大江健三郎

出典: Wikipedio


Template:Infobox 作家 Template:Thumbnail:begin

 Template:Thumbnail:ノーベル賞受賞者

Template:Thumbnail:end 大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本小説家愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。血液型はA型。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。

その後豊富な外国文学の読書経験から独特の詩的な文体を獲得し、国家主義などの人類的な問題と、故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男で作曲家の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。

主な作品に『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『人生の親戚』など。一時は1995年完結の『燃えあがる緑の木』を最後の小説にするとしていたが、1999年より執筆を再開。以降の『取り替え子(チェンジリング)』などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。

映画監督伊丹十三は義兄にあたる。

目次

来歴

生い立ちから作家デビューまで

1935年1月31日愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、自身の思想を形作るうえで多大な影響を受けた。1950年愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを受けたため翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳小林秀雄渡辺一夫花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。

1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二類に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカルカミュフォークナーノーマン・メイラー安部公房などを愛読、またサルトルに興味を持ち始める。1956年文学部フランス文学科にすすみ渡辺一夫に師事。このころよりサルトルを原書で読み始める。学生演劇の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加する。

1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文学界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成井上靖舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも、安岡章太郎川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している<ref>「解説」『死者の奢り・飼育』新潮文庫、1959。</ref>。

芥川賞作家として

デビューの翌1958年、長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続き当時最年少での受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方、舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。

また、同1958年に、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。

1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から性的な主題を全面に押し出すようになり、著者自身の述懐のとおり痛烈な批判を受ける。またこの年に武満徹と知り合う。翌1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。

1961年、浅沼稲次郎暗殺事件に触発され『セヴンティーン』とその第二部「政治少年死す」を発表。犯人の山口二矢をモデルとして描くが、この作品に対し右翼団体によって文藝春秋等に脅迫が行われた。このため「政治少年死す」は単行本に収められていない<ref>但し鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』に著者の許可なく収録されている。</ref>。

1963年、長男の誕生。頭蓋骨異常のため知的障害を持つ子供として生まれる。「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年を描いてきた作家にとって転機となった。1964年、『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、想像力によって悲劇を乗り越えるに至るまでを描いた作品であり、「想像力」は以後大江作品のキーワードの一つとなる。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供という「個人的な体験」と、広島の被爆という「人類固有の悲劇」を自身の主題として深めていく。

ノーベル賞受賞まで

1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、第3回谷崎潤一郎賞受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせて描き大きな反響を呼んだ。この作品から顕著になる特異な文体はしばしば難解とも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている。しかし江藤淳はこの作品を厳しく批判し、以後大江と対立するようになる。

『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)を経て1971年に発表された中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」<ref>初出『新潮』掲載時には「死滅する鯨の代理人」。</ref>では、前年の三島事件を受けて天皇観を問い直すことを主題とし、その後の『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1976年)では天皇制や核の問題を考えつつ、大江の後期のテーマである「魂の問題」に移行していく。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』においてそうした図式において村=国家=宇宙の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。

1982年、連作集『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。なお、武満徹はこの連作集の第一作「頭のいい「雨の木」」に触発された「雨の樹」(レイン・ツリー)を作曲した。連作第二作「「雨の木」を聴く女たち」は、この曲の初演を受けて執筆されており、小説中にコンサートの場面が出てくる。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、大江自身の子供の言葉と重ね合わせて自身の私生活を描いて、第10回大佛次郎賞受賞。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして『懐かしい年への手紙』を発表した。1989年の『人生の親戚』では初めて女性を主人公<ref>篠原茂『大江健三郎文学事典』森田出版、1998年。</ref>とし、子供を失った女性の悲劇を描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1989-1990年に発表された連作『治療塔』および続編の『治療塔惑星』では、広義のSFの枠組みを借りながらと人類救済の主題を描いている。

1994年1月、朝日賞受賞。同年10月13日にノーベル文学賞を受賞。川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者となる。記念講演として川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」を行なう。11月より3部からなる大作『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台に「魂の救済」のテーマ、さらにそれまでの自作の集大成を行なった。

後期の仕事(レイト・ワーク)

画像:Kenzaburo Oe.jpg
大江健三郎、2005年

1995年に『燃えあがる緑の木』が完結するが、当初大江はこの作品を自身の「最後の小説」としていた。しかし1996年、武満徹の告別式の弔辞で新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。以降の創作活動は大江自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と呼んでおり、伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)、それに続く『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する後期三部作として位置づけられている。三部作最後の『さようなら、私の本よ!』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。その後2007年11月に『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』が新潮社、2009年12月に最新作『水死』が講談社よりそれぞれ発売された。

2006年、大江健三郎賞設立。大江自身が日本の優れた小説作品を選び、受賞作は英語・フランス語などに翻訳刊行される。

政治思想

Template:雑多な内容の箇条書き 戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また平和憲法を守る立場から核兵器憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”として賞を受けたが、その直後に天皇からの親授式を伴う文化勲章文化功労者のセット授与が決定した際には、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。 一方で、2002年には共和国大統領から授与されるフランス政府からのレジオンドヌール勲章を受章。2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した<ref>自衛隊派遣に「怒っている」大江健三郎氏が仏紙で論陣 2003年12月1日朝日新聞</ref>。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺記念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。

評論家からの批判

  • 毎日新聞1958年6月25日夕刊に掲載されたコラム「女優と防衛大生」において、大江は「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている。」 と発言したことが、防大生や防大出身の幹部自衛官の人格を否定するものだとして批判を招いた(小川和久「リーダーのいない経済大国」、杉山隆男「兵士を見よ」「兵士に告ぐ」)。
  • 大江は1982年に、小田実小中陽太郎中野孝次が中心となった『核戦争の危機を訴える文学者の声明』<ref>後に岩波ブックレットから公刊 ISBN 4000049410</ref>に呼びかけ人として賛同している。この声明に対し本多勝一が、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞(芥川賞直木賞など)を貰ったり、それらの審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判し、大江に公開質問状を送ったが、大江は何も回答しなかった。また本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも『週刊金曜日』誌上で集中的に批判的に取り上げ、大江が九条の会を結成した際も、エッセイ『貧困なる精神』で、名指しこそしないものの会自体に疑問を投げかけた。本多による一連の批判について、大江は『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)の中に描いている。
  • 1970年のルポルタージュ『沖縄ノート』には、作品内で集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した箇所があるが、「虐殺」を「屠殺」になぞらえる事に対しては、差別表現であるとして部落解放同盟が苛烈な確認・糾弾を行ってきた歴史がある(言葉狩り参照)。それにもかかわらず、部落解放同盟が『沖縄ノート』や大江健三郎を非難しないのは、悪質な差別であると同時に大江健三郎の神格化がなされていると評論家の呉智英は指摘している<ref>大江健三郎の“特権” 産経新聞2007年12月1日</ref>。世界の食肉市場をルポした「世界屠畜紀行」(解放出版社)の作者・内澤旬子も、この問題を知り「うわーびっくりだよこれ」「誤植……じゃないよなあ」「屠場労働組合がまさに糾弾対象としている使われ方にドンピシャリ」と驚きを示した(2007年12月3日付の著者ブログ)。また同書では、渡嘉敷島の住民を『土民』と表現しているが、これも差別的表現と丸木政臣はしている<ref>わたしと沖縄[1],『生活教育』96年2月号pp86~91,『わが教育の原点』pp90~96収載 ISBN 4406024514</ref>。小林よしのりは究極の差別ブンガクと酷評している<ref>SAPIO(2008/6/25)pp55~62, 『ゴーマニズム宣言NEO1』pp71~78, ISBN 4093890315</ref>。
  • 文学博士の谷沢永一は、その著書「こんな日本に誰がした」(副題:大江健三郎への告発状)<ref>「クレスト社発行 平成7年6月初版 のちワニ文庫</ref>を1996年6月に発行し、発言を国内向けと国外向けできっちりと使い分けていると批判した。さらに、オウム真理教の教祖と同じタイプの人間だとまで断言した。
  • 評論家の石平(シーピン)は、「大江健三郎 中国土下座の旅」において、2006年に訪中した際の大江が、共産主義についてだんまりを決め込み、中国共産党幹部に対して終始低姿勢でいたとして、「民主主義を叫んで害のないところでは叫ぶけど、民主主義を許さないところでは一所懸命に権力に媚びるんです」と強く批判している<ref>「大江健三郎 中国土下座の旅」WiLL (雑誌) 2006年12月号 より</ref>。

北朝鮮関連の発言

  • 1961年、「わがテレビ体験」(『群像』)において以下のように述べている。「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。 そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。 それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった。」<ref>「わがテレビ体験」群像昭和36年3月。</ref> ただし、当時は北朝鮮を「地上の楽園」と呼ぶマスコミもあり、保守も革新もともに官民あげて在日朝鮮人の帰還事業を進めていた時期であり、現在問題とされている北朝鮮国内の餓死問題や拉致問題、核実験問題といった情勢を理解しての発言ではない。
  • 1965年、「二十歳の日本人」において以下のように述べている。「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。 ぼくらは、いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが、それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た。 逆に、日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。 ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。 北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを、もっともうたがい、もっとも嘲笑するものらが、南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう、ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。日本の青年にとって現実は、南朝鮮の青年のそれのようには、うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は、北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない」<ref>「二十歳の日本人」『厳粛な綱渡り』文藝春秋刊・昭和四十年。 ISBN 4061961470</ref>。この朝鮮人の若者を賛美する発言も、北朝鮮がマスコミによって「地上の楽園」と呼ばれていた時代のものである。
  • 2009年6月2日九条の会の講演において、核保有国と非核保有国との間に信頼関係がなければ、核廃絶は始まらない。私たちが不戦の憲法を守り通す態度を貫くなら、北朝鮮との間に信頼を作り出す大きな条件となるのではないかという旨の発言を行った<ref>「九条の会」発足5年記念、大江健三郎さんが講演朝日新聞</ref>。折しも5月25日に北朝鮮が核実験を行ってから間もない時期での発言であり、物議を醸した(北朝鮮の核実験 (2009年)も参照)。

沖縄戦裁判

Template:Main 2005年8月に梅澤裕と赤松大尉の遺族が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。

しかし大江は、『沖縄ノート』には2者の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。

1審・2審とも原告の請求が棄却され<ref>元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟 2008年3月28日MSN産経ニュース</ref>、原告側は上告する方針を示している<ref>「沖縄ノート」差し止め訴訟「真実でないことが明白になったとまでいえず」 2008年10月31日MSN産経ニュース</ref>。

エピソード

Template:雑多な内容の箇条書き Template:要出典

  • 1968年、三島由紀夫がノーベル賞受賞した川端康成のもとに駆けつけた際、記者の「次は三島さんですね」との問いに「次は大江君だよ」と、当時まだ新進であった大江の名を挙げた(「驚きももの木20世紀」テレビ朝日、ニュース映像)。大江が実際にノーベル賞を受賞するのは三島の発言から20年余り経ってのこととなる。三島は大江を自邸のパーティに招くほど親しくしていた時期もあったが、かたや民族派・かたや反国家というような政治思想の疎隔とともに疎遠になった。
  • 阿川弘之とは犬猿の仲であり、その著書の中でお互いを批判しあっている。
  • アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「ストーカー」を評価している。NHKの山登義明ディレクターが「世界はヒロシマを覚えているか」という番組の構想を話した時、大江は「タルコフスキーのような映像にしたいですね」といった。また、そのものずばりな「案内人(ストーカー)」という短編作品も存在する(作中にも同名映画への言及がある)。
  • また、「ストーカー」の原作者であるソ連のSF作家ストルガツキー兄弟の作品も愛読している。1989年、大江が「世界作家会議」に出席するため、モスクワに行った際、兄のアルカジイ・ストルガツキーと対談を行い、NHKスペシャル「世界はヒロシマを覚えているか」で放映された。

作品

著作は英語フランス語ドイツ語ロシア語中国語スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。

個人作品集

  • 大江健三郎全作品、新潮社、第1期全6巻、1966-1967、第2期全6巻、1977-1978年
  • 大江健三郎同時代論集、岩波書店、全10巻、1980-1981年
  • 大江健三郎小説、新潮社、全10巻、1996-1997年

選集

  • 新鋭文学叢書12『大江健三郎集』筑摩書房、1960年
  • 新日本文学全集11『開高健・大江健三郎集』集英社、1962年
  • 角川版昭和文学全集9『開高健・大江健三郎』角川書店、1963年
  • 現代の文学43『大江健三郎集』河出書房新社、1964年
  • われらの文学18『大江健三郎』講談社、1965年
  • 日本の文学76『石原慎太郎 開高健 大江健三郎』中央公論社、1968年
  • 日本文学全集第2集25『大江健三郎集』河出書房新社、1968年
  • 新潮日本文学64『大江健三郎集』新潮社、1969年
  • De Luxe われらの文学7『大江健三郎』講談社、1969年
  • 現代日本の文学47『安部公房・大江健三郎集』学習研究社、1970年
  • 現代の文学28『大江健三郎』講談社、1972年
  • 日本文学全集50『大江健三郎/芽むしり仔撃ち 日常生活の冒険』河出書房新社、1971年
  • 日本文学全集44『大江健三郎 安部公房 開高健』新潮社、1971年
  • 新潮現代文学55『大江健三郎/個人的な体験 ピンチランナー調書』新潮社、1978年
  • 日本の原爆文学9『大江健三郎 金井利博』ほるぷ出版、1983年
  • 昭和文学全集16『大岡昇平 埴谷雄高 野間宏 大江健三郎』小学館、1987年

小説

  • 「火山」『学園』1955年9月
  • 「奇妙な仕事」『東京大学新聞』1957年5月
  • 「死者の奢り」『文学界』昭和32年8月号(1957年7月
  • 飼育」『文学界』昭和33年1月号 - 芥川賞
  • 『死者の奢り』(短編集)文藝春秋、1958年
    • 死者の奢り/偽証の時/飼育/鳩/奇妙な仕事/人間の羊/他人の足
  • 芽むしり仔撃ち』(中編)講談社、1958年(のち新潮文庫)
  • 見るまえに跳べ』(短編集)新潮社、1958年
    • 見るまえに跳べ/暗い川おもい櫂/不意の唖/喝采/戦いの今日
  • われらの時代』(長編)中央公論社、1959年7月(のち中央公論文庫、新潮文庫)
  • 『夜よゆるやかに歩め』(長編)1959年、中央公論社
  • 『死者の奢り・飼育』(短編集)新潮社 <新潮文庫>
    • 死者の奢り/他人の足/飼育/人間の羊/不意の唖/戦いの今日
  • 『孤独な青年の休暇』(短編集)新潮社、1960年
    • 孤独な青年の休暇/後退青年研究所/上機嫌/共同生活/ここより他の場所
  • 『青年の汚名』(長編)1960年、文藝春秋(のち文春文庫)
  • セヴンティーン」『文学界』・「政治少年死す—セヴンティーン第二部」『文学界』、1961年
  • 遅れてきた青年』(長編)新潮社、1962年(のち新潮文庫)
  • 『叫び声』講談社、1963年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 性的人間』(中短編集)新潮社、1963年
    • 性的人間/セヴンティーン/不満足
  • 『日常生活の冒険』(長編)文藝春秋、1964年(のち新潮文庫) - 伊丹十三をモデルとしたもの
  • 個人的な体験』(長編)新潮社、1964年8月(のち新潮文庫) - 新潮社文学賞(英訳題 A personal matter ノーベル賞対象作)
  • 万延元年のフットボール』(長編)講談社、1967年、(のち講談社文芸文庫) - 谷崎潤一郎賞(英訳題 The silent cry ノーベル賞対象作)
  • 『性的人間』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1968年
    • 性的人間/セヴンティーン/共同生活
  • われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(連作短編・中編集)新潮社、1969年(のち新潮文庫)
    • 第1部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの
    • 第2部 ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短篇(走れ、走りつづけよ/核時代の森の隠遁者/生け贄男は必要か)
    • 第3部 オーデンブレイクの詩を核とする二つの中篇(狩猟で暮したわれらの先祖/父よ、あなたはどこへ行くのか?)
  • 空の怪物アグイー』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1972年
    • 不満足/スパルタ教育/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/空の怪物アグイー/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界
  • 『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(中編集)講談社、1972年(のち講談社文芸文庫)
    • みずから我が涙をぬぐいたまう日/月の男(ムーン・マン)
  • 洪水はわが魂に及び』(長編)新潮社、1973年(のち新潮文庫)
  • 『見るまえに跳べ』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1974年
    • 奇妙な仕事/動物倉庫/運搬/鳩/見るまえに跳べ/鳥/ここより他の場所/上機嫌/後退青年研究所/下降生活者
  • ピンチランナー調書』(長編)新潮社、1976年(のち新潮文庫)
  • 同時代ゲーム』(長編)新潮社、1979年(のち新潮文庫)
  • 『現代伝奇集』(短編集)岩波現代選書、1980年
    • 頭のいい「雨の木」/身がわり山羊の反撃/『芽むしり仔撃ち』裁判
  • 「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(連作短編集)新潮社、1982年(のち新潮文庫) - 読売文学賞
    • 頭のいい「雨の木」/「雨の木」を聴く女たち/「雨の木」の首吊り男/さかさまに立つ「雨の木」/泳ぐ男—水のなかの「雨の木」
  • 新しい人よ眼ざめよ』(連作短編集)講談社、1983年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) - 大仏次郎賞
  • 「河馬に噛まれる」『文学界』、1983年 - 川端康成賞
  • いかに木を殺すか』(短編集)文藝春秋、1984年(のち文春文庫)
    • 揚げソーセージの食べ方/グルート島のレントゲン画法/見せるだけの拷問/メヒコの大抜け穴/もうひとり和泉式部が生れた日/その山羊を野に/「罪のゆるし」のあお草/いかに木を殺すか
  • 河馬に噛まれる』(連作短編集)文藝春秋、1985年(のち文春文庫、講談社文庫)
    • 河馬に噛まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/「浅間山荘」のトリックスター/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先だつ苦痛について/サンタクルスの「広島週間」/生の連鎖に働く河馬
    • 講談社文庫版 : 河馬に噛まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先立つ苦痛について/生の連鎖に働く河馬
  • M/Tと森のフシギの物語』(長編)岩波書店、1986年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫)- (英訳題 M/T and the narrative about the marvels of the forest ノーベル賞対象作)
  • 懐かしい年への手紙』(長編)講談社、1987年(のち講談社文芸文庫) - (仏訳題 Lettres aux années de nostalgie ノーベル賞対象作)
  • キルプの軍団』(長編)岩波書店、1988年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫)
  • 人生の親戚』(長編)新潮社、1989年(のち新潮文庫) - 伊藤整文学賞
  • 『治療塔』(長編)岩波書店、1990年(のち講談社文庫)
  • 静かな生活』(連作短編集)講談社、1990年(のち講談社文芸文庫)
    • 静かな生活/この惑星の棄て子/案内人(ストーカー)/自動人形の悪夢/小説の悲しみ/家としての日記
  • 『治療塔惑星』(長編)岩波書店、1991年(のち講談社文庫)
  • 『僕が本当に若かった頃』(短編集)講談社、1992年
    • 火をめぐらす鳥/「涙を流す人」の楡/宇宙大の「雨の木(レイン・ツリー)」/夢の師匠/治療塔/ベラックヮの十年/マルゴ公妃のかくしつきスカート/僕が本当に若かった頃/茱萸(ぐみ)の木の教え・序
  • 燃えあがる緑の木』三部作(長編)、新潮社(のち新潮文庫)
    1. 『「救い主」が殴られるまで』1993年
    2. 『揺れ動く(ヴァシレーション)』1994年
    3. 『大いなる日に』1995年
  • 『宙返り』(長編)講談社、1999年(のち講談社文庫)
  • 取り替え子(チェンジリング)』(長編)講談社、2000年(のち講談社文庫)
  • 憂い顔の童子』(長編)講談社、2002年(のち講談社文庫)
  • 二百年の子供』(長編)中央公論新社、2003年(のち中公文庫)
  • さようなら、私の本よ!』(長編)講談社、2005年(のち講談社文庫)
  • 『おかしな二人組(スゥード カップル)」三部作』講談社、2006年
    • 『取り替え子』/『憂い顔の童子』/『さようなら、私の本よ!』の特装版
  • 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(長編)新潮社、2007年
  • 『水死』(長編)講談社、2009年

評論・随筆等

  • 『世界の若者たち』新潮社、1962年 - 中国レポートのほか、大鵬島津貴子大藪春彦黒柳徹子らとの対談
  • 『ヨーロッパの声、僕自身の声』毎日新聞社、1962年
  • 『厳粛な綱渡り』文藝春秋、1965年(のち文春文庫、講談社文芸文庫)
  • ヒロシマ・ノート』岩波書店 <岩波新書>、1965年
  • 『持続する志』文藝春秋、1968年(のち講談社文芸文庫)
  • 『壊れものとしての人間』講談社、1970年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 『核時代の想像力』新潮社 <新潮選書>、1970年
  • 沖縄ノート』岩波書店 <岩波新書>、1970年
  • 『鯨の死滅する日』文藝春秋、1972年(のち講談社文芸文庫)
  • 『同時代としての戦後』(作家論集)講談社、1973年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 『状況へ』岩波書店、1974年
  • 『文学ノート 付15篇』新潮社、1974年
  • 『言葉によって-状況・文学*』新潮社、1976年
  • 『小説の方法』岩波書店 <岩波現代選書>、1978年(のち同時代ライブラリー、岩波現代選書)
  • 『表現する者-状況・文学**』新潮社、1978年
  • 『方法を読む=大江健三郎文芸時評』講談社、1980年
  • 『核の大火と「人間」の声』岩波書店、1982年
  • 『広島からオイロシマへ―’82ヨーロッパの反核・平和運動を見る』岩波書店 <岩波ブックレットNo.4>、1982年
  • 『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』岩波書店、1984年
  • 『生き方の定義-再び状況へ』岩波書店、1985年
  • 『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社、1985年(のち新潮文庫)
  • 『新しい文学のために』岩波書店 <岩波新書>、1988年
  • 『最後の小説』講談社、1988年(のち講談社文芸文庫) - 劇シナリオ「革命女性」を含む
  • 『ヒロシマの「生命の木」』NHK出版、1991年
  • 『人生の習慣(ハビット)』岩波書店、1992年
  • 『文学再入門』NHK出版、1992年
  • 『新年の挨拶』岩波書店、1993年(のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫)
  • 『小説の経験』朝日新聞社、1994年(のち朝日文芸文庫)
  • 『あいまいな日本の私』岩波書店 <岩波新書>、1995年
  • 『あいまいな日本の私 : Japan,the ambiguous,and myself The Nobel Prize speech and other lectures』(英文)講談社インターナショナル、1995年
  • 『日本の「私」からの手紙』岩波書店 <岩波新書>、1996年
  • 『私という小説家の作り方』新潮社、1998年(のち新潮文庫)
  • 『鎖国してはならない』講談社、2001年(のち講談社文庫)
  • 『言い難き嘆きもて』講談社、2001年(のち講談社文庫)
  • 『「話して考える」(シンク・トーク)と「書いて考える」(シンク・ライト)』集英社、2004年(のち集英社文庫)
  • 『「伝える言葉」プラス』朝日新聞社、2006年(のち朝日文庫)
  • 『大江健三郎作家自身を語る』(尾崎真理子聞き手・構成)新潮社、2007年
  • 『読む人間-読書講義』集英社、2007年

共著

  • 『対話・原爆後の人間』(重藤文夫)新潮社、1971年
  • 『『世界』の40年—戦後を見直す、そして、いま』(安江良介)岩波書店 <岩波ブックレット No.39>、1984年
  • 『私たちはいまどこにいるか ——主体性の再建——』(隅谷三喜男)岩波書店 <岩波ブックレット No.113>、1988年
  • 『ユートピア探し 物語探し—文学の未来に向けて』(井上ひさし筒井康隆)岩波書店、1988年
  • 『自立と共生を語る—障害者・高齢者と家族・社会』(上田敏ほか)三輪書店、1990年
  • 『オペラをつくる』(武満徹)岩波書店 <岩波新書>、1990年
  • 『恢復する家族』(大江ゆかり画)講談社、1995年(のち講談社文庫)
  • 『日本語と日本人の心』(河合隼雄谷川俊太郎)岩波書店、1996年(のち岩波現代文庫)
  • 『ゆるやかな絆』(大江ゆかり画)講談社、1996年
  • 『シンポジウム 共生への志——心のいやし、魂の鎮めの時代に向けて——』(ロナルド・ドーア、プラティープ・ウンソンタム・秦)岩波書店 <岩波ブックレット No.528>、2001年
  • 『君たちに伝えたい言葉—ノーベル賞受賞者と中学生の対話』(ハロルド・クロート)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.25>、2001年
  • 『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』(小澤征爾)中央公論新社、2001年(のち中公文庫)
  • 『「自分の木」の下で』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2001年(のち朝日文庫)
  • 『「新しい人」の方へ』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫)
  • 『暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡』朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫)
  • 『何を学ぶか 作家の信条、科学者の思い ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」』(白川英樹)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.34>、2004年
  • 『憲法九条、あしたを変える——小田実の志を受けついで——』(井上ひさし梅原猛他)岩波書店 <岩波ブックレット No.731>、2008年
  • 『冥誕 加藤周一追悼』(鶴見俊輔他)かもがわ出版、2009年

共編著

  • 『岩波講座文学』岩波書店、全12巻、1975-1976年
  • 『叢書文化の現在』岩波書店、全13巻、1980-1982年
  • 『なぜ変える?教育基本法』(辻井喬他共編)岩波書店、2006年10月、ISBN 978-4-00-024158-8

台本

  • 『歌劇『ヒロシマのオルフェ』』(芥川也寸志)(CD)カメラータ・トウキョウ、2002年

講演映像

  • 『私の最後の小説、「燃えあがる緑の木」』(カセット)新潮社、1994年
  • 『大江健三郎 文学再入門』(ビデオカセット)NHKソフトウェア、全12巻、1995年

テレビ番組

その他

「無気力(アパシー)青年」の事例検討に参加し、文学者の視点から彼等の内面を語る。
  • SwitchVol.8 No.1 『緑したたる森 萌え出ずる樹 大江健三郎扶桑社1990年3月号)
氏の子供達「イーヨーオーちゃんマーちゃん」が語る、 アンドレイ・タルコフスキーの 映画『ストーカー』の解説と、「四国の森の谷間の村」や「読書遍歴」、 氏と違って (同じく)
「 ” 奇妙な ” ディーセンシー ( 古雅な上品さ・まっとうさ ) 」 のある 『ご母堂』 (88歳)の肖像。

作品の映画化

関連人物

関連項目

大江健三郎を(モデルとした人物)演じた俳優

参考文献

脚注

Template:Reflist


Template:日本人のノーベル賞受賞者 Template:ノーベル文学賞受賞者 (1976年-2000年)Template:Link FA

an:Kenzaburō Ōe ar:كنزابورو أوي az:Kendzaburo Oe bg:Кендзабуро Ое br:Kenzaburō Ōe ca:Kenzaburō Ōe cs:Kenzaburó Óe de:Kenzaburō Ōe en:Kenzaburō Ōe eo:Oe Kenzaburo es:Kenzaburō Ōe et:Kenzaburō Ōe eu:Kenzaburo Oe fa:کنزابورو اوئه fi:Kenzaburō Ōe fr:Kenzaburō Ōe gd:Kenzaburo Oe gl:Kenzaburō Ōe he:קנזאבורו אואה hi:केन्ज़ाबुरो ओए hr:Kenzaburo Oe hu:Óe Kenzaburó hy:Կենձաբուրո Օէ id:Kenzaburō Ōe ilo:Kenzaburo Oe io:Kenzaburo Oe it:Kenzaburō Ōe ka:ოე კენძაბურო ko:오에 겐자부로 ku:Kenzaburo Oe la:Kenzaburo Oe lb:Kenzaburō Ōe nl:Kenzaburo Oë no:Kenzaburo Oe oc:Kenzaburo Oe pl:Kenzaburō Ōe pnb:کینزابیورو اوئی pt:Kenzaburo Oe ro:Kenzaburō Ōe ru:Оэ, Кэндзабуро sh:Kenzaburo Oe simple:Kenzaburo Oe sk:Kenzaburó Óe sv:Kenzaburo Oe sw:Kenzaburo Oe th:เค็นซะบุโร โอเอะ tr:Kenzaburo Oe uk:Ое Кендзабуро vi:Ōe Kenzaburo yo:Kenzaburō Ōe zh:大江健三郎

個人用ツール