天皇の一覧
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天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。
目次 |
概要
歴代天皇は、初代・神武天皇から第125代・今上天皇まで、125代が挙げられる。この125代のうち、第35代・皇極天皇と第37代・斉明天皇、第46代・孝謙天皇と第48代・称徳天皇は、それぞれ重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと。再祚)であるため、総数は123人となっている。
ただし、南北朝時代に、北朝(京都)で即位した天皇(光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、及び後円融天皇の5代、5人)は、この125代の天皇には数えられないものの、皇室祭祀等においては天皇と扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は128人とされることもある。
なお、「天皇」(てんのう、すめらみこと、すめろき)という呼称については、7世紀後半に在位した第40代・天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。
初期天皇の実在性
初代・神武天皇から十数代の初期天皇の実在性については、諸説ある。現代の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であり、科学的・合理的見地からは、その実在性が疑問視されている。
第15代・応神天皇以降を実在確実とする説
科学的な歴史学が大きく発展した第二次世界大戦後、実在したことが確かであるとされた最古の天皇は、3世紀後半から4世紀初めにかけて在位したとされる第15代・応神天皇である。また、第10代・崇神天皇から第14代・仲哀天皇までは、実在説と非実在説があり<ref>初代・神武天皇の事跡は、第10代・崇神天皇を事実上の初代と考えて崇神天皇と一体と捉える見方もある。</ref>、初代・神武天皇から第9代・開化天皇までは、非実在説が有力であった。なお、第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までは、『日本書紀』に『旧辞』的記述(事績等に関する記述)がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる。
これらの見方によれば、初代・神武天皇、第10代・崇神天皇、第15代・応神天皇が特に研究対象として重視された<ref>歴代天皇の諡号・追号に「神」の字を用いるのは、この3代3人のみである点も注目される。</ref>。
第26代・継体天皇以降を実在確実とする説
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されている。このため、6世紀前半に在位したとされる第26代・継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、第21代・雄略天皇を別として、実在の可能性が薄いという見解がある。この見解によれば、第22代・清寧天皇、第23代・顕宗天皇、第24代・仁賢天皇、第25代・武烈天皇も実在せず、創作されたとされる。
雄略天皇に関しては埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解しその証とする説が有力である。この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇である。
なお、『古事記』に事績が記されていない第24代・仁賢天皇から第33代・推古天皇までの天皇を指す「欠史十代」も参照のこと。
考古学と初期天皇の実在性
天皇(大王)を中心とした政治勢力であるヤマト王権(大和王朝、大和朝廷)の発祥地については、出雲(島根県)、吉備(岡山県)、あるいは九州など、諸説あるも不明である。しかし、このヤマト王権が、奈良盆地の東南部、現在の奈良県桜井市にある三輪山近くの大和(あるいは柳本)に本拠地を置いたとき、大きく発展したことは確からしいとされる。この本拠地は、古代都市と言ってよい規模で、纏向遺跡(まきむくいせき)はその遺構と推定される。遺跡の調査結果から、この古代都市は3世紀前半に建設され始め、4世紀末には使われなくなったと考えられている。
その後の420年頃から480年頃までが、倭の五王の時代である。この時代から、510年頃までに、6・7人の在位期間の短い王が次々と立ち、ヤマト王権は混乱した。そして、最終的に6世紀前半に継体天皇が立って王権は安定し、この時代に王権の力は強くなった。そのため、継体天皇以降の系譜はほぼ正確である。
このように、天皇の系図は、初期に相克したいくつかの古代王朝の伝説を繋ぎ合わせており、実質的には、『古事記』・『日本書紀』が編纂された8世紀初めに最も強い勢力を持った藤原氏の意向を反映した作品であるとする説もある。継体天皇はその前の武烈天皇の王朝に連続するものではないとする王朝交替説などの見解は、このような説から導かれるものである。しかしながら継体天皇は武烈天皇の姉(妹)を皇后に迎え、その間に生まれた欽明天皇が現在の天皇家の祖である事から、女系で繋がっているのはほぼ確実とされる。
歴代天皇の確定
歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は125代、123人。」という現在の歴代天皇の形が確定している。
歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、Template:和暦には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。
歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、史実としての正確性はともかく、歴代天皇は確定された。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。
- 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。
- 初代・神武天皇から第62代・村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・冷泉天皇から第118代・後桃園天皇までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代・光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された<ref>なお、第111代「後西院」を「後西天皇」と改めた点に関しては異論が出されている。すなわち、「西院」は地名であって、院号ではないことから、機械的に「院」を省くのは誤りではないかとする。現在も京都市中京区に西院という地名が残る。第53代・淳和天皇が譲位後にこの地に住んだため、同天皇の異称が「西院」とされ、「後西院」はその加後号である。</ref>。
- 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされ、明治3年に「弘文天皇」の諡号を追贈した。現在では非即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたい。
- 第47代「淡路廃帝」に対しては、明治3年に「淳仁天皇」の諡号を追贈した。
- 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、明治3年に「仲恭天皇」の諡号を追贈した。
- Template:和暦には明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、従来の第96代・光厳天皇から第100代・後円融天皇までの5代5人を北朝として正統から外した。また、後小松天皇の在位期間を、Template:和暦の南北朝合一以後のみとした。これも、『大日本史』が採った立場に基づくものである。
- 南朝の義良親王は天皇とされていなかったが、「後村上天皇」とした。
- 南朝の熙成親王は天皇とされていなかったが、「後亀山天皇」とした<ref>なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、Template:和暦に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、北朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、後高倉院の先例に倣った尊称天皇として扱われていた。</ref>。
- Template:和暦には大正天皇(実質は摂政の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝の寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位が確認されたとされ、天皇としたものである。
歴代天皇の一覧
- 凡例
- この表は、大正時代に歴代天皇として確定され、現在広く知られている歴代天皇の一覧である。宮内庁のサイトに掲載される天皇一覧と同一である。
- 新暦が施行されたTemplate:和暦1月1日以前の日付については、各時代に用いられた旧暦の日付である。
- 6世紀以前の天皇の実在および事績については疑問が残されているが、ここでは『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代を記載する。特にその前半部については史実とはいえない。
- 在位の欄には、第50代・桓武天皇以前の天皇については即位の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って践祚した第51代・平城天皇以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。
記録
在位期間の長い天皇
- ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。
- 昭和天皇(第124代): 22660日(62年)
- 明治天皇(第122代): 16604日(45年6ヶ月)
- 光格天皇(第119代): 13641日(37年4ヶ月)
- 後土御門天皇(第103代): 13211日(36年2ヶ月)
- 後花園天皇(第102代): 13133日(35年11ヶ月)
在位期間の短い天皇
- 仲恭天皇(第85代): 78日(2ヶ月)
- 弘文天皇(第39代): 226日(7ヶ月)
- 用明天皇(第31代): 596日(1年7ヶ月)
- 光嚴天皇(北朝1代): 625日(1年8ヶ月)
- 花山天皇(第65代): 677日(1年10ヶ月)
高齢で即位(践祚)した天皇
- ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。
年少で即位(践祚)した天皇
- 六條天皇(第79代): 7ヶ月(2歳)
- 安德天皇(第81代): 1歳4ヶ月(3歳)
- 四條天皇(第87代): 1歳7ヶ月(2歳)
- 土御門天皇(第83代): 2歳1ヶ月(4歳)
- 仲恭天皇(第85代): 2歳6ヶ月(4歳)
長寿の天皇
- 昭和天皇(第124代): 87歳8ヶ月
- 後水尾天皇(第108代): 84歳2ヶ月(85歳)
- 陽成天皇(第57代): 80歳9ヶ月(82歳)
- 靈元天皇(第112代): 78歳2ヶ月(79歳)
- 白河天皇(第72代): 76歳(77歳)
短命の天皇
- 崩御時の満年齢。括弧内は数え年。
- 安德天皇(第81代): 6歳4ヶ月(8歳)
- 四條天皇(第87代): 10歳10ヶ月(12歳)
- 六條天皇(第79代): 11歳7ヶ月(13歳)
- 仲恭天皇(第85代): 15歳7ヶ月(17歳)
- 近衞天皇(第76代): 16歳2ヶ月(17歳)
歴代天皇以外の関連人物一覧
追尊天皇の一覧
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
- 岡宮天皇 - 草壁皇子。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
- 崇道尽敬皇帝 - 舎人親王。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。
- 春日宮天皇 - 施基皇子。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
- 崇道天皇 - 早良親王。50代桓武天皇の弟で廃太子(785年没)。800年、「崇道天皇」の尊号を受ける。
- 陽光院太上天皇 - 誠仁親王。106代正親町天皇の東宮。即位前に死去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。
- 慶光天皇 - 閑院宮典仁親王。119代光格天皇の父。1884年、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。→尊号一件
皇位に就かなかった太上天皇の一覧
- 後高倉院 - 守貞親王。86代後堀河天皇の父。皇位を経ずして太上法皇となり院政を執る。皇統譜では「後高倉天皇」。
- 後崇光院 - 伏見宮貞成親王。102代後花園天皇の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。
一説に天皇とされる者の一覧
- 日本武尊 - 14代仲哀天皇の父。『風土記』において「倭武天皇」と記す例がある。
- 神功皇后 - 14代仲哀天皇の后で15代応神天皇の母。江戸時代までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。
- 菟道稚郎子 - 15代応神天皇皇太子。『播磨国風土記』に「宇治天皇」とある。
- 市辺押磐皇子 - 17代履中天皇皇子。23代顕宗天皇の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。
- 飯豊青皇女 - 履中天皇の娘(異説あり)。22代清寧天皇の死後、23代顕宗天皇・24代仁賢天皇が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『扶桑略記』などに「飯豊天皇」とある。
天皇に準ずる立場にあった者の一覧
- 蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿 - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は親王に準じた扱いを受けた。
- 聖徳太子 - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『隋書』に記述された俀王多利思比孤は聖徳太子を指すとする説もある。
- 間人皇女 - 34代舒明天皇の皇女、36代孝徳天皇の皇后。37代斉明天皇の死後、38代天智天皇即位までの間即位していたとする説がある。『万葉集』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。
- 敦明親王(小一条院) - 67代三条天皇皇子。1016年、東宮。翌年東宮を退くも、院号宣下を受け太上天皇に准ずる。
天皇またはそれに准ずる立場を称した者・擁立された者の一覧
- 塩焼王 - 天武天皇の孫で、新田部親王の子。天平宝字8年(764年)、恵美押勝の乱で、恵美押勝から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に恵美押勝軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。
- 平将門 - 桓武天皇5世孫。940年、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。
- 恒良親王 - 96代後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、南朝の成立により無意味となる。
- 懐良親王 - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、明から倭寇の取り締まりを求められ「日本国王」の冊封を受ける。
- 足利義満 - 室町幕府3代将軍。准三宮(上皇に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、明より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが幕府はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
- 金蔵主(中興天皇) - 後南朝の初代天皇とされる。99代後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊義。嘉吉3年10月に即位したという。吉野北山に崩御(※ただしこのことは同時代史料では確認できず、後世の付会である。小倉宮「実仁」なる人物も、101代称光天皇の実名と混同したもので、実際には存在しない)。
- 自天王(尊秀王) - 後南朝の2代天皇。後亀山天皇の曾孫、中興天皇の一宮。諱は尊秀。奥吉野川上にて即位。長禄元年12月、赤松氏の遺臣により暗殺される(※長禄の変で南朝の宮と称する兄弟が討たれたのは事実だが、系譜、実名ともに不明であり、ここに書いてあることは後世史料によるもので、信ずるに足りない。但し南帝を称した事は確かである)。
- 南天皇 - 後南朝の3代天皇。後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊雅。長禄2年8月、赤松家の遺臣により斬られ、その傷が元で熊野の光福寺にて崩ず(※これもまた後世の伝説によるもので、同時代史料とはあわず、史実ではない)。
- 西陣南帝 - 応仁の乱の際、山名宗全により擁立された南朝皇胤。名は不明。
- 北白川宮能久親王 - 日光輪王寺門跡時代の1868年、奥羽越列藩同盟により「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある<ref>ニューヨーク・タイムズ 1968年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある</ref>。
天皇だと自称した人物の一覧
この節の参考文献は、下記の通り<ref>『天皇家歴史大辞典』(別冊歴史読本、新人物往来社、2000年)211頁以下、保阪正康『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001年)14頁以下。</ref>。
- 伊藤天皇 - 伊藤清作、後南朝潜伏の地、奈良県吉野郡川上村出身。京都市で木材会社を経営。尚尊王の末裔を主張。
- 上村天皇 - 上村某。福岡県で、97代後村上天皇の末裔を主張。
- 葛尾天皇 - 松本忠致、福島県双葉郡葛尾村で、98代長慶天皇の直系子孫を主張。この地には、西陣南帝が応仁の乱後に潜伏していたとし、後南朝の伝承が多く残されている。
- 工藤天皇 - 工藤智久、1973年に「智宮久仁親王」を自称し、明治天皇の曾孫を主張した。祖父が明治天皇の1878年の上田市行幸時の落胤であると称しマスコミの好餌となった。
- 熊沢天皇 - 現在までに4人が熊沢天皇を称した。
- 池端天皇 - 熊沢常光(常春)。護良親王の子の治広王の末裔と称し、元尾張藩藩士の家柄で、瀬部熊沢家の当主という。名古屋市にて、熊沢家本家を主張するが、まもなく没した。
- 国憲天皇 - 熊本県の農民。襤褸を身に纏い、常に手に数珠を弄っていたという。
- 酒本天皇 - 酒本正道。岡山県で、96代後亀山天皇の後裔を主張。
- 佐渡天皇 - 新潟県佐渡島の人か。順徳天皇の末裔を主張。
- 佐藤天皇 - 佐藤英壱郎。1948年頃岡山県和気郡で、88代高倉天皇の第一皇子の直系を主張。元憲兵で、剣道五段、柔道五段、弓道二段、空手初段だったらしい。
- 璽光尊 - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そしてダグラス・マッカーサーに自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に遷都し、私造紙幣をも発行した新興宗教の教祖。
- 外村天皇 - 外村光陽。ブローカー。1946年名古屋市の繁華街で、96代後醍醐天皇の末流を主張し、名古屋行幸に来た昭和天皇を偽物と断じたが、郡衆に袋叩きに遭った。衆議院議員総選挙に立候補もしている。
- 竹村天皇 - 竹村稔。静岡県浜松市で、農業を営む。大覚寺統の末裔を戦前から主張。1930年代後半に、元宮内大臣一木喜徳郎を始め内大臣等に「我こそ天皇である」と手紙を出し続けた所、一木に「いい加減にしろ」と一喝されたという。
- 田宮天皇 - 田宮仙海。京都市で、96代後醍醐天皇の末流を主張。
- 長田天皇 - 長田某。愛知県で、98代長慶天皇の子孫を主張。自分が、南朝35代目の天皇と名乗った。
- 長浜天皇 - 現在までに2人が長浜天皇を称した。
- 法の天皇 - 熊本県の人。81代安徳天皇の末裔を主張。印半纏の襟に「法天皇」と染め抜いたものをいつも着ていたという。
- 三浦天皇 - 三浦芳聖。愛知県豊川市で、98代長慶天皇の末裔で後醍醐天皇の皇子・尊良親王の生まれ変わりだと主張。「神風串呂」なる神道霊学を立ち上げ、「天皇は狸に祟られている」と吹聴した。
- 安川天皇 - 安川守(仮名という)。京都市で、112代霊元天皇の末裔を主張。
- 横倉天皇 - 1940年代後半に高知県吾川郡で81代安徳天皇の末裔を主張。
脚注
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関連項目
外部リンク
- 宮内庁>天皇陵 - 歴代天皇の天皇陵、および歴代天皇に関する情報の一覧
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