生活社)
  • 惜別(1945年、朝日新聞社)
  • お伽草紙(1945年、筑摩書房)
  • パンドラの匣(1946年、河北新報社)
  • 薄明(1946年、新紀元社)
  • 冬の花火(1947年、中央公論社)
  • ヴィヨンの妻(1947年、筑摩書房)
  • 斜陽(1947年、新潮社)
  • 人間失格(1948年、筑摩書房)
  • 桜桃(1948年、実業之日本社)
    • 『太宰治全集』 ちくま文庫全10巻、1989年
    • 新版『太宰治全集』 筑摩書房全13巻、1999年

家族・親族

系譜

津島家
津島家の家系については様々な説があり、明確ではない。
初代惣助は豆腐を売り歩く行商人だったという。
津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、もとの名を勇之助といった。天保6年(1835年)大百姓山中久五郎の次男として生まれ、安政6年(1859年)津島家の婿養子となった。山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。慶応3年(1867年)二代目惣助が他界し、「家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りの行商と金貸しで財を蓄え新興の大地主となった。明治27年(1894年)北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、明治28年(1895年)北津軽郡所得税調査委員選挙に当選、明治30年(1897年)再び郡会の大地主議員となり県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。
   後妻 
    ┣━惣五郎
    ┃
    ┃ ┏惣四郎━いし
惣助━惣助 ┣清助        
    ┣━╋貞助
    ┃ ┣次女
   先妻 ┃
      ┗きさ    (松木氏)
   (山中氏)┃      源右衛門  ┏たま
       惣助 (惣五郎)  ┣━━━╋総一郎
        ┣………╋━━┳たね   ┣とし
       さよ (いし) ┣きゑ   ┣勤三郎
               ┗竹次郎  ┣文治━━康一
                     ┣英治━━一雄━━恭一
                     ┣圭治
                     ┣あい          雄二(上野氏)
                     ┣きよう        ┣淳
                     ┣修治(太宰治)━┳園子
                     ┗礼治          ┣里子(佑子)
                                  ┣正樹
                                  ┗太田治子
                   
松木家(父源右衛門の実家)
木造の松木家は、金木の津島家や、三代目惣助が出た嘉瀬の山中家よりもはるかに格式の高い旧家である。藩政時代には苗字帯刀を許された郷士だった。
『松木家由緒書』などによると、先祖は若狭国小浜(現・福井県)の商人で、万治年間(1658-60年)に弘前にやってきて、羽二重の商いをしていた。寛文年間(1661-72年)津軽藩の新田開発が始まると木造に移り住み、開墾の功を認められ大庄屋郷士になった。明治に入って、八代目七右衛門の時代に、薬種問屋屋号松樹堂)に転業するまで、代々造り酒屋を営んでいた。
七右衛門 ┏幹三郎
 ┣━━━╋省三郎
ひさ   ┣忠三郎
     ┣永三郎(後の津島源右衛門)━━━━━━━修治(太宰治)  
     ┣もと
     ┣友三郎(源右衛門の妻たねの妹きゑと結婚)
     ┣禄郎
     ┣いま
     ┗たま

関連人物

  • 浅見淵(あさみ・ふかし) - 太宰の先輩作家。砂子屋書房から処女創作集『晩年』を刊行するにあたっては、浅見と檀一雄の尽力が大きかった。
  • 阿部合成(あべ・ごうせい) - 太宰の中学の同級生で親友。画家。
  • 池田正憲 - 太宰の弟子。作家。
  • 石川淳 (いしかわ・じゅん)-戦後、太宰・坂口安吾織田作之助と共にいわゆる無頼派の騎手とされた文学者。太宰とは昭和14年頃以来4度ほど酒席を共にした。太宰の死に際し「太宰治昇天」と題した文章を発表(『新潮』第45巻第7号、1948年7月)。
  • 石沢深美 - 太宰の弟子。NHK勤務。兄嫁の弟は堤重久。
  • 石上玄一郎(いしがみ・げんいちろう) - 本名上田重彦。旧制弘前高校時代の太宰の友人で、左翼運動の同志。石上は運動にのめりこんで放校になり、塗炭の苦しみを嘗めたが、太宰は実家の威勢などを背景に放校を免れた。のち東京に出て貧乏に苦しんでいたとき太宰に借金を踏み倒され、そのことを自伝の中で怨念をこめて語っている。
  • 出英利(いで・ひでとし) - 太宰の年少の友人。哲学者出隆の次男。人柄を太宰に愛されていた。のち鉄道自殺。
  • 井伏鱒二 - 太宰の師。太宰自身の言によれば、太宰がまだ青森の中学生だったころ、井伏の『山椒魚』を読んでその天才に興奮した。大学上京後から師事し、結婚の仲人も井伏に務めてもらった。戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執にはさまざまな説があるが、本当のところは分かっていない。
  • 伊馬春部 - 別名伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として「畜犬談」を捧げられた。折口信夫に太宰作品を勧めたのも伊馬である。太宰嫌いで有名な三島由紀夫は目黒時代伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。
  • 大高正博 - 太宰の弟子。
  • 小野才八郎 - 太宰の弟子。
  • 桂英澄 - 太宰の弟子。洋画家・桂ゆきの弟。
  • 亀井勝一郎 - 太宰の友人。
  • 賀陽治憲 - 賀陽宮恒憲王の第二王子で、皇籍離脱後に外交官。1947年10月14日付の『時事新報』で「太宰治の”斜陽”はちょっと身につまされておもしろいですね」と発言。太宰は「如是我聞」で「或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた」と言及している。
  • 川端康成 - 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者(太宰)目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と批評したため、太宰は「川端康成へ」と題する短文を書いて抗議。川端は「太宰治氏へ芥川賞について」という釈明の短文を発表し、己の不遜を詫びた。
  • 菊田義孝 - 太宰の弟子。
  • 小館善四郎 - 太宰の親類。画学生時代に小山初代と過ちを犯す。のち洋画家となる。
  • 小山清 - 太宰の弟子。
  • 小山祐士 - 太宰の友人。劇作家。
  • 今官一 - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇「善蔵を思う」には「甲野嘉一君」として登場する。
  • 坂口安吾 - 太宰の友人。太宰の死をめぐって「不良少年とキリスト」「太宰治情死考」等を書く。
  • 佐藤春夫 - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。けっきょく太宰が落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説「芥川賞」を書き、太宰の非常識な行動を暴露し報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという。
  • 志賀直哉 - 長篇小説『津軽』で太宰から批判(名指しではないが)を受けたのを根に持ち、雑誌の座談会で中村眞一郎佐々木基一を相手にして太宰を酷評。旧制学習院出身で貴族社会をよく知る志賀から、『斜陽』に登場する貴族の娘の言葉遣いが山出しの女中のようで閉口した、もう少し真面目にやったらよかろう云々とこき下ろされたことに逆上した太宰は、最晩年の連載評論「如是我聞」で志賀に反撃した。当時、文士が志賀直哉に逆らうということは事実上の文壇追放を意味していたと言われる。太宰の死後、1948年8月15日、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」と『津軽』の件で太宰に腹を立てていたことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。
  • 杉森久英 - 編集者時代に太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、遥か年下と勘違いした太宰が画集を出してミケランジェロの偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っているよと反感を持ったという。戦後には、たまたま「如是我聞」事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。
  • 田中英光 - 小説家。太宰の弟子。元オリンピック選手。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で自殺。
  • 檀一雄 - 小説家。太宰の親友。走れメロスは檀とのエピソードがモデルになっている。
  • 土屋嘉男 - 俳優。井伏鱒二の紹介により知り合う。太宰から芝居の道へ進むよう進言され、俳優となった。
  • 堤重久 - 太宰が最も信頼していた弟子。のち京都産業大学名誉教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
  • 堤康久 - 堤重久の弟で、少年時代の日記から『正義と微笑』の題材を提供した。のち俳優となり、『ウルトラQ』『ウルトラマン』などに出演した。
  • 津村信夫 - 太宰の友人。同時代の詩人の中では、津村の詩を太宰は誰よりも高く評価していた。
  • 寺内寿太郎 - 彼の遺書の1節が短篇「二十世紀旗手」の冒頭のエピグラフに引用される。
  • 戸石泰一 - 太宰の弟子。吉野作造の甥
  • 豊島与志雄 - 太宰の先輩作家。太宰の死後、葬儀委員長を務めた。
  • 中井英夫 - 東大在学中、第14次『新思潮』の編集に関連して太宰と交際。あるとき、訪問先の太宰を「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その一ヵ月後に自殺した。
  • 中野嘉一 - 太宰の主治医で詩人。太宰をサイコパスと診断した。「善蔵を思う」の甲野嘉一は名前をもじったもの。
  • 中谷孝雄 - 太宰の友人で日本浪曼派の中心人物。
  • 中野好夫 - 東大英文科教授。短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論「如是我聞」のなかで「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の死後、『文藝1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」のなかで「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と太宰の人生を指弾した。
  • 中原中也 - 『青い花』の同人仲間。太宰に「お前は何の花が好きなんだい」と訊いたとき、太宰が泣き出しそうな顔で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「だからお前は駄目なんだ」とこき下ろした。太宰の側でも中也の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対してナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。
  • 中村地平 - 井伏門下で、太宰の兄弟弟子。
  • 中村貞次郎 - 太宰の中学の同級生で親友。「津軽」のN君。蟹田町議会議員。
  • 野口冨士男 - 『文芸時代』の同人。日本文藝家協会書記局嘱託として葬儀で弔辞を読む。
  • 野原一夫 - 新潮社の担当編集者。『回想太宰治』等を書く。
  • 野平健一 - 新潮社の担当編集者。『週刊新潮』二代目編集長。『矢来町半世紀 太宰さん三島さんのこと、その他』を書く。
  • 林聖子 - 画家・林倭衛と秋田富子の娘。新潮社筑摩書房の編集者の後、文壇バー「風紋」経営。「メリイクリスマス」のシズエ子のモデル。
  • 林忠彦 - 写真家。太宰が行きつけだった銀座のバーで織田作之助を撮影していたところ、泥酔の太宰が「おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ!」と言って撮影させた。この写真は林の代表作の一つとなっており、現在も飾ってある。
  • 平岡敏男 - 弘前高校時代の友人。のち毎日新聞社社長となる。
  • 深田久弥 - 太宰の先輩作家。妻の北畠八穂が太宰と同郷だった縁がある。太宰は都新聞の入社試験に落ちて鎌倉で縊死を企てた時、深田の作風を慕って深田家を訪ねている。ただし当時の深田の代表作はほとんどが北畠の作品の焼き直しだったことが戦後に露見した。 
  • 鰭崎潤 - 太宰の友人で画家。太宰は鰭崎のアトリエを訪れて、自画像や静物画を描いたことがある。
  • 別所直樹 - 太宰の弟子。
  • 星新一 - 作家。学生時代、太宰のパビナール中毒期の作品に傾倒。「こういった百年に一人の才能に、まともに挑戦するのはむりというものだ。私は自己の文体を乾いた空気のごとく透明にするようつとめ、物語の構成にもっぱら力をそそいでいる。太宰と逆の方向へ走らねばと、気が気でない。」と後に記している。
  • 三島由紀夫 - 大学時代、周囲の太宰熱に誘われて『斜陽』を読んだが、この作品に登場する架空の貴族の言動があまりに現実の日本の貴族とかけ離れていることに旧制学習院出身者として大きな違和感を持った。「虚構の彷徨」「ダス・ゲマイネ」なども読んだが、やはり悪印象を持った。その後、矢代静一に連れられて太宰を囲む会に出席したとき「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と放言した。三島によると、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというが、その場に居合わせた野原一夫によると「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。三島は、その後も約20年間にわたって繰り返し太宰に生理的嫌悪を表明し続けた。「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」。田中英光の死についても「弱者(太宰)が強者(田中)をいじめ殺した」と揶揄的に述べていた。
  • 棟方志功 - 太宰の同郷人。美術に対して鋭い感覚を持っていた太宰は、早くも旧制中学のころ、無名時代の棟方の作品を高く評価してこれを購入し、下宿先の主人に寄贈したことがある(「青森」)。太宰が作家になってからは、同郷人の寄り合いで同席した太宰の挨拶が小さいので「もう、いっぺん!」と要求し、太宰から怒鳴られたことがある(「善蔵を思う」)。
  • 森鴎外 - 太宰は、「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり、三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓石と向き合う所(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆による。
  • 保田與重郎 - 太宰の友人。『日本浪漫派』同人。
  • 山岸外史 - 東京出身の評論家で、太宰の親友。1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、『青い花』や日本浪漫派の同人として交友を深めた。自身も『人間キリスト記』などの著作により太宰の文学に影響を与えたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となった。しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と涙を流されたことなど、その複雑な交友の実態を回想録『人間太宰治』(1962年(昭和37年))、『太宰治おぼえがき』(1963年(昭和38年))のなかで明らかにしている。
  • 吉本隆明 - 評論家。学生時代に「春の枯葉」の上演許可を得るため太宰の元を訪れ言葉を交す。後に太宰治論執筆。

脚注

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参考文献

太宰の伝記

その他

長篠康一郎編、女性文庫・学陽書房 1995年

太宰治(に相当する人物)を演じた俳優

関連項目

以下3作は、太宰をモデルとした人物が登場する。

外部リンク

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