大川隆法

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大川 隆法(おおかわ りゅうほう、1956年7月7日 - )は、日本宗教家政治活動家で、宗教法人幸福の科学総裁、幸福の科学グループ創始者兼総裁、幸福実現党創立者。幸福の科学学園創立者。

目次

経歴

父・中川忠義(1921年11月20日 - 2003年8月12日、幸福の科学名誉顧問、法名は善川三朗(よしかわさぶろう))と母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町(現・吉野川市川島町)に生まれ、徳島県立城南高等学校卒業後、東京大学法学部に入学。卒業後は大手総合商社トーメン(現豊田通商)に入社。ニューヨーク世界貿易センタービルにあったニューヨーク本社で勤務しながらベルリッツニューヨーク校で上級語学研修を100時間で修了、ニューヨーク市立大学教授の面接試験に合格し、ニューヨーク市立大学大学院センターで30歳前後のビジネスマンに混じって国際金融セミナーにて外国為替理論を学ぶ。改名前の姓名は中川隆(なかがわ たかし)であるが、善川三朗が命名した法名の「大川隆法」が、立宗後に戸籍上の姓名となっている。商社勤務時代に「大川隆法」の名で善川三朗とともに著作活動を始め、1985年から共著で多数の「霊言集」を出版し、1986年10月に幸福の科学を立宗し、主宰(当時)に就任、幸福の科学は1991年3月7日に宗教法人となった。1997年に幸福の科学総裁に就任。2009年5月23日、幸福実現党を創立<ref>Template:Cite web</ref>。同7月22日、党総裁に就任、自身の衆院選への出馬を表明した<ref>Template:Cite news</ref>。同8月15日、自身の体調不良のため、一転して不出馬を表明したが、翌16日に再度出馬を表明し<ref>Template:Cite web</ref>、落選。衆議院議員選挙には、党総裁として自らの顔写真入り政党ポスター数種を街頭に大量に貼り出して臨んだが、擁立した337名の公認候補者全員が落選、大川自身を含む候補者全員の得票数が供託金没収点に届かず11億5800万円の供託金が全額没収となった。 2009年9月12日付けで党総裁を降りる<ref>Template:Cite web</ref>。

著作

2006年までに500冊を超える著書を出版しており、20ヶ国語に翻訳され70ヶ国以上にて刊行、2009年末時点で累計発行部数は公称7000万部以上。「法シリーズ」など著作の多くはミリオンセラーとなっている。初期の頃に出版された一部の書籍については、改訂版が発刊されている。1985年から1991年までの間に複数の出版社から多数出版された「霊言集」と呼ばれる書籍は、1994年以降には全て版権を引き上げ、幸福の科学にて1999年3月からそれらの一部を収めた「大川隆法霊言全集」が全50巻+別巻4巻を刊行中である。また、2004年以後「善川三朗の霊言」も1〜4巻まで発刊された。2009年12月より「大川隆法霊言選集」として新たに一般書店向けとして刊行される。

「法シリーズ」の一覧は下記のとおりで、いずれも幸福の科学出版から刊行されている。

  1. 太陽の法
  2. 黄金の法
  3. 永遠の法
  4. 繁栄の法
  5. 奇跡の法
  6. 常勝の法
  7. 大悟の法(たいごのほう)
  8. 幸福の法
  9. 成功の法
  10. 神秘の法
  11. 希望の法
  12. 復活の法
  13. 生命の法(いのちのほう)
  14. 勇気の法
  15. 創造の法

このうち、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』は、特に基本三法と呼ばれる。それぞれ、エル・カンターレの法体系、時間論、空間論を述べたもので、その思想は幸福の科学の基本思想となっている。『常勝の法』『成功の法』『希望の法』は、成功理論三部作といわれる。『幸福の法』は幸福の科学の入門書に位置づけられる。法シリーズ以外の著作シリーズには、仏教の中核思想を簡潔平明に説いた『悟りの挑戦(上・下)』『釈迦の本心』『沈黙の仏陀』等の「仏教シリーズ」、『常勝思考]』『仕事と愛』等の「現代の成功理論」などがある。著書は、英語ドイツ語ポルトガル語中国語韓国語タイ語インドネシア語ハンガリー語フランス語など、数ヶ国語に翻訳され、『太陽の法』は全世界で公称1000万部以上が出版された<ref>太陽の法 エル・カンターレへの道インターネット・アーカイブのキャッシュ)</ref>。

また、幸福の科学出版による映画ノストラダムス戦慄の啓示』(1994年)、『ヘルメス-愛は風の如く』(1997年)、『太陽の法』(2000年)、『黄金の法』(2003年)、『永遠の法』(2006年)、『仏陀再誕』(2009年)の製作総指揮にあたっている。

2010年に入り、新に霊言シリーズを発刊(これらの霊言の一部は、幸福の科学施設等で一般拝聴可能(2010年6月現在))。自身の理論書と合わせて、総著作数が600冊を超える。 2010年6月までに発刊の霊言による著作は、

なお、この間、自身の(霊言によらない)外売りの著作として、4月に「危機に立つ日本」、5月に「宗教立国の精神」「大川隆法政策提言集ー日本を自由の大国へ」等を発刊している。

法話

1987年より多数の講演会で法話をし、多数の書籍・テープ・CD・ビデオ・DVDとなって公開されている。特に2007年より、全国各地の支部精舎を巡錫している。国外ではロンドン支部やハワイ支部にて英語で説法を行った<ref>主な法話一覧 | 宗教法人 幸福の科学より</ref>。

生い立ち

大学卒業まで

  • 1956年7月7日に徳島県麻植郡川島町(現・吉野川市川島町)にて誕生。
  • 小学校でトップの成績になり、国立付属中学の受験も考えたが、父の「将来政治家にでもなる時には、地元に友人たちがいた方がよい」との勧めで地元中学への進学にした<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。
  • 中学校は徳島県川島町(当時)の川島中学校に入学、成績トップを続け全国的なテストでも全国1番を何度かとる<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。生徒会長などをつとめ卒業(現 吉野川市立川島中学校)。
  • 高校は、当時県下随一の進学校であった徳島県立城南高等学校を受験。郡部からの受験生としてはトップの成績で合格し入学<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。東大進学を明確に意識しはじめる。
  • 高校1年の時、国語の有名な通信添削で6回連続全国1位になり、この記録はいまだ破られていない<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。
  • 1976年4月、東京大学文科一類に入学。法学部政治学科に進学。
  • 大学3年の春休み、政治哲学のハンナ・アーレントの研究として、「ハンナ・アーレントの価値世界について」という論文を書き、教授から「君は学者になれば大活躍できる。助手論文の域をすでに超えてる」と評された<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。
  • 東大大学院進学を考えたが、左翼的言論者が多く『法律学』『政治学』の価値論と学問性の貧困・不在を目の当たりにして、ここには師事すべき者がいないことを悟る。
  • 在学中、司法試験の短答式試験には合格点を10点ほど越えて合格するも、論文式試験では学説や最高裁判例を痛切に批判する視点を持った学者的答案を書き、実務家的答案を求める採点官をたじろかせて<ref>書籍太陽の法 p345</ref>不合格となったため、司法試験には結局合格できなかった。大川はこれを、高級霊たちが自身を宗教の道に進ませようとしたためと説明している<ref name="sun334-">書籍太陽の法 p334~</ref>。
  • 日銀や官公庁などの公務員の話には「寄らば大樹の陰」の考えになじめず拒否して、東大法学部卒業とともに、商社トーメン(現 豊田通商)に就職。
  • 1981年3月23日、自動書記による「霊界通信」が始まり、霊界世界の存在を確信し、自らの使命を自覚、これをもって「大悟」したとされる。

商社勤務時代

  • 東大の先輩の常務から「ウチに来てくれませんか」とトーメンに誘われ、入社をきめた<ref>書籍太陽の法 p346~</ref>。
  • 1982年からトーメンのニューヨーク本社に研修生として派遣される。当時の勤務先はマンハッタンのワールド・トレード・センターにあった。
  • 1年の研修期間後、高い実績が認められ「研修生から駐在員に」と、即戦力として招かれたが、これを辞退し帰国する。
  • トーメンの寮では自費出版の詩集を配ったという。また、後の「愛の発展段階説」の基礎となる論文を社内報に投稿する。
  • 帰国後は、4年間収録した「霊言」を整理し2年ほど準備し、1985年8月に初めての著書『日蓮聖人の霊言』(善川三朗編、潮文社)を発刊。その後、『空海の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』『ソクラテスの霊言』『坂本竜馬の霊言』等の著書を上梓。
  • 1986年6月高級霊界からの「いまこそ立つべき時だ」との啓示と、『霊言』を読んだ数人の支持者・協力者が東京で現れ、商社の退社を決意する。1986年7月15日付けで退社。

立宗以降

  • 1986年10月6日、幸福の科学の事務所を東京都杉並区西荻窪に開設して立宗。
  • 1986年11月23日、東京の日暮里酒販会館にて、会員らに対して、初めて説法をする(「初転法輪」)。
  • 1987年3月7日、東京の牛込公会堂にて、幸福の科学第1回講演会を開催<ref>演題は「幸福の原理」</ref>。このとき、幸福の科学の会員心得である「正しき心の探究」、その具体的展開である基本教義の「愛」「知」「反省」「発展」の「現代的四正道」(幸福の原理)が説かれる。
  • 当初は会員になるのに入会資格を設けた。入会希望者のうち、4割くらいしか入会できなかった。
  • 1988年春、東京大学英文科を卒業したばかりの木村恭子<ref>大川きょう子立宗名誉補佐ご紹介 宗教法人幸福の科学</ref>と結婚
  • 1991年3月7日、幸福の科学が宗教法人として認可される。当初、礼拝施設等に安置される本尊(代理本尊)は、「釈迦大如来」の文字と自身の肖像写真を中心に、周囲に「正しき心の探究」「愛・知・反省・発展」という基本教義を記したものであった。
  • 1991年5月26日、東京大学の「五月祭」において講演<ref>大川隆法著作研究会主催、演題は「黎明の時代」</ref>。
  • 1991年7月15日、第1回「御生誕祭」が東京ドームにて開催。「エル・カンターレ宣言」により、大乗仏陀としての使命を明らかにしたという。
  • 1991年9月2日、講談社フライデー事件が発生。記事に抗議し裁判を起こすが大川個人による訴えは棄却され敗訴となる<ref>“大川隆法氏個人が、名誉棄損でフライデーを訴え”. 毎日新聞東京夕刊 (毎日新聞社): p. 8. (1993-03-09)</ref><ref>“「幸福の科学」の記事めぐり、講談社側勝訴の判決 - 東京地裁”. 毎日新聞東京朝刊 (毎日新聞社): p. 26. (1996-12-21)</ref><ref>“写真週刊誌「フライデー」めぐる訴訟で「幸福の科学」側が敗訴/東京地裁”. 読売新聞東京朝刊 (読売新聞社): p. 30. (1996-12-21)</ref><ref>“講談社への行動は違法 幸福の科学に賠償命令 東京地裁”. 朝日新聞東京朝刊 (朝日新聞社): p. 25. (1996-12-21)</ref>。フライデーに関する事件は1986年12月9日ビートたけしたけし軍団が起こした「フライデー襲撃事件」に続き2度目のフライデー事件だった。
  • 1991年12月26日、「エル・カンターレ祭」<ref>当時の名称は「エル・カンターレ聖夜祭」</ref>を開催。
  • 2009年5月23日、幸福実現党を創立、同7月22日、党総裁に就任、衆院選へ出馬し落選。大川が出馬した比例近畿ブロックでは改革クラブ(58,141票を上回る80,529票)を上回る得票を得て最下位は免れたが供託金没収点を下回ったため供託金は没収となった。また自らが党総裁として臨んだ衆院選では、擁立した337名の公認候補者全員が落選、候補者全員の得票数が供託金没収点に届かず11億5800万円の供託金が全額没収となった
  • 2009年9月12日、党総裁を降りる。

脚注

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外部リンク

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