大林宣彦

出典: Wikipedio


AwP1kE <a href="http://dxuccjsqlgcu.com/">dxuccjsqlgcu</a>, [url=http://dqneffytabaa.com/]dqneffytabaa[/url], [link=http://gmatiusseyun.com/]gmatiusseyun[/link], http://rvczquzdlakw.com/ 大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日 - )は、日本の映画監督。撮影所システムで育った「映画監督」ではないとの理由から<ref>産経ニュース【秋の叙勲】旭日小綬章 映画作家・大林宣彦さん(71) 孤独でも誰か見ている 2009.11.3 09:55</ref>、本人は「映画作家」と称している。広島県尾道市東土堂町生まれ<ref>大林の最新の著作・『大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本』他、『日本映画・テレビ監督全集』『日本の映画人 ―日本映画の創造者たち―』等の人名録など、全ての映画関係の出版物には、大林は尾道生まれと記載されている。</ref>。岡山県岡山市生まれ<ref>「尾道出身」として有名だが、講演会等で大林自らが述べているところによれば、出生時には父親が岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)に勤務していたため、生誕地は岡山市内である。</ref>。尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報研究科教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。

妻は映画プロデューサー大林恭子。長女の大林千茱萸(ちぐみ)は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加している。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。

自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。

目次

来歴

父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる<ref name="takarajima">「宝島」1986年9月号(宝島社)P108-115</ref>。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。

1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、母方の実家、尾道の山の手で幼年期を過ごす<ref name="atarasiieiga">田山力哉著『新しい映画づくりの旗手たち』(ダヴィッド社、1980年)、P198-213</ref>。2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳でフィルムに絵を刻んでアニメーションを作った(このとき作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された)<ref name="takarajima"/>。15歳のときに、小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。

1955年、上京して慶應義塾大学医学部を受けるも、受験を途中で放棄して「医者になるつもりはありません」「ぼく映画を作るよ」と父に告げ、浪人生活を経て、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。在学中から8mmで作品を発表。自主製作映画の先駆者として、早くから名前を知られた。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の三人しか日本にいなかったという<ref name="terebikoma-sixyaru">山田奨治編者『文化としてのテレビ・コマーシャル』(世界思想社、2007年)、P282-293</ref>。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3~5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた<ref name="terebikoma-sixyaru"/>。1960年に大学を中退。1963年に初の16mm作品『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。『尾道』、『中山道』、『食べた人』、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。

1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画<ref name="terebikoma-sixyaru"/>。このイベントで上映された『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』をたまたま観ていた電通のプロデューサーに誘われ、1960年代からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わる<ref name="takarajima"/><ref name="atarasiieiga"/>当時まだまだCMは"おトイレタイム"といわれ、電通のプロデューサーと傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人だったという。まだ広告アートでなかった時代、電通もまだ大きくはなく、スポンサーのところに行くと出入りの写真屋さんの扱いだったという。こんなことでは未来がない、と考えた電通らが、CMに演出家をつけてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える、と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタート<ref name="atarasiieiga"/>。映画監督でもない、デザイナーでもない、全く新しい職業だった。テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどんでき自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しいものだったという<ref name="takarajima"/>。大林の手がけたCMは、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカフォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スターなどの起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった<ref name="atarasiieiga"/>。また、高沢順子の「お魚になったわたし」、山口百恵三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウンワンサカ娘」、「カルピス」など<ref name="atarasiieiga"/><ref>湯川れい子著『熱狂の仕掛け人』(小学館、2003年)P208</ref>、10年間で製作したテレビCMは2000本を越え<ref name="terebikoma-sixyaru"/>、国際CM賞も受賞、テレビCMを新しい映像表現として確立したとされる。当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMをやるのにその商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている<ref name="terebikoma-sixyaru"/>。また、自身も九州電力のCMに出演したことがある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。

1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラーファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない<ref>『ぴあシネマクラブ 日本映画編』(ぴあ)P459</ref><ref>『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス)P150-151、P280-281</ref><ref>『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-72</ref>。個人的好悪が分かれる映画ではあるが、子供向けでなく初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される<ref>『大特撮―日本特撮映画史―』P150-151、P280-281</ref>。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、先取りはしていたといえよう<ref>『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p185</ref>。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した(この流れから自主映画出身者として大森一樹森田芳光、CM出身者として市川準らが出た)。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる<ref>『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社)P71-72</ref>。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューというのは当時画期的であった。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって<ref name="atarasiieiga"/>、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時副社長(のち社長、会長)の松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる<ref name="terebikoma-sixyaru"/>。大林は「『ハウス』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事をやった。これが功を奏して名前も売れて話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなった<ref name="atarasiieiga"/>。『HOUSE』が山口百恵主演の『泥だらけの純情』との併映でヒットしたため、ホリプロから片平なぎさで「ブラック・ジャック」を撮ってくれないかと打診を受け、二作目『ブラック・ジャック 瞳の中の訪問者』を監督<ref name="atarasiieiga"/>。本作でブルーリボン賞新人賞受賞。 この映画は興行的には失敗したが、続いて百恵友和ものの第10作目『ふりむけば愛』(1978年)を監督。

1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作"として多くの熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンを増やした<ref>大林 宣彦の写真ブログ 雨撮晴記(うさつせいき)|2007年6月14日</ref>。これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆としても評価されている。

近年は一時期ほど作品を発表しなくなった一方で、吉永小百合を主演に起用して大作を撮るなど、アイドル映画に留まらない活躍ぶりを見せている。

大林はストーリーをあくまで原作に忠実に撮影するタイプの監督であると言われ、原作との差異で監督と原作者の軋轢が起こるケースも少なくないなかで、赤川次郎は自らの作品が映画化された際に原作に忠実であったので驚いたと発言している。また女優を脱がす名人とも言われ、女優原田貴和子、子ども時代の宮崎あおいなどを演出している。

独特の語り口でも知られ、近年は講演活動やコメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌インタビューなども多い。

Template:和暦春の褒章に於いて紫綬褒章を受章しており、そしてTemplate:和暦秋の叙勲旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという<ref>産経新聞2009年11月3日23面</ref>。

主な監督作品

映画

テレビドラマ

  • 人はそれをスキャンダルという 第1回(1979年11月21日放送 TBS
  • 可愛い悪魔(1982年8月10日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
  • 麗猫伝説(1983年8月30日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』)
  • 私の心はパパのもの(1988年11月30日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
  • ふたり(1990年11月9日・16日放送 NHK『子どもパビリオン』)
  • 彼女が結婚しない理由(1990年12月26日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』)
  • はるか、ノスタルジィ(1992年10月25日放送 WOWOW)
  • 三毛猫ホームズの推理1996年9月放送 テレビ朝日
  • マヌケ先生(1998年1月24日 中国放送/TBS) - 原作・総監督
  • 三毛猫ホームズの黄昏ホテル(1998年2月21日放送 テレビ朝日) - 兼脚本
  • 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(1999年11月7日放送 テレビ朝日『日曜洋画劇場』)
  • 告別(2001年2月24日放送 BS-i) - 兼脚本
  • 理由(2004年4月29日放送 WOWOW『ドラマW』)
  • 理由(日テレヴァージョン)(2005年11月8日放送 日本テレビ『DRAMA COMPLEX』)

その他の主な作品

尾道三部作

大林宣彦が、出身地尾道を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ造られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。

音楽作品

  • 坂上香織『香織の、―わたし ものがたり。』(監督作品 VHS/LD 1988年9月、東芝EMIより発売)
坂上のイメージビデオ(いわゆるミュージッククリップ)。
坂上のデビュー曲でこの作品に収録された「レースのカーディガンPV撮影において、尾道三部作で使用されたロケ地を随所に織り交ぜて撮影し、「大林宣彦ワンダーワールド作品」と銘打って発売された、ミュージック関連の映像としては当時異色の作品。坂上が一人三役を演じ、合成演出を施した幻想的でメランコリーな雰囲気だが、非常に美しい仕上がりの作品である。

テレビ版から劇場版

大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。</br> 『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。

  • 麗猫伝説 (1983年8月30日放送 日本テレビ)
→ 劇場公開 1998年8月16日
  • 私の心はパパのもの (1988年11月30日放送 日本テレビ)
→ 劇場公開 1992年6月13日
  • ふたり (1990年11月9日・16日放送 NHK)
→ 劇場公開 1991年5月11日
  • 彼女が結婚しない理由 (1990年12月26日放送 日本テレビ)
→ 劇場公開 1992年6月13日
  • はるか、ノスタルジィ (1992年10月25日放送 WOWOW )
→ 劇場公開 1993年2月20日
  • 三毛猫ホームズの推理(1996年9月放送 テレビ朝日)
→ 劇場公開 1998年2月14日
  • マヌケ先生( 1998年1月24日 中国放送/TBS)
→ 劇場公開 2000年9月30日
  • 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (1999年11月7日放送 テレビ朝日)
→ 劇場公開 2000年9月30日
  • 告別 (2001年2月24日放送 BS-i )
→ 劇場公開 2001年7月14日
  • 理由 (2004年4月29日放送 WOWOW)
→ 劇場公開 2004年12月18日
→ 「日テレヴァージョン」(2005年11月8日放送 日本テレビ)

関連項目

脚注

<references/>

参考文献

  • 『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス, 1979年)
  • 『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社, 1988年)
  • 『新版 大林宣彦のa movie book 尾道 』 (たちばな出版, 2001年)
  • 『ぴあシネマクラブ 日本映画編』(ぴあ, 2006年)
  • 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』(日外アソシエーツ, 2007年)
  • 大林宣彦著『大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本』(角川学芸出版, 2008年)
  • 田山力哉著『新しい映画づくりの旗手たち』(ダヴィッド社, 1980年)

外部リンク

fr:Nobuhiko Obayashi

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