大阪近鉄バファローズ

出典: Wikipedio


Template:出典の明記 Template:野球チーム Template:基礎情報 会社 大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに加盟していた。

大阪府保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム専用球場(本拠地)としていた。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は、かつて府内藤井寺市にあった近鉄藤井寺球場であった。

球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。

1999年3月までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)であった。

2004年、球団及び近鉄グループの経営難から、オリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。オリックス・バファローズの球団史においては、大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。

また、1944年6月から1947年5月まで、南海電気鉄道大阪電気軌道(関西急行電気軌道とも)の統合によって設立された近鉄が運営していた「近畿日本軍(1944年・1945年)→近畿日本グレートリング(1946年・1947年途中まで)」とはバファローズとの関連はなく、現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。

合併までの経緯、詳細についてはプロ野球再編問題を参照

球団消滅となる2004年まで現存していた12球団中で唯一日本一がない球団であった。2004年に消滅したことで、半世紀以上存続した日本のプロ野球チームとしては唯一日本シリーズ優勝を果たせぬまま、55年の歴史に幕を閉じた。

目次

球団の歴史

黎明期

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス・最下位の近鉄は「チカ鉄(近をチカと読ませ、地下鉄に掛けたもの。つまり地下に潜りっぱなしの低迷という意味)」「パ・リーグのお荷物」などと揶揄された。

1949年近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社近鉄興業が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電気鉄道)合併当時の1944年-1947年(近畿日本軍→グレートリング、現福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現 近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐に依れば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パ・リーグ)に加盟<ref>2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる(鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、P308)。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。</ref>。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かった為、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明東急)、森下重好田川豊(いずれも大陽)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。

1950年3月12日、藤井寺球場の毎日オリオンズ戦でチ-ム開幕戦を行うが、2-6で敗戦。翌13日の南海戦で沢藤光郎が粘投し4-3でチーム初勝利をおさめる。この年沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるものの、首位から37.5ゲーム離された最下位に終わる。1951年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位と0.5ゲーム差の最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。1952年は8月に13連敗を喫し、3割に満たない勝率で最下位に終わる。シーズン終了後、藤田が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 1953年は開幕直後には9連勝するなど、5月8日、一時期ながら首位に立つ。夏場以降失速し、最下位に終わるが勝率は初めて4割を超える。

1954年8月7日高橋ユニオンズ戦で山下登が近鉄選手で初めてノーヒットノーランを達成(スコアは4-0)。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄最多勝鈴木武盗塁王を獲得する。この年初めて最下位を脱出する(8球団中4位)。 1955年6月19日には武智(田中から改姓)が大阪球場での大映ユニオンズ戦でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。1957年6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄(翌年、久幸に改名)が代行を務め、オフに監督就任。1958年は不振が続き、開幕序盤6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、球団史上ワースト記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マークが制作される。

1959年は5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。前年と合わせ8人の選手が巨人から移籍するなど、チームの大幅な入れ替えをはかる。なおシーズン途中の6月20日に千葉監督が途中休養、林義一コーチが代行監督となるが、オフに千葉が監督復帰する。1961年、シーズン最多記録となる103敗を喫した(現在でも、その記録は更新されていない)。シーズン終了後、千葉が監督を辞任し、別当薫が就任。

1962年、チーム名を近鉄バファローズに改名。ブルームが.374の高打率で首位打者を、久保征弘最多勝を獲得するも5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。1963年は5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年の球宴には7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく(後のような「貧打」の意味ではない)。翌1964年、この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。シーズン終了後、別当が監督を辞任、岩本義行が就任。1965年、このオフ鈴木啓示が入団する。1966年 シーズン終了後、岩本が監督を辞任、小玉明利が就任。1967年 4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社を設立し、近鉄興業から経営を移管。シーズン終了後、小玉が監督を辞任し、三原脩が就任。三原は近鉄史上初めて他球団で監督として優勝経験を持ち、その手腕が期待された。

1969年、10月まで首位を保つ。阪急との直接対決4試合(西宮球場2試合、藤井寺球場2試合)のみを残して2厘差で首位、4試合を2勝で優勝となり、2勝1分が条件の阪急よりも有利な状況だった。しかし、10月18日の西宮でのダブルヘッダーに連敗、10月19日の藤井寺の試合にも敗れて阪急の優勝が決まり、2位に終わった(魔術師三原の10.19)。この年のドラフトで甲子園のアイドル太田幸司を獲得する。1970年10月6日南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、岩本尭が就任。1973年、この年2軍がウエスタンリーグ初制覇。シーズン終了後、岩本が監督を辞任し、阪急の監督を退任したばかりの西本幸雄が就任した。

初優勝、熱パ

画像:Fujiidera1.jpg
藤井寺球場(1軍は当初1983年までは準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。2軍は創設当初から本拠地だった)
画像:Nissei Stadium2.jpg
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
画像:大阪ドーム050906.jpg
1997-2004年の本拠・大阪ドーム

西本幸雄監督の元、リーグ初優勝をとげ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬監督の就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、野茂英雄へのブームもあいまって、「熱パの象徴」と呼ばれるようになった。

1974年、チームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードする。西本は若手選手を鍛えてチーム力の強化を図った。1975年には初めて優勝(ペナント2期制度での後期優勝)となるが、プレーオフで阪急に敗れる。1977年4月26日、ロッテ戦で鈴木啓示が200勝達成、近鉄入団の生え抜き選手としては結果的に唯一の名球会入り選手となった。

1978年9月23日の後期シーズン最終戦は、阪急との半期優勝をかけた直接対決となった。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。先発投手は鈴木啓示-山田久志というエース対決。しかし近鉄は敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決めた(藤井寺決戦)。翌1979年6月26日、前期シーズンの最終戦で引き分けて、半期優勝。選手育成が実を結び、後期優勝の阪急とのプレーオフでも優勝。西本幸雄監督の下で球団創設29年にして初のリーグ優勝を遂げる。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、1死満塁の逆転サヨナラ勝ちの好機をつかむが、広島の江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退する。このイニングの場面はのちに山際淳司が「江夏の21球」として描き、名勝負として語り継がれるようになった。

1980年、反発力を高めた「飛ぶボール」の効果もあり、日本記録(当時)となるシーズンチーム本塁打239本を記録(但し被本塁打は251本)し、リーグ2連覇を成し遂げた。シーズン優勝は後期シーズンで、最後の3節で5位から巻き返し、日本ハムにM1が点灯した所を最終戦で逆転優勝するという苦しいものであった。ロッテとのプレーオフは3勝0敗のストレートで勝ち、日本シリーズでは前年に引き続き広島と対戦するが、この年も3勝4敗で日本一に輝くことは出来なかった。1981年は最下位に終わりシーズン終了後、西本幸雄が監督を辞任し、関口清治が就任。

1983年、シーズン終了後、関口清治が監督辞任、岡本伊三美が監督就任。1984年5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、翌 1985年7月10日鈴木は現役引退を表明する。1986年、後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する壮絶な展開に。しかし最後に力尽き、129試合目(残り1試合)で優勝を逃す。1987年、前年ドラフト1位で獲得した阿波野秀幸が15勝を挙げ、新人王を獲得する活躍をみせるもののチームは最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。

1988年 前年までリーグ3連覇中の西武と最後まで優勝争いを繰り広げることとなった。6月7日、主砲だったリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され、解雇となる。そのため6月28日、急遽中日ドラゴンズからラルフ・ブライアントを金銭トレードで獲得、74試合の出場ながら34本塁打するなど大活躍をした。10月まで西武が首位、それを追う近鉄という展開となり、9月以降近鉄が西武以上に勝ち進み、10月16日西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合を3勝すれば優勝だったが、17日の阪急戦で敗戦、18日のロッテ戦は勝ったものの、10月19日川崎球場で行われたロッテオリオンズとのダブルヘッダー第1試合を9回に逆転するものの、第2試合10回時間切れの引き分け<ref>当時、試合時間が4時間を越えると新しいイニングに入らないというルールがあった</ref>に終わり、最終130試合目で無念のV逸(詳細は10.19を参照)。<ref>またこの日は後に近鉄と球団合併することになるオリエント・リース(現:オリックス)が阪急を買収することを発表した日でもあった</ref>

1989年、この年西武、オリックスとの三つ巴による、前年を上回る優勝争いの末9年ぶりの優勝を果たす。10月12日、西武の優勝がかかった試合(ダブルヘッダー)でブライアントが2試合で4打数連続本塁打の活躍をするなど連勝、この年のパ・リーグを象徴する試合となった。10月14日、藤井寺球場での対ダイエー戦に勝利、129試合目で優勝決定する。しかし日本シリーズでは巨人に3連勝後4連敗を喫し、日本一ならず。この年のドラフトでは8球団競合の抽選の上、野茂英雄を獲得する。

1990年、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得するなどの活躍を見せMVP、沢村賞を獲得、以降4年連続で最多勝を獲得するなど、野茂(ドクターK)ブームを巻き起こす。しかしチーム1992年まで当時黄金時代と言われた西武と優勝争いはするもの、優勝できなかった。1991年 前半戦最後の西武との直接対決で勝利し首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。1992年 7月8日新井宏昌が2000本安打を達成(近鉄在籍時代の打者としては唯一)。シーズン終了後、仰木彬監督辞任。

1993年、鈴木啓示が監督に就任。しかし、野茂や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。1994年の開幕の西武戦で赤堀元之が逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤チームは低迷。一時、首位に16.0ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げたチームは球団新記録となる13連勝をして一時首位に立つ。この年は最終的に同率2位に終わる。しかしこのオフ、野茂が契約のこじれから退団、大リーグロサンゼルスドジャースに移籍<ref>詳しい経緯は「野茂英雄の近鉄退団」を参照</ref>。吉井も鈴木との確執によりトレードでヤクルトスワローズに移籍。

1995年、投手陣と監督との確執からチームは空中分解。ブライアント、石井の故障離脱もあり、チームは低迷。鈴木監督も途中休養する状況で、8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは福留孝介を1位指名するものの入団拒否される。1996年は勝率5割付近をいったりきたりする展開となる。本拠地移転の関係で何としてもAクラス入りし開幕戦を新本拠地で迎えたかったが、Aクラス決定戦となった最終戦で西武に破れ、4位でシーズンを終える(なお西武はこのシーズン3位以上になったのが最終戦のみである)。

大阪ドーム時代・終焉

大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰、大阪ドームの交通も最寄り駅に近鉄系列が入っていなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となる<ref>近鉄阪神なんば線への乗り入れで大阪ドームの最寄り駅に来るようになったのは、近鉄球団消滅後の2009年である。</ref>。また、大阪ドームの使用料も近鉄興業が保有していた藤井寺球場よりも大幅に増加した。1998年以降は観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が年々膨れ上がっていき、2004年球団合併により消滅となる。

1997年、本拠地を大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)に移転。一時は借金14を経験するなど夏場までロッテと最下位争いをしていたが、10点差逆転勝利を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。1998年は8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げるが、先発投手陣が安定せずチームは失速。最終的には借金1の5位に終わる。

1999年 4月、地元企業との提携、地元密着を目指し、チーム名を大阪近鉄バファローズに改称。また、同年9月には従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社株式会社大阪近鉄バファローズを設立。チームも4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷、チームは最下位に終わる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督辞任。2000年、近鉄最後の監督となる梨田昌孝が就任、チームは2年連続最下位に終わる。

2001年 圧倒的破壊力を誇る「いてまえ打線」で、4度目のリーグ優勝を達成する。9月24日タフィ・ローズがシーズンタイ記録となる55本塁打を達成。9月26日、大阪ドームでの対オリックス戦。北川博敏代打逆転サヨナラ満塁ホームランでの優勝決定であった。同一監督(梨田昌孝)での前年最下位からの優勝は長嶋茂雄(巨人)に次いで2人目で、パ・リーグでは初。防御率リーグ最下位(4.98)での優勝・2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。しかし日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗。またしても日本一を逃す。これが最後の優勝となった。

2002年 西武と優勝争いを繰り広げ、2位で追う展開となる。途中、8年ぶりの10連勝を遂げるが、同時期に首位西武も9連勝し、差がほとんど縮まらず。8月の直接対決で9点差を逆転負けし、西武にマジック点灯。最終的に大差をつけられての2位に終わる。シーズン終了後、中村紀洋がFA宣言、海外を含めて1ヶ月あまりの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留。大塚晶則大リーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、大塚は中日に金銭トレードされる。2003年 1月、会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝するものの、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在、中村紀洋の負傷もあり、3位に終わる。シーズン終了後、長年主砲として活躍してきたタフィ・ローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。

2004年 この年が近鉄としての最後の年となった。これらの詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)も参照。

1月31日、ネーミングライツ問題発覚(後述)。6月13日山口昌紀社長(当時)によりチームをオリックスブルーウェーブと合併する方向で準備を進めていることを発表する。8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日、19日、この問題によるプロ野球選手会のストライキが行われる。9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦(対西武)が行われ、3-2でサヨナラ勝ちする。9月27日Yahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が近鉄としての一軍の最後の試合となった(2-7で敗れる)。9月30日藤井寺球場で最後のNPB(二軍)公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われた。

11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。2005年1月15日、御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村紀洋のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズ解散となる。なお、この後近鉄は合併後の暫定処置として2005年-2007年にオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、2007年のシーズン終了と同時に完全撤退した。

球団愛称

  • 創設時の愛称・パールス(Pearls)は、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだもの。現在でも「プロ野球史上最も弱々しい球団愛称」などという声が少なくない。
  • パールスに代わる新しい球団愛称を公募したところ、1番多かったのが「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんだバッファローズだった。ところが当時の球団幹部が「『バッファローズ』では表記が長すぎる」と言ったため、2文字減らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズ(Buffaloes)となった。

シンボルマーク・マスコット

画像:Falulu Capelot.jpg
ファルルとカペロ(2000年撮影)
  • 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した1959年に、「バファロー」の新チーム名称に合わせて千葉の親友であった岡本太郎がデザイン。千葉の述懐に依ると銀座のバーで、デザイン料10万円で依頼したと言う。以降球団が解散する2004年まで、球団旗やユニフォームなどで使われ続けた。日本一に輝いた時に姿を公開することとなっていた「猛牛マーク」を横から見たような「サブマーク」が有ったが、公開されず球団と共に消えた。西武グループ系のようにグループのバスタクシーなどに猛牛マークを入れる例は少なく、運送会社である近鉄物流(現 近物レックス)の車両や伝票に見られた程度であった。近鉄物流も球団解散の直前にグループを離れ、同社のトラックに猛牛マークは残っていたが、現在はKBRに変更されている。
  • 大阪ドーム移転前(1976年1996年)のマスコットはユニフォームを着た少年「バッファくん」(近鉄の野球帽・ユニフォームを着、バットとグラブを持ち片足を上げた少年。スパイクはアシックス)。初期のデザインではバットを握った右手の指本数が1本足りなかったが、後に改作された。着ぐるみも作成され、ファン感謝デーなどでも登場していた。このマスコットに似ているということで、中村紀洋の愛称になったこともある。なお、バッファくん登場前には鼻息をふかして突進する姿の猛牛のマスコットを使用しており( - 1975年)、1975年後期優勝の近鉄電車の記念乗車券券面には西本幸雄監督の顔と伴に印刷されている。
  • 球団マスコットがモチーフ。大阪ドームへの本拠地移転後、以下のキャラクターが登場。キャラクターデザインはアニメトムとジェリー」などを手掛けたアメリカハンナ・バーベラ・プロダクションによるものである。なお、バフィリードだけは公募に依り命名された。
  • キャラクター着ぐるみ作成及び担当は明石家まんま朝おき太等を手がけた株式会社リップ
    • バフィリード(バフィ) - 背番号100、主人公。
    • ファルルリーナ(ファルル) - 背番号200、女の子のキャラクター。2000年以降ユニフォーム姿(ワンピースにベルト)に変更。
    • 他にバルバロック(バル)(男性)とカペロット(カペロ)(子供)の2人がいたが、いずれも2000年シーズンをもって登場が打ち切られた。
    • 球団合併により、各キャラクターも引退したが、バフィリードだけはオリックス本社に商標権が譲渡された。他キャラに就いては近鉄本社が更新期限まで所有する状態となっている。

ユニフォームの変遷

  • 1950年1952年 球団創設期のユニフォームはホーム用が胸に「Pearls」が入ったもの、ビジター用は水色を基調としたユニフォームで胸にゴシック体で「KINTETU」のロゴが入った(1952年限り)。ゴシック体の「KINTETU」は1957年まで使用される。
  • 1953年 左胸に「Pearls」と書かれた、サンフランシスコ・シールズを参考にしたユニフォームが登場。同時に縦縞となり、球団名がバファローとなった1959年まで使用。
  • 1954年1958年 左胸に「P」1文字の、フィラデルフィア・フィリーズを参考にしたデザイン。1958年には帽子のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなる(途中から従来の物も使用)。1958年からビジター用ロゴが飾り文字に変更。
  • 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は黒の帽子・アンダーシャツ・縦じま・袖ラインが採用され、赤い「Buffalo」の胸マークが入ったデザインに変更された。ビジター用は背番号の書体を変更。帽子の前面には、金糸で猛牛マークが入った。
  • 1960年1961年 縦縞を廃止。チームカラーを黒と黄色に変更。ビジター用の左袖が近鉄の社章から猛牛マークに変更される。
  • 1962年1965年 球団名がバファローズとなり、胸ロゴが「BUFFALOES」に変更。袖番号が付けられる。1965年からラインを黒に変更し、番号が胸に移動。
  • 1966年1973年 ロサンゼルス・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。同時にロゴも筆記体の「Buffaloes」に変更(藤井寺時代最後の1996年まで)。
    • 1968年より、三原脩監督就任時より、ホーム用の背番号、胸番号の角が取れ、丸型となる。
    • 1969年1971年 ヘルメットが紺地に猛牛マークが入ったものになる。
    • 1972年より、帽子のツバがオレンジ色となる。
    • 1973年後期より、ラインが入るなどのマイナーチェンジが繰り返された。
  • 1974年1996年 西本幸雄監督就任時より、ニット式のベルトレスユニフォームが登場。袖部分のラグランスリーブが赤となり、首と袖に白ラインが入り、丸首プルオーバースタイルとなる。左袖には、炎と猛牛を組み合わせたマークが入る。
    • 帽子・ヘルメットは、最初紺色地に赤の「B」マーク(ボストン・レッドソックスと同じ書体)・赤ツバの入ったものを採用。その後、紺色地に猛牛マーク(赤色のツノ・紺色の目を白縁でデザイン)・赤ツバの入ったヘルメットが使用されるようになる(採用時期不詳)。
    • 1977年より 左袖のマークが猛牛マークになり、デサント社が開発した快適性、軽量化を図ったメッシュ素材の上着を、野球のユニフォームとしては世界で初めて採用する。
    • 1978年より 背番号の上に選手名(英字表記)が入り、ベルトレスからベルト式になる。
    • 1978年後期より、帽子の地色が赤、前面が白、白部分のサイドに紺のラインが入り、紺色の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ(アーチ型)、猛牛マークが入る三色帽に変わる。
      • 1979年1980年1989年の3度のリーグ優勝を果たしたゲンのいいユニフォームで、マイナーチェンジを繰り返しながら、23年の長きに渡り使用された。
  • 1997年2004年 大阪ドーム移転を機にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛ける。同時に球団カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー(濃紺)」、「バファローズレッド」の4色と設定。デザインはそれに基づかれた。
    • 帽子・アンダーシャツ・ラインは濃紺。
    • 1999年より、球団名が大阪近鉄バファローズとなり、ビジター用が「Kintetsu」から「Osaka」に変更。これが近鉄最後のユニフォームとなった。また左袖には50周年記念のバフィーワッペンが入っていた。
      • ビジター用は当初紺と赤の2種類があり、金曜日から月曜日は紺、火曜日から木曜日では赤と使い分けられていたが、2000年以降は紺のみとなった(使い分けに関しては当初「ナイトゲームは赤、デーゲームは紺」とされたが、使用頻度の偏りを避けるために上記のようになった)。
      • ビジター用上着のデザインは当初、赤だけであった(これはデザインを担当したコシノヒロコが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため)。しかし、いざ完成してみると、当時の佐々木監督や選手たちから「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」などと異論が続出し、選手たちがユニフォーム変更を拒絶しかける事態となった。その沈静化を図るため急遽紺が追加された。その後もファン感謝デーでこのユニフォームが初お披露目された際、ファンから「台湾プロ野球(のユニフォーム)だ」などと酷評され、優勝するまではこのユニフォームの評判は良くなかった。

チームの特徴

  • 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。
  • 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督・野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団であった。詳細は、いてまえ打線を参照。
  • 野茂英雄吉井理人大塚晶則、中村紀洋など、多くの大リーガーを輩出している。
  • リーグ優勝する年は、必ずと言って良いほど、助っ人外国人選手が本塁打を量産する傾向がある。実際に、球団設立から消滅までの55年で、リーグ優勝は4回あるが、この間にチャーリー・マニエル(1979年に37本、1980年に48本)、ラルフ・ブライアント(1989年に49本)、タフィ・ローズ(2001年に55本)がそれぞれ、本塁打王を獲得している。
  • 1970年前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われていた。これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年にずれこんだ。
  • 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。
  • 2004年9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに、「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督・梨田昌孝がプジョーを愛車としていたことが縁であった。
  • 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年の2リーグ分立以降では19回と、消滅したチームも含めて両リーグトップである。
  • 伝統的に速球派投手に強く、技巧派投手に弱い傾向にある。代表例の一人が松坂大輔で、松坂は日本での8年間で近鉄に対し11勝15敗で防御率も最も悪く、球団別の成績で唯一近鉄にのみ負け越している。逆に、近鉄が苦手としていた投手に星野伸之星野順治などの変化球投手が多く見られる。1989年の日本シリーズでも3連勝で迎えた第4戦で香田勲男に完封をされてシリーズの流れが変わってしまった。
  • 近鉄在籍経験選手による日本シリーズのMVP獲得は、近鉄が日本一を経験しなかったので、長い間輩出されなかったが、2007年の日本シリーズで中村紀洋が中日で初めて達成した。
  • プロ野球に理解のないフロントの体質に関しては、不満を持つ選手も多かった。野茂英雄は、先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われたこともある。佐々木恭介は、入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では当時の二等車(後の普通車)のみ(西鉄ライオンズ等は一等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。

応援スタイル

  • 打者に対する基本的な応援コールは「かっとばせー、○○(選手名)!××(対戦相手チーム)倒せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代までは近鉄のみならず大半のチームで採り入れられていたが、1990年代以降は年々少なくなっていき、遂には近鉄でしか使用されなくなった。その一方、近鉄は球団解散時までこのスタイルを通した。
  • 球団解散時には「暴れん坊将軍」のオープニングテーマを原曲とするI(1995年~)、タオルマフラーを持って踊るII(2000年~)、2種類の歌詞があるIII(2001年~)、ビハインドの場面で使われるIV(2002年~)、ビッグイニングの時に使われるV(2003年~)と5種類のチャンステーマが存在。III以降は「踊る牛」「笑う牛」(以上III)「紅の丑」(IV)「パニ牛」(V)とタイトルもついていた(代打のテーマにも「働く牛」というタイトルがついている)。IIはオリックスファンからも「ぜひ残して欲しい」という声が多かったため、球団合併後も引き続き使われており、「紅の丑」と合わせて高校野球の応援歌として耳にすることもある。
  • チャンス時のテーマ、三三七に長らく8時だョ!全員集合のオープニングテーマを使用していた。ドームに移転してからこの曲は安打以外での出塁テーマとなり、安打の場合の三三七はHelloweenの「Guardians」を使用した。
  • ジェット風船はチームカラーの赤色に統一していた。
  • 藤井寺球場は住宅地と隣接していたため、鳴り物入りの応援が禁止されており、メガホンと声だけの応援スタイルを取った。
  • 1985年の日本シリーズ(阪神VS西武)では、甲子園球場での西武側の応援団が少ないだろうということで近鉄の応援団が協力を申し出て共に応援を行った。

球団名変遷と年度別成績

※銀地はリーグ優勝、順位の欄は左の数字が順位、右の数字はリーグ所属球団数。

年度監督順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差打率防御率本塁打
近鉄パールス
1950年藤田省三7/712044724.37937.5.2423.8586
1951年藤田省三7/79837565.39833.5.2233.1337
1952年藤田省三
芥田武夫(注1)
7/710830780.27840.0.2434.0637
1953年芥田武夫7/712048693.41022.0.2462.9331
1954年芥田武夫4/814074633.54016.0.2472.6623
1955年芥田武夫5/814260802.42939.0.2523.4535
1956年芥田武夫5/815468824.455(注2)29.5.2263.1748
1957年芥田武夫
加藤春雄(注3)
6/713244826.356(注2)38.5.2253.2235
1958年加藤久幸(注4)6/613029974.238(注2)49.5.2154.0441
近鉄バファロー
1959年千葉茂
林義一(注5)
6/613339913.30049.0.2293.6848
1960年千葉茂6/613143871.33139.0.2363.6169
1961年千葉茂6/6140361031.261(注2)51.5.2293.9668
近鉄バファローズ
1962年別当薫6/613157731.43821.0.2523.4070
1963年別当薫4/615074733.50312.5.2563.4498
1964年別当薫6/615055914.37728.5.2543.63112
1965年岩本義行6/614046922.33342.5.2353.6191
1966年岩本義行6/613348823.36931.0.2283.60100
1967年小玉明利6/613259712.45416.0.2513.83104
1968年三原脩4/613557735.43823.0.2343.2884
1969年三原脩2/613073516.5892.0.2432.78118
1970年三原脩3/613065596.52413.5.2332.98108
1971年岩本堯3/613065605.52018.0.2413.21151
1972年岩本堯2/613064606.51614.0.2483.07123
1973年岩本堯
島田光二(注6)
6/613042835.3366・6(注7).2373.83113
1974年西本幸雄5/613056668.4595・4(注7).2303.63131
1975年西本幸雄2/6(注8)13071509.5873・1(注7).2463.09115
1976年西本幸雄4/613057667.4635・4(注7).2453.04102
1977年西本幸雄4/6130596110.4923・6(注7).2453.3192
1978年西本幸雄2/6130714613.6072・2(注7).2663.21115
1979年西本幸雄1/6(注8)130744511.6221・2(注7).2853.70195
1980年西本幸雄1/6(注8)13068548.5572・1(注7).2904.96239
1981年西本幸雄6/613054724.4296・4(注7).2534.10149
1982年関口清治3/6130635710.5253・2(注7).2584.11151
1983年関口清治4/6130526513.44429.5.2624.49134
1984年岡本伊三美4/6130586111.48716.5.2574.36174
1985年岡本伊三美3/613063607.51215.5.2725.10212
1986年岡本伊三美2/6130665212.5592.5.2714.34183
1987年岡本伊三美6/613052699.43021.5.2704.22135
1988年仰木彬2/613074524.5870.0.2533.23154
1989年仰木彬1/613071545.5680.0(注9).2613.86157
1990年仰木彬3/613067603.52814.5.2754.34181
1991年仰木彬2/613077485.6164.5.2653.46157
1992年仰木彬2/613074506.5974.5.2473.69155
1993年鈴木啓示4/613066595.5287.0.2583.62145
1994年鈴木啓示2/613068593.5357.5.2744.24169
1995年鈴木啓示
水谷実雄(注10)
6/613049783.38632.0.2343.97105
1996年佐々木恭介4/613062671.48114.5.2554.01146
1997年佐々木恭介3/613568634.5197.5.2743.79112
1998年佐々木恭介5/613566672.4965.0.2674.28126
大阪近鉄バファローズ
1999年佐々木恭介6/613554774.41223.5.2574.54151
2000年梨田昌孝6/613558752.43615.0.2624.66125
2001年梨田昌孝1/614078602.5652.5(注9).2804.98211
2002年梨田昌孝
真弓明信(注11)
2/614073652.52916.5.2583.93177
2003年梨田昌孝3/614074642.5368.5.2744.30187
2004年梨田昌孝5/613361702.46617.0(注12).2694.46121
年度監督順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差打率防御率本塁打
画像:Kintetsu Buffaloes Ranking.svg
1950年から2004年までの順位のグラフ
  • 注1 開幕から9月16日まで藤田、9月24日から閉幕まで芥田
  • 注2 引分は0.5勝0.5敗で計算
  • 注3 開幕から6月20日まで芥田、6月22日から閉幕まで加藤(代行)
  • 注4 加藤春雄から改名
  • 注5 開幕から6月18日まで千葉、6月20日から閉幕まで林(代行)
  • 注6 開幕から9月26日まで岩本、9月28日から閉幕まで島田(代行)
  • 注7 前後期制のため、前期順位・後期順位の順で表示
  • 注8 ポストシーズン成績を参照
  • 注9 2位とのゲーム差
  • 注10 開幕から8月8日まで鈴木、8月9日から閉幕まで水谷(代行)
  • 注11 開幕から8月14日まで・8月17日から閉幕まで梨田、8月16日のみ真弓(代行)
  • 注12 レギュラーシーズン1位とのゲーム差

ポストシーズン成績

年度試合名成績対戦相手
1975年プレーオフ○●●●阪急
1979年 プレーオフ○○○阪急
日本シリーズ○○●●●○●広島
1980年 プレーオフ○○○ロッテ
日本シリーズ○○●●○●●広島
1989年日本シリーズ○○○●●●●巨人
2001年日本シリーズ●○●●●ヤクルト

タイトルホルダー

最優秀選手

最優秀新人

首位打者

本塁打王

打点王

盗塁王

最多安打

タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。

  • 土井正博(1964、1967)
  • 永淵洋三(1969)
  • 新井宏昌(1987)
  • ジム・トレーバー(1990)
  • 石井浩郎(1993)

最高出塁率

最多勝利打点

※1981年制定、1989年から廃止

最多勝利

最優秀防御率

  • 久保征弘(1963)
  • 清俊彦(1972)
  • 鈴木啓示(1978)
  • 山口哲治(1979)
  • 野茂英雄(1990)
  • 赤堀元之(1992)

最多奪三振

タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。

  • 阿波野秀幸(1989)
  • 野茂英雄(1990-1993)
  • ジェレミー・パウエル(2002)

タイトル制定以前の該当者は以下の通り。

  • 鈴木啓示(1967-1972、1974、1978)
  • 阿波野秀幸(1987)

最優秀勝率

※2001年をもって廃止され、翌年からは最優秀投手となった。

最優秀投手

  • ジェレミー・パウエル(2002)
  • 岩隈久志(2004)

最優秀救援投手

※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。

なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。

  • 鈴木康二朗(1984-1985)
  • 石本貴昭(1986)
  • 赤堀元之(1992-1994)
  • 大塚晶文(1998)

最多ホールド(現:最優秀中継ぎ投手)

※1996年に中継ぎ投手の評価法としてホールドを導入、タイトルとして制定。2002年より最優秀中継ぎ投手に変更。

タイトル制定以後の該当者無し。

沢村賞

  • 野茂英雄(1990)

正力松太郎賞

完全試合

ノーヒットノーラン

ベストナイン

  • 小玉明利三塁手:1960、1962-1965)
  • ジャック・ブルーム(二塁手:1962-1963)
  • 高木喬一塁手:1965)
  • 土井正博(外野手:1967-1968)
  • 鈴木啓示(投手:1969、1975、1978)
  • 永淵洋三(外野手:1969)
  • クラレンス・ジョーンズ(一塁手:1974)
  • 佐々木恭介(外野手:1975、1978)
  • 石渡茂遊撃手:1977、1979)
  • 梨田昌孝捕手:1979-1981)
  • 栗橋茂(外野手:1979-1980、1982)
  • チャーリー・マニエル(指名打者:1979-1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1983-1984、1990)
  • リチャード・デービス(一塁手:1985)
  • 新井宏昌(外野手:1986-1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • 山下和彦(捕手:1989)
  • ラルフ・ブライアント(外野手:1989、指名打者:1993-1994)
  • 野茂英雄(投手:1990)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 石井浩郎(一塁手:1993-1994)
  • 中村紀洋(三塁手:1996、1999-2002)
  • フィル・クラーク(一塁手:1997-1998、指名打者:1999)
  • タフィ・ローズ(外野手:1997、1999、2001-2003)
  • 大村直之(外野手:1998)
  • 礒部公一(外野手:2001)
  • ジェレミー・パウエル(投手:2002)
  • 岩隈久志(投手:2004)

ゴールデングラブ賞

※1972-1985年はダイヤモンドグラブ賞

  • 有田修三(捕手:1975-1976)
  • 梨田昌孝(捕手:1979-1981、1983)
  • 平野光泰(外野手:1979-1980)
  • 小川亨(一塁手:1980)
  • 羽田耕一(三塁手:1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1982-1984)
  • 新井宏昌(外野手:1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 大村直之(外野手:1998、2003)
  • 中村紀洋(三塁手:1999-2002、2004)

サイクル安打

その他のチーム記録

  • 初試合 1950年3月12日・藤井寺球場(対毎日、2-6)
  • 初勝利 1950年3月13日・藤井寺球場(対南海、4-3)
  • リーグ優勝 4回(1979 - 1980、1989、2001)
  • 日本一 0回
  • Aクラス 22回(1954、1969 - 1972、1975、1978 - 1980、1982、1985 - 1986、1988 - 1992、1994、1997、2001 - 2003)
  • Bクラス 33回(1950 - 1953、1955 - 1968、1973 - 1974、1976 - 1977、1981、1983 - 1984、1987、1993、1995 - 1996、1998 - 2000、2004)
  • 連続Aクラス入り最長記録 5年(1988 - 1992)
  • 連続Bクラス最長記録 14年(1955 - 1968)
  • シーズン最多勝利 78(2001)
  • シーズン最少敗戦 45(1979)
  • シーズン最高勝率 .622(1979)
  • シーズン最少勝利 29(1958)
  • シーズン最多敗戦 103(1961)
  • シーズン最低勝率 .238(1958 ※当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230)
  • シーズン最高打率 .290(1980)
  • シーズン最多得点 791(1980)
  • シーズン最多安打 1332(2001)
  • シーズン最多二塁打 249(2002)
  • シーズン最多三塁打 40(1953・1954)
  • シーズン最多本塁打 239(1980・当時の日本新記録。現在はパ・リーグ記録)
  • シーズン最多四球 581(2001・日本記録)
  • シーズン最多四死球 644(2001・日本記録)
  • シーズン最多盗塁 223(1954)
  • シーズン最多犠飛 52(1978・日本記録)
  • シーズン最高防御率 2.66(1954)
  • シーズン最低防御率 5.10(1985)
  • シーズン本塁打数200本以上3回(日本記録。1980・1985・2001)
  • 最大連勝 13(1994年7月26日・対ロッテ~8月10日・対ロッテ)
  • 最大連敗 13(1952年5月25日・対毎日第1試合~6月15日・対西鉄第1試合)
  • 1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス)
  • 1試合最多失点 25(1985年9月18日・対南海)
  • 1試合最多安打 26(2003年8月18日・対日本ハム)
  • 1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急)
  • 1試合最多三塁打 3(1984年5月24日・対南海 他4度)
  • 1試合最多本塁打 8(2003年7月12日・対日本ハム)
  • 1試合最多犠打 7(1987年・対南海、日本記録)
  • 1試合最多盗塁 9(1954年7月27日・対毎日)

歴代オーナー

歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。

歴代本拠地

  • 1950年 藤井寺球場
  • 1950年-1957年 大阪球場
    • 1950年9月より使用
  • 1958年-1983年 日本生命球場
    • 収容人員が日本野球機構主催によるオールスターや日本シリーズを開催する時の最低下限である3万人よりも少なかったので、近鉄主催で行われる場合(1979、80年のプレーオフも)大阪球場を使用した。但し、1975年のプレーオフは藤井寺で開催しており、仮に日本シリーズ出場が決まった場合も藤井寺を使う予定だった。
  • 1984年-1996年 藤井寺球場
    • 形式上は藤井寺、日生のダブルフランチャイズだったが(専用球場の届出もこの2ヶ所で登録された)、1983年までは日生をメインに日曜・祝日などのデーゲーム時に藤井寺を使用。1984年以後は藤井寺をメインに年10-20試合程度を日生で開催した。1997年にメインを大阪ドームに移した後も1999年までは藤井寺とのダブルフランチャイズで登録された。なおこの他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を開いた。
    • また1989年と1990年度は大阪球場で10試合前後の主催ゲームがあった。
  • 1997年-2004年 大阪ドーム

永久欠番

#1 鈴木啓示

2004年当時パ・リーグ唯一の永久欠番だったが、吸収合併先のオリックスでは当時1番をつけていた後藤光尊が引き続き着用を希望したため、引き継がれず消滅(オリックス側は念のため鈴木本人に確認したが、「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」とし、後藤の継続着用を承諾)。

大阪近鉄バファローズ最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような名言が残されている。

「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

主な歴代球団歌

  • 大阪近鉄バファローズの歌(旧題:近鉄バファローズの歌)(作詞:竹中郁、作曲:米山正夫、歌:クールボナール)
  • 炎えろ!近鉄バファローズ(作詞:西沢爽、作曲:城賀イサム)
    • 上記2曲はCD「大阪近鉄バファローズオフィシャル球団歌・応援歌」では高橋元太郎が歌っている。「近鉄バファローズの歌」のクールボナールが歌うバージョンでは、キダ・タローが編曲を担当している。
  • ドリーム&パワー(作詞・作曲:岡田誠司、歌:イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN)
  • RED de HUSTLE(作詞:キユサマ☆ワカルフ、作曲:パパ・ダイスケ、歌:大西ユカリと新世界

エピソード

ロンゲストゲーム

1953年、近鉄はいずれも後楽園球場で開かれた2試合でロンゲストゲームを戦った。6月25日の対大映スターズ戦は19:13試合開始から当時のナイターの時限であった23:45での打ち切りまで4時間33分・延長22回を戦った(スコアは4-4の引き分け)。

それからわずか1ヵ月半も満たない8月9日には東急フライヤーズ戦のダブルヘッダー第1戦(当時は同一カードダブルヘッダーの第1試合はイニング制限なしで決着が付くまで行った)で今度は4時間46分・延長20回(5-4で近鉄勝ち)を戦い、その後引き続いて開催の第2試合は22:11試合開始。時限の23:45までプレーした(7回時間切れコールドゲーム<ref>この当時は深夜の時限が来た場合は9回の攻撃を完了しなくても、その時点のイニング終了の段階で打ち切りとなっていた</ref>で3-3の引き分け)ため、2試合で合計6時間20分も戦った。

1954年10月10日には東映フライヤーズ戦(大阪)でパ・リーグの最長イニングレコードを記録した。この試合は0-0で迎えた延長23回に武智修の二塁打でチャンスを広げた近鉄が日下隆のスクイズでサヨナラ勝ちした。

1969年10月10日、日生球場でのロッテオリオンズ戦では第2試合で延長13回、22:20の時限オーバー、4-4の引き分けで打ち切られるまで、実に5時間15分の当時の史上最長試合時間記録を達成した。

サスペンデッドゲーム

通常サスペンデッドゲームは日没(現在は適用できない)や照明設備の故障など特殊な例以外考えられないことだが、1954年6月16日中日スタジアムで開かれた東映フライヤーズ戦で1-4で敗れて試合終了したものの、7回表のインフィールドフライをめぐって近鉄側が猛抗議。結局問題のフライ以後の攻撃を一度無効として同年8月10日に同球場で7回以後の攻撃を続行するという変則的なサスペンデッドゲームが行われた。サスペンデッド後の試合は両チームとも得点が入らず、結局1-4で敗戦した。

なお、サスペンデッドゲームが地方球場で行われた場合は、特例でその続きを専用球場で行える取り決めがあるが、近鉄は地方開催でありながら名古屋を準本拠地としていたこともあり、サスペンデッドの続きも中日球場で行った。

大逆転でチーム消滅回避

これは、大映のオーナー永田雅一が上記の提案をした人物である。1957年シーズン中に、パ・リーグオーナー会議で「今シーズン最下位となったチームは、解散するか合併する」ことが決定した。これは当時パ・リーグが7球団だったために非常にカードが組みにくかったことが原因であり(奇数であるため必ず対戦できないチームが一つできる)、当時最下位を独走していた近鉄パールスのオーナー・佐伯勇はやむを得ず了承した(解散か合併する基準が最下位である案がシーズン中に承認される、と言うのは現在では到底考えられないような話である)。

8月上旬に近鉄は6位チームと10ゲーム差をつけられ、状況は絶望的と言えた。しかし、ここから近鉄の選手は発奮し、以降の6位チームとの直接対決を大きく勝ち越したこともあって奇跡的に最下位を脱出し、消滅の危機を免れた。

結局最下位となったのは大映ユニオンズで、大映ユニオンズは毎日オリオンズと合併し、大毎オリオンズとなった。

ミケンズ・ルール

1960年5月24日駒澤野球場での東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のグレン・ミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は一塁ゴロに打ち取ったものの、これを一塁手が悪送球したために一・三塁となる。張本勲の二塁ゴロで吉田を二塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。しかしこれに納得のいかないミケンズは翌25日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の一塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の二塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振-三振-遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振-遊ゴロ失-三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年から行われた。

シーズン100敗

日本プロ野球史で100敗という屈辱的な経験を味わっているのは1961年の近鉄のみ。140試合戦って36勝103敗1分け(勝率.261)で、優勝した南海ホークスから51.5ゲーム差の大差を付けられている。それまでのワーストは1955年大洋ホエールズと1955・1956年トンボユニオンズ→高橋ユニオンズの98敗だった。

この年の近鉄は10連敗を6月に1回、7月には1ヶ月で2回喫しており、他の参加5チームとの対戦成績も最高成績が東映フライヤーズ阪急ブレーブスに9勝。他の3チームには20敗以上を喫した。

シーズン最低勝率.238(130試合で29勝97敗4分)を1958年に記録している。ただしこの年は引き分けを0.5勝0.5敗として計算していたため、現在の勝率に換算すると.230となる。

パ・リーグの最少観客動員記録

1966年10月13日に開かれた藤井寺での対西鉄ライオンズ戦は日本シリーズの読売ジャイアンツ南海ホークス戦が同日に行われた影響もあり、観客動員はパ・リーグ最少の150人しか入らなかった。(プロ野球最少記録は1966年10月12日川崎球場で行われたサンケイアトムズ中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーで記録された100人。)

巨人はロッテより弱い

1989年10月24日東京ドームでの巨人との日本シリーズ第3戦、近鉄が3勝目をあげた試合後のヒーローインタビュー時の加藤哲郎の発言と言われているが、この通りに発言したわけではない。ヒーローインタビューでは加藤はふてぶてしい口調ながら、「ペナントレース(勝率1厘差、残り1試合で優勝決定)の方がずっときつかった」といった程度の発言しかしていない。その後、選手がドームを後にするまでの取材の過程で新聞記者の誘導により「今の巨人よりディアズ1人をマークしなければならないロッテの方が怖い」「こんなチームに負けたら、(ペナントレースで死闘を繰り広げた)西武オリックスに申し訳ない」という発言が飛び出したが、前年最終戦で近鉄がロッテの粘りに苦汁を舐めた記憶と、加藤がその年個人的にロッテに苦手意識をもっていたことを受けてのものであり、加藤本人がハッキリと「巨人はロッテより弱い」と言ったわけではなかった。その後、近鉄は4連敗を喫し、日本一を逃している。

逆転の近鉄

2001年9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム)での北川の代打逆転サヨナラ満塁本塁打による優勝決定に象徴されるように、近鉄はしばしば型破りな逆転劇を演じた。

123456789
オリックス 0003100015
近鉄 100000104x6

[審判](球)佐藤(塁)丹波 永見 前田


2001年7月17日の対ロッテ戦(千葉マリン)では5点リードされた9回表にクローザーの小林雅英から一挙に8点を取って逆転勝利し、前半最終戦で首位折り返しを決めた。大村の逆転3ランで5点差をひっくり返し、さらにタフィ・ローズの2ランでとどめを刺している。後半戦近鉄はロッテに10戦全勝し、優勝への大きな足がかりとなった。

123456789
近鉄 00101020812
ロッテ 2400001209


1993年6月5日の対ダイエー戦(藤井寺)では2-8とリードされた9回裏に7点を取ってサヨナラ勝ち。9回裏の6点差逆転は日本記録。

123456789
ダイエー 0100310038
近鉄 002000007x9


1997年8月24日の対ロッテ戦(大阪ドーム)では2回表までに0-10とリードされながら9回裏に追いつき、12回裏にフィル・クラークの適時打でサヨナラ勝ち。10点差逆転勝利は過去にこの試合を含めて3例あるが、パ・リーグではこの試合だけである(なお他の2試合はいずれも松竹ロビンスが記録している)。

123456789101112
ロッテ 55000000000010
近鉄 001140301001x11

先発投手陣の頭数が足りない近鉄はこの日、本来は中継ぎで活躍する佐野重樹が先発したものの打ちこまれ、代わった南真一郎も打たれ、2回までにロッテに10点を奪われた。近鉄応援団は横断幕を裏返し、応援をボイコットすることで近鉄ナインに奮起を促した。
近鉄は2回途中からマウンドに上がった3番手・柴田佳主也が3回からの3イニング、6回からはルーキー・大塚晶文が2イニングをそれぞれ無失点に抑える。打線も3回に村上嵩幸、4回にクラークがソロ本塁打、集中打で5回に4点、7回に3点を返す。9回1アウトから二塁ランナー武藤孝司が三塁盗塁すると、ロッテ捕手・吉鶴憲治の悪送球を誘い、近鉄が土壇場で追いついた。
8回から投げ続けた赤堀元之は、12回までの5イニングを2安打無失点に抑えた。延長最終回となる12回、2アウト・ランナーなしから代打に立った山本和範が四球を選び、水口栄二タフィ・ローズが続き、クラークがタイムリーを放ちサヨナラ勝ちした。
試合終了後、当時の監督・佐々木恭介は「8回裏の時点で『追い付きはしなかったが、この追い上げは賞賛に値する』というコメントを考えていた」と告白、「こんな選手たちと野球ができて嬉しい。この勝利は必ずいい方向につながる」ともコメントした。近鉄はこの試合に負ければ最下位転落の可能性もあったが、この試合以降は佐々木の言葉どおり勢いを見せつけ、閉幕までを21勝7敗2分けで乗り切り、最終的に3年ぶりのAクラス復帰(3位)を果たした。

2ヶ月足らずで16ゲーム差を逆転

1994年の近鉄は開幕戦で守護神赤堀が逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて負けるという波乱のスタートを切り、チームは低迷。6月17日には首位西武に16.0ゲーム差をつけられ、19勝34敗、借金15の最下位に沈む。
しかし、この日を境に近鉄は調子を上げ、連日のようにいてまえ打線が爆発。1969年に記録した12連勝を越える13連勝の球団新記録を打ち立てて、8月10日に首位に立った。この54日間で、近鉄は32勝6敗、勝率.842という驚異的な成績を残した。最終的には首位西武に7.5ゲーム差で同率の2位に終わったが、一時的にとはいえ、わずか2ヶ月足らずで16ゲーム差をひっくり返した近鉄の勢いは、当時のファンに強い印象を残した。
また、当時プレーしていた選手にとっても非常に印象に残る出来事だったようで、近鉄退団後の石井浩郎は、週刊ベースボールから受けたインタビューの中で、「確か33試合で4回しか負けなかったんですよ。どんな時でも諦めなければ何とかなるんだ、ということで移籍した先では必ずこの話をしました。」と語ったことがある。

王貞治との奇妙な縁

2001年にタフィ・ローズがシーズン本塁打日本記録更新を賭けて挑んだ対ダイエー戦で、ダイエーの選手が王貞治監督のシーズン本塁打記録を守るために勝負を避けるという事件が発生した。この事件に関し、近鉄フリーク作家として活動、今はパ・リーグサイドのスポーツ作家である元近鉄応援団長・佐野正幸は著書『プロ野球の世界に生きるということ』(長崎出版、2007年)で、タブーといわれた「世界の王批判」と取れる一文を発表している。

王貞治にハンク・アーロンの通算本塁打記録を破る756号を打たれた投手が、後に近鉄で抑え投手として活躍し二年連続リーグ最多セーブを記録した鈴木康二朗であり、更に王貞治の現役最後の本塁打となった通算868号を打たれたのが、マニエルとのトレードでヤクルトに放出されたかつての左腕二枚看板の一角・神部年男である。

助っ人外国人選手

近鉄は助っ人外国人選手の打者が活躍するチームとして有名であり、一時期の阪神ファンやロッテファンなど他球団ファンからは「近鉄は良い外国人選手を取ってくるのがうまい」とうらやましがられる事も多かった。近鉄の優勝と外国人選手の活躍は切っても切り離せないものがあり、1979年にはマニエル、1989年にはブライアント、2001年にはタフィ・ローズがチームのリーグ優勝と共にMVPに輝いている。外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他にヤクルトスワローズのみであり、外国人選手がMVPを受賞した回数が2006年現在11回であるため、極めて多い。

他にもタイトルホルダーになった選手も多く、タイトルをとれなくても打率.280、20本塁打クラスの打者が多くいる。それら外国人選手を4パターンに分けられる。

  1. 日本の他球団から移籍してきたケース(代表例:ジョーンズ、マニエル、ブライアント)
  2. ブルワーズルート(代表例:オグリビー)
  3. レッドソックスルート(代表例:ローズ、クラーク)
  4. ドジャースルート(代表例:ギルバートバーグマン、パウエル)

1.に関して、マニエルは守備の悪さがヤクルト広岡達朗監督のチーム編成方針上問題となり、大砲を欲していた近鉄との間で神部年男とのトレードとなった。ブライアントはデービスの大麻事件による解雇により、急遽補強が必要となった結果の中日からの金銭トレードである。1のパターンは他にも1993年のR.J.レイノルズなども挙げられる(.298 18本 50打点と活躍したがその年限りで解雇された)。

2.は、1980年代の近鉄の主な外国人選手獲得ルートである。当時近鉄の友好球団がブルワーズであったことに起因している。

3.は、1990年代である。このルートで獲得してきた選手が、「毎年のように新外国人選手が活躍する」イメージを植えつける要因の一つとなったと言える。他にも1994-1995年在籍のスチーブンス、1996年在籍のC・D(ドネルス)などがいる。なぜレッドソックスルートと言うかというと、近鉄の外国人選手のスカウト市原稔がアメリカで懸命にスカウト活動をするうちに、独自にレッドソックスとのパイプを築きあげたことにある。レッドソックスルートで獲得してきた最後の選手は2001年在籍のフレッディ・ガルシアウィル・フリントである。

4.は2001年開幕時に、近鉄が野茂つながりでラソーダをアドバイザーに迎え、ドジャースとのパイプができたことで選手が来るようになったルートである。これにより3の長らく優良外国人打者を獲得してきたレッドソックスとのつながりは絶たれた。ギルバートは、当時近鉄の遊撃手で打撃を期待できる選手がいなかったため、ラソーダに良い選手がいないか意見を求めた結果獲得できた選手であり、当時3A通算1700安打を記録していた。バーグマンもシーズン途中からの入団であったが、オリックス戦を中心に活躍し、1年目は10勝を挙げた。パウエルも2001年に途中入団してきたが4勝5敗、防御率は4点台半ばとあまり良い成績とはいえなかったが、2年目に投手タイトルを総なめするほどの活躍を見せ、二桁勝利の常連として息の長い活躍を見せている。

選手を取ってくる先のチームカラーを反映してか、レッドソックスルートで獲得してきた選手は打者が活躍し、ドジャーズルートは投手が活躍する傾向にあった。ドジャースルートで獲得してきた打者はギルバートを除いて成功したと言える選手はいない。

近鉄で活躍する投手はアキーノマットソン、パウエルなど技巧派投手ばかりで、デラクルーズツイドリーバルデスロドリゲスカラスコなどMAX150kmを越えるという触れ込みの速球派投手は、活躍しなかったどころか全く成績を残せなかった。

ネーミングライツ

2004年キャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案であったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。

ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季-1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)<中村長芳オーナー率いる福岡野球が経営母体>、ロッテオリオンズ(1969年-1970年に前出の中村がオーナーだった。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融アコムであったため、青少年への影響面から認められなかった理由の1つに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。

過去の合併計画

2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。
1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では

  1. 近鉄と広島が合併
  2. 本拠地を広島県広島市に置き、セ・リーグ所属とする
  3. 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選
  4. 資本は近鉄・広島で半々
  5. 球団愛称は公募する

と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。

前述のように、親会社である近鉄(当時関西急行鉄道)は、戦中に国策で南海と合併しており、そのときには既にホークスの前身である南海軍が存在していた(合併後に近畿日本軍、戦後はグレートリングと改称している)。この合併が解消されてなければ、近鉄バファローズという球団は誕生すらしていなかった可能性があった(同一会社による複数球団の所有は禁止されている)。ただし当時としても無理があった合併で、戦時体制下での国からの命令でなければ両社は合併などしておらず、この合併は戦後すぐに解消されている。

幻の移転計画

本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。

  • 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている中日ドラゴンズの反対で実現しなかった。ナゴヤ球場及びナゴヤドームでは1990年代後半まで、年数試合の主催試合を開催していた。
  • 1970年代に西本幸雄佐伯勇オーナーに、近鉄沿線の花園ラグビー場周辺を整備して野球場を建設し、本拠地を移転することを進言したところ、「(お金が)幾らかかると思っているんだ」と返されたという。
  • 1980年代初頭の藤井寺ナイター問題時には、東大阪市が受け入れに名乗りを上げたことが新聞報道されたが、藤井寺のナイター設備設置計画がまとまったことで立ち消えとなった。

また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している<ref>青木一三『ダイエー/オリックス球団買収の真相』ブックマン社、1989年、P107 - 108</ref>。

近鉄バファローズに在籍したことのある現役プロ野球選手

NPB所属の選手、及び海外でプレーしている日本人選手で、近鉄バファローズに在籍経験のある現役選手を記す。

  • ()内選手は他球団から近鉄に移籍してきた選手。
  • 太字は2004年シーズン終了時に近鉄に在籍していた選手。
球団選手
オリックスTemplate:Nowrap begin投手Template:Nowrap end 香月良太 近藤一樹 山本省吾
野手横山徹也 山崎浩司 大村直之 坂口智隆 下山真二 (北川博敏) (鈴木郁洋 
楽天投手 岩隈久志 朝井秀樹 有銘兼久 (山村宏樹) (福盛和男
野手藤井彰人 高須洋介 中村紀洋 牧田明久 憲史
Template:Nowrap beginソフトバンクTemplate:Nowrap end吉川元浩 
ヤクルトユウキ
横浜大西宏明
阪神阿部健太 坂克彦
巨人高木康成
西武阿部真宏
日本国内の独立リーグ平下晃司 前川勝彦
日本国外のリーグ(独立リーグ含む)吉岡雄二) (門倉健

脚注

Template:脚注ヘルプ Template:Reflist

関連項目

外部リンク

fr:Ōsaka Kintetsu Buffaloes ko:오사카 긴테쓰 버팔로스 zh:大阪近鐵野牛

個人用ツール